氷の女神達


「どうせ、男目当てなんだろ」
 その一言で体育館の空気が凍った。

「・・・・・それ、撤回してもらえるかしら」
 にっこりと綺麗に微笑みながら、けれども瞳はまったく笑っていない蒼乃がそう言うと、もともとひんやりしていた体育館内の温度が更に下がった。
「蒼乃。撤回させる必要はないわ」
 何時もの柔らかな微笑などなく、氷のような視線を華乃は暴言を吐いた相手へと向ける。
「そうね。ここまで私達に喧嘩を売ったのだもの。責任を取ってもらいましょう」
 可憐な雰囲気など払拭され、有羽は無表情に売られた喧嘩を買う宣言をする。
「あんたたち、嫌い」
 子供じみた口調でありながら、雫は背後に外見とは裏腹な恐ろしいほどの威圧感を背負っていた。
「二度と、私達の前に出れないように潰してあげる」
 射殺しそうな圧力を視線に込め、星乃が止めを刺した。

 少女達が一言一言を言う度に周囲の体感温度は下がり続け、今の空気は正に絶対零度。ただの絶対零度ならば寒いだけだが、彼女達の場合はブリザード付きである。物騒な事、この上ない。思ってもみなかった少女達の怒りに相手達の顔色は紙のように白くなっていたが、時すでに遅し。
 眠っていた氷の女神達を覚醒させた者の末路は決まったも同然であった。

「一体、何を騒いで・・・雫!?」
「あ、今川先輩!」
「どうして雫がプレイをしているんだい!?しかも、有羽ちゃんまで!」
「それが、その・・・」
 上南高校男子バスケ部男子マネージャー<今川 聖>は驚いていた。何時もより少し遅めに部活に出てきてみれば一年マネージャー五人組がどこぞの誰かとバスケの試合中なのである。
 珍しく慌てている今川に、その場にいた<成瀬 徹>がこの事態になった経緯を簡単に説明する。
「・・・つまり、ちょっとばかりモテて、運動神経もある馬鹿が彼女達を誘ったがあっさりとフラれ、その腹いせに暴言を吐いて怒らせた、と。そういう訳だな」
「こういう場合、大抵は蒼乃が治めるはずだが・・・」
 何気にキツい台詞を吐く今川に少々引きつった顔をしつつ、今川と同じタイミングで部活に出てきたバスケ部主将<馬呉 宏明>は疑問を口にした。
「彼女もかなり、怒っていたんですけど・・・」
 その時の怒り具合を思い出したのか、成瀬の顔色が悪い。
「蒼乃ちゃんまで怒ったのなら、もう誰にも止められないね」
「断言するんだな、今川」
「皆も知っていると思うけど、一番最初にキレやすいのは星乃ちゃんだ」
「・・・そうだろうな」
 その事実を身をもって知っている<澤村 正博>がボソリと呟く。彼女の怒りの回し蹴りを食らったのは記憶に新しい。
「次にキレるのは実は有羽ちゃん」
「・・・凪白が、か?」
 信じられない、という感情を表情には出さず言葉に出すのは<小林 直純>。まじまじと試合をしている彼女達を見つめる。
「そして華乃ちゃん、雫と続いて最後まで冷静なのが蒼乃ちゃん。彼女が最後まで冷静なら他の皆を宥めることが出来るけど、蒼乃ちゃんまでキレたらもう、最後。完膚なきまでに叩きのめされるよ。あらゆる手段を使ってね」
「つまり、本気で彼女達を怒らせるな、ということか」
 ため息をつきつつ最終的な結論を述べたのは<桜井 修二>。
「いや、マジで怖かったな」
「そうそう。彼女達の周辺、絶対零度のブリザードが出現していたし」
 揃って頷く<斉藤 伸之>と<高倉 巌>の顔が引き攣っている辺りからも少女達から発せられた冷気の凄さが伺える。
「氷の女神達を覚醒させたのか・・・どちらにせよ、自業自得だな」
「氷の女神達?」
 首を傾げている何人かを見た今川は今後の事も考え、簡単に単語の説明をした。
「本気で怒った彼女達につけられた呼び名だよ。中学時代にあの怒りようを見た彼女達の級友が言っていたね。氷の女神達だけは決して、覚醒させてはいけないと」
 彼女達から吹き出ていた絶対零度のブリザードを見た彼らは深く頷く。納得の頷きなのか、同感の頷きなのかは微妙ではあるが。
「ところで、どういうルールにしているんだい?どんなに頭に血が上っていようと蒼乃のことだ、変則ルールにしているはずだろ」
 豪快な性格が持ち味の先輩マネージャー<矢部 希理子>の質問に再び成瀬が答えた。
「あ、はい。時間は無制限のサドンデスでタイムアップやハーフタイム等は一切なし。先に50点を決めた方が勝ちです」
「・・・で、試合開始からどれくらい経った?」
「10分程です」
「残り20分が限度。・・・ギリギリってところか」
「・・・一体、何の話をしているんだ?」
 馬呉や今川が呟く言葉の意味が分からなかった澤村が眉を顰める。
「ああ、澤村はこの間ここに来たばっかりだから知らないんだよな」
「あいつらも必要以上に言わないしな。知らなくて当然だろう」
 成瀬と小林の意味深な台詞にますます眉を顰める。
「だから、何をだよ」
「雫と有羽のことだよ。あの二人、激しい運動は厳禁なんだ」
「・・・あんなプレイをしていてか?」
「プレイと持病は別物だろう」
「雫は心臓が悪いんだ。有羽は事故で足を痛めていてな。二人とも医者から激しい運動を禁止されている」
「今のプレイの仕方じゃ、30分が限度。それ以上すると・・・雫は命に関わるし、有羽ちゃんは歩けなくなるかもしれない」
 桜井と馬呉、今川が伝えた少女達の事情に珍しく驚いた澤村はもう一度試合をしている少女達を見つめた。
「うわっ、すげっ。今の、どーやったんだ?」
「よく、あんな場所へパスを出すよな・・・」
「いや、それもそうなんだけど、そのパスを取る人間も凄いぞ」
 蒼乃が誰もいない場所へパスを出したかに見えたが、それを予想していたかのように雫が走りこみ、ポールを見事にキープする。ジャンプして取ったボールは再びジャンプした雫のレイアップでゴールを揺らした。
「凄い、な・・・」
「ああ。無茶苦茶息が合っているっていうか」
 相手がゴールしようとしたボールをカットする華乃。カットした零れ玉を蒼乃が掬い上げ、有羽へパス。ドリブルで相手コートへ切り込む有羽の目の前に敵が立ちはだかるが、その瞬間に右手にいた星乃へとパスを出す。星乃の前にも敵が立ちはだかるが、鮮やかに切り抜けシュートを放つ。
「あっ、惜しい」
「外したか」
「・・・いや。あれは態とだ」
「え?」
 確かに外した当の星乃は悔しいどころかしてやったりというような表情を浮かべている。何故、という疑問はすぐに明かされた。
 外れたボールを追って複数の手が伸びるが見事にキャッチしたのは蒼乃。即座にジャンプしたため、シュートを放つと誰もが思ったのだが。
「バックパス!?」
 蒼乃はシュートを打つと見せかけ、後ろへとボールを放った。そこにいたのは有羽。ノーマークの有羽は誰に邪魔をされることなく3Pシュートを放ち、期待に応えたボールは見事にボールネットを揺らしたのだった。
「なんて・・・プレイをするんだ、あいつら」
 試合の空気さえも支配する威圧感。ボールを追う視線は獲物を追う野生の王者を彷彿とさせる。試合の迫力に押されながらも、視線を奪われる引力。カリスマ性を備えたプレイ。惹き込まれずにはいられない、少女達の生命力。
「雫と有羽が選手生命を絶たれた時、同時に蒼乃達も選手から退いた」
「何でだよ」
「最高のプレイが出来る相手と巡り合ってしまったら・・・もう、その相手以外とは組めないよ」
「だから、彼女達は選手としてではなくマネージャーとしてバスケに関わるようになった」
「いくら選手を退いたとはいえ、誇りもあればプライドもある。そんな彼女達にあんな言葉を投げ掛ければ怒るに決まっているさ」
 少女達のプレイを見れば分かる。彼女達がどれだけバスケが好きなのか。野生の獣のような視線でボールを追うくせに、ボールを手に取った瞬間の嬉しそうな表情。お互いのアイコンタクトでプレイが決まった時の高揚感に満ちた顔。
「・・・・・52対18。ここまでだ」
 桜井の試合終了を告げる声にコートにいた者達の動きが止まる。
「雫、有羽!?」
「だ・・・大、じょ・・・」
「へ・・・い、き、だ・・・か・・・ら・・・」
 蒼乃の呼び掛けに何とか答えようとした二人だったが、力尽きたようにコートに倒れこむ。
「雫!!」
「有羽ちゃん!?」
「今川先輩、雫を運んで下さい!馬呉主将は有羽を!華乃、コールドスプレーと吸入器を持ってきて。星乃は水を二人分!」
「分かったわ」
「OK!」
 矢継ぎ早に出す蒼乃の指示に全員が一斉に動き出した。
「蒼乃ちゃん、タオル。二人の汗を拭いた方がいいよ」
「有難う、成瀬君」
「蒼乃、ここにタオルを敷いたよ。何もないよりかはマシだろう?」
「助かります、希理子さん」
 床にタオルを敷いた希理子の機転に頭を下げ、蒼乃は視線で倒れた少女達を運んできた先輩達に横たえるように促す。
「蒼乃、はい」
「水、持ってきたよ」
 三つ子の妹達に渡された物を一度床に置いた蒼乃はまず、吸入器を雫の口元に当てた。
 シュー、という微かな音と共に、激しく上下していた雫の胸が少しずつ治まりだす。額に浮かんでいた汗をもう一度拭き取り、視線を今川へ向ける。
「今川先輩、雫に吸入器を当てていて下さい」
「分かった」
 吸入器を今川に任せた蒼乃は今度は有羽へと屈み込んだ。激痛に耐えているのか、有羽の眉間には皺が寄せられ、油汗らしきものが浮かんでいる。有羽の足に手を伸ばそうとした蒼乃はふと、手を止め、周囲を取り巻く男達を睨み付けた。
「・・・・・男連中は今すぐ、回れ右」
「え?」
「・・・・・・・・・・そんなに、有羽の足を見たいの、あんたたち」
「!?」
 彼らとて年頃の男である。正直言えば見たい気持ちは大いにあるが、今現在も冷気発動中の蒼乃に向かって(たとえ冗談だとしても)そんな事を口にすれば・・・命の保障はない。
 ぶんぶんぶん、と首を横に振り、一斉に回れ右をした男連中の動きは笑えるほど一糸乱れぬものであった。
「有羽、足の感覚は?」
「正直言えば・・・何もないわ」
 荒い息の下、冷静に答えた有羽の返答に蒼乃の眉が顰められる。
「動かすのも無理?」
「神経がどこかにいっちゃったみたいね。痛みばっかり主張して、力が入らない」
「取り合えず、冷やすわよ」
「お願い」
 ジャージに手を掛け、するりと脱がすと白くすらりとした足が出現する。だが、左足には痛々しいまでの傷が大腿部と膝周辺、そして脹脛の計3箇所に大きく残っていた。
 その傷を確認するように手を当てた蒼乃は一つ頷くと、コールドスプレーを手にする。
「大腿部と膝に熱がある。脹脛は大丈夫みたいね」
「まだ、ましってところかしら」
「楽観は出来ないけどね」
 熱を持っている場所にコールドスプレーを吹きかけ、冷やしながら蒼乃はちらりと三つ子の妹達に視線を向けた。その視線の意味を汲み取った二人は力尽きて倒れている雫と有羽の鞄からピルケースを取り出し、中身を手のひらに出す。
「有羽、取り合えず薬を飲んで安静にしなさい」
「分かったわ」
 星乃と華乃から水と薬を受け取った有羽は素直に薬を飲み、床に横になった。上手く薬が効けば、正常な感覚がなくなるほどの激痛が治まってくるだろう。
 足を隠すようにバスタオルを有羽の上に掛け、対処を終えた蒼乃は吸入器を当てられている雫へと再び体を向けた。
「雫?薬を飲める?」
 静かに声を掛ける蒼乃だが、顔色が青白くなった雫の反応は弱弱しく、まともな返答が出来ない。予想よりも酷い状態に蒼乃は軽く舌打ちをするが、すぐに次への行動を起こした。
「今川先輩、少しどいてくれますか?華乃、雫の薬を頂戴」
 当てていた吸入器を外した蒼乃は渡された薬を雫の口の中へ押し込む。そして。
「っ!!??」
 声にならないどよめきを他所に口移しで雫に水を与え、薬を飲ませた蒼乃が顔を上げた。
「雫、もう少しすれば薬が効くと思うから、それまで大人しくしていなさい」
 再び吸入器を口元に当て、静かに語りかける蒼乃に雫は小さく頷く。それにほっとしたように柔らかく微笑んだ蒼乃は未だに呆然と突っ立って自分達を見ている喧嘩を売った男達を睨みつけた。
「・・・まだ、ここにいたの、貴方達」
 再び高まる冷気に上南男バスの何人かがずざざっ、と後ずさりする。・・・少々、情けない気もするが、氷の女神状態の彼女を見れば無理もないだろう。
「分かっていただけたかしら?私達はただの好奇心でここにいるわけではないということを。私達は私達なりの事情と覚悟を持ってこの場所にいるのよ。それを、横から侮辱するのは誰であろうと許さない」
 すうぅ・・・と蒼乃の表情が無くなっていく。それと反比例して彼女の周辺の冷気が高まっていく。
「雫は命を掛けた。有羽は歩けなくなる危険を晒した。私達三つ子は大切な友人達を危険に晒し、無くすかもしれない危険を抱えた」
 いつの間にか、三つ子の妹達も蒼乃の側に立ち、視線で相手を威圧している。
「その、私達の心をそれでも侮辱するというのならば」
 三人の視線が物理的威力を持っているかのような、強く・・・殺気さえ篭っているような圧力で相対する者達を射抜いた。
「徹底的に、完膚なきまでに叩きのめすわ。・・・・・覚悟、なさい」

 この時、上南男バス部員達は等しく思った。
(絶対に、彼女達を本気で怒らせるまい・・・)

 覚醒した氷の女神達の威力は相対する男達どころか仲間である彼らにもしっかりとインプットされ、しばらくの間、彼らの行動は不自然なほど少女達への対応が慎重だったらしい。

 絶対零度のブリザードを出現させる氷の女神達。
 彼女達の怒りはパンドラの箱。
 決して開けてはいけない禁忌の蓋。

「・・・・・とんでもない奴らが仲間になったものだな」

 外見とは裏腹な苦労性の主将の言葉がある意味、全員の気持ちを代弁していただろう。


END