「サフィア!」
 広い空間に響いた、警告を含んだ声に蒼の髪と瞳の少女はとっさにその場から飛び離れた。
 次の瞬間、少女が立っていた場所に何本ものナイフが突き刺さる。
「何者!」
 鋭く誰何する蒼い少女は女神のように麗しい美貌の持ち主だった。
 意志の強さと命の煌めきが如実に表れている、輝く蒼の瞳が辺りを見回す。
 ふと、何かが引っ掛かり、本能の命じるままに再び立っていた場所から飛び離れると、またもやどこからか飛んできたナイフが床に突き刺さった。
「サフィア」
 最初に警告の声を上げた怜悧な表情の男が側に駆けつけると、少女と背中合わせに立つ。
「レムオン兄上、先程は有り難うございました」
 警告をしてくれた兄へ短く礼を言えば、冷静な視線を辺りに向けながら男は低い声で応えた。
「いや。お前ならばあれしきの事、容易く避けられるとは思っていたが」
「それでも、兄上が警告をして下さったからこそ、下手に慌てる事なく対処が出来ました」
 女神もかくやという程の美貌の持ち主であるが為に、やや近寄りがたい印象を与える少女だが、兄に対する態度は随分と素直だった。
「・・・お前が良かったのならば、それでいい」
「はい」
 物静かに頷いた少女の視線がある一点でピタリと止まる。
「兄上」
 少女の短い呼びかけに、男はチラリと女神とも讃えられる美貌を持つ妹へと視線を向けた。
「援護する。好きに動け」
「はい」
 短いやり取りで意志の疎通を通わせた後、不意に少女が走り出した。
 動き出した少女の後を追うように次々とナイフが床に突き刺さる。
 何本かのナイフは手にしていた剣で叩き落とすが数本は体を掠め、幾つものかすり傷が出来た。
「サフィア」
 背後から聞こえてきた兄の声に少女は即座に走っていた方向を変える。
 その直後、少女の横を熱風が通り過ぎた。
 いきなり飛んできた魔法に驚いたのか、少女へ襲い掛かっていたナイフが一時止まる。その隙を突き、少女は物陰に隠れていた者へと剣を振るった。
「!?」
 息を呑み、かろうじて剣筋から逃れた不審者はしかし、次々に襲いくる刃にあっという間に追い詰められる。
「相手が悪かったと思って諦めて下さい」
 静かに呟いた少女の腕が神速の速さで動いた。
「おーい、フィー!何があった?」
 遠くから聞こえてきた顔見知りの声に少女の美貌に微かな笑みが浮かんだ。
「見ての通りですよ、ゼネテス殿」
「いや、見ての通りっつったってなぁ・・・まぁ、どっかの馬鹿が身の程知らずにお前に喧嘩を売ったって事は分かるけどな」
 ポリポリと頬を掻きながら男は倒れている不審者へ呆れたような視線を投げかける。
「よほどの腕の持ち主でなけりゃ、『蒼の輝石』で『ノーブル剣聖伯』の二つ名を持つフィーに喧嘩なんざ売らねえよ」
 この程度の腕で仕掛けるとは馬鹿だ、とその呆れた視線は雄弁に語っていた。
「仕留めたか、サフィア」
 背後から掛けられた声に少女は冷静な表情で振り返り、静かに頷いた。
「援護、有り難うございます、兄上。一応、生かしておきました」
「そうか」
 地に伏せた男には眼もくれず、妹に近づくとその細い顎を取り、兄は戦闘の後だろうと陰ることのない麗しい美貌を覗き込んだ。
「怪我をしたのか」
「たいしたものではありません。どれも掠り傷の類いです」
 兄を見上げて答えた妹は僅かに瞳を細める。
「すぐに治癒できるものばかりですから、魔法は使わないで下さい」
 命に関わる程の大怪我か緊急時でなければ治癒魔法を受けないと決めている妹を知っている兄は複雑な表情で見下ろすが、絶世の美貌の持ち主は涼やかな表情を崩す事なく見返している。
 それを見てとった兄は溜め息をついて妹から手を離した。
「あー、兄妹の話し合いが済んだところで、ちょっといいか?フィー、これについて何か心当たりは?」
「有りすぎて逆に分かりませんね」
「はぁ?・・・ああ、成る程な。色々な意味で有名だからな、お前さんは」
 少女の台詞に一瞬、眉を顰めた男はしかし、すぐに意味を悟った。

 大陸中に鳴り響くほど腕利きで有名な冒険者。
(望んだ訳でもないが、うっかり知ってしまった秘密は軽く両手の指を超える)

 確かな腕と信用の置ける誠実さを持つ傭兵。
(それだけ襲いくる敵を打ち倒し、息の根を止め、恨み辛みを受けた)

 そして絶世の美貌を持つ大貴族リューガ家の末姫。
(まず有り得ないが、少女の婚姻により、リューガ家との繋がりを恐れた者)

 どれを取り上げても十分に暗殺しようという動機に成りうる。
「それじゃあ、黒幕を突き止めるのはちょっと難しいかもなぁ」
「それをどうにかするのがお前の役目だろうが。とっとと聞き出せ」
「あのなぁ、レムオン。大事な妹が襲われて腹立たしいのは分かるが、こいつもそれなりのプロだろうよ」
 そうあっさりと口を割らないだろうと言外に匂わす男に、相対する怜悧な顔は僅かに歪んだ。
 幼なじみが言っている事は彼も分かっていた。この手の者達がそう簡単に依頼主を白状はしない事は。
 だが、それでも腹立たしいのだ、妹を襲ったという事実が。
「・・・推測でしかありませんが、これは私自身に対する襲撃でしょう」
 ポツリと呟いた言葉に兄の鋭い視線が妹へと向かった。
「それはつまり、リューガ家とは関係ないという事か?」
 貴族としてより先に先輩冒険者として知り合っていた男の言葉に蒼の宝玉が捕らえた不審者へと向かう。
「1ヶ月程前の事ですが、依頼を受けまして、ある組織を潰しました」
「その組織の残党だと言うのか?」
「あくまでも推測です」
 そう言いながらも星の様に銀の虹彩が入った、煌めく蒼の宝玉に浮かぶのはどこか確信めいたもの。
「この者が使用していた短剣に特徴があります。そして」
 剣を扱うとは思えない細い手が捕らえた不審者の服の袖を捲り、手首を露わにした。
「この腕輪、細工からしてドワーフの手によるもの。巧みに隠していますが、私が潰した組織の印が彫り込まれています」
「それじゃあ、フィーへの私怨って事か」
「おそらくは。・・・ご迷惑をおかけして申し訳ありません、兄上」
 確認の言葉に頷いた後、少女は視線を兄へと向けると静かに謝罪の言葉を口にした。
 謝罪の言葉を受けた男は諦めたように軽く息を吐く。
「済んだ事だ。お前が関わった騒動に関して俺が言う事も何もない」
 兄の言葉に少女はもう一度、頭を下げた。
 冷たく聞こえる台詞だが、少女は兄がこの件に対して不問に付すのだと理解していた。
「んじゃあ、ま、取り敢えず俺はこいつからフィーの裏付けを取るわ」
「ご面倒を掛けますが、よろしくお願いします」
「気にすんな。コレも仕事ってな」
 丁寧に頭を下げる少女に男はカラカラと笑ってみせるが、少女の兄は冷たく言い捨てる。
「フン、いつもしない仕事の分までしっかりとして欲しいものだな」
「レムオン、お前さんねぇ・・・」
 ひくり、と頬を引きつらせた男を見やり、少女は苦笑を浮かべた。
 兄の男に対する態度は根が深いもので、今更少女が口を出しても変わる事はないと知っている為、何も言葉にはしない。
 それどころか、自分が口出しすれば余計こじれてしまう。
 どこまでも聡明な少女は苦笑を浮かべたまま、兄の態度に言及する事なく、これからの自分の行動を口にした。
「では、念のためにギルドで情報を集めますね」
 不穏な空気を漂わせている男二人へ告げるとそのまま出口へと少女は向かう。
 巻き込まれるのは正直、避けたいのだ。
「おぅ、頼むな」
「サフィア、用事を済ませた後は家に帰ってこい。セバスチャンが待っているし、エストも帰ってきている」
「エスト兄上が?」
 あまり表情を変えない少女なのだが、明らかに嬉しそうな笑顔を浮かべ、頷く姿に男は複雑そうな顔になった。
 出会った経緯故か妹として仕立て上げた時も、世界を見てこいと言いながら結局は放り出した事も、此方の都合で呼び戻しても。
 この少女は何一つ文句を言う事なく従順に従った。
 それは頭の回転が早く聡明な少女とは思えない程の盲目的な信頼。
 だが、信頼はあっても安らぐ事はないのだと気付いたのは妹が弟へと向ける笑顔を見た時だった。
 自分には見せた事のない甘えた仕草と笑顔。
「レムオン兄上?」
「いや。早く帰ってこい」
 兄の内心を敏感に察した出来過ぎる妹に、男はただ首を振るだけで済ませる。
 兄を見上げていた少女はこれ以上、問いかけてはいけないと判断し、静かに頷くと今度こそその場所から去って行った。
「なぁ、レムオン。フィーは一体、何処まで行くんだろうな」
「さあ、な」
 幼なじみの言葉は抽象的でありながら、的確に少女のことを表現していた。

 孤高の獣のように凛と頭を上げ、ただひたすら前を見据えている。
 高みを目指し、道を切り開き。
 何処までも走り続ける少女は男の言う通り、何処へ向かうのか。

 それでも少女は無限のソウルを内に秘め、世界へと飛び出して行く。
 それが少女の性質だと理解していても。
「帰ってこい、サフィア」
 心の幾ばくかを預けるまでになった妹を思い、兄は小さく呟いた。

 無限のソウルを輝かせ、少女はどこまでも駆けて行く。

 人を、世界を魅了しながら。

 無限のソウルを煌めかせ。

 どこまでも。

 何処までも。

 走り続ける。



「ジルオールより・レムオンと女主<サフィア>」