HEARTのチェイス


 ハートのチェイス 追いかけっこ
 どっちがどっちを捕まえればゲームは終わる?

「お湯を掛けるよ」
 滑らかな、テノールの声と共に、シャワーから流れるお湯が栗色の髪に付いているシャンプーを落としていく。
 芸術家らしい、繊細な手が丁寧に泡を流す。
「トリートメントもした方がいいかな」
「いいですよ、そこまでしなくても。私はさっぱりしたかっただけですから」
 少女の返答に青年はしばし、考え。
「やっぱり、しておこう。せっかくの綺麗な髪だからね」
 どこか、楽しそうに呟きながら青年は側にあるビンへと手を伸ばした。

 コン、コンコン。
「アンジェリーク。僕だけど、入るよ」
 扉をノックし、一応断った青年はノブに手を掛け、少女の部屋へと足を踏み入れた。
 三日程前から少女は熱を出していたのだが、その理由が湖で溺れ掛けていた子猫を助けた為というのだから実に少女らしい。熱を出しながらも育成や学習をしようとしていた少女をベッドに放り込んだのは感性の教官である。
 それ以降、少女の目付役とばかりに青年は毎日、部屋を訪れている。
「・・・何をするつもりなのかな、君は」
 青年の前にはバスタオルと数枚のタオル、そして着替え一式を手にしている少女が立っていた。どこをどう見ても、完璧な入浴スタイルだ。
「お風呂ですよ。けっこう汗をかきましたし」
 睨む青年の視線にビクともせず、少女はケロリと言ってのけた。
「風邪をひいて、熱があるっていうのに、入浴?君には常識ってものがないのかい?」
 腕組みをして更に威圧感を増す青年を相手にしかし、少女も負けてはいない。
「だって、もう、三日ですよ。せめて髪ぐらい洗わなきゃ、気持ち悪くってしょうがないんです」
 気の強さが如実に表れているサファイアの瞳の強い視線は、『絶対に引く気はない』とダイレクトに伝えている。
「・・・わかった。そんなに言うのなら、僕が洗おう。これ以上の譲歩は出来ないよ」
 数分に渡る睨み合いに負けたのは青年の方。しかし、しっかりと条件をつけ、少女に認めさせたのはさすがであった。

 浴槽の縁に手をかけ、中を覗き込むような姿勢で少女はひざをついていた。
 髪を洗う青年の手つきは意外と丁寧で、髪の中を滑っていく指の感触はとても気持ち良い。知らず知らずのうちに眠ってしまいそうになる。
(・・・気持ち良いなぁ・・・)
 呑気な感想を抱いている少女は、青年の状態にまったく気づいていなかった。

 細く、白い首筋が目の前で露になり、シャワーのお湯でほんのりと上気しているのを青年は少々困った状態で見つめていた。
 感情が暴れそうになるのをなんとかコントロールし、少女の髪に触れる。
 指に絡み付く事のない、素直な髪は手触りが良くていつまでも触れていたい気にさせる。
 ふいに、少女の肩がピクッと竦んだ。
「アンジェリーク?」
 問い掛けるように名前を呼ぶが、なんでもないとの返答が返るだけ。だが、すぐにまた、肩が揺れる。
 しばらくして、青年は自分の指がある場所に触れると少女が反応する事に気づき、悪戯な笑みを浮かべた。確かめる為に、もう一度触れる。

 ピクリ

 思った通りの少女の反応に、青年のシアンブルーの瞳が熱っぽい輝きを帯びる。
 ゆっくりと、感情が理性を凌駕していく・・・

「♪」
 ベッドに座り、少女は上機嫌で髪を拭いている。
 その様子を青年は壁にもたれ、腕組みをして見つめていた。
「有り難うございます、セイラン様。おかげでさっぱりしました」
 あらかたの水分を拭き取り、上機嫌なままお礼を言う少女に青年はつかみどころのない笑みを浮かべ、歩み寄る。
「わざわざ、僕の手を煩わせたんだ。もっと、ちゃんとしたお礼が欲しいな」
「・・・は?」
 大きな、サファイアの瞳を瞬かせると、少女は改めて青年を見つめ、いつもとは違う雰囲気を纏っている事に気づいた。なんというか・・・妙に色っぽいような・・・
「お礼って言っても・・・何をしたらいいのかわかりません。セイラン様って、そういう事は無頓着な方でしょう」
 戸惑い気味の少女の横に並んで腰掛け、その細い顎を取るとくいっと自分の方へ向けさせる。
「そうだね。でも、欲しいと思うものもあるんだよ。例えば・・・」

CHU

 いきなり唇に触れた柔らかいものに、少女は一瞬動きを止めた。そして。

ズダダダダダ・・・バンッ!!

 先程まで青年がもたれていた壁まで、ものすごい勢いで避難した少女はそこにはりついたのだった。
「い、い、い」
 両手で自分の唇を押さえ、真っ赤になって場所を交替した青年を見詰める。
「いきなり、何をするんですかぁ!?」
「お礼を貰っただけだよ?」
 動揺しまくっている少女とは逆に、青年の方は涼しい顔をしたままである。
「お礼って・・・」
 真っ赤な顔のまま、困惑を深める少女に近づき、青年は両手を壁についてその腕の中に閉じ込めてしまった。
「もう少し、お礼が欲しいな・・・」
「!!」
 再度、触れてきた唇にとっさに逃げ出そうとするが、何時の間にか背中に両腕が絡み、抱き締められている。
 少女の反応にくすくす笑いながら、青年は自分が洗った栗色の髪に唇を埋めた。まだ少し、湿っている髪は甘い香りを放ち、青年を誘う。
「どうしてそんなに慌てるのさ?今までだって、何度もしているだろう?」
 それは確かに、親愛の意味で−と、少女は思っている−髪に口付けられた事はあるが、こんな風に急にキスをされた事はないのだ。何もかも、急すぎる展開に少女が混乱しても仕方がないだろう。
 目の前の体を押しのけようとしても、ビクともしない。線の細い体でも、青年が事実、異性である事を少女に教える。
「いったい、どういうつもりなんですか」
 目の前の青年の事は好きだけど、こんな風に自分の意志を無視した行為は許せない。睨む視線に少女の持つ勝ち気さが見え隠れする。
「僕も『男』だって事だよ。一応、これでもセーブしているんだけどね」
 額や頬にも唇を寄せながら囁く青年の言葉に少女は硬直し、無駄だと分かってはいが、抱き締められている腕の中から逃げ出そうと暴れ出した。
「離して下さいよぉ」
 じたばたする少女を楽しそうに抱き締めながら、青年は目元に口付ける。
「だから、セーブしているって言っているだろう?」
「本当でしょうね」
 くすぐったさに首を竦めながら見上げる少女に、青年は悪戯っぽく笑いかけた。
「うん、だから今日はここまで。次はもう少し、先に進めるよ」
「!?」
「それから、君の湯上がり姿はけっこう色っぽいんだから、他の男には見せるんじゃないよ」
「・・・」
 かなり、我が侭に近い事を言っている青年を見つめ、少女はため息をついた。
 これだけ好き勝手にされても結局、最後に許してしまうのは・・・
「やっぱり、惚れた弱みかしら・・・」
「何か、言った?」
「いいえ。こんな事をするのはセイラン様だけだって事です」
「そう?」
 やっぱり楽しそうな青年に、少女は再びため息をついた。
 青年は青年で、自分だけだという少女の言葉に気分が浮上するのを感じていた。
 少女のたった一言でこうまで気分が変わるのはやっぱり。
「惚れた弱みかな?」

 惚れたのか惚れられたのか
 ハートのチェイス・ゲームはまだ続く


END