銀の鎖が私を縛る
心も身体も魂すらも がんじ搦めに戒める
銀の鎖に囚われた
《森の湖》は別名《恋人達の湖》と言うたいへんロマンチックな名で親しまれているのだが、同じだけ通称《祈りの滝》と呼ばれる湖に流れ込む滝も親しまれている。それぞれの名の由来は読んで字の如しである。静かな木陰を有する森の清らかな湖は格好のデートスポットであり、滝には『祈りを捧げると愛しい人が来てくれる』という言い伝えがあるからだ。
だが、今は一人の少女が祈りを捧げるわけでなく、ただ湖に映る空の暮れいく様を眺めているきりである。
ラヴェンダーの空と、樹木の緑、湖自身の青を混ぜるように、白い手が静かな湖面をかき乱す。境界線が歪み、一時全てが入り乱れる。
少女から漏れる吐息は切なく静まり始めた湖面を駆けた。
突然憂う瞳が見開かれ、瞬間には振り返り立ち上がり逃げ出そうと素早い行動に移る。
「っ」
「何処へ行くの?」
魅惑の声音が空気を震わせる。
「アンジェリーク」
魅惑の声音が少女を震わせる。
「セイラン様」
冴え冴えと凍る氷の美貌の青年の腕の中、少女は苦しそうに顔を歪める。
「離して下さい」
「嫌だ」
「セイラン様、離して」
「嫌だって言っているだろう、アンジェリーク?」
細い少女を抱き締めて、彼は艶然と微笑む。
「この頃避けているだろう?どうして?」
「答える必要はありません」
冷たく答えながら、少女の身体は小刻みに震えている。
「・・・・・この間の、返事は?」
屈むようにして瑠璃の吐息と言の葉が、少女の耳元で紡がれる。
「した筈です」
「あれが本心だとはとても思えないね」
「っ」
クスクスと悪戯に笑う唇
「どうしたの?」
群青の瞳が知っている答えを促す。
「・・・・・」
気丈に睨む青翠の瞳が何よりも雄弁に彼女の性格を彼に伝える。誰の命令も受け付けない、自分だけに従う、真実心が強い者の光が彼女の瞳には常にある。
睨みつけてくる緑青に、その名セイランの名の通り鮮やかな青藍の瞳が嬉しそうに細められる。何時だって変わらない、少女の心が嬉しかった。
その心が・・・・・
「好きだよ、アンジェリーク」
『あ、あの』
驚いて少女は自分を森の湖に連れ出した青年の方へと振り返る。
柔らかに揺れる栗色の髪、勝ち気ながらも素直な表情が浮かぶ大人びた顔立ち、そして何よりも目を惹くのは鮮やかな意志に輝くブルーグリーンのその瞳、彼女《女王候補生アンジェリーク》はそんな少女である。
『何?』
意地悪な口調で青年が首を傾げる。
片目を隠すように流れる瑠璃色の髪、皮肉な笑みが似合う冷たい何処か年齢不詳めいた容貌、美麗と言って過言でない美貌に紛れるが何よりも冷ややかな冷たい群青の瞳が相手を射抜く、彼《感性の教官セイラン》はそんな青年であった。
『さっき、その』
内容が内容である為に聞き間違いだと可成いぢめられそうだと口ごもる少女から、冷たい美貌の青年がどれだけ少女をからかっているか、分かるというもの。
『さっき言ったのが、聞き取りにくかった?』
珍しく優しい口調で問いかける教官に生徒がコクコクと頷く。
『そう。ならもう一回だけ言うから、こっちおいで』
滝の側にいた少女は素直に少し離れたところにいる青年の側に寄り、少し見上げる位置に立って誰にも物おじしない緑青の瞳が青年を映す。
『遠いよ』
くすりと笑って繊細な指が細い腕を引き寄せる。
『セイラン様!?』
胸の奥深くに抱き締められて、流石の少女も狼狽えた声で青年の名を呼ぶ。
『大人しくしていないと聞こえないよ』
耳元で青年は囁き、吹き込まれる吐息に彼女はくすぐったそうに身をよじる。
『セイラン様ぁ』
『はいはい、すぐに言うから』
彼の軽くいなす言葉に、彼女は居心地の良いのか悪いのかどうにも判断のつけ難い腕の中で出来る限り大人しくしていようと努力する。どうにも逃げ出したい気持ちの方が大きいが。
『好きだよ、アンジェリーク』
「返事は?」
「私はアルフォンシアを裏切れません」
「返事は?」
「私は、」
「聞きたいのはYESかNOか、どちらかだよ」
追い詰める
追い詰められる
『・・・・・リアクションがまるでないね』
『だ、だって、だって!』
『だって、何?』
『そんな』
『・・・・・君が好きだよ、アンジェリーク。君だけが好きだ。君も僕だけを見てはくれない?』
『セイラン様だけを?』
『僕だけを』
『・・・・・、せん』
『アンジェリーク?』
『私には、アルフォンシアを裏切ることは、出来ません』
『・・・・・』
『ごめんなさい!』
『アンジェリーク!』
逃げ、出せない・・・・・
「逃げようだなんて、往生際が悪くない?」
あの時みたいに逃げようとする身体を押さえつけて、青金石の青年は微笑む。
「お願いです、離して。私、私・・・・・」
逃げ出すことも出来ず、ただ大きな瞳から涙が零れる。
「・・・・・そう」
群青の瞳が剣呑に細められる。冷たい顔立ちに似合う、冷たい笑みがその端正な容貌に浮かべられる。
少女を抱く腕の戒めが強くなり、少女は一瞬苦痛の声を漏らす。
「言葉で答えてくれないなら、身体に聞こう」
とんでもない台詞が零れたのは深紅の唇
「や、んん」
その唇に塞がれたチェリーピンクの唇から意味のない声が漏れる。
横抱きに少女を抱きながら、少女の逃げ出す力を奪う口づけを続ける。
「ぁ、ふ」
艶めいた声が若草に抱かれた少女の唇から零れる。
「ヤ」
短い声と、嫌がり逃げ出そうとする華奢な体とに、笑う青年は先に進む。
「ぅ、ぁ、ん」
滑らかな張りのある肌の上を形のいい手がゆっくりと逆撫でる。
「セイラン様、嫌」
「嫌がってないようだけど?」
「ヤ、あ」
「うるさいなぁ」
「ん」
最後の砦も崩すような口づけに、少女の身体から力が抜けていく。
『シュルリ』 青年の首元を彩る青磁の布が解かれる。少女を他から隠すように、それは柔らかく大地に流れ、
「・・・・・で、人の恋路を邪魔するなら、馬に蹴られて死ぬ覚悟があるんですか?」
無愛想極まりない声が青年の口から放たれた。
「仕方ないだろう、ちょうど行き当たっちまったんだから」
「無意味に胸を張って言わないで下さい」
「よく分かるな」
「雰囲気で分かりますよ」
「そうか」
「それより、とっとと行ってくれませんか?」
鋭敏な聴覚で草を踏む音を聞きつけ、深紅の髪の青年の訪れを正確に察したセイランは続ける。なかなか移動する気配のないことに不機嫌な視線を肩越しに向けながら、
「せっかく口説き落としたところなのに」
・・・・・口説き落としたわけではないと思うのだが・・・・・
「そりゃあ悪かったな」
苦笑して訪れたばかりの青年が踵を返しざま、ちょっと笑って付け加える。
「何処の女性か知らんが、こんなとこでそういうことするか?」
「人のこと言えるんですか?」
間髪入れずに言い放たれた言葉に苦笑しながら青年は退場する。
完全にここへと続く小道に気配が消えたことを確信した青年は、自分が組み敷いた少女へと視線を落とした。
「アンジェリーク」
甘く囁く声音に、ついさっきまで生きた心地のしなかった少女はそれ故の茫然自失から復活する。
あらぬところを見ていたブルーグリーンの視線が青年に止まり、余裕の表情を浮かべていることに気がついた瞬間、『ブチッ』、と確かに音がした。
「おっと」
ものも言わずに何処に隠していたのか、ぐったりとしていた筈の少女は青年を非力なりとも突き飛ばすと、遁走する。
「・・・・・」
無言で見つめる瑠璃色の視線を感じながら、それでも少女の速度は変わらなかった。
「知らないぞ」
クスクスと笑う口元
「僕のせいじゃないからね」
悪戯の成功した子供のよう、と言うには、何処か罠に獲物を追い詰めた狩人のような無邪気さとはまったく別な感情が混ざった、それでも楽しそうな笑みが端正な美貌を彩っていた・・・・・
「おっと」
『ズダダダダッ』
「お嬢ちゃん?」
凄まじい勢いで自分の横を走り抜けた人物の後ろ姿を唖然と見送ってしまった《炎の守護聖オスカー》は、足元に落ちていた物に気がついた。
「落とし物か」
落とし物赤いリボンを拾い上げ、オスカーはすでに影も形もない少女の走り去った先を見、首を傾げた。
「お嬢ちゃん、何処にいたんだ?」
彼が現在立っている道は森の湖に続くただ一つの道で、少女はどう考えても森の湖から走って来た筈なのだが・・・・・
「いなかったよな?」
確かに、森の湖は広い。恋人達が憩うだけでなく、ちょっとした散歩のコースとしても四季を色濃く感じられる場所として好まれる程度には広いのだけど、同時にとても見通しがよく、隠れる場所はあまりない。しかし、彼女はいなかったような気がする。
「改めて今日和」
「おう」
冷たく響く声に応じて振り返る。思った通り、青金石の青年がそこにいた。
「相手はどうした?」
「お蔭様で逃げられました」
「悪かったな」
「まったくです」
ツンッと冷たく横を向くところが、この青年らしいと苦笑する。
「今度は邪魔しないで下さいね」
左目を覆うようにかかる瑠璃色の髪をさも鬱陶し気に彼はかき上げる。
「じゃ」
軽く会釈だけの挨拶をするとスタスタと進む後ろ姿を見て、彼は思い出した。森の湖には、セイランと女性がいて、その女性の顔を自分が確かめていないことに。
「あ、アンジェリーク、お帰」
『ズダダダダダッ』
「り?」
目の前を凄まじい勢いで走り抜けた一つ年上とはとても思えないアンジェリークを見送り、《女王候補レイチェル》は首を傾げた。
「ちょっと、なぁに?」
驚いてアンジェリークを追いかけて海色の部屋に勝手に入る。
「もうシャワー使うの?」
「ほっといてよ!」
「?」
お互い勝ち気ではあるが、似た者同士、仲はよい。お陰でそれなりに相手の性格を把握したけれど、こういう風なライバルは始めて見る。
着ている服を乱暴に脱ぐと脱衣所を兼ねる洗面所の床に落とし、そのままシャワールームに直行する。・・・・・いるのが同じ女の子であるレイチェルとはいえ、普通だったらもう少し恥じらわないか?
「ちょっと、アンジェリーク」
「何!?」
「あ、いや、いいや」
あまりの迫力に呼び止めたものの、何となく身構えて後ずさるレイチェルであった。
「そう」
とことん据わった目で答えるとシャワールームの曇り硝子の戸を閉める。
「・・・・・」
口元を握った手で隠し、レイチェルは何度も何度も思い出す。
キッと睨んだブルーグリーンの瞳は何時もよりもずっと鮮やかだったけれど、それ以上に鮮やかだった、深紅の薔薇の跡・・・・・
「いったい何があったわけ?」
ポツリと呟いた瞬間に、叫びが木霊した。
「セイラン様のド馬鹿ぁ!!」
いきなりだが一週間後である。この一週間というものアンジェリークは部屋を一歩も出ず、同じ女王候補寮で生活しているレイチェルを心配させているのだが、本人全然気にしていない。
「アンジェリーク、出ておいでよぉ」
「・・・・・」
「もぉっ!何があったか知らないけど、いい加減に育成や学習して、王立研究院に行かないと、アルフォンシアが拗ねちゃうわよ!」
心配し過ぎてプッツンとキレる寸前のレイチェルの叫びは、闇が忍び込み始めた廊下に響く。
「どうした?」
「あ、オスカー様」
「アンジェリークお嬢ちゃんは部屋か?」
「えぇ、ここ一週間ずぅっと」
「そうか」
「オスカー様はどうしてこんな時間に?」
言外に『女の子の部屋に来るには遅すぎる』と言ってることに当然気がついて、炎の守護聖は赤いリボンを取り出す。
「それこそ一週間前にお嬢ちゃんが落としてってな。ここしばらく会わないし、ちょうど近くに来たから、ついでだ」
そう言って軽くリボンを揺らせるオスカーの指から、リボンが流れる。
「なら、僕が渡しておきますよ」
「セイラン」
にっこりと絶世の美女にも引けを取らない微笑みを浮かべた氷の芸術家が立っている。
「アンジェリーク、開けるんだよ」
軽くドアをノックして反応をうかがうが、返事はない。
「?」
ドアをじっくりと眺めて少し後ろに下がる感性の教官を不思議そうに見る金髪の女王候補生と炎の守護聖。
スゥッと息を吸い込み、よく通る涼しい声が広がる。
「とっとと開けないと、一週間前の森の湖でのことを全部喋っちゃうよ」
『ばったーんっ』
「うわっ」
「あっぶなぁい」
目の前を凄いスピードで横切ったドアに、思わず後ずさった二人は言った。どうやらセイランが先程ドアを見たのは、ドアの当たらない位置に先に逃げる為だったらしい。こうなることが分かっていたのなら、先に二人にも教えてやればいいだろうに・・・・・
「セイラン様っ!!」
真っ赤な顔で少女は部屋側のノブに手を置いたまま、涼しい顔で目の前に立っている青年を睨みつける。
「あんまり寝ていないんじゃないのかい?顔色が悪いよ」
そんなことを言いながら青年のリボンの絡まったままの方の手が伸び、少女の手に重なる。そのまま部屋に入って行こうとする動作の何処にも、拒絶に対する躊躇いがない。
「ちょっと、セイラン様!?」
「はいはい、そこどいて。入れないだろう?」
「何で入って来ようと」
「話があるからだよ」
「私にはないですっ」
「僕にはあるんだ」
そんな会話を聞くともなく聞くはめになった者、約二名
『ぱたん』
最終的には押し切られるようにアンジェリークが消え、またセイランの姿が扉で遮られる。
『カシャン』
当然のように、ささやかに聞こえた鍵の閉まる音
ガシガシと自慢の髪を乱しながらオスカーが、ほぼ同時にレイチェルもまた前髪を押さえるヘアバンドを直しながら言ったものであった。
「帰るか」
「部屋戻ろ」
『カシャン』
当然のように、ささやかに聞こえた鍵の閉まる音
「セイラン様!」
「何?」
「何でわざわざ鍵を閉めるんですか!?」
・・・・・墓穴であった。
「知りたいわけだ」
クスリと口元を彩る艶めいた微笑みに、ザアッと一気に青ざめる栗色の髪の女王候補である。
「いいですっ」
ブンブンッと首を目眩がしてしまいそうな程横に振る。
「そりゃあ、残念だ」
艶麗な笑みを浮かべて、彼はそれを差し出す。
「はい、プレゼント」
差し出されたのは鮮やかな薔薇の花束である。どうやら刺は全て取ってしまっているらしい、綺麗に咲き誇る薔薇をラッピングもなしに握っているのだが、それがこのしなやかな感性の教官に似合っている。
「あ、有り難うございます」
思わず反射的に礼を述べ、薔薇を花瓶に生けるべく受け取ろうと手を伸ばす。
「きゃっ」
「・・・・・よく思うんだけど、君ってば本当に隙が多いよ」
クスクスと楽し気な笑いが耳元で紡がれる。
「やだぁ」
バタバタと暴れて薔薇の香りが染み込んだ腕から逃れようと少女は必死である。
「暴れるものじゃないよ」
「や、やだ、いやぁ」
「これじゃまるで僕がイジめてるみたいだ」
「・・・・・違うんですか?」
「そんな、何も思いっきり力込めて言わなくても」
流石に苦笑するセイランである。
「セイラン様のイジメっ子」
腕から逃れられない悔しさに唇を噛んで少女はそっぽを向く。・・・・・よくよく墓穴を掘るのが上手い子である。
「なら、本気でイジめてしまおうかな」
「っ!?」
ギョッとなって自分を見上げる少女の髪を撫で、艶やかに微笑む。
「どうしよっかな?」
「セ、セイラン様」
足元に落とされたリボンと散らばった薔薇の花びらが少女の足元で揺れ、薔薇はその香りを強める。
「そんな泣きそうな顔で見ないでくれるかい?」
白い指が白い頬に当てられる。
「ねぇ、僕は本当に君が好きだよ。どうしても、君が好きだから、こうしている。本来ならば君を導くべき教官の僕がね」
細いあごを押さえる指が、桃色の唇をたどる。
「愛してる、アンジェリーク」
拒める筈の唇が、拒めなかった。
「ぁふ」
「?」
「ネム」
「・・・・・」
こてんと少女の身体が青年の腕の中に倒れ込む。
「あれからずっと寝てなくて」
コシコシと目を擦る仕草が子供のよう。
「・・・・・据え膳って、知ってる?」
クゥクゥと寝息を立てて眠っている少女を抱き上げながら問うが、眠っている者が答えられる筈もない。
「襲っちゃおうか」
ベッドに華奢な身体をそっと置き、栗色の髪がかかった頬を両手で包み込んで、少女にとってはとんでもないことを可成本気で言っている。
「ん」
そんなことを当然知らない少女は眩しそうに眉をしかめる。
点けられたままの明かりが落とされる。
「ホント」
胸元の赤いリボンが解かれる・・・・・
銀の鎖が私を縛る
心も身体も魂すらも がんじ搦めに戒める
銀の鎖に囚われた
出来れば、まだ夢の中だと思いたかった。
「セイラン、様?」
白い指が頬に触れる。そこにその人はいる。
「んー?起きたの?」
指が触れたことで起きたらしく、ぼんやりとしたまだ寝惚けた瞳で少女を映すと、腕を引いた。
まだ微かに薔薇の残り香がある腕に抱き締められて、彼女はパニックを起こした。朝目が覚めて、目の前に男性がいれば、たいがいの女性はそうなるだろう・・・・・
「な、なん、何でここにいるんですかっ!?」
「昨日の夜に来てから帰ってないからだよ」
「・・・・・普通、帰りませんか?」
「そんなの全然浮かびもしなかったな」
がっくりと力の抜けるのがよく分かってしまってそれが空しい少女であったが、あることに気がついて真っ青になった。
「どうしたの?」
血圧が低いのか、ただ寝起きが悪いだけか、普段の彼からはとても想像出来ないボケボケした声で問いかける。
「セイラン様、私に何したんですか?」
「うん?」
「ボタンがどうして外れているんですか!?」
のんきに欠伸を噛み殺している青年の姿に怒鳴りつけるが、青年は何処吹く風である。あまつさえ、少女を抱き締める腕に力を込めて逃げられないようにすると、栗色の髪に顔を埋めて懐きながら答えた。
「寝るのに苦しくなるんじゃないかと思って」
「・・・・・」
ジトォッと睨んでいる少女に気がついて、彼はやっと彼らしい皮肉な笑みを浮かべる。
「怒るのなら、ちゃんとキスマークの一つや二つ見つけてから怒るんだね」
その言葉に可成強く青年に抱き締められている為に苦労しながら、恐る恐る外された透き間から見てみるが、何もない。
安堵の吐息を零す少女の首筋から頬にかけて逆撫でるように片手が動く。
「そんなに信用がないなら、我慢なんかしなかったのに」
「っ!?」
「今からでも遅くないよねぇ?」
「っ!!」
冗談ではない少女である。本気で可成ヤバい目の青年から逃れようと暴れるが、すでにしっかりと少女を抱き締めている腕はビクともしない。
「好きだよ、アンジェリーク」
「止め」
制止の言葉は途切れた・・・・・
「アンジェリーク、好きだよ」
「セイラン様」
「好きだよ」
「セイラン様」
「愛してる」
「セイランか様」
「アンジェリーク、愛してる」
「セイラン様」
「愛してる、愛してる」
「セイラン様」
「愛してる」
「セイラン様」
口づけの間の囁きか、それとも囁きの間のキスなのか、どちらにしろ止むことのない口づけと囁きが続く。
「アンジェリーク」
「セイラン様」
呪文のような言葉と魔法の口づけにぼんやりとしてきていた少女は惰性的に応える。
「好き?」
「セイラン様?」
「好き?」
「好き?」
「そう、好き?」
「好き」
「ぅん」
一際深い口づけに耐え切れないように少女の白い手が青年の服を掴む。
「ぁふ」
「好きだよ、アンジェリーク」
「セイラン様」
「君もそうなんだね」
ここでやっと正気に戻った者、約一名。
「さっき言ったよね?」
「あ、あれは」
「取り消しはないよ」
悪戯な瞳が少女映す。組み敷かれる形で日頃の気丈さ勝ち気さがすっかり失せて、困り果てた子供のようなおろおろとした瞳で見上げている。
「駄目です。私には出来ません。アルフォンシアを・・・・・」
取り戻せない言葉を悔やんで泣き出しそうな少女の目元に口づける。
「誰だって、より幸せになることは許されるんだよ」
「だって、私、一人だけ、アルフォンシアを裏切って、幸せになんてなれません」
「君が幸せになることをアルフォンシアが怒ると思うのかい?」
「だって、だって・・・・・」
とうとうブルーグリーンの水晶から海の滴が零れる。
「ねぇ、僕が好き?」
そっと耳に滑り込む瑠璃の声に、今度は少女も素直に頷く。
抱き締められて気がついた。
この腕以外いらないことに。この人の口づけ以外、いらないことに。
何時からなんて分からない。
この腕に、この人に、囚われていた。
気がつけば好きだった。
「なら他なんて考えなければいい。僕が好きだってこと以外忘れてしまえばいい」
「忘れるだなんて出来るわけないです。そりゃあ、まだ一年にも満たない短い付き合いかも知れません。でも、同じ目的に同じように苦労して、ずっと一緒だったんです」
その勝ち気さから生意気にも見えかねない少女だが、その無垢な子供のような無邪気さからか決して『生意気だ』とかいう評価が下されたことはない。その無垢な無邪気さは同時に無垢な純粋さであり、それに気がついて、それ故に少女を今までとは別な目で見るようになった青年は唇を噛む。
「僕だけを見てもらうわけにはいかないのかい?」
「ごめんなさい」
震える肩はとても細い。本当の年齢よりも少しだけ大人っぽく見える顔立ちや性格から受ける印象から誤解していたけれど、本当はずっとずっと華奢で、守ってあげるべき存在なのだ。
「・・・・・攫って行きたい。僕達以外誰もいないところでなら、君は僕だけを見てくれるだろう?」
「セイラン様」
「何処かに閉じ込めてしまいたい」
いっそ子供のような頑なさで彼は言う。独占欲は醜いと分かっていても、彼女が女王になってしまえば、この恋は実を結んでも、恋の樹から落ちてしまう。
「あぁもお!」
何処かがプツンとキレたような態度の豹変に驚き少女の涙が止まる。
「セイラン様?」
「こんなことならやっぱり我慢なんてするんじゃなかった!」
『殴ってやろうか・・・・・』 半分本気でアンジェリークは考えた。・・・・・冗談だとしても笑えないが、本気ときては、止めるには殴るしかないような気がするのだ。
「時間と雰囲気に目をつぶれば、今からでも遅くないけど・・・・・」
『やっぱり、殴るしかないのだろうか?』 音を立てて血が引いていった彼女はそう考える。
「君は嫌なんだろう?」
『僕は何時でもいいけど』と続ける人の、最後の理性にすがりつく思いで頷く。冗談は笑えるものだけがよかった・・・・・
「ヤ、イタ。セイラン様、痛い」
更に力いっぱい抱き締められた少女は眉をしかめる。十七の少女と十九の青年の場合、純粋に力だけでは少女に勝ち目があるわけがない。抱き締めてくる腕の力に抗しきれずに細い声だけが青年に訴える。
「愛してる、アンジェリーク」
訴えに力を緩めて、少女に自分の身体を預けるようにそのまま呟いて目を閉じる。
その腕はまるで銀の鎖のようで
きっと逃げることなんて出来はしない
きっとそんなことは無駄なのだ
永遠に自分はこの腕から逃れられない
切なく震える唇
『ごめんなさい』
言葉にならない言葉
『ごめんなさい』
この道を選んで
たとえ許してもらえないとしても
後悔する日は決して来ないと分かった
だから・・・・・
「責任は取って下さいね」
「何?」
真顔でいきなりそんなことを言われたセイランは首を傾げる。
「アルフォンシアを泣かせるんですから、ちゃんと責任取って下さいね」
大きな瞳が彼を映して笑っている。
「幾らでも取るよ」
クスクスと笑って彼はアンジェリークの頬に唇を当てる。
どちらかと言えば過敏な方である少女は嫌がって逃げようとするが、無駄である。
「んん」
日陰の花を思わせる風情で栗色の髪の少女が王立研究院から外へ出た。
「アンジェリーク!」
「レイチェル」
「どしたの、暗い顔しちゃってさ。あ、やっぱりこの頃行ってなかったもんだからアルフォンシアに拗ねられたの?」
しばらくぶりにちゃんと顔を合わせた金髪の少女はそう言って年上の少女をからかう。
「それもあったけどね」
少し笑って、ブルーグリーンの瞳が菫色の瞳の友人を映す。
「ごめんね。私、女王候補を辞めたわ」
『アルフォンシアにも言って来たの』 そう言った少女の瞳には迷いはない。一度決めたことだ。迷うことなどない。だけど、そう、だけど、同じ道を歩み、『どちらが女王になろうと決して後悔なんてしないように頑張ろう』、そう誓い合った友人とも道を違えてしまう言葉に、少しだけ浮かべられた笑みは切なかった。
「・・・・・せっかくのいいライバルを失うのは痛いけど、仕方ないわね」
髪をかき上げながらレイチェルは、ちょっとばかり意地悪な口調で続ける。
「あんたとセイラン様が恋人になっちゃったんじゃね」
人の悪い笑みで言われた少女は真っ赤になって叫んだ。
「何時気がついたわけ!?」
「何時って」
呆れたように絶句し、キョロキョロと周りを見回して、道の脇の木陰に親友を引っ張り込んでからレイチェルは更に小声で言った。
「確か部屋に籠もる前の日だったと思うんだけど、あんた、ここらへんにキスマーク山程つけてたじゃない」
「・・・・・」
「んで、その時に『セイラン様のド馬鹿』とか叫ぶし」
「・・・・・」
俯いて、震える指を握り締めるアンジェリークである。恥ずかしさのあまり、倒れそうな身体を支えるのに苦労するなど、十七年生きてきて初めてである。
「アンジェリーク、レイチェル、何してんの?」
「ありゃ、セイラン様」
どうやらアンジェリークを迎えに来たらしいセイランは首を傾げる。
「どうしたの、何か、顔が真っ赤だけど」
「てへ、ちょっとイジめてました」
けろりとした顔でレイチェルが言うと、青年は真顔で菫の瞳の少女に注意する。
「アンジェリークをイジめていいのは僕だけだよ」
「セイラン様ぁ」
『何なんですか、それはぁ』と、アンジェリークは涙目で叫ぶ。
「だってねぇ?」
「いじめ、というか、からかうと楽しいんだもん」
これが恋人と親友の言葉である。
「・・・・・」
無言で涙する栗色の髪の少女であった。
二人共に森の湖の辺を歩き、突然戒めの鎖が引かれる。
「ん」
所有の刻印が刻まれる。
銀の鎖が私を縛る
心も身体も魂すらも がんじ搦めに戒める
銀の鎖に囚われた
だけどそれは幸せへと続いていた
END
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