月下の泉

月下の泉


 僕が初めて本気で好きになった子は、恋知らずの娘だった
 友情を知っていても、恋を知らない子だった

 君に教えて上げるよ

 さやさやとそよぐ風に枝葉を揺らせる木陰に視線を向けたのは、瑠璃の髪に群青の瞳の青年《感性の教官セイラン》であった。涼しい美貌には彫刻めいた冷たい表情が浮かび、まるで外界を拒絶するよう。
 それなりに過去になり始めた日に女王試験に協力する教官という大任を受けてここ聖地にやって来た青年は、ふとその視線を止めた。不快気に眉がひそめられる。
「何やってるの?」
 滑らかな、聞き惚れてしまいそうな程の美声が、薔薇の花びらのような唇から愛想のかけらもなく紡がれる。
「セイラン様」
 青年の声に驚いて振り返ったのは、栗色の髪にブルーグリーンの瞳の少女《女王候補アンジェリーク》である。
「今日は課外授業をすると言っておいただろう?迎えに来て正解だったね」
 風に緩くなびく髪を押さえて、彼は少女の細い肩を抱く。
「さ、時間を無駄にしたくはない。行くよ」
「はい」
 何処か戸惑っていた少女は、だけどすぐに頷いた。

 二人並んで歩く姿は仲睦まじい恋人同士にも見えるが、
「で、僕はお礼を言ってもらえるのかな?」
 甘さのかけらも見当たらない冷たい声に、少女は深々と頭を下げる。
「有り難うございました」
 肩を抱かれ歩みによって触れ合う程の近さに美貌の青年がいるというのに、まるで動揺の見られない少女である。
「はっきり用件を言わないし、だからと言って行ってしまうわけには何だかいけないような気がして、ホント、困ってたんです。私、あぁいうはっきりしない人が一番嫌いなんです」
 『悪い人ではないんですけど』と、ついさっきまで一緒にいた同じ年だろう少年のことを少女はそう評して言葉を締めくくった。
「・・・・・」
「何ですか?」
 呆れたような視線に気がついて、少女は首を傾げる。
「何って、気がついてないのかい?」
「は?」
 尚更首を傾げる仕草に、彼はため息をついた。『あんなに思い詰めた顔していたっていうのに、まるで気がついていないなんて』と、彼はあの少年に対して少しだけ道場してしまう。本当に、ほんの少しだけ、だけれど。
「で、さっきのは君の何?」
「友達です。いえ、友達とも言えないですね、公園で知り合って、挨拶を交わすぐらいですから」
 ・・・・・完全な片思いらしいな・・・・・
「それがどうかしたんですか?」
「自分で考えてごらん」
「ブゥッ」
 サラリとかわされ、少女は素直に頬を膨らませる。何時もは勝ち気な者らしくキツめの顔立ちは年より少し大人っぽく見えるのだけど、こういう時は年より幼く見える。
「それより、元々君は何処に行こうとしていたんだい?」
「え?あ、ちょうどセイラン様のところです。学習をお願いするつもりでしたけれど、構いませんか?」
「いいよ。僕も用事が終わって帰るつもりだったし」
 涼しいを通り越して冷たい瞳を柔らかく和ませて、青年は頷く。因みに、実はまだ少女の肩の上には彼の腕があるのだが、
「よかった。お願いしますね」
 何の含みもなくにっこりと笑う少女である。・・・・・ストイックと言えば聞こえもいいが、本当のところはただただ、鈍いだけなのかもしれない。

 自分がもはや『教官』として見ていないことに気がついていない少女は、驚く程無防備に笑う時がある。
 全てと一線を画するような少女は孤高の眼差しで前を見据える。
『未来を見つめることに躊躇いのない瞳』
 謁見の間と呼ばれる広間に入って来た少女の、最も目を惹くブルーグリーンの瞳をそう評した。『決して諦めるということを自分からはしない瞳だ』と。
 別の宇宙の女王を決める試験が第二段階に入り、感性を磨く教官として接するうちにそれが間違いではなかったことを知った。
 第一段階はイーブン、何の基礎知識もなかった筈の少女が『研究院始まって以来の天才少女』とまで言われるもう一人の女王候補に負けなかったというのは、一重に少女の勝ち気さから生じる−少し言い方が悪いが−諦めの悪さだと思われる。
 とにかく、自分というものをはっきりと確立し、周りに流されない意志を持つ者は男女問わず基本的に好ましいと感じるということもあり、少し気にかけていた。
『泣かない泣かない』
 そんなある日のこと、彼女が公園で泣いている子供をあやしている姿を見かけた。勝ち気な瞳は慈愛に和み、知らない人のようだった。
『あ、セイラン様』
 こちらに気がついて少し照れたように笑った顔に、どきり、とした。
『セイラン様?』
 きょとんとした顔で覗き込まれて、その瞳に捕らわれた。

 『恋は惚れた方の負け』とは古くからの言葉
 だけど、負けたままでいるだなんて性分じゃない。今度は彼女を捕らえるのだ。自分が捕らわれたように。

「今晩和、アンジェリーク」
「セイラン様、こんな夜遅くにどうしたんですか?」
 てっきり今では親友と言って差し支えのない《女王候補レイチェル》であると思って開けたドアの先にいたのは、瑠璃色の髪をした青年であった。
「これから課外授業だよ。おいで」
 白い指が差し伸べられる。
「行こう」
 白い面が笑って誘う。
 行かなくては分からない、『何か』がその先にある。
「はい!」
 ブルーグリーンの瞳にある光に、群青の瞳が、キラリ、光った。

 満月の下を二つの影が森の奥へと足を踏み入れていた。
「あの、ここってもしかして・・・・・」
 言葉を濁す少女に、少女の白い指と自分の指を絡めた青年が肩越しに視線を向ける。
「大丈夫、迷いの森とはいえ、入り口辺りだよ。もっとも、それでも迷いの森であることには変わりないから、あまり人は来ないようだけどね」
 珍しく上機嫌なのか笑みの絶えない瞳に、少女は首を傾げる。別段何時も不機嫌という程のものではないのだが、愛想のかけらもないような−この頃は笑顔も見せてくれるようになったが−人の筈だったのだが?
 《迷いの森》と呼ばれる人の感覚を狂わせる不可思議な森を疑問符を幾つも引っ付けて歩く少女は、すぐにどうしてなのかを知ることとなる。

「さ、ここだよ」
 樹木の間をくぐり抜け、彼は今まで見たことのないような艶やかな笑みを浮かべる。
 銀色に染まった水面に緑の樹木が映った泉があった

「・・・・・」
 どんな言葉も出て来ない。真実美しく、それがあまりにも圧倒的である時、人は言葉を失うのだろうか?
「どうだい?綺麗だろう?」
 言葉なくただ見つめる、少女の瞳もまた銀色に染まる。

 月の下に少女が現れる
  栗色の髪が揺れる

 銀色に染め上げられて

「銀の天使」

 誰の手にも落ちない銀色の女神

 伸ばされた腕が、女神を攫う

 紅唇が桜色の唇を塞いだ

 そっと触れ合う唇に、少女は首を傾げた。
「セイラン様?」
 離れた紅の唇を見つめて、彼女は彼の名を呼ぶ。
「何?」
 問う瞳の優しさに少女は気がつかない。
「何を、なさったんですか?」
「分からない?」
 クスクス笑って、彼の顔が再び近づく。

 二度目のキスに、少女は『何か』が分かったような気がした。

 立ち尽くす少女の細い肩に白い手が乗せられる。
「座ったら?もうしばらくいるだろう?」
「あ、はい」
 元々聞き惚れてしまいそうな美声である。そこに柔らかく優しい響きが乗せられたならば、思わず返事が遅れるのも当然というものだ。
 ふわりと赤いスカートが花びらのように広がる。現在の王立スモルニィ女学院の制服は前回の女王試験の後に一新された新しい物である。−どうやら女王試験毎に制服を変えているらしい−。以前の制服はメルヘン風の愛らしいものであったが、現在はもう少し大人しいが襟元のリボンが大きくなり愛らしさは変わらない。難を言うなら、スカート丈が以前と変わらず短いというくらいである。お陰でスカートの切り目から切り目と切り目を繋げる白い布、白い足と青い靴下、焦げ茶の靴が覗いている。
「綺麗ですね」
 ひっそりと微笑む青翠の瞳
「うん」
 一心に見つめるのは銀色に染まったその横顔

 女神を攫った右腕が、再び伸ばされる。

「セイラン様?」
 首を傾げる栗色の髪の少女の仕草に、『何か』の変化があった。
 銀色に染まった天使の白い顔に、薄く朱が広がっている。
「何か?」
 震えの混じった声音に、目を奪われる程美しい笑みが広がる。満足気に、冷美な美貌に浮かべられたそれは、始めて見るような甘い笑み。
「言いたいこと、ない?」
「え?」
「言いたいことがあるんじゃないの?」
 クスクス  甘い笑みが意地の悪い笑みに変わる。
 ムッとしたように少女の眉が寄せられる。
「私にはありません」
 キラリと光るブルーグリーン  意志の強さに比例して、その瞳は輝きを増す。
「僕にはあるように見えるけど?」
 笑う瞳は群青  ラピスラズリの青藍が、面白そうに煌く。
「な、何があると言うんですか!?」
 至近距離で笑っている顔を直視するのが何故だか難しく、少女は座ったまま後に後ずさるように移動する。
「何を逃げてるのさ?」
 意地悪な笑みが奇妙な程似合う唇が、からかう言葉を紡ぎ出す。
「に、逃げてませんよ」
「逃げてるよ」
 断言する言葉は同時に追い詰める言葉で、強気な少女は唇を噛んで睨みつける。

 まだ、気がつかない。
 苛立たしい気持ちと、確かに彼女のなかに芽生えた『それ』を喜ぶ心が自分の内側にある。
 早く言えばいいのに。
 口元に浮かんだ笑みは、多分相当に意地が悪いだろうと、自分でも分かった。

 何も言わず、ただ見られるだけというのは、はっきり言って可成恥ずかしい。生来の勝ち気さがなかったら、多分真っ赤になって俯いてしまっていただろう。
「それで、私は何を言えばいいんですか?」
「僕が教えたら意味がない。僕が教えるのはその後だからね」
 はぐらかす言葉に、考え込む。
 いったい、どんな言葉を言えと言うのか?
「別にここに連れ出したのは、本当は授業じゃないんだ」
 唐突に感性の教官は言った。

「ただ、君と一緒にここに来たかった。この泉が最も美しい時を、共有したかった。ただそれだけだよ」

ドキン と した

 とうとう顔を俯けてしまった少女に、彼の笑みが深くなる。
 言うのではなく言わせるのだと、決めていた。
 それが後一歩で成就するのだ。笑みも深くなろうというもの。

「ねぇ、言いたいこと、あるだろう?」

 ラピスの瞳に魅入られる
 鮮麗な青藍に魅入られる

ドキドキ する

 ・・・・・言えない。
 浮かんだ言葉を望まれているのでなければ、私は二度とこの人に会えなくなる。
 突然に分かった心、感情
 初めての恋だったから、どうしても臆病にならずにはいられなかった。

 少女の心が分かっているだろうに、青年はただ笑っている。・・・・・物凄く、性格が悪い・・・・・
 深紅の薔薇に負けない紅唇が、駄目押しとばかりに言う。

「言ってごらん。言わなくちゃ、正解かどうかも分からないよ?」

 優しく和んだ瞳に、衝き動かされる。
「私」
 言って、いいのだろうか?
「私、私」
 本当に、いいのだろうか?
「私、セイラン様が」

・・・・・コ・ワ・イ・・・・・

 怖い。違った時が、望まれた答えを出せなかった時が、育んだ自覚すらなかった唐突な初恋が、壊れるのが怖いから、
『言えない・・・・・』

「・・・・・言えない」
「どうして?」
「言えません」
「何故?」
「怖いんです」
「何が?」
「・・・・・」
 突き詰められていくことに苦痛を感じ、彼女は耳を塞いで、身を縮める。
 だが、白い手はそれを許してくれなくて、嫌がる華奢な手首を捕らえて引き剥がす。
「言うんだ」
 命令形の言葉に、反射的にきつい眼差しが上げられる。『許さない』と、『誰であろうと私に命令などさせない』と、そう言葉より如実に語る目だ。
「絶対に、笑いませんか?」
 睨み合いの果て、少女は呟く。自分でも滑稽だと思う程に震えている声は、だけどどうしたって押さえることが出来なくて、嫌われるより、笑われることが尚怖かった。
「笑わない。誓ったっていい」
 奇妙に優しく響く声

 言ってもいいのだと、そう、思った。

「セイラン様が好きです」

 最後の審判を待つように、項垂れた少女は糸の切れたマリオネット
 白い仮面に嵌め込まれた緑青の硝子から海の滴が幾つも伝う

白い指が仮面を支え、
      群青の瞳が硝子を射抜き、

「よく出来ました」

紅い唇がそっと口づける。

「まったく、なかなか言わないから、随分気を揉んだんだよ」
「セイラン様?」
「もう一度言って。・・・・・もう一度言ったら、僕も言うよ」
 頬に当てられた唇が言う。
「セイラン様が、その、好きです」
 真っ赤になって少女が青年の望むように、もう一度言う。
「上出来」
 キスをして、

「僕も好きだよ」

 茫然自失の体で動かない、動けない少女を抱き締めて、思う存分気のすむまでキスをする青年である。
「やっと、こうやっていられる」
 幸せな囁き
「セ、セイ、セイラン様!?」
「何?」
「な、な、何、何をして」
 『パクパクパク・・・・・』  言葉が言葉にならない少女の反応に、彼はにっこり爛漫と咲く華のような笑みを浮かべる。
「僕も君が好きだと言って、キスしているんだけど?」
 朗らかに言ってのけられ、少女は狼狽える。こんなにもあっさり初恋が成就して、喜ぶより狼狽してしまっていた。
「あ、あの、ふつ、普通こんなに簡単に初恋って成就するものなんですか?」
 けったいな質問である。
「さぁね、僕にも答えられないよ。人の恋愛に首を突っ込むような野暮な真似をしたことなんてないし・・・・・」
 難しい顔で彼はそう言う。それでも、少女に口づけるのを止めない。やっと手にした栗色の少女の存在を確かめるように、何度キスしてもし足りない、と。
「んんっ!」
 くすぐったい頬や額へのキスから、唇への本気のキスに移行され、目を見開く。
「セイラン様!」
 息苦しさから青年の名を怒気をはらんだ声で叫ぶ。
「何怒っているのさ?」
「・・・・・いぢわる」
 子供みたいな声に、一瞬だけのキス
「そろそろ行こうか」
「は?」
「教えてあげるって言っただろう?」
「教えって、その、もう教えていただいた筈ですけど」
 『お気持ちは』と舌の上でだけで呟くと、不穏な笑みを青年は浮かべる。
「別にそれだけじゃないんだけどなぁ・・・・・」
 ・・・・・
「部屋に戻ります」
「駄目だよ」
「帰らせて下さいぃ」
 女性特有の悪寒に襲われ、少女はジタバタと暴れるが、
「一緒においで」
 そっと滑り込む言葉に、

「おいで」

 逆らえるわけがなかった。

「セイラン様ぁ」
 軽く握った左手の人差し指と中指が唇に当てられ、泣きそうな声が彼の名を呼ぶ。
「ここまで来て、逃がすわけないだろう?」
 『いい加減諦めたら』と彼は言う。鍵を閉めて、寝台に座らせた少女の両脇に手をついて、当然のようにキスをする。
「でもぉ」
 泣きそうな瞳に、ドキッとする。気丈に相手を見つめる瞳しか、ほとんど見たことがなかったから、新鮮な気持ちだ。
「泣かせたいかも」
「セイラン様っ」
「ゴメン。・・・・・好きだよ、アンジェリーク」
 キス
「はぐらかすのと人の逃げ道を塞ぐのが、とってもお得意なんですね」
「そう?それより、覚悟は決まった?」
「いぢわる」
「答えになってないよ。いいのかい?」
「・・・・・はい」
「よろしい」
「・・・・・馬鹿にしてません?」
「まさか」
「本当に?」
「本当に」
 KISS

 寝惚けた眼を擦りながら少女が寝台に半身を起こすと、栗色の柔らかな髪がシーツの落ちたまろやかな肩で優しく揺れる。
「ん」
 薄く汗ばんだ肌に空気が少し冷たく身を震わせる。正確には身体の方が何時もより熱いせいなのだが。
 白い肩に黒いシャツがかけられる。さしたる不審もなく少女はそれに袖を通した。
「・・・・・ここ?」
 ぼんやりとしていた意識が視線と共に明瞭化する。そして浮上する疑問が一つ。自分の部屋は自分の好みを言っていいということで、紺碧の涼しい青を基調としてもらった。なのに、ここは白と黒のモノトーンに赤をアクセントに使ったハイセンスなもので、絶対に自分の部屋ではあり得ない。
 ふと、耳に引っ掛かった笑い声 クスクスと楽しくてたまらないというのが随所にちりばめられた声に、少女はひどく緩慢な動きで斜め後ろに視線を向けた。
「起きたみたいだね」
 俯せに身体を横たえ、顔を覆う瑠璃の髪の間から笑いを含んだ声と視線が向けられている。少女には見えない優しい笑みを湛えている唇から言葉が再び漏れる。
「身体、大丈夫?」
「え?あ、はい。少し力が入りにくいんですけど、大丈夫です」
「それはよかった」
 そんなことを言いながら起き上がる。何処か猫に似た動きだ。その印象を強めるのは気まぐれな群青の瞳のせいだろう。
「何?」
 自分に注がれる視線に首を傾げてみせると、少女は慌ててそれを逸らした。耳まで赤い少女の姿に笑みを堪えきれない青年は、後ろから抱きすくめる。
「セイラン様!?」
「ん、まだ薄いな」
「は?」
「ま、当然といえば当然だけど」
 少女には意味不明なことを呟く青年の腕の中、昨夜−というか、今もまだ夜に近い時間なのだが−のことをつぶさに思い出した少女はそうでなくても赤くなっていた顔を更に赤く染めている。
「あの、セイラン様」
「何?」
「その、腕を離してくれませんか?」
「ヤだ」
 尚更抱き締める腕に力を込めて、青年の頬が少女の髪に埋まる。
 背中にシャツ越しに感じる青年の体温にそのまま溶けてしまいたいような気がするけれど、それ以上に『朝帰りはマズイ』という警鐘が鳴り響く。
「私、帰ります」
 『だから腕を離して下さい』  続けられた言葉は半ば途切れ、胸元に触れるそれに目を見開く。
「・・・・・っ!?」
 抗議の声音は彼のなかに。散々抗議されながら、それでも青年は満足するまで口づけを続ける。
 すっかり抗う術を行使出来なくなった頃に、やっと唇が離れた。自分を支えることも困難な少女を抱き締める青年の表情は、可成幸せそうである。
「セ、ラン様」
 勝ち気な瞳がそんな青年を睨むことが、唯一の抗議の術
「何?」
 余裕にあふれにあふれた声に、少女の何処かが確実に『ブチッ』と音を立てて切れた。この勝ち気な少女にはたとえ世界で一番好きな、初めて恋した人が相手だろうと、大人しくしているような愁傷な性格が一片たりともありはしないのだ。
「帰りますったら」
 身体中の力を振り絞って腕の中で暴れる最愛の少女の姿は、これはこれで可成可愛いもので、彼はしばらく見ていることにした。
 ジタバタと癇癪を起こした子供のような栗色の髪の少女は、それこそ最初は青年も少しばかり本気で押さえていたけれど、元々体力は底辺に近い程落ちているのだ、そのうち癇癪を起こし続ける体力気力を使い果たしてぐったりと青年の腕に大人しく寄り掛かる。
「諦めた?」
 意地悪な響きの声にも、伏せ目がちに寄り掛かる少女は反応出来ない。
「僕が君を帰すわけないだろう?」
「ど、して、です、か?」
 切れ切れな声はいっそ艶めいて聞こえる。
「分からない?」
「えぇ。だって、このことが、誰かに知られたら、セイラン様も・・・・・」
「そんなこと」
 言葉を濁すアンジェリークに、その先を正確に知ったセイランは軽く笑い飛ばす。
「かまわないから僕は君をここに連れて来たし」
 こめかみに口づける。
「君を抱いたんだよ?」
 耳元での声に背筋を震わせる反応に、彼は楽し気に笑う。

 何時の間にやら少女の上に覆い被さる格好で、彼は口づけを貪る。
 抗う術も応じる術も、まるで出来ない知らない、そんな少女はただそれを受け止めることしか出来なくて、離れた瞬間に吐息を零す。
「やんっ」
 素直に反応する身体に青年は至極満足する。

 教えたのは自分
  他の誰でもなくて、自分なのだ

「も、止め、くだ、い」
 言葉の合間にその台詞を裏切るような乱れを挟みながら、少女は意思表示をする。
「駄目だよ。このままだと君は僕が寝ている間に逃げかねないからね」
 建前である。
「・・・・・セイラン様の」
 小さな小さな声に、彼は白い胸元の紅の華から唇を離して冷たい美貌を上げる。
「セイラン様のいぢわる」
「褒め言葉だね」
 さらりと言ってのける青年だった。
「第一、僕はまだ君を感じていたいんだ」
 本音である。
「・・・・・」
 何だか諦めの境地を開いてしまいそうな少女であった。

 どうやら気を失っていたらしい。そこここに残滓を色濃く残す熱い身体とぼんやりとした意識から客観的にそう判断する、そんな自分を見つけた。
 そっと顔を上げれば、健やかな寝顔の青年がいる。
「・・・・・う、動けない」
 起こさないように気をつけながら離れようとした少女の台詞である。
 理由は至って簡単である。この青年に体力を極限まで奪われたのと、彼の腕の戒めが堅い為だ。
「ぅん?」
 何処か子供のような寝起きの顔に、少女はドキドキしてしまう。
「起きたの?」
 そんなことを言いながら気怠い雰囲気をまとって髪をかき上げる仕草に、息が止まりそうな程惹きつけられる。
「まだ朝早いよ。寝たら?」
「そうして寝過ごすんですか?」
「別に、それもたまにはいいんじゃないか」
「・・・・・」
 沈黙する少女を抱き直して、青年の瞳が瞬く。
「『そんなことになったら絶対にバレる』と、言いた気だけどね、僕はそれでもいいって言っただろう?」
「私の意志は何処ですか?」
「この件に関してはないよ。それに何時までも隠せるようなことじゃないよ?」
 『隠すつもりもないけど』と付け足す青年は、更に言う。
「君は自分から補佐官様に候補を降りることを言うつもりみたいだけど、それには反対しない。僕が反対するのは、責任を一人で背負うとすることだよ」
 群青の瞳が緑青の瞳を見据える。
「そんなこと、許さない。・・・・・分かってる?僕が君に恋の罠を仕掛けて、君がそれにひっかかったんだよ?」
 最後は悪戯に煌く瞳に、少女は完全降伏する。

 『恋は惚れた方の負け』とは古くからの言葉
 罠にかかった自分は彼に勝てない。別にそれが特別不満なわけでもないけれど。

 恐る恐る伸ばされてきた腕が首に絡む。甘えて擦り寄る仕草に、くすぐったく感じる髪の揺れが生じる。
「今はオヤスミ」
 しなやかで細い身体は受け止めてもまるで子犬程に軽く不安に思うけれど、溶けてしまいそうな暖かさがそこに彼女がいることを明確に告げる。
「おやすみなさい、セイラン様」
「オヤスミ、アンジェリーク」
 子供のようにあどけないキスをして、二人は微睡みの園へと扉を開く。

 二人の恋が明らかにされたのはこのすぐ後のこと
 より幸せになる為の二人の選択は、恋すること愛することの尊さを知る人達の絶大な支援の下に祝福された。

 そうして  二人の恋の実った泉に睦まじく寄り添う影が
 時が過ぎ  少女の友の戴冠の日まで 二人がその地を離れる日まで
 誰の目にも幸せに映ったのだ・・・・・

END