たとえば世界が違ったら、こんな話だってありえたかもね
栗色の髪を肩口で揃えた勝ち気そうな涼しい目が印象的な少女が歩いていた。
「アンジェリーク!」
元気いっぱいの呼びかけに、少女が振り返る。
「レイチェル」
「じゃーん!コレ見てよ」
『ウッフッフフフ』 ひどくご満悦の様子で金色の髪と菫色の瞳の少女が幾つかの手紙を取り出す。
「あら、またなの?」
緑青の瞳の少女が鞄を持っていない方の手で一つを取って言った。手紙の裏に書かれているのは、男の名前だ。
「ほらぁ、私ってばこの通りの美人だし」
「はいはい、レイチェルは美人よ」
「フフンッ」
自慢そうに長い金色の髪を揺らせて少女《レイチェル》が胸を張る。実際彼女は美人である。背もそれなりに高く、均整の取れたプロポーション、わざと焼いたような不自然さのない蜂蜜色の肌、その上それらをどうすればよりよく見えるようになるのかも知っているので、彼女が美人ではないと言い切れる者は一度眼科に行き、異常がなくてそれでもまだ言うなら、とことん趣味ではないのだろう。
「っと」
「ありゃ」
一つ年の差があり学年が違う二人であったが、同じ学校に通い、何より住んでいる場所が同じである為仲良く並んで家路についていたのだが、二人の少し目線の違う視線の先によく見知った人が映る。
「・・・・・兄さん」
「まぁた女の人に申し込まれてるよ、セイランさん」
瑠璃色の髪の青年の後ろ姿だけであるが、一人にとっては実の兄、一人にとっても親友の兄である、それだけで十分だ。というより、独特の周囲を圧するような雰囲気のある人だ、少々離れていようが後ろ姿だろうが、間違う筈がない。
「どうせあの人もフラレちゃうんだろうなぁ」
「レイチェルと同じよね」
「あ、私は懇切丁寧にお断りしてるわよ?セイランさんみたいに一刀両断しないもん」
「まぁ、兄さんはあんまり女の人好きじゃないしね」
何とかフォローを入れようとする栗色の髪の妹《アンジェリーク》である。
「あ、フられた」
「レイチェル・・・・・」
青年の前にいた女性が人目もはばからずに泣き出している。あんまり近づきたい雰囲気ではないが、家はそこを通らずには帰れない。
「あぁ、アンジェリーク、レイチェル」
視界に入ったのだろう、冷たい氷の華がふわりと優しく咲く。もっとも、その優しい笑顔もすぐに凍りついたが。
「兄さん、女の人を泣かしちゃ駄目よ」
「勝手に泣いたんだ」
「その言い方冷たいですよ」
少女二人の言葉にも群青の瞳に浮かぶ冷ややかさは小揺るぎもしない。端正な容貌とあいまって、何だか彫像めいた青年である。
「先に帰るね」
「一緒に帰るよ」
「その人、そのままにしておくつもり」
「ここで送ったら、尚更泣くよ」
すっぱりと言い切り、彼《セイラン》は先に行こうとする妹の隣を占める。
「ほぉんと、どうして私の周りってば、こうモテるのに片っ端から振っていくような人が二人もいるのかしら?」
眉をしかめてアンジェリークは言った。過去にこの二人のお陰で巻き込まれたトラブルは、両手では足りない程あったのだ。
『ぴんぽーん』
「「今晩和」」
勝手知ったる他人の家とばかりに、年の差が可成ある二人が入って来る。
「何だ、ヴィクトールさんも、ティムカも呼んだのかい?」
「うん」
食卓に暖かな香りのするレイチェルとの合作を置きながら、新聞を読んでいた兄に答える妹である。
「お邪魔します」
薄墨の髪と墨色の瞳の少年《ティムカ》と、
「何時もすまんな」
赤みがかった黒髪と鳶色の瞳の壮年の男《ヴィクトール》が言う。
現在女子高生のアンジェリークと芸術家として名の売れ出したセイラン、思いっきり似ていないが、これでも兄弟である。二人の両親はすでになく、だが遺産のお陰で不自由のない程度の生活を送っている。
そして、レイチェル、ティムカ、ヴィクトールは遺産であり二人の自宅であるマンションに現在住んでいる住人のなかでも特に仲のよい人物である。
「美味しかった」
「本当にすまんな」
交換留学生のティムカの保護者もやっているエスカレーター式の学園の中等部の体育の先生であるヴィクトールが言う。
「いいえ」
「そう思うんなら、誘われても来なけりゃいいのに」
「兄さん!」
さらりとした口調で言い放つ外見は似ていない兄の頭を勢いよくブッ飛ばす性格は似ている妹である。
「アンジェリークッ」
「兄さんが悪いんだからねっ」
「兄弟喧嘩は後でしてよ」
ちょうど階下に住み、亡き両親と親交のあった知人の娘でありアンジェリークの一番の親友であるレイチェルが慣れた様子で言う。
「まったく、何時までもこんなんなんだから」
研究家である両親がいない晩に何時もアンジェリークのところに行くうちに、すっかりここの兄弟喧嘩を止めることに慣れたレイチェルい゛ある。
「仕方ないわよ、もう兄さん相手だと思わず手が出ちゃうんだもん」
『何せ生まれた時からの付き合いだもんね』と快活に笑う姿に、誰かが一瞬辛そうな顔をした。
「えっと、これで買い残しはないわね」
休日の午後を買い物に費やし、一つ一つメモ帳に書き出された買い出しリストと手元の商品を照らし合わせて、少女はにっこりと笑った。
「さぁて、早く帰らないと、今日は宿題あるもんね」
両手いっぱいの紙袋を大事そうに抱えて少女が足を踏み出しかけ、
「あ」
もう少しで手の中の全てを落としそうになった。
道路を挟んだ向こう側のカフェテラスの人のなか、埋もれることなく周囲から浮き出たカップルがいる。・・・・・少女の兄と親友である。
「そっか」
何となく、今までの二人のことが思い出される。二人共言い寄る相手を片っ端から振っていたのは何のことはない、すでに付き合う相手がいたからなのだ、と。
「そうか」
悲鳴を上げる心臓を抱えて、少女は踵を返した。
キィ・・・・・キィ・・・・・
夕暮れの公園、人の絶えたその場所で少女は軋んだ音をたてる古ぼけたブランコを漕いでいた。とても小さな頃、兄であるセイランやその頃からもう遊んでいたレイチェルと順番を決めて乗った、思い出のある公園のブランコである。
「アンジェリークさん?」
「あ、ティムカ君」
「今日和、どうしたんですか?」
「うぅん、ちょっと寄り道」
「駄目ですよ、あんまり遅く帰るとセイランさんが心配します」
「うん」
素直に頷いて、近くのベンチに置いてあった荷物を持つ。
「一つ持ちます」
「いいわよ」
「僕、これだけしか持ってませんから」
本の入っているのだろう紙袋を見せて笑う顔はやはり幼い。成績優秀品行方正、でなくして交換留学生に選ばれるわけもないが、そういった者にありがちな嫌みな大人びたところのない少年である。
「うん」
自分の方がずっと年上の筈なのに、少女はずっと年下のような顔で頷いた。
「お帰り、遅かったね」
買って来た物を所定の位置にこまめにきちんと納めていく少女に、居間へとやって来たセイランが声をかける。
「うん」
短く答える少女を見ていた兄は、少し首を振ってソファに腰を落ち着ける。
「?」
机の上に白い封筒があるのを見咎めた青年は手に取り、勝手に中身を取り出した。
「・・・・・ふぅん」
「あぁ!人のを勝手に読まないでよ!」
振り返った瞬間に少女が叫ぶ。
「・・・・・文才のかけらもないな」
「芸術家の兄さんと一緒にしちゃいけないわ」
「そう?」
言いながら丁寧に元に戻すと、白い指が引き裂く。
「ちょ、兄さん!」
「どうせフるんだろう?」
「分かんないわよ、そんなの」
どんどんと刺々しくなっていくのが自分でも分かりながら、どうしても止められないことも少女は自覚していた。
「何よ、兄さんはレイチェルがいるのに、私はポーイフレンドの一人も作っちゃいけないの!?」
「何?」
不審気にソファの背越しに見上げて来る青金石の瞳に、泣きたくなる。どんどんどんどん、自分が暴走して行く。
「アンジェリーク、どうしたんだい?」
何時ものように伸ばされる腕を払う。
「放っておいて!」
『私にかまわないで』 叫ぶ声に青年の顔色が変わる。何故わけも分からず理不尽な怒りを受けなくてはならないのか。
「アンジェリーク!」
「放っておいて!兄さんなんて嫌い!」
何時もの喧嘩の筈だった。ちょっとしたことですぐに口喧嘩をしては、きまりが悪くてしばらく相手のことをうかがうのは。だから、何時ものように、青年が言う筈だった。
『なら放っておくさ』と。
なのに、
引き寄せられた腕
「アンジェリーク」
見つめる瞳
「え」
触れた唇
ソファ越しにキスを受け、少女が離れる。
「兄さん!」
思いっきり怒り出すのも無理からぬこと。冗談にしても、タチが悪すぎる。
「・・・・・兄さん?」
じっと無言で見つめる瞳の色に、少女はぞっとして掴まれたままの腕を離そうと腕を振る。氷のような瞳だと知っていた。伊達に生まれてからの付き合いではない。なのに、
「離して」
怖かった。知らない人のようで。見つめる瞳が、怖かった。
「あっ」
振り払えず、逆に引き寄せられる。
低い背当てを越え、兄の下敷きにされた妹が、叫んだ。
「嫌っ」
胸元に触れる手があった。
首筋に当てられる唇があった。
「兄さん」
泣き声に、マリオネットの緩慢さで離れる。
「・・・・・行って。頼むから」
俯いた顔は見えない。
「・・・・・じゃないんだ」
胸の辺りで組み合わされた手が震えていることに、少女は気がつかない。胸元を押さえる指が幾つも皺を作る。
蹌踉る足を叱咤して、『早く行け』と誰かが叫んでいる。『聞いてはいけない』『後悔する』と。
囁く誘惑 『知りたくはないか』と。
「・・・・・じゃない。兄さんなんかじゃない」
苦い呟きが、居間を去ろうとする少女の耳に届いてしまった。
『ぴんぽーん』
「はぁい?」
「ヤッホー!・・・・・元気、みたいね」
「ズル休みか」
「レイチェル、ヴィクトールさん」
『自分と兄さんとの間にあるべき筈のものがないのではないか?』 疑問に思わずにはいられない台詞を聞いてしまったのは昨夜のことで、『気分が悪い』と嘘をつき、家に部屋に閉じ籠っていた少女は親友と、父とも慕う人の訪問を受けた。
「どうしちゃったの?」
「ホントに少し気分が悪いの」
気丈に振る舞うのは自分を守る為の鎧だったのに、そうすることが出来ない。動揺はいまだに納まらず、笑うことすら困難だ。
「何かあったのか?」
「いえ」
目を伏せる。何も知らないだろう人達だ。悟らせることは出来ない。
「また喧嘩でもしたの?」
からかう声に、過剰に反応してしまったことに内心舌打ちする。
「ありゃ、喧嘩なの?相手はセイランさんよね?」
・・・・・いっそ、いっそ言ってしまおうか?一人で抱えるには大き過ぎる悩みだ。
「まさか」
客人の口が動く。
「まさか、知って」
『ぴ、ちゃん』
一人で寂しい食事をする気も起きず、少女は早々に浴室に入った。
「知らなかった」
呟いた途端、涙がぽろりと落ちる。
『ビシャンッ』
手の器に溜めたお湯で顔を濡らす。
「知りたくなかった」
涙の滴とお湯が混じって分からなくなる。
「・・・・・」
歯を食いしばって鳴咽を堪える少女の耳に、遠くのドアの開く音が届く。
「兄さん」
滑らかな足音は響かない。何処に向かったのか、分からず、ただ耳を澄ます。
と、
「アンジェリーク?今朝気分が悪いって言ってたけど、大丈夫なのかい?」
「う、うん」
「そう、僕は部屋に戻るから、何かあったら言っておいで」
昨日までと変わらない妹を気遣う兄の声
だけど、彼女はもう知ってしまっていた。
『まさか、知って』
『レイチェル!』
『あっ』
『レイチェル、ヴィクトールさん、何を知ってるんです!?』
『あ、いや、そのな』
『えっと、アンジェリークとセイランさんがホントは兄弟じゃないだなんて、全然知らないよ!』
『レイチェル!』
『あっ!』
『二人共知ってたの!?』
『・・・・・まぁ、ここに住んで長いからな』
『私はパパやママが話してるのを聞いただけ』
『そう・・・・・』
パジャマに着替え、ザクザクに編んだカーディガンを羽織って少女は廊下に出る。
どんな顔で兄に会えばいいのか分からず自室に向かいながら、ずっと沈んだ視線が下へと向かっていた。
「あ」
自分の部屋の前に、小さな箱がある。
「兄さん?」
以前お土産に買って来てくれた時に褒めちぎって以来時々買って来てくれる洋菓子専門店の箱である。
「食べろってことよね?」
手に取ると、少女は何となくそれを捧げるような恭しさで両手に持ってしまう。小さな箱にはちゃんと持つところがあるのだけれど。
よくよく考えてみると朝から何も食べていなかった少女はそのまま踵を返す。あったかい紅茶を容れて、一緒に食べたらもう少し気が晴れるだろうと思った。
「よかった」
ほっとした声が薔薇色の唇から漏れる。
透かした扉の間から妹の姿を見て、切ないため息を零した青年の繊細な指がドアを閉めた。
「・・・・・」
フォークをくわえ、少女はつまらなさそうな顔をする。
「美味しくない」
一等好きな苺のショートケーキが全然美味しくない。あまり甘さが残らない生クリームと苺が好きだったのだけど、まるで美味しくない。
「・・・・・」
味は変わらない筈だ。その日その日の手焼きなので少しは違うだろうけど、それでも平均した美味しさだった。だけれど、今日は美味しくない。
「兄さん」
原因はきっと瑠璃の兄だ。何時も自分は食べずとも一緒にいて話をしていた、してくれた。口元に笑みを湛えて側にいてくれた。何時だって側にいてくれた。
無理に全部食べると、紅茶で流す。
・・・・・独りぼっちが寂しかった。
「・・・・・」
使った食器を流しで洗うと、作るだけ作って食べなかったシチューがいっぱい入った鍋が視線に入った。
火をかけるのを忘れていたのを思い出し、コンロの火をつける。
最初は何となくそれを見ていた少女は、何かを決心して動き出した。
食パンを切って軽く焼く。その間に冷蔵庫からバターと自分で作った林檎のジャムを取り出して皿に添える。
「あちっ」
焼けたパンを取り出す時に慌てて指先を火傷するが、めげずに皿に乗せる。
シチュー皿を取り出し洗って、火を止めると暖まったシチューを移す。
「よっと」
トレイに乗せて、深呼吸
「ふぅ」
少しの間、意を決した少女は歩き出した。
「兄さん、開けて。兄さんってば」
根気よく呼んでいると、少しだけドアが開く。
「何?」
「ごはん、食べたの?」
問答無用で入って来る妹の姿に、苦笑する。
「兄さんあんまり外では食べないんだもん」
『ちゃんと食べなくちゃ駄目だよ』と、少女は言う。その姿が彼女の母親に酷似していることを、青年は複雑な思いで受け止めた。
「ケーキ有り難う」
にこにこ笑っている姿の違和感に、青年は痛む心を抱える。何時だって風のように爽やかなさっぱりとした笑顔の少女だったのに。
「いや」
「相変わらず殺風景ね」
足の短い机とパイプハンガー、パイプベッド、小さな本棚、それだけしかない部屋だ。色も白と黒、アクセントに赤があるだけ。
「必要な物以外何を置いておくのさ」
ベッドの端に座って、彼は笑う。彼はどちらかと言えばアトリエとして使用している部屋を多用しているので尚更殺風景になるのだ。
「そりゃ、そうだけど」
「・・・・・何が聞きたいんだい?」
「・・・・・」
思わず口を噤む少女に視線を向けて、彼は更に言う。
「昨日言ったこと?」
小さく栗色の頭が動く。
「そっか。ま、当然だ」
「私」
「アンジェリークは実の子だよ。違うのは僕だけ。僕は母さんの前の旦那の連れ子だったんだって。誰か他の人に悪意や好奇心から言われる前にって、けっこう小さな頃に言われた。一緒に『それでもお前は私達の子供だよ』って、その言葉も、調子も覚えている」
幸せと悲しみの混ざった笑みを少しだけ覗かせ、彼は続ける。
「書斎にアルバムがあるから見てごらん。二人にそっくりだよ。・・・・・よく覚えてる、君が始めて帰って来た時のこと」
過去を見つめる群青
「小さな本当に紅葉みたいな手で僕の髪を握ったんだ。びっくりしていたら、君が笑った。・・・・・好きだったよ。あの時は『妹』相手だったけど」
伏せられていた緑青が青金石を見つめる。
「何時君を妹に見れなくなったのかなんて覚えてないけど、ずっと好きだったことには間違いない」
呟く声に、少女が震える。
「・・・・・君がよかったら、レイチェルの家の隣の部屋に越すといい。それが嫌なら僕がアトリエに使っている部屋に越そう。一緒にいるべきじゃない」
「兄さん」
「アンジェリークは知らないね」
苦い笑みが白い光と黒い影、両者を繋ぐ赤の中で花開く。
「僕がそう呼ばれる度にどれだけ苦しい想いをしてきたのか。・・・・・もう一緒にいられない」
「・・・・・ヤだ」
我が侭を言う声に、彼は苦笑する。
「子供みたいに聞き分けのないことを言わないんだよ。お子様扱いは嫌なんだろう?」
「ヤァだぁ」
泣きそうな目に彼はほだされそうになるのを何とか堪える。もう二度と、妹とは思えない愛しい少女だ。一時の感情で応えては、これから先、どうなるのか自分のことながら分からなかった。
「オヤスミ」
話はもう終わりだと言うように、玲瓏たる声がそう言った。
「・・・・・」
無言で立ち去ろうとする栗色の後ろ姿を見つめていた群青の瞳が伏せられる。雨に打たれたような悄然たる姿を、見ていることが辛過ぎた。
『カチッ』
小さな音がして、白色灯が消える。
「?」
驚いて視線を上げると、ドアに背を預けた少女がいる。
「どうしたんだい?」
純粋に問いかける。
答えず近寄る小さな影に、何故だか気圧されるような威圧を感じた。
「兄さんが好きよ」
何時もは見下ろす少女を見上げて、彼は苦い笑みを浮かべる。純粋に向けられる、たとえどんなひどい大喧嘩を繰り広げてもそれでも向けられていた愛情が、どれだけ愛しく切なかっただろう・・・・・
「・・・・・私ね、好きな人がいるの」
『兄さんよりも好きな人』 呟く声に、往生際の悪い心が泣いている。
「僕の知ってる奴?」
いっそ知らない奴ならいいのに、彼女は小さく、だけど確かに頷くのだ。
「兄さんも知ってる人」
何故、顔を覆うんだろう?不思議に思う心が首を傾げた時に、声が届いた。
「セイランと言うの」
沈黙が横たわる小さな部屋、小さな空間
「アンジェリーク?」
「セイランが好きなの」
顔を覆う指の間から、窓から零れ入る月の光に輝く何かが伝って落ちる。
「・・・・・」
いっそ平坦に受け止めることしか出来ない言の葉に、彼はただ氷の彫像のようにそこにある。
「驚いたのとと同じくらい、ううん、きっとそれ以上に、喜んだの」
白い指が緩慢に下げられる。白い仮面の、緑青の硝子が濡れている。
栗色の髪が宙に舞う。
受け止めた小さな身体に、彼は言う。
「嘘は言わなくていい。下手な慰めはいらない」
そんなことを言いながら、受け止めるだけに止めるべき腕は細い身体を抱き締める。抗えない愛しさは、何処から湧き出ずるのか?
「嘘じゃない」
駄々をこねる小さな子供の瞳で、彼女は青年を見上げる。
「好きよ」
「だから君は」
腕のなかの大きな子供に言う。
「何時までもお子様なんだよ」
「子供じゃないったら!」
苦笑する声に、勝ち気な声が反論する。
「子供だよ」
耳元の声に震える少女に向けられる声は、同じように震えている。
「そんなこと言って、僕が我慢出来なくなったらどうするんだい?」
「・・・・・いいもん」
拗ねた声が響く。身体の奥底に、直に。
「兄さんなら、いいもん」
「そんなに、知りたい?」
笑う声は何時もの、よく知っている声だ。からかう声音、よく知っている。
「まだ知らなくてもいいけど、教えてくれる人が兄さんなら、別にかまわないもの」
そう、栗色の髪を撫でて慰めてくれるのは、何時だってこの人だった。覚えていない自分を生み出した人達の代わりにこの人が世界を教えてくれた。問えば、この人は何時だって答え教えてくれた。愛されることも、愛することも、この人が教えてくれた。
「知らないよ」
甘く線を描く頬を包み込む白い指、近づく唇
「優しく教えてなんて上げない」
決別の口づけ
今まで育んだ全てとの
柔らかな栗色の絹糸が散った白い面を見下ろす。涙の跡の残る頬に、彼は心臓が締めつけられるのを感じた。後悔することは嫌いだけど、後悔した。
少し、性急に過ぎた・・・・・ 押さえていたものが暴れ、やっと自分の手のうちに落ちて来た少女を求める気持ちが先走った。
「アンジェリーク」
薔薇色の唇が、『妹』の名を呼ぶ。
「アンジェリーク」
深紅の唇が、『恋人』の名を呼ぶ。
『妹』であり『恋人』である少女の頬にかかる栗色の髪を退ける。
「ん」
胎児のように背を丸めて、少女がさして弾力性の期待出来ないパイプベッドに顔を擦り付けるように動いた。
「と」
その反応に思わず、バネ仕掛けのように頬に当てられていた指が遠のく。
「ん、兄さん」
寝惚けた声にズキリと痛む心
「起きた?」
「うん」
にこりと少女が顔だけを青年に向けて、白い手を伸ばすとシーツが白い背中を滑る。猫のような仕草が彼女らしい。
「ね、どうしたの?」
キラキラ光る大きな青翠の瞳の少女はまるで子供の頃に戻ったように、クスクス笑って青年に抱き着く。
「僕は、やっぱり『兄さん』でしかないらしいね」
「?」
「君は僕を名前で呼ぼうとはしないだろう?」
首を傾げる少女を見下ろして、彼は苦く笑う。
「名前で呼ばなきゃ、駄目?」
ジッと大きな瞳が見上げる。
「あの時はちゃんと呼んだつもりだけど」
・・・・・
「自覚、ないね」
「?」
突っ込んで考えると思いっきり危ない台詞であったが、本人分かっていない。
「もう少しだけ駄目?いきなりは無理だもの」
「もう少しだけねぇ」
考え込みながら、流した視線の先で少女が見つめている。
「・・・・・高校卒業まで。いいね?」
「うん」
にっこりと笑う少女を引き上げると、唇を重ねる。
「明日になったら、『兄さん』に戻るから」
腕のなかに閉じ込めた恋人に、彼はそう言う。
「高校を卒業したら、僕と結婚する?」
「兄さんと?」
「そう。どうする?」
髪を梳きながら問うと、彼女は答えた。
「うん」
クスクス 笑い声が満ちる。
「まさか本当に兄さんのお嫁さんになるだなんて、思わなかった」
「そうだね、僕も本当にお嫁さんにするだなんて思わなかったよ」
小さな頃、恋の種は撒かれていた。本人達の知らないところで小さな種は小さな葉っぱをつけて、育っていった。育った小さな苗は時に揺れて折れそうで、だけど守られ、今日という日に満開の恋の花びらを舞い散らせ、二人の恋を祝福するのだ。
「ずっと好きだよ」
甘い唇を求めながらの告白
「うん。私もずっと好き」
受け止める唇に答える告白
「ずっと愛してる」
「ずっとずっと、愛してる」
囁く声が混じり合う恋人達の夜は甘く更け
それは昇り来る太陽の光に還り
何時か再び恋の花が咲く日まで
二人のうちで密やかに守られたのである
そして・・・・・
「ド馬鹿ぁ!!」
盛大な罵声が轟く気持ちのいい朝だ。
「まぁたやってるよ」
呆れた声が蜂蜜色の美少女から漏れる。
「まったくですよねぇ」
同じだけ呆れた声が褐色の少年から漏れる。
「またやってんのか?あっちの角まで響いてるぞ」
二人以上に呆れた声が小麦色の男から漏れる。
「馬ぁ鹿ぁ!」
雲一つない青空に高らかに響く怒声である。
「・・・・・ノロケんのもいいけどさぁ、もう少し大人しくやって欲しいわね」
カリカリと頬をかくレイチェルである。彼女の手には今日の朝刊がある。
「結婚してからほぼ毎日だぞ」
「ホント、飽きませんよねぇ?」
日課のジョギングから帰って来たばかりのヴィクトールと取って来たばかりの新聞をそのまま同居人に渡すティムカの台詞である。
先頃結婚したばかりの新婚夫婦は、ほとんど毎朝飽きずに盛大な喧嘩を繰り広げる。笑えることに絶対に前日とは違う内容で、である。
「そう簡単に直らないんだから仕方ないじゃない!!」
「ぐぁっ」
「キっくぅ」
「勘弁して下さいよぉ」
再び轟く怒声に耳を押さえ、揃って沈没する一同
「今朝はいったい何だぁ?」
「呼び方じゃないですか?」
「いまだに『兄さん』だもんね」
クラクラする頭を一様に押さえて三人はボソボソ喋る。勿論、呼び方を注意した程度でこれ程盛大な喧嘩になろう筈がないので、そのついでに何かしら旦那がしたのだろう。あの元は兄である寒色の似合う青年は、それはもう人目もはばからず新妻であり元は妹であるまだ何処か幼く女性とは呼べない少女にひたすらベタベタしているのだ。それだけベタ惚れに溺愛しているのだということだろうが、夫婦喧嘩というどれだけ飢えた野良犬だって食わないものをご近所に振り撒かれても−粗大ゴミや生ゴミみたいに捨てられるわけではないのだ−はっきり言って、困る・・・・・
「やってなさい」
「もう少し時間が遅いと周りも起き出すから被害も少ないんだがな」
「そういう問題ですか?」
もはや慣れきった三人は呟く。
「「「それでも、結婚前とほとんど変わってない・・・・・」」」
ようするに、兄弟として暮らしていた頃と変わらないわけである・・・・・
どういう暮らしをしていたんだろう?
「何せ、アンジェリークさんに言い寄る男は影で全て一蹴してましたもんね」
「そうそう、手紙を渡すように頼まれたらその人の目の前で懇切丁寧キレェに破り捨てるんだもん」
「僕、以前セイランさんがポストに入っていた手紙を破り捨てて、更に火を点けて燃やすのを見たことあります」
「・・・・・独占欲の塊だな」
「昔っから、そりゃあアンジェリークを溺愛してましたけどねぇ」
「だからって、そこまでするかぁ?」
「学年が違うけど、私使って探り入れるし」
「何だそりゃ?」
「あぁ、自分の知らないところで言い寄る人がいないか?」
「そ。お陰でアンジェリーク、あれでけっこうモテてたのに、本人全然知らないんだもんねぇ」
「・・・・・恐ろしい奴だな」
「何だかなぁ」
「もう兄さんなんて嫌いぃっ!!」
「僕は好きだよ」
「な」
「あ、静かになった」
「どうやって静めてんだか」
「やってられん」
まったく、同感である。
「いきなり何するのよっ!」
「キス」
「・・・・・」
「どうしたんだい?」
腕のなかでがっくりと脱力している奥方に、旦那様が問うと、答えが返った。
「呆れてるの!」
「どうして?」
心底呆れている声に少女は何故だか狼狽えてしまう。
「どうしてって・・・・・」
「ずっと好きだよ。言っただろう?」
「もぉ・・・・・」
呆れた吐息が唇から漏れる。
「アンジェリークは?」
「・・・・・」
「アンジェリークは?」
「すき」
「聞こえないよ、奥さん」
楽しそうな声に、観念する。
「ずっと好き」
「よろしい」
「んん」
唇が重なる。
微笑み湛えて囁き合う。
「愛してる、アンジェリーク」
「愛してるわ、セイラン」
・・・・・勝手にやってなさい・・・・・
END
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