バタバタ、と遠くから走ってくる足音が響く。
 足音はあっという間に近づき、ガラリ、という音と共に教室の扉が開かれた。
「悪い、遅く・・・」
 『なった』と続くはずの言葉を途切れさせ、黒川は自分を待ってくれていた恋人の様子を伺う。
「寝ている・・のか」
 自分の机の上に突っ伏す形で扉が開く音に反応することもなく、規則正しい呼吸が確信を裏付けた。
 慌てて教室に来た時とは違った、静かな足取りで近づくと椅子に座り、そっと髪に触れる。
 触り心地のいい、柔らかな髪をいつもの癖でくるくると指に巻きつける。
「男性恐怖症のくせして、無防備なんだよ」
 呆れたような物言いだが、髪に触れる手といい、その声音といい、ただ、ただ、優しくて。
 健やかな寝息を零す少女を見つめる瞳も優しい、色。

 出会いは一年の時。
 男性恐怖症だと言いながら、何を思ったのか自分に全幅の信頼を置くようになっていて。
 他の者には見せない、花が咲き綻ぶような笑顔を自分だけに見せるようになっていて。
 それが、嬉しかった。そして、他の男達に対して、優越感を持った。
 その想いが緩やかに変化していき、抱き締めたいと、視線を向けて欲しいと、微笑む唇に触れたいと・・・そう思うようになったのは何時からだったのか。

「いい加減に起きろよ・・・」
 本気で起こすつもりがあるのか疑わしい程の小声で眠り姫に囁く。
「起きて、笑った顔を見せろよ」
 自分だけに見せる、あの花が咲き綻ぶような笑顔を。
「・・・・・ん・・・・・」
 小さく動いた少女の唇から小さな声が零れ落ちる。そして、ゆっくりと瞳が見開かれる。
「は・・・う・・・?柾輝・・・く、ん?」
「起きたか?」
 不思議そうに見上げてくる少女に黒川は穏やかな笑顔で尋ねれば、ぽやぽやした表情でこくり、と頷いた。
「練習・・・終わったの?」
「ああ」
「じゃあ、一緒に帰れるね」
 頷く黒川に少女は彼だけに見せる笑顔を浮かべてみせた。
 黒川が見たいと願っていた、その笑顔を。
 花が咲き綻ぶような笑顔を、ただ彼だけに向けていた。
 自然に両手が少女の頬に添えられる。
 キツイ眦が特徴の真っ直ぐな瞳が少女だけに向けられる。
「柾輝君・・・?」
「なぁ・・・触れても、いいか?」
 黒川の言葉の意味を理解した少女の顔が一瞬で真っ赤に染まるが、それでも逃げようとはせずに、瞳を閉じる。
「柾輝君に触れられるのは・・・嬉しいから」
「本当に、何気に殺し文句を言う奴だな、お前は」
 それでも、言われっぱなしというのは男が廃るというもので。
「・・・・・・」
 少女の唇に触れながら呟いた言葉は・・・少女の中に響いたのだった。



「ホイッスル!夢より・『怖くない人』ヒロインと黒川」