暴れ馬

暴れ馬


 ぽかぽか陽気をめいいっぱい取り込んだ光の下に配置されたソファに向かって、彼は声をかけた。
 「お茶が入ったけど?」
 「んー」
 寝ぼけた声がして、窓に向かって置かれたソファからすらりとした手が、ひらひらと泳ぐように閃く。
 「冷める前に起きなよ?」
 苦笑混じりに言った青年の声に、再び白い腕が返事の代わりに揺れた。


 その日、彼は主星にいた。
 本人にあまり自覚はないが、彼は高名な芸術家として名を馳せており、この日も彼の個展が開かれる為に訪れていたのである。

 「おっと」
 横手からいきなり飛んできた自分よりも少し年下と見える少年を避け、彼は軽く首を傾げた。
 「何だ?」
 普通、人間は飛んだりしないので、彼の疑問も当然のことではあったが、
 「まぁ、いいか」
 『自分は避けたので、当たらなかった。なら自分には関係ない』と、彼は一度止めた足を再び動かそうとして、その動作に移る前に、その瞳を驚きに軽く見開いた。

 「だいたいさ、何度目よ?」

 栗色の髪を首の付け根できつくリボンで結わえた少女は、そう言いながら彼の横手から現れる。
 「おや?」
 さも鬱陶し気な、面倒くさそうな顔をしていた少女は、立ち止まっている青年を見つけて首を傾けた。
 「もしかして、通行の邪魔をした?」
 「・・・・・少しね」
 「それは悪いことをしたわ。ごめんなさいね」
 まるで悪びれた様子もなくそう言った少女は、道路に顔からダイビングした男の背中を蹴る。
 「いい加減なところで、私に弱い者苛めなんて趣味の悪いことさせるのは止めてよね」
 そう言い放つや、再びすらりと伸びた足で少年を蹴りつけると、その勢いで青年の前にあった足が移動した。
 「これで通れるわ」
 姿形は勝ち気な印象が強いが整った美少女の類いには十分に入るだろうに、十人中九人の男を幻滅させる態度で少女は言い、青年は答える。
 「これはどうも、有り難う」
 本人意識して浮かべた笑顔に、しかし少女は何の感慨を抱いた様子もない。
 十人中九人を虜に出来る冷美極まる微笑も、十人目と思われる少女にはまるで効果はないということか。
 自身もまた十人目である青年は、ほんの少し感じる興味に口を開く。
 「それじゃ」
 「・・・・・ごきげんよう」
 短い挨拶に躊躇いの空白を置いて返事を彼女は返した。

 『面白いな』
 十人中九人の男を幻滅させる態度にめげないどころか、その態度を『面白い』と感じる青年は、角を曲がるついでに、自分が足を止めた辺りに視線を向ける。
 「・・・・・」
 すでにそこには少女の姿はなかったけれど。


 改装され、出来立ての匂いに包まれた建物の一室で、彼は外を見ていた。
 「・・・・・」
 窓から外を見ていた青年は、眼下を歩く姿に瞳を細める。
 口元を緩め、彼は窓から遠のいた。


 コンコン

 落ち着いたノックの音に、彼は応える。
 「どうぞ」
 一拍おいてから、扉が開かれた。

 「始めまして、感性の」

 しとやかな声でそう言いながら入ってきた少女は、視線を青年の顔に合わせた途端に絶句したように言葉を失う。
 ・・・・・興味はさほど湧かずとも、忘れてはいなかったらしい。

 「今日和、ジャジャ馬女王候補」

 クスクスと笑いながら、彼は親し気に少女に向かって手を差し出した。

 「改めて、宜しく」
 「よ、よろしく、おねがいし、いたします」

 握り返す指は内心の動揺分だけぎこちないものだった。


 自ら容れたお茶を飲み、彼《感性の教官セイラン》はガチガチに緊張している栗色の髪の少女《女王候補生アンジェリーク・コレット》に言葉をかける。
 「お茶、冷めるよ?」
 「あっ、はいっ」
 ビクリと肩を震わせて答えた少女は、いまだ震える手で瀟洒なカップを持つと、そっと唇を寄せた。
 「美味しい」
 ほぉっとため息と共に言葉と、そして緊張とを吐き出した彼女は、何とも形容のし難い表情で青年を見る。
 「まさか、こんなところで会うとは思わなかった」
 「同じ台詞を返すよ」
 即座に返ってきた返答に少女は笑い、柔らかく首を傾げた。
 「せっかく猫かぶってたのに、これでご破算だわ」
 「何で、って聞いてもいい?」
 クスクスと面白がっている顔で青年が問うと、少女は何でもないことのように答える。
 「私に何処までか弱い女の子が出来るのかやってみたかっただけよ」
 と。

 ひとしきり笑ったセイランは、いまだ笑いの残滓の残る顔を片手で押さえた。
 「そんなに面白かった?」
 「うん」
 即答に苦笑する。これだけ悪びれないと、苦笑するしかないというのが正しいが。
 「・・・・・」
 そして、そのまま勝手にお茶をおかわりした。どうにも話しが出来そうにないからである。

 「あー、これだけ笑ったの、久しぶり」
 クツクツとまだ笑いながら、それでも話しが出来る程度には回復した青年は、冷めたお茶を口にすると、唇を湿らせる。
 「随分潤いの少ない人生なのね」
 「うん、そうだったみたいだね」
 「で」
 二杯目を容れてやりながら、少女は問いかけた。
 「やっぱり、喋っちゃう?」
 「喋った方がいい?」
 悪戯っぽく瞳を煌かせ、青年が逆に問うと、アンジェリークは軽く肩を竦める。
 「そうね、もうちょっとくらいはか弱い女の子ってのを、やってみたいかな」
 「じゃ、喋る必要はないね」
 『おや?』というように瞳を瞬かせる少女の様子に気がついていながらも、青年は口元に笑みを湛えるばかり。
 「そう」
 その笑みに何を見たのか、アンジェリークもまた笑う。
 「わりといい人ね、貴方」
 「君の目には、そう映るらしいね」
 「うん、そうみたい」
 気取った演技の笑顔でない笑顔で、少女は手を差し出した。
 「ま、とにかく、これからしばらくの間、宜しく」
 「こちらこそ」


 「んー、ねたねた」
 『あーふっ』と大きな欠伸を一つ右手で隠しながら、彼女はソファから椅子に移動すると、当然のように紅茶の容れられていたカップを手にする。
 「・・・・・君さ、感性を馬鹿にしてるだろう?」
 のほほんとお茶を飲むアンジェリークに、セイランがジト目でそう言うと、驚いたように少女は瞬きをした。
 「そんなことないけど?」
 『そんな風に見える?』と言って首を傾げる仕草は愛らしいが、中身がどういった性格なのか知っているだけに、セイランは惑わされることなく頷き、
 「見える」
 断言する。
 「嫌ですわ、セイラン様ったら。私を誤解なさっています」
 「・・・・・気持ち悪いよ、それ」
 「チッ」
 「その方が君らしい」
 ただ一人を除いて聖地中を−少々人聞きが悪いが−ダマしている猫っ被りな態度を冷ややかに一刀両断すると、彼だけが知る威勢のいい少年のような小粋さで舌打ちをした少女を、それこそがらしいと、彼は頷いた。
 「でも、実際のとこ、別に馬鹿にしてるわけでもなんでもないよ?」
 勝手に持ち込んだお茶受けに手を伸ばしながら、少女は青年に向かって続きを言う。
 「勉強したことは、そりゃあ、一度もないけど」
 「それどころか、来る度に昼寝してるだろう?」
 『何処が馬鹿にしてない?』と再びジト目をするセイランに、アンジェリークはクスクスと笑って肩を竦めた。
 「だぁって、ここってば私の部屋より日当たりいいんだもの」
 「理由になってるようで、まるでなってないね」
 「たはは」
 少女というより少年のような笑い方でゴマかそうとする少女に、青年は苦笑してそれ以上は追及を止め、彼女の持ち込んだ一口サイズのクッキーに手を伸ばす。
 「・・・・・アンジェリーク、これ、バターが多くない?」
 「うん」
 「・・・・・失敗したのを、分かってもってきたわけ?」
 「成功作は守護聖様にバラ撒いたもん」
 悪びれもせずにそう言うアンジェリークに対して、渋面をわざとセイランは作った。
 「不味い物は嫌いだって、言わなかった?」
 「別にバターが多いだけで私には不味くない」
 『そっちがどう思うかは知らないけど』と、堂々と言い放つアンジェリーク
 「まぁ、不味いって程では確かにないけどさ」
 再び手を伸ばしたセイランは、それを口に放り込む。
 「ぐっ」
 嫌な音がセイランの口の中でしたのを聞き、アンジェリークは言った。
 「中に凄く固いのがあるの」
 「遅いっ」
 ガリゴリとクッキーを食べているとは思えない音を幾らかさせてそれを飲み込んだ青年は、紅茶でかけらまで口の中から除去すると少女を睨む。
 「別に固いだけじゃない」
 「限度があるだろう、限度が」
 ツッコみにも平然と言い返し、固いと分かっているクッキーを平気な顔で食べてみせるアンジェリークに、これ以上言っても無駄だと悟らざるを得なかったセイランは、ため息を吐き出しながら椅子から離れると設置されているピアノに向かった。
 「何か弾くんですか?」
 「リクエスト、ある?」
 カバーを剥がしながら問いかけ返すと、少女は少し首を傾げて答える。
 「恋愛物以外がいいな」
 「・・・・・『女の子』ってのは、『恋』とか『愛』とか、そういった甘ったるいものが好きだと思ってたけど、君は興味ないの?」
 「『恋愛』っていうのは、まぁ、興味がないわけじゃないけど」
 軽く肩を竦めると、少女は堂々と言い放った。
 「セイラン様、恋愛物の曲って下手っぴなんだもん」


 セイランの作品は主に絵画が有名だが、彼は画家ではない。
 卓越したその才能は絵画に止まらず、芸術と謳われる物全般を網羅している。
 その時の気分によって表現方法の変わるセイランは、時にピアノを使って作曲家となった。

 つまり、彼はあくまで作曲家であってピアニストではない。

 ではないが、彼は十分にピアニストとしても大成出来る程の腕前で、一度として−それも面と向かって−『下手』と言われたことはなかった。


 「セイラン様うるさぁい」
 身体のバランスを崩して思わず鍵盤を力いっぱい叩いてしまったセイランに、耳を押さえたアンジェリークがジロリと睨んで言うと、可成本気でダメージを受けた表情の青年が問うた。
 「そんなに、下手?」
 「うんっ」
 即答である。
 「・・・・・」
 本気でショックを受けるセイラン
 「あ、でも、それ以外の曲はとっても上手ですよ♪」
 何時も毒舌で老若男女見境なしに切って捨てる青年だけに、始めて見る『ショックを受けて暗いセイラン』というやつに、少女は冷や汗をかきつつフォローを入れた。
 「聞くけど、何処らへんが下手なわけ?」
 まさにその名セイランの通り、煌くような青藍の髪の間から紫がかった蒼い瞳が女王候補を見る。
 「え、えっとぉ」
 妙な圧迫感にダラダラと汗をかきながら、栗色の髪の少女は口を開いた。
 「・・・・・現実感が全然ないのよね。うん、そう。他の曲は目を閉じなくても浮かぶんだけど」
 身振りを交えるアンジェリーク
 「音が綺麗だなって思うけど、それだけで全然他はなぁんにもないのよね」
 ここでポンッと手を打ち、少女は言った。
 「もしかしてセイラン様ってば、恋愛経験ゼロじゃないの!?」

 しばらくの後、恐る恐る沈黙が破られる。
 「もしかして、図星?」
 わくわくと返事を期待してるアンジェリークに、がっくりと肩を落としたセイランはただ無言で首を横に振った。否定でなく、肯定でもなく。
 「ちぇっ、教えてくれてもいいのに」
 ブーッと唇を尖らせるアンジェリークの子供っぽさに、今度こそセイランは苦笑する。
 「その手の曲を実感込めて弾いたことがないというのは、確かに認めるけどね」
 「ふーん?ま、今日はこの間借りたCDのやつをお願いします。すっごくカッコよかったから」
 「はいはい。御随に、猫っ被りのお姫様」


 こうして、二人だけの秘密は少しずつ重ねられ、密やかに守られたのである。


 麗らかな日差しも優しい午後になったばかりのカフェテラスで、二人の女王候補が少し遅いランチを取っていた。
 「今日のデザートはチョコムース♪」
 「好きねぇ、チョコ」
 「うんっ」
 にこっと花咲く雛菊笑顔のライバルに、《女王候補生レイチェル・ハート》も笑顔を向ける。

 「ごめんなさい、相席、いいかしら?」
 「「え?」」
 やんわりとかけられた言葉にデザートに舌鼓を打っていた少女達は同時に顔を上げ、同時に顔を引きつらせた。
 「今日和、いい天気ね」
 そう言いながら勝手に椅子を引いて座る金髪の女性のことも、やんわりとしたたおやかな物腰の女性のことも、二人はよくよく知っている。
 「騒いでは駄目よ?お忍びなの」
 「書類、溜まってるのにね」
 「・・・・・えっと、シャルロットポワールを紅茶のセットで二つ」
 ジト目で睨むと、冷や汗をかきながら金髪の女性がウェイトレスにケーキセットを頼んだ。
 「い、いいんですか?」
 ようやく衝撃から立ち直ったレイチェルは、声を潜めて続ける。
 「女王陛下と補佐官様がサボっても」
 こっそりと囁かれた言葉に、二人はそれぞれ茶目っ気のあふれる笑顔を向けた。

 現在行われている女王試験で多少親しくなったとはいえ、女王補佐官と、至高の座に座るただ一人の天人、女王との同席にガチガチに固まった二人だが、当の本人達は全く気にした様子もなくお茶を楽しんでいることに、少しだけ息をつく。
 「ごめんなさいね。突然お邪魔してしまって」
 「下手な人と相席出来ないものだから」
 「あ、いえ」
 かぁっと顔を真っ赤にしたアンジェリークが俯くと、その様子に二人は笑った。
 「本当にアンジェリークは恥ずかしがりやね」
 「皆が可愛がるのも分かるわ」
 「・・・・・そんな・・・・・」
 恐れ多くも女王陛下にまでそんなことを言われたアンジェリークは、更に顔を俯ける。
 「わ、私、そろそろ午後の授業に」
 「私も、育成に行かなきゃ」
 あたふたと席を立とうとする栗色の髪の女王候補生に、金色の髪の女王候補生も時計を見ながら立ち上がった。
 「頑張ってね」
 「期待しているわ」
 暖かな笑顔と声援にコクコクと二人は頷くことで返事とすると、とびっきりの笑顔を浮かべる。
 「じゃ、また、次の定期審査で」
 「失礼します」
 長居するとひょっこりと二人の身分をバラすことを言ってしまいそうで、二人は短く挨拶をすると席を離れた。

 「驚いたね」
 「うん」
 コソコソと囁き合いながら、二人はカフェテラスから少しずつ離れる。
 と、後方斜めから悲鳴が上がるのを聞き取って目を丸くした。
 「な、何?」
 宇宙で一番安全である筈の聖地では一度として聞いたこともないような悲鳴に、二人は顔を見合わせる。
 嫌な予感に、二人は同時に振り返った。


 見えたのは刃の煌き
 その下には二人の女性

 「死ねっ」


 ドガッ


 「テメェが死にやがれっ」


 威勢のいい声で叫んだ少女は、膝丈の短いスカートが翻るのも気にせずダッシュをかけると、その勢いでタックルをかける。
 「っ」
 相手を押し倒すと、そのままちょうど手近なところに転がっていた−男の顔面めがけて自分で放り投げた−カバンにつけられたキーホルダー、その手のひらに収まる程度の綺麗に磨かれた石を引き千切ると握り締めた。
 「このっ」
 「アンタは寝てなっ」
 自分の上から退かない少女を払い退けようとした男は、腹を殴られのたうちまわる。
 「よっ、っとぉっ」
 立ち上がるや唖然としている男に飛燕の如き素早さで近づくと、鳩尾を強かに殴った少女は、止めに前屈みになった男の首筋を、しっかりと握り締めた両手で強襲した。
 「はいはい、次はアンタの番だよ。とっとときなっ」
 小粋に『カモン』という仕草を見せる少女の姿に、剣を構えた男は一瞬逆に躊躇う。
 「っ」
 それでも近づく少女に剣を一閃させるが、少女はそれを楽々と避けるとその頬を殴り飛ばした。


 真昼の燦々とした日差しの中、針の落ちた音も聞こえそうなその静寂を、一つの声が破る。

 「勝者アンジェリーク・コレット!」

 少女は、指の骨が折れないようにと石を握っている手を高々と上げた。


 パンパンと鞄についた埃を払うと、乱れたリボンを解く。
 パサリと軽い音を立てて栗色の髪が広がると、手櫛で軽くそれを整えた少女は何事もなかったかのような無表情でスタスタと歩き、彼の目の前でピタリと足を止めた。
 「笑いたいなら、笑ったらどう?折角の乾いた人生に潤いが得られるわよ」
 「じゃ、そうさせてもらう」
 そう言った途端に、彼は爆笑する。
 「・・・・・変なところで素直よね」
 悪びれない態度には苦笑するしかないアンジェリークであったが、不意に質問を口にした。
 「これから行こうと思ってたんだけど、部屋、空いてる?」
 「盗られるものがあるわけじゃないしね」
 「そう。じゃ、部屋借りるね」
 「・・・・・授業は?」
 「すると思う?」
 「思わない」
 にこにこと笑顔で交わされる会話は、とてもとても、女王候補と感性の教官の会話ではない。
 「ところで、質問してもいいかい?」
 「何?」
 素直に首を傾げるアンジェリークの肩を抱くと、セイランは胸中深くに小柄な身体を抱き寄せる。


 ガシッ
 ドゴッ


 「『お姫様になりたいって思ったことない?』って、聞こうと思ったんだけど、ないみたいだね」
 「私、王子様かヒーローになりたかったの」
 「だと思った」


 しっかりと抱き合い笑いながらの会話の足元で、一撃をセイランに受け止められ、アンジェリークのスカートが浮き上がる程の蹴りによって沈没した男が悶絶していた。


 お忍びの女王と女王補佐官を狙った暗殺未遂事件から、ちょうど一週間後の午後


 ぽかぽか陽気をめいいっぱい取り込んだ光の下に配置されたソファに向かって、彼は声をかけた。
 「お茶が入ったけど?」
 「んー」
 寝ぼけた声がして、窓に向かって置かれたソファからすらりとした手が、ひらひらと泳ぐように閃く。
 「冷める前に起きなよ?」
 苦笑混じりに言った青年の声に、再び白い腕が返事の代わりに揺れた。


 女王・女王補佐官暗殺未遂事件は既に人々の話題に上ることも少なくなったのだが、その事件からこっち、本性を隠していた猫を綺麗さっぱり脱ぎ去った栗色の髪の女王候補生のことは、人々の多大な関心によって話題となっている。

 しとやかで内気な笑顔に変わって輝くばかりの自信にあふれた笑顔と、やんわりとした口調に変わってハキハキとした強い口調、何より、穏やかな瞳に変わって挑むような眼差しが何よりも変わったと評判だが、同時に次々と起こるちょっとした騒動も評判だ。
 つい先日のことだが、首座の守護聖と一戦やった揚げ句に勝利をもぎ取ったという珍事は、その守護聖に日頃何かと説教をされている一部から拍手喝采を浴び、既に語り草決定とまで言われてる。

 お陰かどうかは知らないが、


 「凄い人気だよね、君ってば」
 クスリと笑う瞳が悪戯に輝く。
 「別に、何時ものことだし」
 「そう?」
 「んー。男の子にはよく喧嘩を吹っかけられたけど、女の子には人気あったから」
 今日も美味しい紅茶を飲みながら、アンジェリークはパチンとウィンクした。
 「ほら、カッコいいでしょ、私?」
 愛らしい仕草ではあるが、小気味よさも確かに感じたセイランは小さく吹き出す。
 「うん、カッコいいよ」
 クスクスと笑うセイランに対して、澄ました表情でアンジェリークは湯気を吹いた。


 何時ものように会話を少しして、勝手に棚から少女が画集を取りにティーセットから離れたのとほぼ同じく、青年も席を立つ。
 グランドピアノの蓋を開け、深紅のカバーを外すと、その下から真っ白な鍵盤が彼の指を待っていた。
 ポンポンと音を確かめ、セイランは少し考えるような間を置くと、一つの曲を選んで奏で出す。

 それは、女の子ならば誰もが一度は手にする曲だった。
 その古い古い素朴なメロディは、オルゴールによく用いられる曲だった。

 ギュッと画集を抱き締めた少女は、顔を真っ赤にして青年の方に視線を向ける。
 「ちょっと悪いけど、その曲、止めてくれない?」
 「何で?」
 クスクスと楽しそうに笑い、彼は即興でアレンジを加えながら彼女に問いかけた。
 「芸術家の感性を止めようって言うんだ。正当な理由があるんだよね?」
 悪戯っぽく輝く瞳は、彼女の異変の理由を知っていることを示している。
 「この、根性曲がりっ」
 グッと右手を握り締め、『どついてやろうか』という視線を向けるが、向けられている本人は何処吹く風状態だ。
 「だからぁ」
 顔を真っ赤に染めた少女は、観念して言った。
 「その曲聴いてると、恥ずかしいんだもの」

 誰もが知っているその曲は、いわゆる『愛の曲』というやつだった。

 「下手じゃないだろう?」
 「そんな、根に持たなくても」
 「根に持っているわけじゃないよ?ただ記憶に残っているだけ」
 『初めての意見だったし?』と笑いながら最後の一小節を奏でると、彼はやっと指を止める。
 「お気に召さなかった?」
 「・・・・・そういう曲でイメージ広がると、恥ずかしいんだってば」
 火照った顔を隠すように棚に画集を戻す背中に、セイランは瞳を伏せた。

 「全く、どういった心境の変化?」
 幾らか顔色がマシになったと判断してから、彼女は青年の方に歩を進める。
 「ちょっとね」
 伏せていた瞳を上げると、そこには素直に疑問を浮かべた少女の顔
 「知りたい?」
 「うん」
 勝ち気で負けず嫌いで喧嘩っ早いが、同時にお人よしで素直な少女は、彼の手招きに何の疑いも持たずに近づく。
 「ただね」
 お互いに最初から本性晒け出しの付き合いをしていたが、その中でも初めて見るようなとびきり華やかな笑顔を浮かべ、彼は鍵盤を叩いていた指で少女の手を取った。
 「わっ!?」
 グイッと引っ張れば、大の男を三人も相手に腕力勝負をしても勝利することの出来る少女が腕のなかに転がり込んでくる。
 「ただね、本気で口説いてみたい子が出来たんだ」


 お膝の上にだっこ状態で、横抱きに抱いた少女の髪に唇を埋めた彼は言った。
 「今まではさ、僕だけが『本当』を知っていて、『本当』を好きだったのは僕だけだったんだ」
 細い肩だなとか、そんなことを思いながら滑り落ちないように抱き直す。
 「今は誰もが『本当』を知ってる。だから、もう少しゆっくりと時間をかけて口説くつもりだったんだけど、その予定を少し速めに切り上げようかと思ってるんだ」
 力いっぱい暴れるかと思ったが、逆に大人しくされるがままのアンジェリークに拍子抜けしながら、セイランはその頬に唇を寄せた。
 「・・・・・こんな風に思ったのは初めてなんだ。だから、曲の広がりも何もかも、今までとは段違いなんだと思うよ」
 そっと細い指で少女の可憐な顔を上向かせると、潔さを如実に示す瞳が瞬く。
 「セイラン様」
 細い声が彼の名を呼び、セイランはその唇に自分の唇を寄せかけ、

 「それって私の知っている人ですか!?」

 ものの見事に固まった。


 暗に示している相手が誰だが、分からない筈がない。
 そんな筈がない。

 と、いうことは、つまり、


 「イイセイカクしてるよね」
 「えー?そう?」
 にこにこと笑っている瞳が、キラリと光る。
 「この状態、この状況で、そんなこと言うのはこの口かい?」
 逃げられないように腰に腕を回し、片手で顔を逸らせないようにした上で、彼は口元だけに笑みを這わせた。
 「自分が何処にいるか、分かってる?」
 「分かってるわよ」
 明朗とした声で、彼女は答える。
 「特等席でしょう?」
 と。

 「幻の芸術家セイランのライブをこんな近くで聞けるなんて、特等席以外の何物でもないわ」
 「・・・・・」
 『もしかして、本当に天然か』とも思ったが、木々を映した湖のような色をした瞳が瞬く様を見て、『確信犯だ』と、彼は確認した。


 「ねぇねぇ、早く弾いてよ」
 ちゃっかりと力の抜けた彼の腕のなかで体勢を変え、あたかも青年の胸を背もたれのようにしてアンジェリークは促す。
 『まだ貴方の物にはならないわよ』
 と、語った瞳は前を向いた。


 わくわくと子供のように期待してる栗色の頭を見下ろし、彼は苦笑する。
 流石は、

 「スモルニィのジャジャ馬」
 「それ、違うわ。本当は、スモルニィの暴れ馬よ」

 それがかつての彼女のあだ名
 多分もう少ししたら、親しみを込めて聖地中の人間が似たようなあだ名を言い出すだろう。


 ジャジャ馬を通り越して、暴れ馬とは、いやはや、自分もとんだ相手に惚れたものだなと、彼は少しだけ考えて、その考えに笑った。
 自分も、人のことは言えない。


 「じゃ、感性の授業も兼ねて」
 「えー」
 鍵盤に指を置きながら彼が言った途端に、不満そうな声が彼女から聞こえる。
 「『えー』じゃない」
 ピシャリと不満を押さえて、セイランは再びメロディを作り出した。
 「ちょっ、この手の曲は止めてってば」
 「君の感性は偏りが過ぎる。恋愛方面も磨いた方がいい」
 「人を朴念仁みたいに言わないでよ」
 「実際そうだろう?それとも」
 ピタリと途中でメロディという形の『愛の告白』を中断したセイランは、後ろからアンジェリークを抱き締めると言う。
 「僕の私室で、勉強する?」
 「・・・・・セイラン様、感性の授業をここでお願いしますっ」
 「おや、残念。ジャジャ馬馴らしも楽しそうだと思ったんだけど」
 「・・・・・何か、えっちくさい」
 シクシクと泣くふり−あくまでふりである−をするアンジェリークに笑い、セイランはその頬にもう一度キスをしてから、感性の授業を再開した。


END