翼
「俺は・・・飛べない」 何故、俺は出会って間もない少女にこんなことを言っているのだろう。しかも、相手は敵である相手チームのマネージャーだというのに。 「大丈夫よ。天海君は飛べる。今ではなくても、いつか、きっと」 ふんわりと微笑んで、敵であるはずの俺を励ますのが不思議だった。 「何故、そんなことが言える?」 何故、敵である俺を励ます?・・・俺はそういう意味で聞いたのだが、相手は別の意味で捉えたらしい。今度は少し、寂しそうな笑顔になった。 ・・・何故か、胸が疼いた。 「だって・・・天海君、『飛べない』だけで、『飛べなくなった』訳じゃないんでしょう?」 『飛べない』と『飛べなくなった』の意味。それは・・・ 「私はもう、飛べなくなったもの。どんなにバスケが好きでも、プレイをしたいと思っても、私の翼は折れてしまったわ。だけど、天海君の背中の翼は折れていない」 「お前・・・それは・・・」 聞こうとして、けれど可憐な外見とは裏腹に、強い意思の輝く瞳に口を閉じる。今は何を聞いても答えてはくれないだろう。そんなことを確信させるような瞳だった。 「有羽」 「・・・?」 「私の名前は<凪白 有羽>。覚えていてね、<天海 佐助>君」 微笑むその姿に、再び胸が疼いた。 準々決勝の金北と上南の試合は逆転に次ぐ逆転で最後まで予想のつかないものだったが結局、僅差で試合を制したのは上南。無名だった都立高が常勝と言われていた金北を破ったのだ。 喜びに沸く上南ベンチを眺めながら、不思議とサスケの心は凪いでいた。 試合をしているうちに、ふっきれたのかもしれない。試合をしているうちに気づいたのかもしれない。ただの『楽しいバスケ野郎』だと思っていた奴が必死の努力で今のプレイに繋げていることを。どんどん進化していく姿はその努力の成果なのだということを。 気づかせたのはおそらく・・・彼女。 守りたくなるような可憐な容貌に不似合いな、芯の強さを持っている少女。 サスケの視線に気づいたのだろうか。ふんわりとした笑みを浮かべ、選手達を迎えていた有羽の表情がふと、訝しげなものに変わると視線をさ迷わせる。そうして、何かに引かれるように可憐な少女はサスケへと視線を向けた。 有羽の口が小さく動く。 声が届く筈もないのに、サスケには有羽の声が聞こえたような気がした。 『天海君』 と、自分の名を呼んだような気が・・・。 サスケが見詰める中、上南の誰かに呼ばれたのだろう。慌てたように振り返った有羽は何故か、バランスを崩して左側へと倒れる。 「っ!?」 ちょうどすぐ側にいた上南の選手に有羽は危なげなく抱き止められた。その姿を見た瞬間、サスケの視線に殺気が篭る。視線に物理的な力があれば確実に射殺せそうな、それほどの殺気だ。 その視線に気づいていないのか、有羽は抱き止めた選手を見上げ、いつものふんわりとした笑みを浮かべている。 この時、ようやくサスケは自分の心に気づいた。 神様の技であるエアを打つ<成瀬 徹>を気にしていたはずなのに、何時の間にか可憐な容姿と芯の強さを併せ持つ有羽が心の奥深くに居座ってしまっていたことを。誰にも渡したくないと思うほどに、執着してしまったことを。 気がついてしまえばそれは、激しいまでの独占欲へと繋がり、その視線が自分へと向けられる事を欲する。 その執着と独占欲を人は『恋』と呼んだ。 目の前のホテルを見上げ、サスケはその名前を確認した。 「ここ・・・か」 もうすぐ、インターハイが終了する。終了すれば地元に帰るのは当たり前で、その前にどうしても有羽の顔を見たくて、サスケは上南が泊まっているホテルまで足を伸ばしていた。自覚したばかりの想いを抱えたままでいられるほど、サスケは我慢強くもなければ大人でもない。だからこそ、『会いたい』という想いだけで行動が出来るのでもあるが。 とりあえずロビーに足を踏み入れ、辺りを見回す。どうやって会おうかなど考えずに来たので、当然ながら有羽の部屋のナンバーなど知るはずもない。 だが、運がいいのだろうか。ロビーに設置してある座り心地の良さそうな椅子に、見覚えのあるワンピースを着た少女が座っているのをサスケは視界の端に捉えた。 ノースリーブの淡い空色のワンピースは確かに有羽が着ていたものだ。 側に近づけばやはり、その人物は有羽で、手元にある何かを一心に見詰めている。その横顔を見たサスケは思わず、近づくのを躊躇ってしまった。 いつも、ふんわりとした暖かな笑顔を浮かべている可憐な容貌には寂しさと切なさと哀しみが微妙に入り交じった、見ていて胸が痛くなるような表情が浮かんでいる。それでも、見ているだけでは我慢できず、サスケは有羽に声をかけた。 「・・・おい。何をしている?」 「え?あ、天海君」 驚いたのだろう、一瞬大きく瞳を見開いた有羽だが、すぐにいつもの笑顔を浮かべる。 「どうしたの?ここに来るなんて。成瀬君に用事なの?」 「・・・あいつのことはいい」 「そう?」 軽く首を傾げる有羽を視界の端に入れながらサスケはぐるりと周囲を見まわした。 「・・・他の奴らはどうした」 「他の?」 「いつも、お前と一緒にいる奴ら」 上南男バスには有羽を含めて7人のマネージャーがいる。 (注:多すぎるというツッコみは不可。イリスもそう思っていますから(汗)) その中の一年生マネージャー陣の結束と友情は固く、有羽が一人でいるところなどほとんど見たことがないのだが。 「ああ、彼女達ね」 今度ははっきりとした苦笑が有羽の顔に浮かんだ。 「蒼乃は桜井先輩と一緒に明日の試合の分析をしているし、星乃は澤村君に『勝負だっ!』とか言われてどこかに引っ張っていかれたし、華乃は小林先輩にビリヤードを教えてもらうとかで出掛けたわ。あと、雫は筑波の三上さん達に誘われて出掛けて・・・その後を何人かが追っかけて行っちゃった」 溺愛している妹分の行動に、過剰なまでに反応している部員達を思うとどうしても苦笑しか出てこない。彼らの行動はどこまでいっても『妹を溺愛する兄』なのだが、雫を誘うとするには邪魔な壁でしかなかった。 「お前は出掛けないのか?」 ふいにサスケに問われ、有羽は思わず瞳を瞬かせる。 他人のことには構わないサスケがそんな問いを放ったことに、少なからず有羽は驚いた。 「私?」 思わず自分を指して問い返せばサスケは無表情なままで頷く。 「行きたい場所とかないのか?」 更なる質問にやはり驚くが、有羽は頬に指を当て、素直に質問に答えた。 「んーっと。藻岩山に行ってみたいとは思うけど・・・一人じゃちょっと寂しいし」 「俺と行くか?」 「・・・はい?」 今度こそ、本気で有羽は驚く。他人を・・・しかも、女の子を誘うなど、思いっきり彼の性格ではないわねと、大変失礼だが同意の意見が出る感想を有羽は心の中で呟いた。 「嫌か?」 相変わらず無表情なままのサスケ。だが、その切れ長の瞳には何故か恐れのような感情が浮かんでいる。有羽にはそれが分かった。だからこそ、大きく首を振って否定する。 「ううん、そんな事ないっ!」 力一杯否定した有羽の仕草に、サスケの体を包んでいた雰囲気が僅かに変化した。なんというか・・・張り詰めていたモノが緩んで柔らかなモノになったような感じである。 もともと、整った顔立ちに無表情なので冷たい印象を与えがちだが、雰囲気が変わるだけで華やかな印象になるものだと有羽は半ば他人事のように考えた。 そんな事を考えていたからか、サスケへの対応が遅れた。 「え、え?」 自分の片腕を掴み、強引に連れ出そうとするサスケに有羽は目を丸くする。 「付き合ってやる。行くぞ」 自分から誘ったくせに、そんな物言いをするサスケを『らしいなぁ』などと呑気に考えていた有羽の体が立ち上がった途端、左側へと倒れかけた。 「きゃ・・・」 「っ」 咄嗟に運動神経の良さを表してサスケは有羽の体を抱き止める。 確か、試合の後もこんな場面があったな、と頭の片隅で考えながらサスケは腕の中の少女を見下ろした。 「ご、こめんね、天海君。有り難う」 サスケの腕の中から身を起こした有羽は自分の足を見下ろし、深いため息をつくと間近にあるサスケの顔を見上げる。 「すっかり忘れていたけど・・・私、足をちょっと痛めちゃって、無理が出来ないの」 「行けないのか?」 無表情なのに、問いかけるその声が悲しげでつい、場を和ませるような明るい声を有羽は出した。 「そうねぇ、天海君が腕を貸してくれて、ゆっくり歩いていったら大丈夫だけど?」 茶目っ気たっぷりに片目を閉じてみせる。サスケがその申し出を受ける筈がないと思っているからこそ言えた言葉なのだが、相手の反応は有羽の予想を大きく裏切った。 「そうか。じゃ、掴まれ」 目の前に出された片腕に、さすがの有羽も完全に固まる。 自分の腕を見詰めたままちっとも動かない有羽に業を煮やしたサスケは有羽の腕を取ると自分の腕に掛けさせ、ホテルの出口へと向かった。 「あ、あ、あま、天海、君?」 「行きたいんだろう?」 有羽の顔を覗き込む瞳が思いがけないほど優しい。ドキッとした有羽は顔を赤くして子供のようにコクン、と頷いた。 「だったら、問題ない」 何でもないことのように言い、有羽の足の負担にならないよう、ゆっくりと歩くサスケ。まだ戸惑ったままだったがそれでも有羽は何も言わず、サスケに従った。 有羽もまた、もう少しサスケと一緒に居たいと思ったが故に。 「うわぁ・・・綺麗」 曇っていた空が晴れ、見事な夜景を披露した藻岩山の展望台で有羽は手摺に手を掛け、身を乗り出すほどその光景に見惚れていた。 普段とは違った、子供のような有羽のはしゃぎようにサスケは目を細める。有羽の違う一面を見る事が出来るのが素直に嬉しかった。 サスケも手摺に近づき、夜景を眺める。 ただし、手摺に掛けていた有羽の手の上に自分の手を重ね、有羽の背中から覆い被さるようにして。 「あま・・・み・・・くん?」 今日、何度目になるか分からない驚きに有羽は身を捩ろうとしたが、サスケに抱き込まれるようにされた体は少しも動かない。しかも、上半身を少し折り曲げてサスケは有羽の頬に口付けたのだ。 「!?」 思わずサスケと距離を置こうとしたが、がっちりホールドされてしまった体が動くはずもない。頬への親愛のキスはバスケ部の皆で習慣として慣れ親しんでいた筈なのに、有羽の心拍数が急速に増大する。たぶん、顔も真っ赤になっているはずだ。 「・・・さっき、何を見ていたんだ」 「さ、さっき?」 耳元で囁くサスケの声は掠れ気味で、何と言うか・・・ダイレクトに心臓にきて、非常によろしくない。 更に上昇する心拍数に『このまま心臓が壊れるかも』などと呑気に考えているようでしかし、やはり動揺していた有羽の声は裏返ったような、引き攣ったような声だった。 「ホテルのロビーで・・・何かを見ていただろう」 「・・・」 サスケの腕の中で居心地悪そうに身じろぎしていた有羽の体がピタリと静かになる。不審に思ったサスケが顔を覗き込もうとしたのと、有羽が顔を上げたのとは同時だった。 「私の・・・私と私の両親を写した写真よ。私の両親ね、結婚記念に北海道へ行く予定だったんだけど、行けなくなったから・・・せめて、写真だけでもね」 遠くを見詰め、話す声が明らかに違う。そんな有羽の体をサスケは自分の方へ向けると力強く抱き締めた。 有羽の言葉は単純なモノではない。表面だけを見てはいけない。サスケにはそれが分かり、だからこそ、わざと単純に言った有羽の言葉から正確に意味を含んだ言葉を取り出す事が出来た。 『行けなくなった』 この言葉がおそらくは、キーワード。そして、もう一つが・・・。 「それは・・・試合の時に言っていた『飛べなくなった』という言葉と関係があるのか?」 自分の翼は折れてしまったと、悲しそうに、寂しそうに話した有羽。その時の表情が今の表情と重なって見える。 「・・・どうして、そんなにカンがいいのかなぁ」 苦笑しているが先程とは違って今度は明るい声だ。有羽はサスケに抱き締められたまま、彼の無言の要求にポツポツと話し出した。 「去年の夏休み・・・家族で旅行に出掛けたの。朝早くて・・・私、眠かったから後部座席で横になってて。だから、どうしてそうなったのか分からないのだけど・・・トラックと衝突したらしいわ」 サスケは何も言わないが、有羽は抱き締める腕の力が僅かに強まるのを感じた。自分の波立っていた心が穏やかになっていくのが分かる。今でも、思い出せば心が悲鳴を上げる事故なのに、サスケに抱き締められているだけで自分を保つことが出来た。 「なんだかすごい事故だったらしくて・・・自分の身に起きたことなのに、記憶がない為かな?どうも現実感がないのよね。でも、その事故で両親が死んだことは確かだし、私の足もダメになったことも確か」 「だからか、『飛べなくなった』と言ったのは」 サスケの言葉に有羽は頷く。 「左足を骨折していたんだけど、骨折した骨が皮膚を突き破るぐらい酷くて、その骨折で何本か神経をダメにして。治療に半年以上はかかるって言われていたけれど、四ヶ月で退院した時は驚かれたわ。・・・でも、バスケはもう、無理だって言われた。普通に運動をするのに支障はほとんどないけれど、バスケの選手としてゲームをすることは出来ないって・・・言われたの」 有羽の手が、何かに耐えるようにサスケの服を掴んだ。 「ずっと、大好きなバスケをしたかった。でも、もう、私は出来ないの。飛べなくなってしまったの」 「・・・けれども、お前は俺に翼をくれた」 「天海君?」 驚いたようにサスケを見上げる有羽の額に口付け、更に両瞼にもサスケは口付ける。 「お前は自分の翼が折れたと言ったが、ちっとも折れていない。お前の心の翼は折れずに飛んでいて、俺に飛ぶ力をくれた」 「天海君・・・」 「サスケ」 「え?」 「サスケって呼べよ、有羽」 「サスケ・・・君?」 戸惑いつつも自分の名前を呼んだ有羽へ嬉しそうに笑いかけたサスケはごく自然に顔を近づけ、唇を重ねる。軽く重ねるだけのキスはあまりにも自然で、有羽は唇から温もりが離れてからようやく気づいたぐらいだ。 「好きだ」 自分の身に起きた事がまだ理解できていない有羽をしっかりと抱き締め、サスケは告げる。 ただ、自分の想いを告げる。 「心に翼を持つ有羽が好きだ。俺に飛ぶ力をくれた有羽が好きだ。芯は強いけれど、脆さもある有羽が好きだ。有羽の全てが好きだ」 驚き、固まっていた有羽だが我に返ると自分からサスケに抱き着いた。 「私も、サスケ君が好き。初めてサスケ君のプレイを見た時から惹かれていたの。飛んだ姿を見て惹かれて・・・気がついたらサスケ君しか見えなくなっていた」 「俺以外、見るんじゃない」 間髪入れずに答えるサスケに、有羽はくすくすと笑みを零す。独占欲が可愛くて、嬉しかった。 「電話、してもいい?」 「かまわない。俺も、かける」 「手紙も書くね」 「返事は出せないかもしれないぞ」 「いいよ。・・・ね、頑張って会おうね」 「ああ」 小さな約束事は囁くだけで幸せで、二人は繰り返し約束する。 ずっと、一緒にいようと・・・。 翼を持った恋人達の第一歩はここから始まった。 END |