小雨色の日
キスをする抵抗なんて、今まで感じたことなんて、なかった。 当たり前のように、毎日、キスを交わした。 おはようの、キス。 おやすみの、キス。 よく頑張ったね、と軽く頬にキスされるととても嬉しいと思った。優しく触れる感触が、温かさを伝えてくれた。 キスは生活習慣の一部だった。 それ以外の意味なんて、知らなかった。 それ以外の意味のキスなんて、したことはなかった。 小雨がアスファルトを濡らし、灰色の地を黒く染めた。 地面のない地を水は、大地に吸い込まれることなく斜面を流れ平坦な場所で溜まる。 茶色の泥水にまみれて遊んだ幼い記憶が脳裏を微かによぎらせて、天海サスケは傘をもって歩いていた。 いつもは人気の多い街であったが、今日の天気が雨であるせいか、人並みはまばらである。 紺色の大き目の傘に遮られるスペースの半分をサスケは歩いていた。その半分を歩くのは、彼より遥かに身長の低い少女である。栗色をした髪は、サスケが彼女に最後に会った時よりほんの少し伸びて、肩のラインを少しだけはみ出していた。久しぶりに会う彼女の、ちょっとした変化をサスケはいつも見過ごさない。 サスケが住む金沢という土地と、彼女が住む土地とでは距離がある。新幹線や車を使えばいつでも会いに行ける短い距離でも、互いが高校生同士であれば、随分長く感じるものだ。 サスケの肩ほどまでしかない身長の彼女は、見つめ見下ろしてくるサスケの視線に気づいたのか、小首をかしげながら彼を見上げた。 くりくりと小動物のようによく動き、まっすぐに前だけを見つめる眼差しは、サスケだけを見つめる。 「どうしたの? …なにかついてる?」 「いや。………・別に何でもないよ」 普段の彼のぶっきらぼうな口調より、柔らかく答えて、サスケは微笑みを返した。 「せっかく会えたのに、雨だなんて残念だね」 彼女・上南高校男子バスケット部マネージャー、柊木麻衣はどんよりと厚い雲で覆われている空を傘から覗き込むように見上げて、そう呟いた。 「会えたから、俺はそれで充分だ」 「ありがと。私もね、サスケ君に会えるだけでとっても嬉しいよ」 にっこりと白い歯をみせて、彼女は微笑んだ。二本の八重歯を覗かせて笑う彼女の笑顔を見下ろしてサスケは表情を和らげる。ぽつぽつと傘に落ちる水滴の音と、まばらな人の足音を聴きながら2人は特に当てもなく街を歩いていた。 歩きながら、麻衣はいつも学校の日常で起きる些細な出来事を話してくれる。 数学の小テストの点数がだんだん上がって来ていることとか。 購買でパンを買う時の競争でいつもまけてしまうこととか。 家庭科で作った料理がとても美味しかったこととか。今度、それをサスケ君にも作ってあげるね、と楽しげに話す彼女のしっとりと落ち着いたアルトの声にサスケは耳を傾ける。電話越しではない、直の彼女の声がサスケに安らぎを与える。 サスケが彼女に話す内容のほとんどは部活のことであり、一応彼氏彼女の間柄であるが他校の男子バスケ部のマネージャーの彼女に部の内情はほとんど喋れない。サスケ自身、あまり面白い会話の中身ではないと思っているが、麻衣はそうは思っていない様子だ。 店が建ち並ぶ街路樹を通り過ぎると、閑静な住宅地に出た。 「こんな所もあったんだぁ〜……」 来たところのない場所なのか、麻衣が意外そうに言って周囲を見回す。 「そんなに見回していると濡れるぞ」 傘に守られた範囲から飛び出した麻衣の肩を抱いて、引寄せる。何気なく延ばした手が麻衣の肩を掴むと、びくりと肩が反応した。小さくびっくりした声をあげる麻衣をいぶしかんでサスケが覗き込むと、幼さを残す顔を紅くした麻衣と目が合った。 「びっくりさせないでよぉ!」 瞳を僅かに見開いたサスケの視線から逃れるように、麻衣は顔を背けて怒ったように言った。それが照れ隠しであることくらい、サスケは知っている。 「言ってからなら抱いてもいいのか?」 「そういうことを言ってるんじゃなくって」 「わかってる。ただ単に、麻衣は照れただけなんだよな」 「………だって…いきなりだったんだもん」 僅かにからかいを含んだ声で言うと、麻衣はサスケのほうに視線を向けた。サスケのからかいに、麻衣は拗ねたのか頬を膨らませて上目遣いでサスケを軽く睨んだ。その少し怒った表情の麻衣がサスケはとても好きなのだ。 サスケは麻衣を覗き込みながら、手に持つ傘を傾けた。 ぽつり、ぽつり、と細い雨がサスケと麻衣に優しく降り注ぐ。 「……・え?」 顔に降り注ぐ雨を見上げる麻衣の隙をついて、サスケが彼女の薄く淡いルージュを塗った唇に唇を触れさせた。 柔らかい感触を一瞬だけ味わって、すぐに離れる。間近でみつめる麻衣の変化にサスケは瞳を細めた。 触れられた唇を抑えて麻衣がサスケを凝視する。呆然といった表情で見上げてくる麻衣の顔がリトマス試験紙のように紅くなっていった。 「な…な……・・っ……」 驚きで何も言葉にできないらしい麻衣の言葉を、サスケは待った。 「いきなり! なに…なにするの……??」 「キス」 「…・・!」 「可愛いな、って思ったから思わず………」 「だ…だからって………」 真っ赤に顔を紅潮させて麻衣はサスケを睨んだ。といっても、その目線に怒りはない。 戸惑いと、羞恥、嬉しさと驚き。 それらの感情を混ぜ合わせたような色で彼女はサスケを睨み付ける。 「キスしたいって思ったのにキスしないなんて俺はそんなに我慢強くない。それが好きな女であれば、尚更な」 「それって開き直りじゃない?」 ようやく我に戻ったのか、麻衣が呆れた声で尋ねる。 「キスに色々な意味があるって、麻衣は知っているか?」 「?? なに? いきなりどうしたの?」 不意に言い出すサスケに、麻衣は先ほどまでの照れを忘れて小首をかしげて尋ね返す。 「キスを交わす時、俺は今まで特に照れとかは感じなかった。親や友達とのスキンシップの一つだとしか考えたことがなかった。だから、慣れてしまっていたんだ」 「海外にいたんだもんね、サスケ君」 まぁな、とサスケは小さく麻衣に頷き返した。2人は少し歩いて誰もいない公園に入った。 濡れたブランコの近くで立ち止まり、サスケは続きを話し出す。 「でも、お前とする時はなんだか違う。いつも心が騒ぐ。他の人と交わすよりずっと気持ちがいいんだ」 「……・ちょっとまって…他の人って…?」 「お前が考えているような関係の奴じゃないぞ、言っておくが。普通のコミュニケーションの一つとして交わす家族とのキスってことだ」 変な誤解をさせないように、サスケは慎重に言葉を選ぶ。 「他の奴等になら、俺はいつでも軽くキスができる。だけど、お前にする時はいつも俺は軽い気持ちじゃできないんだ」 「さっきしたじゃない」 「軽い気持ちのまま、お前にキスしたことなんて俺は一度もない」 「ありがとう。なんだか、照れちゃうよ……」 ほんのりと薄く頬を染めて麻衣は顔を伏せた。火照る頬を掌で冷やす彼女に見つめて、サスケは言った。 普段会えない分、言葉にして伝えておきたいことがある。 態度で示しておきたいことが、ある。 「……・俺はお前のことが、好きだ」 「…………・って、気づいたの? 今更……・」 サスケの告白から一瞬間を置いて麻衣はそう言った。瞳を見開いて、彼女はサスケを見上げる。そんな彼女に憮然とした表情でサスケは見返した。感激して涙を流して欲しいとまでは言わないけれど、告白したのにその反応は何なのだろうか。 クスクスと麻衣は笑い出した。なにがおかしいのか、サスケにはわからない。 ちょっとむっとしているサスケの気配に気づいたのか、麻衣は笑みを止めた。口許から笑みは消えたが、微かに目元が震えているのにサスケはすぐに気づく。 「遅すぎだよ、サスケ君。今まで、何度キスを交わしたの?」 「…………」 「私はね、いつもサスケ君にキスされるとドキドキして立っていられなくなるよ。どんなキスでも。そりゃ、私はキスなんてサスケ君としかしたことないから、他人と比べてどうかはわからないけれど。私はサスケ君のことが…その…好きだから、キスするんだよ」 たった一人の大切な人だから。 両親達、家族以外に一番大切だと思う人だから。 キスをされると、嬉しくなる。 心が震える。 にっこりと微笑む麻衣をじっと見詰めて、サスケはやがて小さく笑んだ。 麻衣の言う通りだと思ったからだ。 麻衣のことが好きだから、キスをする。大切な人と交わすから、心が震える。 それが、他の人と交わすキスを同じな筈がない。好きな人と交わすキスは軽い気持ちでは、きっとできない。 ただとなりにいると思うだけで、緊張してしまうのだから。 「麻衣……」 彼女の名前を囁いて、サスケは手を延ばして彼女の頬を包んだ。 「…………キスしていい?」 「いちいち断らなくて良いよ。いわれちゃうとそれだけで嬉しくって、私頬が弛んじゃうんだから」 麻衣の囁きを雨音と共に聞きながら、サスケはそっと麻衣に唇を寄せた。 触れたのは、唇ではないところ。 照れ屋ですぐ顔にでてしまう、彼女のために。 彼女の額に滴る雨粒を拭うように、サスケはそっとキスを落とした。 <終わり。> |
(イリスより) きゃー、きゃー、きゃー(特大はぁと)。←パソコンの前で狂気乱舞するイリス。 もう、幸せな二人にイリスも幸せになりました〜。幸せなキスをこの二人はこれからもずっと、していくのでしょうね・・・。 本当に有り難うございました!! |