IF STORY〜兄妹バージョン過去編〜

IF STORY〜兄妹バージョン過去編〜


 これは、運命に至る日までの物語り

 小さな手が、僕の髪を握り締めた。
「?」
 驚いて小さな顔を見た。
「セイラン、妹だよ。アンジェリークと言うんだ」
「仲良くしてあげてね」
「・・・・・うんっ」

 見つめる先の小さな顔は、笑っていた。

 小さな妹が帰って来た日、とても嬉しかった。

「うりゃ」
「きゃう」
「うりゃ」
「きゃう」
「・・・・・何をやっているの?」
「遊んであげてるつもりだけど」
「・・・・・」
 今日五つになるとは思えないような息子の冷静な返答と遊びの内容に頭を抱えたい母親である。
「うりゃ」
「きゃぁう」
「・・・・・楽しい?アンジェリーク」
「うんっ」
「・・・・・」
 バンザイポーズで嬉しそうな娘の姿に、頭を抱える母親が約一名
「アンジェリーク、おいで」
「わぁい」
 パタパタと大好きなお兄ちゃんに抱き着く妹ちゃんである。
 この兄妹ついさっきまで遊びだと言っていたが、一見すると『妹を小突いていぢめるいぢわるなお兄ちゃんの図』だったのだが、内情はどうやら『お兄ちゃんにごろごろ転がしてもらってとにかくご機嫌の妹の図』だったらしい。それっていったい・・・・・
「セイラン、ちょっと来てくれる?」
「はい」
 母親の言葉に、すぐに答えて抱き着いている妹を離すと立ち上がるお兄ちゃん、なのだが、『行っちゃ嫌!』とばかりに妹が兄の足に張りついた。
「アンジェリーク」
「いやぁん」
「アンジェリークはちょっとだけ待ってなさい」
「ぃやぁん」
「すぐに戻って来るからさ」
「おにいちゃぁん」
 『いやいやいやん』と駄々をこねまくるその姿は、はっきり言って爆発的に可愛い。少女のこの姿になぁんも思わない人はよっぽどの子供嫌いだろう。
 特別子供好きではない少年だが−否、彼もまだ子供だけど(笑)−、妹のことはそれはもう可愛がっている。今もそれは溺愛の様子で宥めるように抱き締めてやって、
「すぐに戻って来るから、大人しく待ってるんだよ」
 『ちゅっ』
「はぁい」
 打って変わって御機嫌な少女である。
「・・・・・うちの子達って、いったい・・・・・」
 ベタベタに仲のよい子供達に、本気で目眩を感じる母親であった。

「何か用、父さん?」
 両親用の部屋に入るなり少年はそう問いかける。・・・・・ホントに五才か・・・・・
「ちょっとそこに座りなさい」
「?」
 きょとんとした年相応の顔で指し示した先に座るセイランである。
「今から言うことは分かるところだけ分かればいい。分からなくても来年も言うから」
「・・・・・」
 無言で先を促す少年の顔には、少しだけ不愉快そうな感情が浮かんでいる。どうした具合にか、年を裏切る聡明な頭脳の持ち主である少年は父親の言葉を不快なものとして受け止めたらしい。
「何時か分かることだし、誰かの興味本位や悪意何かで教えられる前に教えておくわ」
 悲しそうな顔で自分を見ている母親の姿に、少年も表情を改める。とても、とても大事で、とても何だか怖いことを聞くような気分で、彼は緊張して居住まいを正す。
「お前は、お母さんが前に結婚していた人の子供なんだ」
「・・・・・」
「あの人はね、私の前に一度結婚していて、貴方はその人との子供なの。あの人が死んで、まだ小さな貴方を引き取って、貴方のことを知って、『それでもいい』って、言ってくれた今のお父さんと私ももう一度結婚したの」
「・・・・・じゃあ、僕は父さんの子供でもなければ、母さんの子供でもないんだ」
 妹であるアンジェリークは両親それぞれに似たところがあるというのに、自分がまるで似ていなかったのはそういうことか、と、納得してしまうだけの聡明さは本人がどう思っているかはともかく、端から見ている大人達にしてみれば胸を抉られるものがある。
「血の上ではね。それでも、お前は私達の子供だよ」
 慰めの言葉だ。だけど同時にそれは真実の言の葉で・・・・・
「私達が親で、アンジェリークが妹であることには変わらないんだよ」

 この日から一年を待たずして、悲劇は起きることになる・・・・・

「アンジェリーク」
「おにいちゃん?」
「アンジェリーク、父さんと母さんがいなくなっちゃったよ」
「いない?」
 小さな妹を抱き締めて、少年は呟く。
「いなくなっちゃった」
 突然の事故で死んだとか、言ってもきっとまだ分からない妹相手には『いなくなった』としか言いようがなかった。
 それでもよく分からないなりに考えていた少女は、ちょっとだけ脅えたように言う。
「おにいちゃんもいなくなるの?」
 まだ実感の湧かない両親のことより、今側にいる『大好きなお兄ちゃん』の方が彼女にはずっとずっと身近であるのだから、これは当然と言えば当然の問いだ。
「僕はずっとアンジェリークの側にいるよ」
「ホント?」
「うん」
「よかったぁ」
 安心してぎゅぅっと抱き着く妹を抱き締め返して、彼は目を閉じた。
 頬を何かが流れる。

 血の繋がりがなくても、それでも二人は彼の大切な両親だったから、だから、二人の本当の子供である妹を、誰よりも大切にしようと、彼が決めた瞬間である。

 のだが、
「おにいちゃん」
「どうしたんだい?アンジェリーク」
「これねぇ、おにいちゃんにあげる」
「・・・・・有り難う」
 一瞬複雑そうな顔をしたおにいちゃんに首を傾げる妹であるが、何せ彼女が渡したのが赤いカーネーション、母の日は明日である(苦笑)。
「おにいちゃん、おかおあかいよ、どうしたの?」
「そうかな?」
「おねつあるの?」
 コツンと軽く額を合わせ彼は妹を安心させるべく笑いかける。確かに少し熱いような気がするけれど、妹を安心させる方が先だ。
『大丈夫だよ』
 そう言ってやるつもりが、声にならなかった。
「おにいちゃん!おにいちゃんっ!!」
 必死な妹の声を聞きながら、彼の意識は闇へと落ちた。

「どうですか?」
「ちょっと熱、高いわね。ホントにいいの?」
 汗ばんだ頬は赤く熟れた林檎のよう、そんな風邪ひきの少年はこくりと頷く。妹の前だというのに見事にブッ倒れてしまった彼は、妹の泣き声に驚いてやって来た階下に住む知り合いのおばさんによってすぐさまベッドに運ばれたのだ。
「大丈夫です。薬も飲んだし、後は寝るだけだから」
 聞いている方が気持ちよく感じるその口調に、まだ三十路前と見える女性は安心したように笑った。
「そう。ならいいわ」
「アンジェリーク、どうしてますか?」
「さっきまで泣いて喚いて、今はその反動で眠っているわ」
「あっちゃあ・・・・・」
「大好きなおにいちゃまが風邪をひいて倒れたのだもの、当然よ」
 クスクスと好意的な笑いを浮かべた菫色の瞳には、『仕方ないなぁ』と言う愛情にあふれたしかめっ面をしている少年が写っていた。

 遠いところで鍵の閉まる音がする。うつ伏せになって枕に顔を埋めていた少年は、床が伝える振動だとかでそれを知った。
「あぁあ、ダルぅ」
 将来の非凡な美貌をすでに片鱗ではあるがその顔立ちから察することの出来る少年は可成の見えっ張りなのだが、知り合いのおばさんも帰ったことだし、熱に浮かされてボヤいた。クラクラする頭を抱え、脱力感が背中の上にどっかりと乗っているような気がする。
「もう、寝よ」
 ぽつりと呟いて少年は布団を引き上げる。その脳裏に、何時だって一番に考える筈の誰かさんのことは、流石になかった。

 『かちゃ』
あ?」
 ドアの開く音に気がついた少年が目を擦りながら起き上がると、
「おにいちゃん」
 廊下の白色灯の陰になって見えにくいが、どうやら枕を抱き締めているらしい栗色の髪の妹がそこにいた。
「アンジェリーク、入って来ちゃ駄目だって言われてるだろう!?」
「ふぇ」
 怒られた少女の瞳から涙が零れる。
「ほら、早く部屋に戻って寝るんだよ」
「やぁだぁ」
 ブンブンッとオーバーアクションで少女は首を振る。
「アンジェリーク!」
「やだ。おにいちゃんといっしょにねるの」
「アンジェリーク!!」
「・・・・・こわいゆめみたの。ひとりでねるのやぁだぁ・・・・・」
「・・・・・」
 ため息が少年の唇から零れる。ぐじゅぐじゅと顔いっぱい涙で濡れた少女の捨てられる寸前の子犬状態の目に、完全降伏するしかなくて。何時だって一番の妹に、あの日、自分が守るのだと決めてから、泣かれるのが一等嫌いで、泣き止ませるなら何だってする気の彼は、とっても妹に甘いお兄ちゃんなのだ。
「わかったよ、わかった。そのかわり、風邪が移ってもしらないからね」
「わぁい」
 ・・・・・聞いちゃいねぇ・・・・・
「ほら、ちゃんと布団を被って」
「はぁい」
 一番手のかかる年頃の少女だが、大好きなお兄ちゃんの言うことだけは何だろうととても素直に聞く。
「おやすみなさい」
「オヤスミ」
 くすくすと楽しそうに笑っている少女に小さく笑って少年は目を閉じる。
 が・・・・・
「コラ」
「くぅ」
「・・・・・早すぎ・・・・・」
 ちゃっかりすぐ側に寄り添うようにしてきた妹を怒ろうとして、脱力する兄である。健やかな寝息を立てる小さな妹を起こすのは、やっぱり可哀想で、
「仕方ないな、ホントに知らないぞ?」
 ブツクサ文句を言いながらも、少年は妹の肩に布団を上げる。
「オヤスミ、僕の妹さん」
 目を閉じた少年に、少女の体温は暖かく感じられた。

「今日和、この間は有り難うございました」
 しっかりとした態度で彼は頭を下げる。
「レイチェル、遊ぼう」
「うん」
「気をつけるんだよ」
「「はぁい」」
 自分の可愛くてたまらない栗色の髪の妹と、金髪の知り合いのおばさんによく似た女のことに言うと、元気に返事が返る。
「もう大丈夫なの?」
「はい」
 短く答える姿にはこの間のような弱い部分は見受けられない。本人の自覚はともかく、大風邪をひいていた時の少年は、やっぱり少しだけ心細そうだった。
「おにいちゃんも遊ぼう」
 ベタッと背中に張り付く妹に、お兄ちゃんは溺愛の笑顔で応じる。
「アンジェリークちゃんは本当にお兄ちゃんが大好きね」
 クスクス笑って仲のよさをそう評する知り合いのおばちゃんに、少女はにっこり向日葵笑顔で高らかに言った。

「アンジェリークねぇ、お兄ちゃんが大好きだからお兄ちゃんのお嫁さんになるの」

「・・・・・って言ってたんだよねぇ」
「人の過去の恥を言わないでよ!」
 ケタケタ笑ってそんなことを言う一つ年下の親友を恨みがましい目で見る、中学三年生十五才の《アンジェリーク》である。
「もうっ!」
 プゥッと膨れる友人をからかっていた十四才の《レイチェル》は、少し首を傾げた。
「アンタ、やつれてない?」
 頬の辺りが以前はふっくらと優しい曲線を描いていたのだが、何だかやつれて見える。何時も見ているので徐々に変化するものには気がつきにくく、今まで分からなかったが気のせいではないようだ。
「そうかしら?」
「そうよ。無理なダイエットでもしてるわけ?身体に悪いことは、しない方がいいに決まってるわよ?」
「別にしてないけど」
「じゃあ何か心配事?」
「・・・・・ないわよ」
「その沈黙が答えを裏切ってるわよ」
 ビシッとツッコみを入れるとアンジェリークは苦笑する。
「言いなさいよ。私、頼りになるわよ」
 フフンッとばかりに自信有り気な友人に言おうとして、彼女はため息をついて止めた。言ってしまうと、何だか自分が負けたような気がするのだ。
「親友にも話せないの?」
 ふて腐れたように唇を尖らせるレイチェルに栗色の髪の少女は微笑する。
「ゴメン」
「いいけどさ、別に」
 それでも不満そうにしていた金髪の少女の方がより早く気がついた。
「アンジェリーク!」

 『バッシャンッ』

 雨でもないのに水が降って来た・・・・・

「ちょっとぉ!いったい誰よ!」
 ブッチブチに怒ってレイチェルが怒鳴るが、見上げた校舎の窓にはその声にこそ驚いて集まった生徒達がいるだけだ。多分バケツか何かに水を汲んで、それを降らせた犯人はいない。
「アンジェリーク、大丈夫?」
 見事にずぶ濡れになった年上の友人に問うた瞬間である。
「アンジェリーク!?」

 青白い顔で眠っているアンジェリークを確認してから、中等部保健室の先生は中等部二年の菫の瞳の少女に問う。
「あの子の家の電話番号知ってるかしら?」
「知ってますけど、家に電話したって誰も出ませんよ」
 親友に付き添って朝のホームルームをサボっている少女は肩を竦める。
「共働き?」
「いいえ」
 言っていいものか少し考え込むレイチェルである。人の家庭事情をホイホイ喋る趣味は持ってはいないのだが、
「・・・・・ご両親、いないんですよ」
 それでも一応相手は保健医とは言え、先生である。言っても差し支えあるまいと端的に言い、続ける。
「家に連れて帰るんなら私がしましょうか?どうせ同じマンションだし」
「そうねぇ」
 ムウッと腕組み考える保健室の主と金髪の少女の耳に盛大に廊下を走る音が届いた。
 そして、

「アンジェリーク!」

「煩い、レッドカード」
「すみません」
 群青の瞳と瑠璃の髪の少年よりも青年よりの学生が注意に素直に謝罪する。と言うよりも、意識が他に行っているので反射で言っているだけである。
「レイチェル、アンジェリークは?」
「あっち」
 少女の寝ているベッドを指さすと、スタスタと青年はそちらに寄る。
「あの子と付き合ってる子?」
「違いますよ」
 コソコソと聞いてくるゴシップ好きの若い保健医にレイチェルは苦笑すると共に、原因を察した。
『似てないもんねぇ』
 内心そんなことを考えていたレイチェルであるが、瑠璃の青年は栗色の少女を憂いの眼差しで見つめてから振り返る。
「僕が家まで送ります」
「その子家に両親いないから不可」
 間髪入れずきっぱりと言い切る保健医である。先生としては当然のことだ。
「心配なさってることなら大丈夫ですよ。僕はこの子の兄ですから」
 瑠璃の青年、今年十七才の高等部一年である《セイラン》はそう言い、
「えぇっ!?」
 レイチェルは保健医り思いっきりのけ反るという見慣れた反応にひとしきり笑ったのである。

「セイランさん、いい?」
 夕方学校が終わってからレイチェルは見舞いに来ていたのだが、わざわざ廊下にセイランを呼ぶ。
「何?」
 わざわざ学校を早退して妹の看病をしていたセイランは、後ろの少女を気にしながらも部屋を出る。
「もしかして、最近アンジェリークに忘れ物届けたりとか、しました?」
「あぁ、うん。したけど?」
「あっちゃあ」
 顔を覆って天井を見上げる少女に、青年は首を傾げる。
「アンジェリーク、絶対セイランさんのファンにイジめられてますよ。中等部にもファン多いし、人が多いってことはそれだけ情報網も細かいってことだし」
「何で僕のファンだとかがアンジェリークにそんなことするのさ」
 思いっきり眉をしかめるセイランに、あっさりとレイチェルは言ってのける。
「似てないから兄妹だって気がついてないんでしょ」
「・・・・・」
「なぁんかやつれてるなぁっと思ったら、イジめられてんだもん。当然だよ」
 無言で唇を噛む三つ年上の親友のお兄さんの姿に、『ホント、アンジェリークに甘い人だからなぁ』と思うレイチェルである。
「今度学校行く時は久しぶりに三人で行きません?」
「そうだね」
 言外に『兄妹だってことを教えればいい』と言っているレイチェルの台詞に同意する声は、堅かった。

『誰よりも幸せにするんだ』

 今思えば随分と無力なくせにたいそうな望みを持ったものだと、妹の看病を続けながらセイランは思い返す。
 今でも変わらない、小さな、だけど絶対の誓いではあるが、
「たった五つの子供に何が出来るって言うんだろうね?」
 『今だって守りきれないのに』と、彼は続けながら自嘲する。

 何時も自分という者をまっすぐに見つめてくれる、愛しいアンジェリーク

 自分の望みやそれ故の努力とは全くの無関係に人を惹きつける外見のお陰で寄って来る女とは、全然違うのだ。共に育ったからかもしれないけれど、それでも外見なんかに惑わされずに『自分』を見つめてくれていることに変わりはなくて、愛しくてたまらないアンジェリークを、どうして『一山幾ら』状態の女と同列に扱うことが出来る?

「許すものか」

 女性嫌いではあるが、弱い者イジメをする趣味もない−ただし口は除く−青年は、だけど妹に関わることは全てにおいて例外的処置をする。過去を掘り返せば、幼稚園の時、彼と彼女が似ていないのに兄妹なのはおかしいと言ってアンジェリークをイジめた少女のクラスメートをイジめ返しただとか、色々ある−蛇足だが、そのイジめてイジめ返された少年はその後セイランの姿を見た途端にダッシュで
逃げるようになった。どんなことをしたんだ、この兄貴は?−。
「ん」
 寝返りを打った拍子に額のタオルを落とした妹に気がついて、再び濡らし直したタオルを置いてやる。
「油断したね。こんなにやつれているっていうのに、気がつかなかっただなんて」
 悔しそうに呟いて、彼は少女の頬に指を触れさせる。『何時も見ていたから、逆に気がつかなかった』、なんて、彼にとっては大嫌いなただの言い訳でしかなくて。
「絶対に許さない」
 呟いて、彼は血の繋がらない妹である少女の頬を撫で、

 ・・・・・

 離れてから自分のしたことに気がついた青年は目を見開いた。
 血の繋がらない、そう、血の繋がらないとは言え相手は妹だと言うのに、自分はいったい何をしたのか。
「まさか、ね」
 『大切だ』と思う。『愛しい』と思う。だけどそれは全て、
「僕が兄で、この子が妹だからなのに」
 呟いて、だけど何かが何時までも抜けない刺のようにそこにあった。

「何と言うか、凄いね」
「『凄い』と言うより『凄まじい』って気がしません?」
「あぁ、そうだね」
 中等部三年生用の靴箱での会話である。
「何するの?」
 無言を通していた栗色の髪の少女が首を傾げると、自分の鞄のなかから赤ペンを取り出した青年は、据わりきった目に少女を映して、答えた。
「採点して掲示板に張るんだ」
「晒しモノですか?」
「僕の大切な子に嫌がらせするとはいい度胸だよねぇ?」
 可成怖い笑みを浮かべて金髪の幼馴染みの言葉に答えになっていない応えを返して、彼は靴箱に張られたレポート用紙の誤字脱字を採点する。
「これっくらい漢字で書けて当然だろうに、馬鹿か、こいつ」
 そんなことをブツブツ言いながら可成のスピードで採点し終わると、本当に掲示板に張り出すセイランである。その採点は、ひじょうに辛いものだったとだけ言っておこう。
「・・・・・止めてあげてよ」
 中傷誹謗の数々の書かれたレポート用紙を靴箱に張られた本人は、半分呆れてそう言った。因みに、後の半分は同情である。
「あのねぇ、倒れる程イジめられていたのにまだそんなことを言うのかい?」
 ジロリと睨む群青に、だけど慣れてる少女は怯まず答える。
「だからって、採点して張らないでよ。可哀想じゃない」
「君のそういう優しいところも好きだけどね、少しは周りのことも考えたらどうだい?君が倒れたお陰で僕がどんな思いをしたのか分かっているのか?」
「はいはい、そこまでそこまで」
 バチバチと睨み合う幼馴染みの兄妹に、パンパンッと手を叩きながら割って入ったのは菫の瞳の少女で、彼女はジロリと二人を難しい顔で睨むと言う。
「端から聞いてたら痴話喧嘩みたいな兄妹喧嘩はそこまでよ」
「痴話喧嘩?」
「どうしてそんな風にとるわけ?」
 今度は一致団結して抗議する仲のよい兄妹である。
「私は二人が兄妹だって知ってるから兄妹喧嘩に聞こえるけど、『兄』『妹』と分かる単語がなけりゃ、ただの痴話喧嘩に聞こえる時もあるのよ」
 確かに、セイランはアンジェリークを『僕の大切な子』だとか『君』だとか言っていたし、アンジェリークはセイランを『兄さん』と一度も呼んでいない。これでは誤解を受けても仕方ないだろう。血の繋がらない兄妹である為に、兄弟姉妹特有の外見の類似点の見つからない兄妹なのだから。
「分かった?」
「はぁい」
「・・・・・」
 不承不承答えるのはアンジェリーク、無言はセイランだ。確かに、痴話喧嘩にも聞こえることは二人共認めたわけである。
「それじゃ、私行くわ」
「うん。バイバイ」
 後はセイランに任せても大丈夫だろうと判断したのか、周りの好奇の視線も何のその、自慢の綺麗なブロンドを片手でかき上げながらレイチェルは自分の靴箱のある昇降口に向かう。
「アンジェリーク」
「何?」
「それ、ピンが入ってるかも」
 青年の指摘に、履き替えようとした上履きを逆さに振る少女である。
 『バラバラ・・・・・』
「古典的な」
 一言そう言って眉をしかめる人に、彼女は心からの疑問をぶつける。
「どうして分かったの?」
「昔僕もされたことがある」
 本人の意志とは全く関係なく中高女子生徒に一番人気である青年だ。ひねくれまくった逆恨みを受けたことがないわけではない。だが勿論のこと、セイランはきちんと相手を見つけてきっちりと倍返しはしているので、現在彼には嫌がらせは皆無である。報復がどんなものであったかは定かではないが・・・・・
「そうなんだ」
 『兄妹揃ってイジメの対象になりやすいのかしら?』などと考えながら、慎重にピンだとかがないのを確かめてから彼女は靴を履き替える。
「そろそろ行かないと、遅刻にならない?」
「そうだね」
 時計を見て、彼は頷き言う。
「頑張るんだよ、アンジェリーク」
「うん」
 にっこり笑って、決定的な一言をアンジェリークは言った。

「兄さん」

 この一言で、アンジェリークに対する周囲の態度は豹変した。

 放課後を知らせる何の変哲もないチャイムの音がしてからしばらくの後のこと、中等部三年の昇降口では女子生徒がある一点をぐるりと綺麗に取り巻いて騒いでいる。
「・・・・・」
 無敵の鉄面皮で内心感じる鬱陶しさを見事に隠して、セイランが目を伏せて壁に背を預けていた。足元に鞄を置いてただ目を伏せているだけだと言うのに、誰も一定以上近づけない。近づけさせない何かが彼にはあるのだ。
 ビクリと形のいい柳眉が動く。
 たった一つの足音を聞き分けて、彼は伏せていたまぶたを開ける。
「兄さん、何」
 『しているの?』と続けられる筈だった言葉は、傍若無人とも言える幾人もの少女達のさえずりにかき消えた。
「セイラン先輩、始めまして」
 を皮切りに、青年の妹と一緒にやって来た少女達がいっせいに憧れの君に向かって自分の売り込みに入ったのだ。
 苦笑しながら少女は靴箱を開け、絶句する。
「またぁ?」
 唖然とした少女が一つを手にすると、盛大にため息をついた。
 色とりどりの封筒をまとめて鞄に詰め込み、彼女はその中に埋没していた学校指定の焦げ茶の革靴を今朝同様きちんと確かめてから履く。誤解が解けた後であるのでわざわざ確かめる必要もないことではあったのだが、一応である。
「アンジェリーク、帰ろう」
「あのねぇ、この年でどうして送り迎えをしてもらわなくちゃいけないの?」
「妹を思う兄さんの心が分からないのかい?」
「もぉっ」
 クシャクシャと頭を撫でる手を眉をしかめて彼女は振り払う。子供扱いされるような年ではないと彼女は思うし、何より実際十人中九人はそれに同意してくれるような年だ。
「それに、駅前のスーパーが冷凍食品五割引きだそうだよ」
「荷物持ちして」
 主婦根性であろう、思わず兄の腕を掴んでそう言ってしまう妹である。
「ちょっと、アンジェリーク、今日は私達遊びに行くって言っておいたじゃない」
 その言葉に驚いたように目を見開く妹を横目に、兄はジロリと迫力のある群青の瞳を妹のクラスメートに向ける。
「約束って言ったって、どうせアンジェリークの同意も得てはいないんだろう?」
 冷たい声に一様に傷ついた顔をする少女達を見て、妹がたしなめるように兄を呼ぶ。彼女だけが使える呼び方で。
「兄さん」
「僕は一部例外を除いて人を招くのが嫌いだ」
 きっぱりと言いきり、彼は妹の腕を取る。
「ほら、行くよ」
「ちょっと、兄さん!」
 コケそうになって慌てて体勢を立て直しながら妹が怒るが、『何処吹く風』とばかりに彼女を待つうちに出来た囲みを、迫力のある視線で左右に分けると抜け出す兄であった。

「はい、兄さん」
 食後のコーヒーと一緒に、彼女は鞄を逆さにしてそれを全部兄の目の前に置いた。
「何だい、これは?」
「ラブレター」
「兄と妹でそれは」
「冗談は笑えるから冗談だと思うの」
 キッパリと切り捨てる妹である。
「確かにね」
 クスクス笑って彼はドリップして容れられたコーヒーに口をつける。
「私のとこに置いてあったの。ロッカーと靴箱と、机の中。・・・・・大漁よね」
「僕はこんなものいらない」
 女性を口説く必要すらないような容貌に生まれつきながら、どうしたことか女嫌いの気のある兄であることは重々承知しているアンジェリークは、兄とお揃いのカップに自分の分のコーヒーを容れて部屋を出ながら言った。
「私も知ってる。だから後は知らない」
 ようするに、『捨てたら?』ということらしい。一応の義理は果たした彼女は特別それ以上は何も言わずに居間を出る。
「まったく、資源の無駄だ、って、え?」
 最初から全部捨ててしまう気だったセイランは、ふと目についた名前に唇の端を引きつらせた。
「男からだなんて・・・・・笑えない冗談も存在するらしいね」
 流石にそれだけは二つに破ってから捨ててやろうと思ったのだが、手に取って、表の名前が自分ではないことに気がついた。
「・・・・・−ク宛」
 呟いて、刹那彼はそれを引き裂いた。

「渡さない」

 キリキリと切れ長の目をつり上げて、彼は感情のままにその手紙を完膚なきまでに引き裂く。

「あれは、アンジェリークは僕のだっ」

 自分の手で育てあげた大切な『妹』を想う者を否定し、『自分のモノだ』と言った瞬間に、彼は自分のなかにある刺の正体を知ってしまった。

 その時の彼の心にあったのは、嫉妬以外の何物でもなく、
 刺の名を、人は、『恋』、と呼んでいた。

 そして更に、時が巡る。

 桜色の腕章を外しながら歩いていた彼は、入り組んだ作りになっている校舎と校舎の間にあるちょっとした庭で振り返る。
「何?」
「だから、今朝の子って、お前の妹なのか?」
 セイランを呼び止めたのは彼のクラスメートの一人だ。同じように学生服の腕につけていた桜色の腕章を手にしている。
「そうだけど?」
「じゃあさ」
 ガリガリと短い髪をかいて照れているらしい姿に、青年は思いっきり嫌そうな顔をしてやる。
「さっさと言えば?」
 冷たい一瞥にも気がつかなかったのか、彼は勢い込んで青年に詰め寄って言う。
「紹介し
   「嫌だ」
     てくれないか?」
 ・・・・・間髪入れずどころか、クラスメートが台詞を全部言いきる前に切り捨てる青年である。
「どうして僕が可愛い妹を紹介してあげなくちゃいけないのさ」
 『悪いけど』と、顔を反らしぎみにセイランは高飛車に言い放つ。
「あの子には僕以上の男じゃなくちゃ、僕が認めないよ。第一、妹自身がこの僕を見て育ったような子なんだよ。理想は果てしなく高いと考えていいさ。で、君、僕よりいいところって、ある?」
「・・・・・」
 『お前よか口と性格はいいわいっ』と内心では反論出来るのだが、悲しいかな、頭脳明晰で運動神経抜群、整のいすぎて冷たい程の容貌が人気のセイランに対抗出来るものがそれ以外なかった。
「分かったら諦めるんだね」
 ヒラヒラと友達がいもなく手を振るセイランである。
「紹介ぐらい別にいいじゃねぇかよ」
 ブツクサとそれでも諦めきれずにぼゆいているクラスメートに、彼は無言無視、ようするに黙殺を通す。
 可愛くてたまらない『妹』であると同時に、自覚した以上、もはやあの血の繋がらない少女は彼にとっては『想い人』でもあるのだ。何が楽しくてわざわざ敵に塩を送ってやらなくてはならないのか・・・・・
 だがここで、『しかし』と、彼は内心で呟いた。
 今日は高等部と中等部合同の入学式で、彼はこのクラスメートと共に外回りに割り振られたお陰で外で友人と話していた妹と言葉を交わしたのだ。それはとても短いもので、当然クラスメートが妹を見たのも随分短い時間だ。だというのに、こうも早くにこんな申し込みをしてくるとは計算違いだと彼は思わずにはいられなかった。この分では、あの大切な少女に直接交際の申し込みが殺到しかねない。
 それは困る。とんでもなく困る。一年は、自分がこの学校にいる間はどうとでもなるのだが、その後が困る−すでに来年のことを考える辺り、彼の影響力が可成であることもよく分かるだろう−。
「どうしたものか?」
 呟いた彼に、童顔のせいかまだ少年のようなクラスメートは首を傾げる。
「あ?」
「何でもないよ。とにかく、妹には手を出すな」
 キッパリと言いきり、彼は表情を緩める。
「兄さん」
 少年が目に入っていない勢いで、入学式の後の新しいクラスでのホームルームを終えたアンジェリークが兄の腕に飛びつく。
「どうして兄さんが外回りだって言ってくれなかったの?」
 突然声をかけられて驚いた妹がそう言えば、兄は軽やかに答える。
「聞かれなかったから」
 彼の脳裏にも、すでにクラスメートの存在は皆無であった。ちょっと、惨い。
「それでも、普通は教えてくれるものよ」
「そうかな?」
 首を傾げてみせる仕草には、何処にも兄以外の気配はない。

 あの日、嫉妬を自覚してから、アンジェリークを想う自分を自覚してから、彼はその心を隠していた。
 自分を『兄』として慕うその純粋な好意を失いたくなかったからだ。

「兄さんはまだ帰れないの?」
 吸い込まれそうな気がしてしまう大きな瞳が彼を見つめる。
「いいや、帰れるよ。一緒に帰ろう」
 クラクラと目眩がしそうになる。何も知らない少女は、血の繋がりという絶対の絆を持つ者と信じているから、それは無邪気に抱き着いてくれているのだ。
「うん」
 嬉しそうに笑って彼女は尚更ぎゅっとばかりに抱き着き直す。
「ただし、悪いけど教室まで付き合ってもらうよ。鞄を教室に置いたままだからね」
 以前と同じ轍を踏まないよう、アンジェリークは大切な妹なのだと周囲に教える為、そして可愛く愛しい少女には自分という絶対の壁があるのだと暗に告げる為に、彼は少女の肩を抱いてそう言った。

 結果から言えば、これは面白い程効果があった。
 女子生徒に絶大な人気を誇るセイランの可愛がっている妹として、彼女は誤解からのイジメを受けることもなく、同時に男子生徒に絶対的な影響力を持つセイランの大切な妹に誰一人告白するような勇気もなく−否、最初の一週間にはあったのだが、アンジェリークに言う前にセイランが一蹴しまくったせいでいなくなったのだ−、一年間を平穏無事に過ごしたのである。

「レイチェル、いい?」
 何時ものように突然ひょっこりと現れた一つ年上の親友に、目をぱちくりさせながらレイチェルは頷く。いきなり訪れるのは何時ものことだが、真っ赤な顔をしてやって来たというのは初めてである。
「どうしたのよ?」
 クッションを渡しながら問うと、高校二年生勝ち気そうな大きな瞳が印象的なアンジェリークは困りきった顔でそれを机の上に出した。
「これ、もらっちゃったの」
 差し出されたのは表にアンジェリークの名前の書かれた白い封筒だ。
「中身は読んだの?」
「一応」
「読んでいい?」
「うん」
 困惑しきっている親友に、中学生の頃からモテまくっている−そのわりに男を見る目は辛いらしく真面に付き合ったことはない−少女は了解を得た上でその手紙を一読する。
「誰が読んだって、立派なラブレターね」
「やっぱり?」
「で、どうすんのよ?」
「どうって言われても。こういうのもらったの初めてだから、どうすればいいのか、分からなくて・・・・・」
 首を傾げる仕草から、『脈はないわね』と見て取って、レイチェルは手紙を戻した封筒を閃かせる。
「これ、どうやってもらったの?手渡し?」
「違うわ。体育の授業が終わってロッカーを開けたらあったの」
 眉をしかめたのは、二人共である。
「勝手に人のロッカー開けるような人って、信用ないでしょ?」
「同感ね」
 軽く答えて、彼女は一言だけ言う。
「フッた方がいいわね」
「そうよね」
 どうやらそう言って欲しかったらしい。
「ごめんね、いきなり来て」
「いいわよ、別に」
 ヒラヒラと手を振って菫の少女は更に言い添える。
「また今度があったら、相談に乗るわよ」
「うん、アリガト」
 にっこりと笑って青翠の少女は手を振って退場する。
「さて、と」
 扉が閉まったのを確認し、彼女は勉強机の上の電話に手を伸ばす。暗記しているらしい手軽さでボタンを押すと、コール一回という早さで相手が出た。
「今晩和」

「ごめんなさい」
 ペコンと頭を下げて彼女は改めて交際を申し込んできた男子生徒をフる。
「あの、さ、じゃ、誰か付き合ってるか好きな奴いるの?」
 諦めが悪いのかそんなことを聞いてくる少年に、アンジェリークは一瞬目を大きく見開くと真っ赤になって否定する。
「い、いないわよ、そんな人っ」
 猛烈な勢いで否定する少女に驚き、ついでに引きずられた少年は尚も諦め悪く続けた。
「じゃあ、ちょっとでいいから付き合って、それから決めて」

「往生際が悪いんじゃないかい?」

 校舎に背を預けて見下げる角度で言い放ったのは先月卒業したばかりのセイランで、足元に大きなバッグがある。
「どうして学校にいるの!?兄さん!?」
「美術室に持って帰りきれなかった荷物を置いていて、取りに来たんだよ」
 驚いている妹にそう言い、迫力のある群青の瞳で諦めの悪い少年を睨みつけ、
「引き際は見極めるべきだね」
 冷ややかにそう言うと、問答無用で少女の肩に手を置いて連れて行こうとする。
「兄さん!?」
 再び驚く妹に、彼は言った。
「フッたの?」
「フッた」
 ・・・・・その通りではあるが・・・・・
「ならいいじゃないか」
 ・・・・・実も蓋もない会話である・・・・・

 長い指が受話器に伸びる。
「今晩和」
 珍しくそれなりに愛想のよさそうな声で彼はコール五回で出た相手に挨拶をする。
「レイチェルいますか?」
『ちょっと待ってね』
 落ち着いた声がそう言い置き、しばらくの無音、そして、
『はい、レイチェルです』
「今晩和、レイチェル」
 本当に珍しく穏やかな声で三つ年下の幼馴染みの名前を呼ぶセイランである。生まれつき涼しく響き、どうにも冷たい印象の拭えない声はどれだけ親しい間柄の者でも彼の使う普段の声−無論相手がアンジェリークなら別だが−であるのだが?
『上機嫌ですね』
 多分目をぱちくりさせて驚いているだろう声が言う。
『ホント、アンジェリークが可愛くて仕方ないんですね』
「僕の妹に交際を申し込むなら、この僕相手に勝ってからにしてもらうよ」
『・・・・・セイランさん、マジでその声怖い』
「そう?」
『・・・・・』
「ま、今回はご協力感謝。それだけは言っておきたくてね」
『駅前のスフレチーズケーキをお忘れなく』
「はいはい」
 ・・・・・どうやら、どうせ自分にはその手の相談をしないだろうと検討をつけて−確かに男の家族には相談しにくい内容だ−、先にレイチェルを買収しておいたらしい。しかし、普通そこまでするか?

 短い通話を終えて居間に足を踏み入れた彼は目を丸くした。
「アンジェリーク、こんなところで寝るんじゃないよ」
 呆れ果てた声で彼は居眠りをしている妹の肩を押す。
「クゥ」
 ソファに倒れ込んでも少女は起きない。
「本格的に寝るのなら部屋に戻ればいいだろうに」
 ため息をつきながら彼はテレビの電源をオフにすると妹を抱え上げた。
「まったく、風邪ひいても知らないよ?」
 ブツクサ言いながらも随分と長い間入っていなかった妹の部屋に足を踏み入れ、きちんと肩まで布団をかけてやる辺り、やっぱり妹に甘いお兄ちゃんである。
 あどけなく眠る妹の寝顔に時が戻るような錯覚を感じて、軽く辺りを見回す。本当に長い間入っていない間に、すっかり部屋は様変わりしていた。
 カーテンだとかは『色褪せたから』と言っていたので買い変えられたことを知っていたが、知らないうちに細々とした物が増えている。もっともあまり可愛い系ではなく、大人っぽく育った少女らしく、すっきりとした印象のある物がほとんどだ。中には、彼が選んだ写真立て−張ってあるのは高等部入学式に桜の木の下で兄妹並んで写した物−だとか、何かの行事毎に彼がプレゼントした物も大切そうに置かれている。
「女の子だものね」
 どちらかと言えば機能的で紺碧の海の底を思わせる色使いの部屋でも、やはり使うのが少女である為か、そこここに漂う柔らかな雰囲気に彼が呟く。
「んん」
 寝返りを打った拍子に顔にかかった栗色の髪を薄く笑いながら払ってやり、彼は頬に軽く唇を当てる。
「オヤスミ」
 部屋の明かりを消し、ドアを閉めながら彼はそう呟いた。

「・・・・・」
 まぶた越しに分かる光の消失とドアの閉まる音からしばらく、そぉっと少女は目を開ける。視界は薄暗かったが、すぐにそれにも慣れた。
「ヤダ、もぉ」
 真っ赤になってしまっている頬を押さえて、彼女は早鐘を打つ鼓動を止められそうにないことに尚のこと赤くなる。
「私、そんなに子供じゃないのに」
 確かに、小さな頃ならばともかく十才を越えた時点で頬にキスという挨拶は可成とても恥ずかしい。実は寝返りを打った時に半分起きていたのだが、頬にキスというあんまりにも恥ずかしい『おやすみの挨拶』に起きるタイミングを見失っていたのだ。
「もうっ!相手は兄さんだっていうのに、何ドキドキしてんのよ」
 何時までも熱の引かない頬や何時までも脈の乱れた心臓に向かって彼女は怒りだし、突然ズキリと脈の乱れとは別のものを感じる。
「・・・・・そうよ、兄さん、なのに・・・・・」

『好きな奴いるの?』

 そう言われた瞬間に脳裏に浮かんだのは青金石の二つ年上の青年の姿で・・・・・

「そうよ、ずっとずっと、兄さんが一番近くにいたから、それだけよ」
 誰よりも側で一番愛してくれている人で、自分だって大好きだから、だから思わず思い出しただけなんだと、そう思った。

「現在この電話番号は使われておりません。番号をお確かめのうえ、再度おかけ直し下さい」
「・・・・・兄さん?」
 問答無用でガッチャンと受話器を下ろした兄に、妹は呆れた顔で問いかける。『そんなことしていいの?』と。
「別にいいんだよ。嫌いな相手からだから」
 内心どれだけ嫌っていようと表面上は徹底無視を通す青年にしては珍しく言いきったものである。無論、それにはそれ相応の理由というものがあるのだが。
「珍しいわね、兄さんが『嫌い』だなんて言いきるのって」
 貨幣に対する価値基準が妙にズレている兄には買い物を頼めず、それだけは一人でしている妹は買い物袋を腕に抱えてキッチンに移動しながらそれを指摘する。
「毒にも薬にもならない連中ならどうでもいいけど、毒にだけなるような奴なら嫌いだからね」
 『恋敵なんて、最大の敵だものね』と、内心で続ける兄であるが、勿論少女がそれを聞き取ることなど出来なかったのである。

 『カタン』
「今日和」
「えっと、ティムカ、だっけ?」
 郵便受けの手紙を取りにやって来た青年に、つい先日から階下に住むことになった少年が声をかけたのである。
「はい」
 穏やかな物腰がとても中学生とは思えない少年が笑って答える。
「知ってるかもしれないけど、一応、大家のセイランだ」
「あぁっ!よろしくお願いします」
 先日同居人と一緒に挨拶しに行った時にいなかったもう一人の大家であったのだと知って、至極丁寧に挨拶をした少年は、見た。

 冷淡に、懇切丁寧に手紙を破り捨てついでとばかりにそれを燃やす、という青年を。

「い、いいんですか、それ?」
「いいんだよ」
 思わず聞いてしまう少年に、落ち葉を燃やしている中に破った手紙を落とした青年は冷たい笑みをのぞかせて答える。
「不幸の手紙なんて、誰もいらないだろう?」
「あ、あぁ、それはそうですね」
 何も知らない少年は素直にそう頷く。
 彼が、その『不幸の手紙』が別名『ラブレター』と呼ばれるものであったと知るのは、これから随分後のことである・・・・・

 時が巡り  時が過ぎ
 運命の夜は訪れる
 育んだ関係全てを壊す夜が

 これは、その日までの物語り


END