月下の恋人達

月下の恋人達


 恋愛成就のその後

 月の光で最も美しい姿を披露する泉を訪れた彼は呆れ果てる。
「何やってんだい?」
「水浴びです」
「夜中だよ?」
「だって、月と星がこんなに綺麗なんですもの。泉に映って、それがとても綺麗だし」
 捧げるような恭しさで、白い手の杯が月と星を湛えた清らかな水をすくい上げる。
「風邪をひくよ?」
「大丈夫です」
 クスクス笑って少女は青翠の瞳を彼に向ける。
「セイラン様はどうしてここに来たんですか?」
 キラキラと輝く瞳に青年は笑みを浮かべた唇を動かす。
「月と星に呼ばれてね。君を誘いに行ったらいないから、こっちだと思って。まさか、水浴びをしているとは思わなかったけど」
 縁に座り、少女の腕を取る。
「ほら、上がっておいで」
「やぁですよ」
 悪戯な天使は彼の腕を振り払うと水の中にその姿を没する。
「まったく」
 自分の思い通りにならないことの苛立たしさと、そんな姿に対する心からの愛しさからの言葉は苦笑めいていた。

 人目を気にするような殊勝な性格では決してないが、人の賛辞をうざったいものとして感じる青年に別な宇宙の女王候補の教官として招きたいという聖地からの誘いが舞い込んだのは、もうそれなりに過去の日の話になる。
 好奇心自体は可成旺盛な青年はその申し出を快諾し、《感性の教官セイラン》として聖地にやって来たのだが、そこで本来は教え導かなくてならない筈の《女王候補アンジェリーク》に心惹かれ、恋をした。それはまた少女も同じで、二人はどうしても忘れることの出来ない想い故に全ての権利を放棄する。
 別な宇宙とはいえ女王となる資質を持った少女とその教官である青年の恋は周りに波紋を呼びはしたが、予想に反する程の支持を受けて晴れて幸せな恋人同士として、少女の友であり最大の支持者であった別宇宙の女王候補の戴冠の日まで−青年の教えが必要なこともあって−この聖地に滞在しているというのが現在までの話である。

 水を切る音に続いて、少女のしなやかな裸身がたくさんの透明な宝石を伴って泉の中央で花開く。
「・・・・・アンジェリーク、いい加減上がったらどうだい?」
 自由な少女の姿を見ること自体は苦ではあり得ない。ブルーグリーンの瞳を輝かせるその姿は愛おしいのだけど・・・・・
「君は不用心に過ぎるよ。まったく、お陰で僕がどれだけ苦労していることか」
 勝ち気な少女は、反面可成彼の心臓によくない無邪気さを持っている。
「いまだに恋敵は増えても減らないし」
 守護聖達には命をかけられる人がいることから応援してくれた、他の二人の教官も愛弟子でもある少女が『より幸せになれるなら』と言って応援してくれたけれど、聖地に住む男は彼等だけではないのだ。
「君を僕から奪おうとしている奴がいること、君は知らないんだろうね?」
 それは幸福な、とても幸福な悩みだ。少女の心が彼の元にあるからこその悩みだ。そのことは無論分かっている。分かっているが・・・・・
「だからって、苦労が減るわけではないんだよなぁ・・・・・」
 ため息と共に零れた言葉は、心からの言葉である。
「どうしたんですか?」
 くりくりと動く大きな瞳が彼を見上げている。基本的には勝ち気な性格なのだが、根は無邪気で素直な少女は好奇心旺盛で、瞳が何かを探してよく動く。
「内緒だよ」
「?」
 軽くかわす言葉に首を傾げる少女は、日頃の勝ち気さ故の大人っぽさが抜けて子供のようにあどけない。
 時々見せるこんな姿にも強く惹かれる青年は、ただ愛しさに目を細めた。

 随分と水と戯れていた少女がやっとのこと岸辺に近づく。
「セイラン様、あっち向いてて下さい」
 ずっと注がれ続ける視線にアンジェリークはそう言う。さっきまでは何の羞恥心も感じていなかったのだが、意識すると途端に見つめられることが恥ずかしくなってきてしまっていた。
「セイラン様」
 懇願すら漂わせた声で少女は言う。群青の瞳はいまだ彼女を見つめている。
「セイラン様ったら」
「視線を外す理由がないね」
 本当は分かっているのに分からないふりをする人に、少女は唇を尖らせる。
 睨む瞳の強さは初めて出会った頃とまるで変わらない。変化は確実に人を変えていくけど、それを撥ね除けることは出来ないけれど、どんなに時が変化を強要しようと、その人の本質は何時までも変わらないから。
 笑って少女の持って来ていた大きなバスタオルを広げてやる。
「おいで」
 優しく和んだ瞳に、相変わらず高鳴る鼓動
「ほら」
 促す声に、意を決する。
 広げられたタオルの中、ひいては青年の腕の中に飛び込む。
 白いタオルごと抱き締めて、彼は唇を求める。

 月の下  恋人達の甘い刻

 まだ濡れたままの髪を夜風に流していた少女が突然寝っ転がる。女王候補を降りてから母校であるスモルニィ女学院の制服以外も着るようになった少女は、今も性格からか女の子らしいが動きやすい服を着ている。
「アンジェリーク?」
「月も星も、綺麗」
 白い指を天へと、月と星へと差し伸べて、夢見る瞳が夜空を映す。
 ひどく魅力的な輝きが強まり、隣に座っていた青年が思わず身を屈める。
 意外な程弾力のある緑の絨毯が二人分の重みを優しく受け止める。

 触れるだけのキス

 月と星を従えているような青年の姿に、少女は見惚れずにはいられない。
 再び近づく唇に、少女の目が伏せられる。

 恋を貪るキス

 まだ依然として慣れることの出来ない類いのキスに、少女のまぶたが震える。
ん」
 それとなく嫌がる意志を示すが、相変わらず青年は黙殺する。
 満足するまで口づけを続け、それ故にぐったりとした少女の姿にセイランの瞳が瞬く。無防備なその姿は刺激を受けずにはいられない。
「こんなところで、何をする気です!?」
 今までの経験上−といっても、恋人になってからまだそれ程経っていないのだが−これから先にあることは、予想が簡単につく。
 当然、青年の方も少女の予想を確実に把握している。
「分かってると思うけど?」
「こんなところでなんて、嫌です」
「僕はかまわない」
「私が嫌なんです」
 それでも青年の指先が動きを止めることはなくて、それどころか邪魔な服を緩めているではないか。
「っ!?」
 顔を赤くする反応が、実は殊の外お気に入りな青年は笑いを噛み殺すのに苦労する。ここで笑っては流れが変わってしまう。少女を欲しいと思う気持ちも本当なのだから、流れを変える気なんて起きないというもの。
「力、緩めて」
「セイラン様ぁ」
 半分泣き声は、逆効果である。いっそ泣かせたい気持ちが生じて、絶対に止める気が起きなくなる。
「ぁん」
 耐え切れない声が、先触れとなった。

 冷たい泉で冷え切った身体は、青年のお陰ですっかり暖かいのを通り越して熱い程で、力の入らない身体を少女は青年に寄り掛かることで支えていた。
「ふにゃん」
 猫のような仕草で目を擦る少女に気づいて、彼はほっそりとした外見からは想像出来ない程簡単な様子で少女を抱き上げる。
「僕の部屋と君の部屋、どっちに送ればいいのかな?」
 そんなことを言いながら彼は常と変わらぬ軽やかな身のこなしで歩む。
「セイラン様って、前から思ってたんですけど、力持ちですね」
 標準体重の筈の少女を抱えてまるで変わらない足取りに、以前から思っていたことを口にする。
「芸術にだって体力は必要だからね。特に彫刻だとかは可成必要なんだよ」
 そっと自分の首に巻き付いてくる腕に嬉しそうな表情をチラと覗かせ、青年はそう答える。元々束縛されることをあまり好まない性格なので日がな一日始終少女を側に置くことを−少女も束縛を嫌う性格であるので−しないのだが、反面その分だというように側にいる時はべったべたに−それはもう周りが砂どころか砂糖を吐きそうな程−溺愛している青年らしい。それを顔に素直に出さないところも、らしいと
いえばらしい。
「決めた。やっぱり僕の部屋にしよう」
「セイラン様!?」
「変更はしないよ。さっさと答えない君も悪いんだからね」
「・・・・・さっきのだけでは満足出来ないんですか?」
「満足?」
 『意外な言葉を聞いた』  そんな顔でセイランはアンジェリークのブルーグリーンの瞳を見つめる。
「君のことで僕が満足する日なんて来ないよ」
 当たり前のことを当たり前な口調で言うような青年に、少女は脱力した。

 もうすっかり何処に何が置かれているのか把握してしまった部屋、少女はその部屋の主に大切そうに寝台に降ろされる。
「どうしたんだい?」
「私、帰っちゃ駄目なんですよね?」
「当然」
 きっぱりとした声に、少女はため息をつく。
「・・・・・嫌?」
 短か過ぎる問いに柔らかな髪が頬を撫でる答えが返る。
「特別好きではありませんけど、その、嫌いなわけでもありません。誰よりセイラン様を、近くに、感じますから」
 うっすらと薔薇色の頬を朱に染めて、少女はそう答える。
「そう」
 ほっとした吐息を漏らして、青年は白い指で少女の頬を包み込む。白い指の間でブルーグリーンの大きな瞳が心から彼を慕う気持ちを透かして輝いているのに気づいて、
「駄目だな、甘やかすのは大丈夫なのに、甘やかされるのは苦手だ」
 苦笑して、彼は彼女の唇を塞ぐ。
「今夜は優しくしてあげられそうにない」

 普段は決して少女に寄り掛かるような、ましてや負担になるようなことをしないセイランではあったが、前述したように恋のライバルはそれはたくさんで、自分に向けられる周りの感情に鈍感な少女にそれとなく遠回しに言い寄る男を見つけて嫉妬して、耐え切れなくなる日があり、そんな日の夜はどうしても過剰に抱く腕に力がこもる。
「ヤ、セイラン様」
 泣き声まじりの懇願にも、耳を貸す余地がない。
「アンジェリーク」
 濡れたような艶めいた声に、少女の背が弓なりに跳ね上がる。
「こ、いじょう、は、許し」
 言葉が途切れて、青年の背に回された指が立てられ、爪の赤い跡が残る。
 今夜はそれが原因ではないけど、力加減がどうしてもとりにくい。欲しくて欲しくて、どうしても、たとえ少女がどんなに嫌がっても、止められない。
「ん」
 流れる涙を拭った唇で、奪う。

 離れた瞬間に、潤んだ瞳が見上げ、薄く開けられた唇から細く熱い息が漏れる。
「セイラン様」
 華奢な身体は、青年の身体で埋もれる。
 意識がにじんでいく。自分と少女の垣根が溶けていく。
『本当に溶けてしまえばいいのに・・・・・』
 そんなことを彼は思った。

 ぼんやりと恋人の腕の中で意識が浮上するのを彼女は自覚する。身体は鉛のように重たく、指一本動かすのも億劫だ。
「ゴメン」
 耳に滑り込んで来た言葉に無理に顔を上げると、それなりに上の方に青年の麗美な美貌がある。
「ゴメン」
 何を謝っているのかは明白で、少女はほんの少し口元を緩める。
「責任取って下さいね」
 少しでも負担を軽くしようと、冗談を口にする。
「ん」
 ギュッと抱き締める腕に力を込めたセイランは、何かに気がついて少女を引き上げる。
「どうしたんですか?」
 頬と頬が触れるような近さで少女は問いかける。
「大分移ったなと思ってね」
「は?」
 妙に機嫌のいい笑いに心当たりはない。
「分からない?僕の香りが君に移ってるんだよ」
 クスクス  笑い声が届く。
「そうですか?」
 目を丸くする少女の唇を素早く奪って、彼は頷く。
「ねぇ、アンジェリーク」
 ひどく甘い声に少女の瞳が瞬き、先を促す。
「君はここを出て行った後、どうしたい?今のところ選択出来るのは三つ程だけど」
「私の家に帰るか、セイラン様の星に一緒に行くか?」
「僕は君が家に帰りたいなら一緒に行ってもいいけど、君の家族に会うのは遠慮したいな。何せ、僕は『女王になる為に送り出した大切な娘を奪った悪者』だからね」
「そうですね、私の両親がセイラン様をイジめる可能性はすごく高いでしょうから、セイラン様の星に駆け落ちしてしまいましょうか?」
 笑う声に、笑う声が応じる。
「いいね。第三の選択は、そのまま駆け落ちと言えなくもないし」
「?」
「別の宇宙の女王になる子は君を殊の外気に入っているからね。もしかしたら君は女王補佐官に任命されるかもしれない。そうしたら、別宇宙に行くことになるからね」
 深紅の薔薇よりも艶やかな赤い唇がそう言う。
 少女と、少女とよく似た性格の別の宇宙の女王となることが決定している少女の仲はすこぶる良好である。
「可能性がないわけではないでしょうけど、女王補佐官は女王と同じだけの寿命を得ます。セイラン様と時の流れを違えるようになるくらいなら、絶対に私は女王補佐官にはなりません」
 ブルーグリーンの瞳が確固たる意志の元に輝く。
「知らないみたいだね」
 少女の頬に唇を掠め、彼は鮮やかな群青の瞳を合わせる。『自分と共に生きるのだ』と明言するような少女の台詞によって心から浮き立つ響きが微かに宿る声で彼は言う。
「女王補佐官になる為の条件は『普通よりも強いサクリアの所有者』であることだけ。補佐官同様条件に合致すれば、誰だって女王に任を返上する日まで長い時を手にすることになるんだ」
 『実際昔は女王近衛騎士団々長だとかはそういった特別の拝任を受けてたらしいし』と続ける青年である。
「ま、別に君が補佐官になってもならなくても、一緒に別の宇宙に行くこと自体はこれから先の可能性として数えてもいいだろう?」
 問いに好奇心旺盛な恋人は頷く。知らないモノを知ることは、少女にとってとても魅力的なことだ。だいたい女王候補生として聖地に来たのだって、聖地に対する憧れと好奇心が可成の地位を占めていたのだから。
「『未来』は『未だ来ていない』から『未来』って呼ぶのだし、どんな風になるのかなんて分からないけど」
 彼の腕の中、少女は笑う。
「セイラン様と一緒なら、どんな困難だって乗り切ろうとする努力が続けられます」
「乗り切る努力だけ?」
 悪戯っぽく響く声に頷く。
「実際にどうなるかなんて、まるで分からないんですもの。でも、絶対に努力だけは忘れません」
 理想と現実の間には果てしなく広いギャップという海がある。それを渡る為の努力を決して忘れないと言い切る瞳は、何処までも強く、空のような広がりで彼を魅せる。
「それでこそ、アンジェリークだね」
 目元に唇を当て、彼は鮮やかに笑った。

どんな時だって強いと思っていた
本当は自分の方が甘えていた

それに気がつかなかった

 さらさらと音を立ててシーツが流れる。胸元で軽く押さえて少女が起き上がるその動きにつられ、複雑な襞と彼女の優しい身体の線が描かれる。
「もう帰りますね」
 外はすっかり朝日で満たされている。
「送るよ」
 同じように起き上がり、彼はうっとりする程優しい笑みを浮かべる。
「いいえ、一人で大丈夫です」
 嘘である。気丈に振る舞うことを己に課している少女だからこそ何とか起き上がれも出来たが、はっきり言って愛情を受け過ぎて、動く為に込めた力が端から逃げていくような状態である。
「嘘つきな子だね」
 クスクス笑って彼は後ろから抱きすくめる。
「嘘なんて言ってません」
 ツンッとあごを上げる仕草につられて栗色の髪が優しくセイランの腕にかかる。
「ほら、もう嘘をついてる」
「セイラン様・・・・・」
 ぷっくりと頬を膨らませる子供のような反応に彼は微笑みから目を伏せる。勝ち気な少女の時々驚く程子供な反応はとても愛らしくて、愛おしくてたまらない。
「このままいれば?身体、痛いんだろう?」
「・・・・・」
 アンジェリークの栗色の髪に頭を乗せて抱き締めているその姿は、端から見る者がいるとすればデロンデロンに甘くマジに砂糖を吐きそうな雰囲気である。
 束縛を嫌うからこそ他人を縛ることを同じだけ厭う青年ではあったが、何事にも例外というものは存在して、彼女はその例外にあたる。時々−本当に極稀なのだが−昨夜のような夜から目覚め、今朝のような朝、少女が彼の部屋を出て行こうとする時、『このまま閉じ込めてしまおうか?』という誘惑が起こる。ちゃんと理性は彼女が自分だけを愛してくれていることくらい分かっているのに、独占欲はまったく別な場所で叫んでいる。『ずっと側に』と。これはそんな心の現れだ。
「ね、そうすればいいよ」
 ギュッと抱き締める腕は、邪険に振り払われた。
「アンジェリーク?」
「セイラン様はずっとアトリエにいらっしゃるのでしょう?それなのに私がここにいるわけにはいきません」
 頑なな声音に、彼は首を傾げる。何処となく、『頑なさ』以外の『何か』が混ぜられていたようで。
 そして、ふと、気がつく。彼女はさっきから決して顔をこちらに向けない。何時だって気丈に相手の瞳を見つめて話す、アンジェリークらしくない。
「アンジェリーク、こっちを向いて」
 わざと耳元で囁く。吐息と共に言霊を送り込む。
「ほぉら」
 甘さ二割増しの声に、再び青年の腕に捕らわれた少女は、反対に視線を下へと落とす。
「強情な子だ」
 子供相手のような言葉は、実は彼女が最も嫌うモノの一つで、故意に使って反応を引き出そうとする。
 それでも沈黙を返す少女に、
「そんなに強情だと」
 悪戯を含んだその声は、無意味な程明るく言い放つ。
「襲うよ」
 ・・・・・
「セイラン様っ!」
 首筋の薔薇の刻印に暖かい何かが当てられ、あまつさえそれが動くに至って少女の叫びが上がった。
「ちゃんと言っただろう?」
「本気、だったんですか?」
「勿論」
 本当に、無意味な程明るい声である。
「で、本当に、どうしたんだい?」
 こうまでしても俯いた顔は少しとして上げられない。こうなると、少女を溺愛している分不安になってくる。
「アンジェリーク、こっちを向いて」
 今度は細いあごに指を当て、上向かせる。嫌がり抗う力がありはしたが、青年は問答無用である。
「アンジェリーク?」
 ブルーグリーンの瞳に映る青年の切れ長の目が大きく見開かれる。

 拗ねた瞳は
 泣き出しそうに潤んだ瞳だった

「一緒にいられないなら、ここにいる意味なんてありません」

 拗ねた瞳は
 『寂しい』、と告げる瞳だった

「セイラン様は何時だってそうでしょう?」
 堰を切ったように、少女は言う。
「アトリエに入られたら、どんなことがあったってその時していることが終わるまで決して出て来ない。芸術活動がセイラン様にとって、息をするように当たり前なことであることぐらい分かっています。それでも!」
 一筋流れるのは水晶にも似た涙の滴
「私、いっぱい話したいことがあるんです。その時しか話せないことだってあります。でも、セイラン様がいて下さらなかったら、話せない。セイラン様以外に話す人なんていないのに、そのセイラン様がいて下さらなかったら、話せない」

 気がついて、当然なのに・・・・・

「セイラン様が好きです。愛していると言い換えられるぐらいに。だけど、駄目なんです。セイラン様の望むように、振る舞うことが出来ない」

 どうして、気がつかなかったのだろう?

「・・・・・見ないで下さい。今の自分が私は一番嫌いです。こんな自分を、見られたくない!」

『寂しい』  『寂しい』  『寂しい』  『寂しい』  『寂しい』

 たった一つの言葉が、ずっとずっと、メビウスの輪のように続いている。

「離して下さい」
 そう言いながら、細い腕は力なく両脇に垂れる。
 ポロポロと流れる涙は彼の胸に溶ける。
「寂しい?」
 流れる声に、幼子のように彼女は頷く。
「・・・・・」
 謝罪の言葉なんて、出てくるわけがない。

 彼女が与えてくれる見えない優しさに甘えていた自分 彼女にほんの少し触れるだけでも湧き出ずる創造の泉に浸り、自分ばかりが幸せで、彼女を返り見たことがあっただろうか?
 答えは『否』
 自分は自分の都合で誰かと一緒にいる時でも少女と言葉を交わし、時には連れ出しもするくせに、彼女が自分に会いたい時にアトリエに入っていれば、ドアを叩く音すら聞こえない。自分勝手に身勝手に、自分の都合ばかり押し付けて、それ以外では、こんなに切ない姿をさせてしまう程放り出して、きっと一人で泣いたことだってあるだろう。なのに、決してそんな姿を自分には見せない。自分が、それを望んでいると、信じているし、知っていたのだから。
 見られたくないのは、自分の方だ。最愛と誓う相手を一人寂しく泣かせるような、そんな自分の方だ!

「僕は、君に愛される価値もない」
 呟きが漏れる。
「セイラン様?」
 濡れた宝石が彼を見上げる。
「君に負担をかけることしか出来ない。そんな僕には君に愛される価値もない」
 涙なんて見せない。それが彼の最後の矜持だ。
「そんなことありません。私がセイラン様を好きだと思う気持ちがある限り、価値っていう言い方嫌いですけど、愛される価値がセイラン様にはあります」
 さっきまで泣いていた名残の残る瞳が、それでも強い意志を持って見つめる。
「・・・・・本当に、何時も僕は君に甘やかされてばかりだ」
 角度によっては泣き出しそうに見える群青の瞳が笑い、前に屈むように少女に寄り掛かる。細い肩で栗色の髪と群青の髪が混じり合う。
「私はもっといっぱい、はっきり甘えてくれるととても嬉しいですよ。だって、私だけになんでしょう?」
 力なく垂れていた腕が上がり、白い腕が自分よりも一回りは大きい背中を抱き締める。
「知らなかったんですか?私はそんなセイラン様も大好きなんですよ?」
 笑っている顔が一番好きだった。花のように鮮やかに、風のように包み込む、そんな彼女の笑顔が一等お気に入りだった。
「・・・・・だから」
 苦笑しながら彼は言う。
「僕をあまり甘やかすと、後が辛いよ?」

 悪戯に笑う瞳を見合わせ
 どちらともなく顔が近づいた

 まるで初めて甘えるように何処かぎこちなく腕の中で寄り掛かって、少女は目を伏せている。
 見守る眼差しは果てしなく優しく、嬉しそうだ。
 抱く腕が動いて寒そうに動いた華奢な肩にシーツをかける。
「ねぇ、アンジェリーク。今日の予定が決まってないなら、一緒にアトリエに来て欲しい。今まで描きためた絵を見せたいし、出来ればモデルを頼みたい」
 栗色の髪の間から緑青の瞳が瞬く。
「君に会ってからというもの、描くものは君ばかり。こうやって君に触れるだけで描きたい君が増えていく。『創造』は『想像』に繋がり、描くのに僕にはそれだけで十分だったけど、君がモデルを引き受けてくれたら、僕はより息吹きの気配のある君を描けるし、君に寂しい思いをさせないですむ。ね、いいアイデアだとは思わないかい?」
 同意を求める言葉なのに、そこに宿る調子は彼女に受けることを強要している。青年は気がついていないようだけれど。
 子供みたいに自分の意志を通そうとするセイランの姿に、アンジェリークはにっこりと笑って同意した。彼の提案で彼女のデメリットがあるとすればモデルというやったことのないことをすることに対する不安だけ。それを軽く上回る程に『セイラン様と一緒にいられる』ということが嬉しいのだ、退ける理由より受ける理由が大きければ同意するのは当然というもの。
「もう少し休んだら行こう」
「朝寝坊になりませんか?」
 早朝から少し過ぎた頃である。このまま眠ってしまえば確実に朝を過ぎた頃に起きることになる。少女の声はそれを指している。
「僕はいいけど、アンジェリークは動けるのかい?」
「・・・・・いぢわる」
 ぽつりと呟く声に、彼は肩を震わせて笑う。
「褒め言葉だって、言っただろう?」

 クスクス
 恋人達の笑い声がしばらくの間密やかに満ちる。
 スゥスゥ
 恋人達の笑い声は何時の間にか安らかな寝息にすり変わる。

 二人は子供の寝顔で寄り添っていた

END