IF STORY〜メイドさんとご主人様バージョン〜

IF STORY〜メイドさんとご主人様バージョン〜


 朝としては十分に遅い時間に、少し歴史を感じさせる洋館に声が響いた。
「ご主人様ぁ!起きて下さいよぉっ!」
 熟睡しまくっている《ご主人様》こと彼女の雇い主職業芸術家の《セイラン》の姿に、いい加減に諦められたらいいのだがどうしても諦めきれない少女職業メイドさんの《アンジェリーク》は声を張り上げる。
「・・・・・」
「もうっ!!起きて下さいったらっ!!」
 怒って少女が怒鳴りつけるが、反応はない。
「えぇいっ、こうなったら」
 危険な目で少女がシーツを掴む。のだが、ちょうど見計らったかのようなタイミングで玄関から柔らかな呼び鈴の音が響いた。
「ありゃ、お客様だ」
 今にも何かをしでかそうとしてた少女は来客に気がついて、とっとと部屋を出て行き、
「・・・・・」
 瑠璃色の髪の青年の方は、そんなことにも気がつかず、睡眠を貪っていた。

「申し訳ありません、約束より早くついてしまって・・・・・」
 ブルネットの髪をきっちりとまとめた知的美人が愛想のいい笑顔でそう言うと、少女は首を傾げた。
「今日は来客予定、入っていないのですが?」
「は?」
 あくまで知的な美人という印象を崩さない程度ではあったが、虚を突かれたらしい美女は眉根を寄せて首を傾げる。
「アボイントメントは取ってありますが」
「ですが、セイラン様からは聞いては・・・・・」
 ここで言葉を切って少女は改めて客人の名前を聞くと、一つ頷く。どうやら来客の約束はともかく、彼女の名と共に示されたある名前には覚えがあるらしい。
「すぐにセイラン様をお呼びいたしますので、しばらくこちらでお待ち下さい」
 接客の初歩であるお茶を出すと、ペコンと愛らしい仕草で少女は頭を下げて女性を通した居間を辞する。

 そして・・・・・

 『ズダダダダダッ』
 盛大な足音が響いた。

「セイラン様っ!!」
 怒鳴る声も二割増だが、青年は背を向けたままである。寝ているらしい。
「まったく、毎朝毎朝!」
 怒った少女はシーツを掴む。
「でぇいっ!」
 『ぶわぁっさ!!』
「どわっ」
 シーツが勢いよく引かれ、青年がベッドから転げ落ちそうになる。
「やっと起きられましたね。さ、お客様がいらっしゃってますよ」
 テキパキとクローゼットから青年の服を取り出すと押しつける。どうやら、何時もこの手で起こしているらしい。手際がいい。
「客?」
「ウォン様の名代で、シャーリー様とうかがいました」
「あぁ、そう言えば約束していたっけね」
 夜着を脱いで少女から渡された−正確には押しつけられた−服に袖を通す。
「やっぱり、約束してらしたんですね。私、聞いていませんよ」
 シーツを剥ぎ取り、用意しておいた新しい物で寝台を整のえながら少女は抗議する。
「いい加減にそういうこと、ちゃんと私に言う癖をつけて下さい。何時も何時も、突然なんですから」
「はいはい、分かったよ」
「全然説得力ないですよ」
 ビシッとツッコみが入り、青年は苦笑じみた表情を覗かせる。
「それと、もう少し起きる時に手間かけさせないで下さいな。ホント、世話が焼けるったら」
「君、自分の職業分かってる?」
 今度は青年がツッコみを入れるが、少女は『当然だ』と頷く。
「だけど、それとこれとは話が別です。人間としてだらしがなさすぎます」
「そこまで言う?」
「言います。さ、顔を洗って、早く客間に行って下さいな。お客様が待ってらっしゃると言いましたでしょう?」
「はいはい」
 男性としては長めの髪が頬にかかるのをさも鬱陶し気に払って部屋を出る青年に、少女のチェックが入る。
「返事は一回で十分です」
「・・・・・君は僕の母親かい?」
「馬鹿な子は可愛くても、手間のかかる子は可愛くありませんね」
 ツンッと言い放たれた言葉に、青年は今度こそ苦笑した。

「失礼しました」
 玄関の辺りで声が響き、少女は花壇に水をやる手を止める。
「へぇ、めっずらしい」
 響いた声の張りに、少女は本気で驚いていた。何せかの雇い主は辛辣な毒舌家で、たいていの客は疲れきった声で帰って行くのだ。それを考えれば女性であれだけ元気に帰って行ける彼女は可成凄いと言える。
「お話し終わったんですね。次は何時来られるんですか?」
「ん、二週間後だって」
「はい、
今度は分かりました。すぐにお昼をお作りしますね」
 居間の長椅子に身を横たえるようにして座っている主人に笑いかけると共に嫌みを言ってから、少女はパタパタという足音を残してキッチンへと向かう。この程度の嫌みで反省してくれるような人ではないと知ってはいても、二年間という決して短いとは言い難い期間数える気が起きなくなるくらい同じことをやられては、言いたくなるというものだ。それでも、来客のお陰で朝食抜きの青年に少しでも早く持って行ける物を手早く作ってあげようとするところがメイドさんの優しいところだろう。
「アンジェリーク、今日は下に行くのかい?」
「えぇ」
 少女は後ろも見ずに答える。手元ではリズミカルな音が決して絶えない。
「何か用事が出来ましたか?」
 人との付き合いをうざったいものとして感じる青年だ。何か用事が、それも彼女に頼めないような用事が出来ない限り、あまり下こと町の方には足を向けない。だからこそ、先程までいた女性のように、わざわざ足を運んで画廊の方から芸術家セイランの絵画を借り受け等に来るのである。
「道具が足りなくてね」
「そうですか。じゃあ、一緒に参りましょうか?」
「なら時間節約の為にも君も一緒に食べるといい。何時も思っていたんだけど、僕が食べ終わるのを待つだなんて、時間の無駄だよ」
 肩越しに青年を見た少女は、瞬く間に整えたトレイを一度置き、
「はい」
 茶目っ気あふれるスカートを軽く摘まんだ礼をした。

「お姉ちゃん、今日和」
 可愛いと言っていいまだ十才かそこらの紫の瞳の少女がアンジェリークを見つけて駆け寄って来る。
「はい、今日和」
 愛想よく答えて少女は荷物を持ち直す。今日は食料品そのものよりも胡椒だとかの調味料を主として買いに来た分荷物が少ないようだ。
「お姉ちゃん、どうしてセイラン様のとこに住んでるの?」
「セイラン様の身の回りのお世話をするお仕事をしているからよ」
 顔馴染みの少女の子供故の率直な問いにあっさりと答える少女である。隠し立てする必要性があるとは思えなかったからだ。
「ふぅん、じゃ、いっつもセイラン様と一緒なんだ」
「そうでもないわよ。セイラン様は時々旅行に出られるから」
 首を少し傾けて答えると、真剣な顔で小さな少女は大きな少女に問いかける。
「それじゃあ、一人って、寂しくない?」
 大きな紫の瞳に困惑したように少女は答える。
「お仕事だもの」
「お仕事でも嫌にならない?どうして、辞めないの?」
 大きな大きな瞳に、驚いている少女が映る。
「別に嫌になんてならないし、辞めちゃったら」
 言葉を濁す少女の様子に、不服そうに子供は頬を膨らませる。子供だからと言って、教えてくれないのは狡いとでも考えているのだろう、語気も粗く言う。
「どうしてぇ?」
「仕事辞めたら、生活出来ないだろう?」
 『何を当然なことを言っているんだ』と言いた気な瑠璃の声が響いた。
「セイラン様」
「買い物終わったの?僕は帰るからね」
「あ、待って下さい」
 『お嬢ちゃんバイバイ』と慌てて言って、後ろを振り返りもしてくれない青年の後を追う少女を見た子供が呟いた。
「もうっ」

「お帰りですか?」
 予定通りやって来ていた女性に門の辺りを掃除していた少女が声をかける。
「えぇ。ねぇ、貴女ここで働いて、長いの?」
 《シャーリー・テンプル》と以前来た時に名乗った美女は、勝ち気そうなながらも愛らしい少女にそう問う。
「はい。今年で二年です」
「そう」
 それこそ以前彼女自身が帰って行く時の声に少女が驚いた時と同様の驚き具合である。
「それが何か?」
「セイラン様のところに来た子って、平均三日で辞めて行くって聞いていたから、ね」
「そうらしいですね。以前ちょうど私が働きだして一週間の日に下の街の皆さん驚いてましたね。『凄い』って言ってました」
 クスクスと笑う少女の脳裏には、その時の街の住人達の慌て振りが再現されている。あれからというもの一目置かれるようになったのだ。
「ねぇ、セイラン様って何がお好きかしら?」
 『今度持って来たいんだけど』と言うと、少女は甘い線を描く頬に人差し指を当てて首を傾げる。
「ご主人様は、お好きな物が美味しい物で、嫌いな物が不味い物って言ってました。だから、不味かったら食べないけど、美味しくないものでも他にないなら一応食べるって」
「・・・・・」
「シャーリー様はセイラン様がお好きなんですか?」
 率直な問いに考え込んでいた女性は何気なく頷く。
「えぇ」
 ・・・・・
「あ、いやね、その、別に好きって言っても作品がであって」
 慌てて弁解する女性である。こうなると知的だろうが何だろうが、端から見ている分にはたいへん微笑ましい。
「別に作品でもセイラン様自身でもいいですけど、だからそんなに元気なんですね。普通なら男の方だって死にそうな顔で帰って行くんですもの」
「・・・・・」
 笑って言ってのけられた台詞に、思わず内心では『分かる』と思いっきり力を込めて頷くシャーリー・テンプルであった(笑)。

 しばらくのこと家を留守にしていた青年がさも鬱陶しそうに外套を放り投げる。
「アンジェリーク、いないのかい?」
 何時もなら帰って来たことに気がつくと飛んで来る少女が来ないことに首を傾げながらそう言い、青い膝丈ワンピースと白いエプロンを探す青年であったが、
「・・・・・何だ、買い物にでも行っているのか」
 自分の部屋の机の上、目につきやすい場所に置かれた置き手紙を見て、彼は苦笑した。

『セイラン様へ
下に今日の買い物に行って来ます。
決してお勤めが辛くて逃げ出したわけではありませんので、
新しい人を雇おうだなんて考えないで下さいね。

                               アンジェリーク』

「雨が降るだろうに、何もわざわざ行かなくてもいいのにね」
 彼女らしい読みやすい字で書かれたメモで口元を覆った青年は窓の外の空を見上げてそう言った。

 一寸先も見えない土砂降りとまでは言わないが、可成の雨の量にセイランの眉がしかめられる。
「いったい何をしているのやら」
 不機嫌そうにそう言って、窓の外を見る。
「帰って来ないから気が散って仕方がない」
 そんなことをぼやきながら彼はスケッチを中断する。ちょっとした旅に出てはその先で気に入ったものを覚えて家に帰ると描き出すのだが、ここ二年何時も帰りを迎えてくれた少女がいないことで調子が外れてしまっていた。
 『カタン』
 物音に気がついて片付けをしていた青年は部屋を出る。
「雨が振り出したっていうのに、随分遅かったね」
 ずぶ濡れの少女に吹き抜けの玄関へと続く階段を下りながら言うと、少女は緩慢な動作で顔を上げる。
「アンジェリーク?」
「・・・・・あ、お帰りなさいませ、セイラン様」
「どうしたんだい?」
 ほぼ一週間ぶりに顔を合わせたメイドさんがあまりに元気のないことに首を傾げるご主人様である。
「風邪ひくよ、早く着替えておいで」
 珍しく優しい口調でそう言うが、少女は手の中の荷物に視線を向ける。
「これをちゃんと置いておかないと」
「何言ってるんだか」
 呆れて青年が荷物を持とうとすると、少女は首を横に振って言う。
「濡れちゃいますから」
 日陰の花のような弱々しい風情でキッチンに向かう少女を、奇異なモノでも見るように青年は見送る。
 二年前、初めてやって来た時から弾けるような活発さでこっちを引っ張り回した少女だというのに、あれではまるで別人だ。
 素直に心配するということが性格的に出来ない青年ではあったが、二年も同じ家に住んでいるのだ。流石に心配して後を追う。
「・・・・・だから、早く着替えておいでって言っただろう」
「私もちゃんと置かないとって、言いました」
 所定の位置に次々に買って来た物を納めている少女は、心配して言う青年の言葉にそう反論した。無論、髪や服から水滴を落としながらという寒い格好のままでだ。
「僕は君の雇い主だ。雇い主として命令する。着替えて来るんだ」
 少女が手にしていた物を横から奪って、群青の瞳が心配を通り越して怒って言う。
「ちゃんと髪も拭いて、暖かくするんだよ」
「はい」
 大人しくキッチンを出て行こうとするアンジェリークにセイランの言葉が投げられる。
 これでは何時もと立場逆転であるが、二人がそのことに気がつくことはなかった。

 『ココンッ』
「アンジェリーク、着替えたかい?」
 ・・・・・
「アンジェリーク?入るよ?」
 返事がないことに首を傾げながらドアを開ける。女の子の部屋なのだが・・・・・
「アンジェリーク!」
 栗色の髪が冷たい床に広がっている。
「だから言ったてのに!」
 苛立たしい声で少女を抱き上げると寝台に横たわらせる。髪はきちんと拭いているが服は着替えている途中だったらしく、可成ヤバい格好である。
「君のせいだからね。僕はちゃんと言ったんだから」
 そんな言い訳をしながらクローゼットを開けると寝るにやすい身体を締めつけることのないような服を探すのだが、ほとんどが自分が渡したメイドさん服−ワンピースのスカートと上腕部は膨らみ、その他は身体にぴったりと添う型で、無論エプロンとカチューシャにはフリルとレース付き−である。よくよく考えるとこの少女は、休みらしい休みも取らずにずっとここで働いていたわけで、元々女の子らしい『自分を着飾る』といった意識が薄いのかもしれないが、見当たらない。
「あったあった」
 それでも使えそうな物を選ぶと、少女を着替えさせる。
「世話を焼かせるったらないね」
 ・・・・・だから、何時もとは立場が逆なだけということに気がついていないらしい。同じだけの世話を二年間も彼女は焼いていたのだが・・・・・

「申し訳ありません」
 怠そうに寝台に横になっている青年が、チラリと少女に視線を向ける。
「・・・・・別に」
 意地を張ってでもいるような主人の姿に目を伏せ、少女は白い指を水に浸すとボールの中のタオルを取り出し、適度に絞る。
「私のせいです」
 キュッという音がしたそれを、メイドさんの手がご主人様の額の布と交換した。
「違うよ。油断した僕のせいさ」
 熱っぽい何処か潤んだ瞳で彼は寝台の天井を睨んだ。

 メイドさんが寝込んだのは倒れた日を入れて二日間、入れ替わるようにご主人様が倒れたのは今朝のことである。

「どうかなさいましたか?」
 突然眉をしかめた青年にメイドさんの鈴を転がしたような柔らかな声が届く。
「別に何もないさ。僕はかまわないから、出て行ってくれ」
 ボソリと低く命令した青年は、脳裏に響く幼い少女の言葉を振り払うように栗色の少女に背を向ける。

『私聞いちゃったの。あのね、アンジェリークお姉ちゃん、結婚申し込まれたのよ』

 振り払っても、振り払っても、脳裏にその言葉が木霊する。

「セイラン様は、私が邪魔ですか?」

『ずっと前からお姉ちゃんのことが好きだったんだって』

 少女が伏せっていた間に、嫌々ながら下へと降りた時に聞かされた言葉

「私はここを出て行った方がいいのでしょうか?」

『お姉ちゃんだって、幸せになりたいもんね』

「出て行け」
 冷たく響く声に、一瞬少女の瞳が揺れる。『部屋から』という意味以外が聞こえたせいだ。
「それは、解雇するという意味でしょうか?」
 あくまで穏やかな声が、今日ばかりは彼のカンに障った。

「そうだ!出て行けっ!!」

 癇癪を起こした子供のような顔を枕に埋めた青年の髪に、子供を宥める母親のように触れる。

「・・・・・分かりました」

 その囁きが最後の記憶
 彼の意識は黒く塗り潰された

 ゆっくりと群青の瞳が開かれる。
「熱、引いたのか?」
 熱でギシギシと痛んでいた身体が嘘のように軽く、起き上がった青年はぼんやりとした視線を巡らせる。
「アンジェリーク?」
 あるだろうと思っていた気丈な瞳が見つけられず、彼は眉をしかめる。
 寝台から少し離れた位置にあるクローゼットを開けると、揃えられていた服に彼は着替えた。起き上がっている自分を、あの勝ち気なメイドがやって来ざまに『まだ起きるのは早い』と怒るか、『珍しい』とか言って驚くかするだろうと思いながら。

「・・・・・」
 神経質に袖を直し終わっても栗色の髪の一筋すらも見えなくて、彼は困惑の極みというものを初めて知った。
「昨日倒れたばかりの主人を放って、何をやっているんだか」
 そんなことを呟きながら彼は広い屋敷を少女を探して歩く。

 そして、それを見つけたのは暖かさのかけらもない彼女の部屋の、机の上だった。

『今までありがとうございました。
差し出がましいと思われるかもしれませんが、
街の人に次の人を雇う間のことを頼んでおきます。
せめて風邪が治るまでは、追い出したりしないで養生して下さい。

                             アンジェリーク』

 レースで作られたカチューシャと一緒に置かれていた手紙を握り潰す。
「どういう、ことだ?」
 彼は呆然たる面持ちで呟いた。
 何故突然彼女が出て行ったのか分からなくて、必死に熱に浮かされていた昨日のことを思い出す。

 子供のような八つ当たりを、して・・・・・
 『出て行け』と、そうだ、『出て行け』と言ったのだ!

 叫んだところまでを思い出した青年は呟く。
「本気にした?」
 あの勝ち気で、それと同じだけ素直な少女なら、自分の言った心にもない言葉を本気にして出て行ってしまっても不思議ではなくて・・・・・
「冗談じゃないぞ」
 唇を噛んで、彼は部屋を飛び出す。
 熱で自分で自分を制御しきれていない時に、あんな、本当に言いたいことと全く逆のことを言って、そのせいで二度と彼女に会えないだなんて、本当に冗談ではなかった。

『セイラン様に暇をいただいたの。で、悪いんだけど、次の人が来るまで、セイラン様の風邪が治るまででもいいから、行ってくれないかな?』
「って、頼まれたわよね、私達?」
「うん」
 買い物の為に降りて来る同じ年頃のアンジェリークと親しくなり、そのツテで以上のように青藍の芸術家のしばらくの世話を頼まれた少女達は、猛スピードで目の前を走り抜けた件の芸術家の後ろ姿を見ながら言った。
「あれの何処が風邪ひきなわけ?」
「さあ?」
 そんなことを言われているとは露とも知らず、彼は何時もそれなりに時間のかかる道を半分以下の時間で駆けて行ったのである。
 そして、
「アンジェリークお姉ちゃんを探してるの?」
「知ってるのか?」
 氷の鉄面皮を屋敷に置いて来たらしい青年の珍しい慌て振りに、驚きまくっている大人達の塊から紫の瞳の子供が特別驚いた様子もなく青年に向かって歩いて来ると頷く。
「知ってる」
「何処にいる?」
 子供相手に性急な、随分大人気ない口調である。
「あっちに『銀糸の滝』っていうところがあるでしょ?あそこにいるわよ。私、さっき会ったもん」
「銀糸の滝だな」
「・・・・・『有り難う』の一言もないのかしら?」
 確認するや駆け去った青年に、菫の少女は随分ませたため息をつく。
「どうしたの?」
「あ、お母さん」
 自分に向けられた声に振り向き、同じ色の髪の母親の姿を見つけて少女は駆け寄る。
「お母さん、父様はまだ戻って来ないの?」
「そろそろお帰りになるから、呼びに来たのよ」
 そう言って、髪は自分譲り瞳は最愛の夫譲りの娘の手を引き、彼女は周囲の人達に会釈しながら来た道を引き返す。
「あのねぇ、お母さん、私ね、今日とってもいいことしたの。もしかしたら私って天使かも?」
 スキップを踏むような娘の言葉に、彼女は首を傾げる。
「どんないいことをしたの?」
「あのね・・・・・」

「未練、よね」
 銀色の糸をより合わせたような美しい滝の辺に佇んでいた少女は、振り切るように首を幾度か振る。彼女の視線の先にあったのは、銀糸の滝ではなく、樹木の緑に映える歴史を感じる洋館で・・・・・
「さぁって、新しいお勤め先を見つけないと、生活出来ないわ」
 至極現実的なことを言い、そうすることで前を見つめることを自分に言い聞かせる。
 もう一度だけ、高い位置にある洋館を慈しむように見つめた彼女は踵を返した。

「アンジェリークッ」

 怒ったような声が、滝から流れ込んだ水で満たされた湖とは反対のそれなりに背の高い樹木の間から響く。
「セイランさ、ま?」
 その声は絶対に間違えることのある筈のない昨日まで自分を雇っていた人のもので、彼女は驚いた声でそちらを見やる。
「アンジェリーク」
 雪白の整のった美貌をうっすらとにじんだ汗が彩り、上下する肩、木に手をついて、見つめる瞳、粗い息を繰り返す唇が動いて彼女を呼ぶ。
「セイラン様」
 再び呟き、彼女は駆け寄る。
「何やっているんですっ!?風邪をひいて倒れたのは昨日でしょう!?お忘れですか!?」
 威勢のいい声でそう言うと、青年の群青の瞳が細められる。
「『何やっているか』、だって?それは僕の台詞だ。君は何をしているんだい!?」
 怒っている声に、少女は当たり前のことを言う口調で答える。
「セイラン様にお暇を出されたので、新しい仕事を探しに行こうとしているんです」
 『ここらへんにはないから、生まれた街にでも帰って探します』と続ける少女の細い肩を、青年の指が痛い程の力で掴む。
「あんな、熱に浮かされた病人の言うことを真に受ける馬鹿が何処にいる!?」
「ここにいます」
「・・・・・」
 胸を張って答えられ、思わずセイランは沈黙する。まさか、間髪入れずに、そう答えられるとは思っていなかった。
「・・・・・ちょうどよかったんです。もう、セイラン様のところで働くのって、苦痛でしかなかったから」
 俯いてそう言う彼女を、彼は驚いて見下ろす。
「どうして?」
 問いかけると、彼女は答える。
「何時かあの屋敷には人が増えます」
 確定していることを、確かめるような口調
「何時か、セイラン様が何方かと御結婚なさったら、人が増えます。それまでに、出て行きたかったんです」
「人が増えるのが、嫌なわけ?」
「違います」
 首を横に振ると、絹糸のような栗色の髪が風をはらんで膨らむ。

「セイラン様が、誰かと一緒になられるのを見るのが嫌なんです」

 俯いていた顔が上げられる。

「仕える者が仕えなくてはいけない人を好きになんてなっちゃいけないんです。私情が入って仕事の邪魔になるし、何より、セイラン様って、そういうの、お嫌いでしょう?」

 緑青の瞳が泣きながら、笑みの形に細められる。

「だから、嫌われる前に出て行きたかったから、ちょうどよかったんです」

 白い指が自分の肩を掴む腕を外す。

「今まで、有り難うございました」

 震える声に、彼の感情が爆発する。
「駄目だ、出て行くだなんて認めないっ」
 腕の中に抱き込んで、彼は彼女を縛りつける。
「行かせないっ」

「・・・・・なぁに、この沈黙は?」
「そんなに驚くようなことかしらねぇ?」
 おっとりと首を傾げる母親の腰の辺りまでしか身長のない少女は、『そうよねっ』とそれは力強く母親の言葉に頷く。
「で、でも」
 恐る恐ると言った風に口を挟む大人に、子供が視線を向ける。
「セイラン様とアンジェリークがお互いに好きだなんて、どうして?」
「分からない方がおかしいわよ。だって、あのセイラン様と二年間も一緒にいられるだなんて、愛がなければ無理だもん」
「・・・・・」
 沈黙する大人達に、子供は呆れたようにため息をつく。
「大人になると、鈍くなるのかしら?」
 その言葉に娘の、『セイラン様とアンジェリークお姉ちゃんのキューピッドをやったのよ』、という爆弾発言にも動じなかった母親が眉をしかめる。
「そういう人を馬鹿にするような言い方をしてはいけないわ、リトル・アシャン」
 軽く自分と同じ名前の娘の額を小突く、とても既婚者で子供のいる身とは思えない女性である。
「さ、ロテール様が、お父様がお帰りになる前に帰って、お迎えしましょう」
「はぁい」
 しばらく仕事の関係で家を空けていた父親が大好きな少女は手を挙げて『良い子のお返事』をする。
「お母さん、家まで駆けっこしよう」
「はいはい」
 穏やかに笑う母親に、夕焼け色の髪の娘も笑い返した。

「セイラン様、どうか手を離して下さい。もう、私、お側にお仕えすることが出来ないんです」
 泣いている瞳が、困ったように青年を見る。

「貴方のことが好きだから」

 そう言って、自分を抱く腕を振り払おうとする少女の耳朶を、掠れた声が打った。

「僕だって君が好きだよ」

 強く抱き締めて、絶対に離したくない、ただ一つの存在へと彼は言葉を紡ぐ。
「僕だって君が好きだ」
 自分の言葉が原因で彼女が出て行くと言うのなら、自分の言葉で引き留めることが出来る筈だから。

 驚きに目を見開き、彼女は口を動かす。
「セイラン様が、私を?」
「アンジェリークが好きだよ」
 すぐさま答え、彼は彼女を抱く腕を強くする。
「君も僕が好きだと言うのなら、出て行く必要なんてない」

 細い指が絡む。
「いて、いいんですか?」

『私なんかでいいんですか?』

 見上げる瞳の端に、彼の唇が触れる。
「いいに決まっている」

『君がいいんだ』

 その言葉に、彼女は広い胸に額を当てる。
「ずっと、いてくれるね?」

『僕の側に』

 小さく栗色の髪が揺れる。
「側に、いさせて下さい」

『ずっと』

 そして  更なる高みへと駆ける太陽の下
 恋人達は  当たり前のことのように口づけを交わした

「いらっしゃいませ」
「セイラン様はいらっしゃいますよね?」
 穏やかなその言葉に、一瞬少女の笑顔が凍りつく。
「あの?」
「・・・・・セイラン様でしたらご在宅です。こちらへどうぞ」
 あくまでにこやかに笑んだ少女は、やって来た女性の為にお茶を容れる。
「しばらくお待ち下さい」
 そう言い置き、きっちりと客間の扉を閉めると、

 『ズダダダダダ・・・・・』
 今日も元気な足音が響いた。

「起きて下さいっ!セイラン様っ!!」
 足音も高く入って来た少女は、怒鳴るぐらいでは起きてくれない雇い主を起こす為、白いシーツの端を掴んだ。
 のだが・・・・・
「っ!?」
 勢いよく引こうとした矢先に腕を掴まれ引きずり込まれた少女が、驚きの声をあげる前に唇が塞がれる。
「ん」

 頬に額に、落ちてくるしなやかな絹の糸

「セイランさ、ま」
 唇が離れた刹那のため息と呼ぶ声に、涼しい声が柔らかに笑う。
「ちょっ、何するんですかっ!?」
 メイドさん服の合わせ目に触れてくる指に、真っ赤になって組み敷かれた少女が手足をばたつかせて逃げようとする。
「良い子だから大人しくしておいで」
 甘い声に、ザァッと青ざめた少女である。
「お客様が来てますぅ」
「待たせておけばいいだろう?」
「そういうわけにはいきませんっ」
「どうして?」
 ・・・・・何が嫌だって、本気で疑問に思っているらしいことだろう・・・・・
「セイラン様」
「何?」
 突然何かに気がついた顔で睨む少女に、青年が首を傾げる。
「本当は一人でもちゃんと起きられたんですね」
「・・・・・」
 今度は流石に言葉に詰まるご主人様である。
 その隙に逃げ出すメイドさん
「こちらに着替えを置いておきますので」
 何時ものペースを取り戻したメイドさんには不満そうな顔のご主人様の視線も何のそので、クローゼットから服を取り出し、太陽を模した青年作のアクセサリーを取り出す。
「・・・・・なんでしたら、お着替えも手伝いましょうか?」
「かまわないよ」
 ブスッとした顔でまだ寝台から降りていないご主人様にメイドさんが事務的に問うと、とうとう青年は拗ねたような顔で降りた。
「そうですか」
 澄ました顔で応えると彼女は寝台を整のえる。シーツを剥ぎ取り新しいものと変えたりと仕事をこなしながら、その背後で着替える青年の気配を計りながら彼女は言った。
「本当にいい加減、せめて前日に人が来ることを言って下さい」

「お代わりは如何ですか?」
「いただくわ」
 商談相手に続いて再び現れた勝ち気そうなメイドさんの問いに彼女は軽く頷き、すぐさまお代わりが注がれる。
「では、私はこれで」
 商談に入る前にメイドである少女は部屋を出るのがルールであるので、彼女はすぐにその場を離れようとするが、
「アンジェリーク」
 不機嫌そうに呼ぶ声に首を傾げながら近づく。
「何か不都合がございましたか?」
 一応客が来ている時は相手に合わせてカフェイン類を口にする青年であるが、今日はお気に召さなかったのかと思った少女が問う。
「別にこれに文句を言うつもりはないよ」
「では、何でしょうか?」
 言葉と共に素直に見つめる瞳は緑青の宝石で、そのなかに青年だけが映り、

 CHU!

「んーっ」
 肩を押さえつけられて逃げられない少女が抗議の声を上げるが、当然そんなものは黙殺である。

 『げしっ』

「失礼致しますっ!!」
 床を踏み抜く勢いで廊下まで行くと、喧嘩を売っているような声で辞去の挨拶をして出て行くメイドさんのその耳に、ご主人様のたいへん楽しそうな笑い声が届いた。

 咲き誇る花に水をやっていた少女にかかる日差しが陰ったが、眉をしかめて必殺『徹底無視』を使う。
「アンジェリーク」
 水を継ぎ足しに行こうとした時に腰を攫われ引き寄せられる。
「ご商談は終わられたのですか?」
「あぁ」
 こめかみに髪越しに触れる唇に、ピクリと少女の眉が動いたが、特別拒絶しない。する方が青年を喜ばせるからだ。
「また担当が変わりそうだ」
 楽しそうな笑いを含んだ声に、少女はため息をついた。彼が答えた、否、かの女性の辞去の言葉が聞こえないのに彼が庭に出て来た時点で分かっていたことだったが・・・・・
「シャーリー様がいったい何人目の担当だと思ってらっしゃるんです?」
 ジロッと睨むと、相変わらず涼しい顔で彼はニヤリと笑った。
「さぁて、十五、六、だっけ?」
「いい加減になさって下さい」
 『まったくもぉっ』だとか言いながら白い手が絡まった腕を解く。
「客間、片付けなくっちゃ」
 そのまま室内に戻る少女を、青年が楽しそうな笑みを浮かべて見送った。

「明日のご起床時刻は?」
「明日考える」
「明日のご起床時刻は?」
「だから明日考えるったら」
「明日のご起床時刻は?」
「・・・・・絵を仕上げるつもりだから、少し早く起こしてくれるかい?」
 あくまでニコニコと笑って問いかけるその迫力に負けた青年が答える。
「賜りました。ではおやすみなさいませ」
 ふわりと礼をして、朝や昼と違って妙に妖しい空気を漂わせる夜のご主人様の部屋を出て行こうとするメイドさんであったが、
「離して下さい」
「どうして?」
 楽しそうな声は彼女の耳より高い位置から。
「私はセイラン様に雇われたメイドです。・・・・・『女性』をお望みなら他を当たって下さい」
「僕は『アンジェリーク』以外欲しくない」
 サラリと答えられ、彼女は真っ赤になる。
「な、に、言って」
 それ以上言葉に出来ない少女に、彼は少し身を屈めて耳元に唇を近づけて囁く。

「別に、君が起きる時に一緒に起こしてくれてもいいんだけど?」

 『ドンッ』

「おっと」
 押されて青年が蹌踉けた隙に逃げ出したアンジェリークは、そのままの勢いでドアに飛びつくと廊下に出る。
「明日のご起床時間は賜りました。ではおやすみなさい」
 言い置いてそのまま遁走するメイドさんに、セイランの喉が低い笑いで震える。
「ホント、飽きない子だね」
 恋心は打ち開けたけれど、そうして恋は成就したけれど、二年間というそれなりに長い間培った関係はなかなか壊すことが出来ずにいまだに自分と彼女は『ご主人様とメイドさん』という関係のままだ。時々それが面白くないけれど、

「それ以上にからかうと楽しいんだよね」

 青年のそんな言葉を知ってか知らずか、
「もうっ!あんなこと言って、からかってっ!」
 自分の部屋に戻った少女は今夜も叫ぶ。

「ご主人様のイジメっ子っ!!」


END