癒しの雫


 思えば、初めて出会った時から不思議な少女ではあった。
 自覚していなかった『楽しいバスケ』をしていた俺を見て臆せずに話しかけ、自分の従兄との因縁を知ってからも屈託なく話しかける。

「三上さんはいい人だもの」

 何を根拠にそんなことを言うのか。

「バスケが好きなんでしょう?」

 忘れていた想いを呼び覚ました言葉。

「ストリートランチでプレイしていた三上さんのバスケが好き」

 無邪気に無垢に微笑み、心に嵌めていた枷にひびを入れた少女。
 まるで、乾きに喘ぐ旅人に命の水を与えるように、無意識に欲していた言葉をくれた少女。
 一滴の雫が染みこむように、少女の一言一言が心に染み込んだ。



 コーチである自分の兄と決定的な決裂を経験した三上以下、筑波メンバーは今までとは違って生き生きとした、魅力的なプレイをするようになった。
「これが、本来の彼らのプレイなのね」
 冷静にゲームの行く末を見守るのは<月下 蒼乃>。
「悔しいけどさ・・・すごく、いいよね」
 言葉とは裏腹に明るい笑顔を浮かべる<月下 星乃>。
「桜井さん、脚の具合はどうですか?」
 負傷退場したエースの具合を見るのは<月下 華乃>。
「大分、いいよ。有り難う」
 試合に出られず、もどかしい思いをしているはずなのにちらっとも表情には出さない<桜井 修司>。
「また、K2さんの3P。これで何回目なの?」
 スコアブックを抱え、分析に忙しい<凪白 有羽>。
「前半から通算して23回。その内16回が成功。すごい確立だよね」
 有羽の疑問に何も見ずにあっさりと答える<天野 雫>。
「こりゃ、かなり厳しくなったね」
 腕組をして、いつもとは違った真剣な表情をする<矢部 希理子>。
「そろそろタイムアップをした方がいいかもしれませんね」
 プレイしているメンバーの様子を注意深く観察するのは<今川 聖>。
 それぞれが、これからの試合運びの厳しさに悩み出したその時、それは起こった。


「相手さんのタイムアップか」
「ちょうどいい、こちらもこの時間を利用させてもらうさ」
 そんなことを言っているベンチ内で、最初に気づいたのは雫だった。
「主将・・・あっちのベンチの様子が変です」
「ん?」
 小動物を連想させるようなくりくりっとした大きな瞳がじっと相手ベンチを見つめているのに気づいた上南主将はつられて視線をそちらへ向ける。
「・・・三上が負傷したのか?」
 ボソリ、と呟いた言葉に、雫は大きな瞳を更に見開き、ぎゅっと今川の服を掴んだ。
「聖お兄ちゃん・・・」
 従妹が何を言いたいのか、何をしたいのか察した今川は穏やかな笑みを浮かべ、ポンポンと宥めるように頭を撫でてやる。
「雫がしたいようにしていいよ」
「はい、雫。行くんでしょ?」
 ポンッと雫の手に救急セットを手渡すのは星乃。顧問の西岡先生も、桜井も笑って頷くのを見た少女は大きな笑顔を浮かべると相手ベンチへ向かって走り出した。
「あ、ちょっと、雫、あんまり走っちゃ・・・」
「聞こえないみたい」
「テーピングの仕方を間違えなければいいのだけど」
 心臓疾患の持ち主である雫に注意を促す蒼乃に穏やかに笑う華乃。有羽は片頬に手を当て、笑えない心配をしていた。


「失礼します!」
 救急セットを抱え、本来は敵であるはずのマネージャーが飛び込んできた筑波ベンチは一瞬、惚けたように少女を見つめた。
 一波瀾があるにはあったが、結局手当てを受ける事にした三上の足元に雫は屈みこむ。その周りを筑波メンバーは心配そうに覗き込んでいた。
「ここ・・・ですか?」
「ああ・・・」
 声と表情の僅かな変化で負傷した場所を察知し、雫は器用にテーピングで固定していく。その手つきを眺めながら三上は、ずっと不思議だった疑問を少女に問うた。
「何故・・・ここまでしてくれるんだ?俺は君の従兄の将来を潰したのに」
「聖お兄ちゃんは恨んでいないもの」
 くるくると手を動かしながら、雫は曇りのない声で応える。
「三上さんの本来のバスケを見たけど、やっぱりすごく素敵。全身でバスケが好きなんだと言っているのがよく分かるの。そんな人だから、こんな些細な怪我なんかでバスケが出来なくなるなんてことには・・・なって欲しくないと思っている。聖お兄ちゃんも、私も」
 テーピング固定が済み、具合を点検していた雫は顔を上げると笑顔を浮かべ、親指で自分の心臓を示した。
「私もね、中学の時はバスケをしていたの。でも、心臓が悪くなって、手術をしなくちゃならなくなって。バスケが出来なくなったの」
 周囲の息を飲む音が響くが、雫はくったくのない笑顔を浮かべたままだ。
「でも、バスケが好きであることは変わりないし、こうして皆の手助けが出来るのがすごく嬉しい。些細なことだけど、それが皆の原動力になるのが私はとても嬉しいの。そして、それは聖お兄ちゃんも同じなの」
「あいつも・・・?」
「うんっ」
 大きく頷く雫の無邪気さに笑みを誘われ、三上は僅かに唇の端を上げる。
「あ、三上さんが笑った。嬉しいっ」
 満面の笑顔を浮かべて喜ぶ雫の姿に今度ははっきりと苦笑してしまう。
「俺が笑うと嬉しいのか?」
「はいっ」
 躊躇いもなく頷く雫はにこにこと笑いながら三上の顔を見上げた。
「笑うと三上さん、素敵だもの」
「・・・(絶句)」
 ある意味、殺し文句な台詞である。
「圭吾、そろそろ時間だヨ」
 周囲でくつくつと笑っていた仲間達がそろそろだと三上を促す。
「あ、じゃあ、私、戻りますね」
 救急セットを片付けた雫は自分のベンチに帰ろうと立ち上がったが、しばらくその場で何やら考えこむとちょいちょいっと三上を手招きした。
「三上さん、ちょっと屈んでくれますか?」
「・・・?ああ」
 不思議そうに首を傾げながら雫の目線に合うように背を屈めた三上の頬に。

 ちゅっ♪

「なっ・・・」
 驚き、飛び退いた三上に気づいているのか、いないのか。雫は唖然としている三上を後に、他のメンバーにも頬にキスを送っていた。
「本当は上南の皆だけのキスなんだけど。でも、皆さんにも頑張って欲しいから」
『激励です』
 と、唇に指を当て、無邪気に笑う雫の姿にすっかり骨抜きにされた筑波メンバー一同であった。


 そして。
 ここ、上南ベンチでは怨念のオーラが渦巻いていた。
「あいつの激励は上南専用だったんだぜ」
 憤慨する<ガン>こと<高倉 巌>。
「雫はまだ、どこにもやるつもりはない」
 何やら父親のような発言をする主将<馬呉 宏明>。
「・・・特訓の成果を見せてやる」
 何かが違う発言をするのは<斉藤 伸之>。

 こうして、上南メンバーの心は一つになった。
 彼らの思惑は一つ。
「雫を取られてたまるか」
 本人の意見はどうした、皆・・・。

「皆がまとまってくれて良かったよ」
 にこやかな笑顔とともにのたまった今川。この状況を理解しつつもこの発言をする辺り、かなり食えない男である。

 きっと、筑波メンバーは忘れないだろう。
 天から降る雫のように優しさと無邪気さを自分達の心に染み込ませた少女を。
 無垢な笑顔と暖かなキスで励ました少女を。
 天野 雫という少女をしっかりと認識した出来事を。
 彼らは忘れないだろう。

「聖お兄ちゃん、ただいま♪」
「ご苦労様。皆に激励をしてあげてくれるかな?」
「うんっ」

 しかし、彼らは知らない。雫の一番は『聖お兄ちゃん』であり、その壁は果てしなく高いことを。
 その壁に彼らが散々苦労するのはまた、別の話である。


END