『あの人が帰って来るまで、ここで待っているの』
晧晧と月は輝く
夜を行く者を見守り
その行くべき道を指し示し
高き場所で微笑みを投げ降ろす
「セイランさぁまっ!!」
『ぎゅうっ』
「どうしたのさ、アンジェリーク?」
クスクスと上機嫌の少女にソファ越しに抱き着かれた青年は首を傾げる。
「私セイラン様の容れた紅茶が飲みたい」
至極たいへん可愛い我が侭に、彼はうっすらとその口元に笑みを刻んで形のいい指に持った繊細なグラスを掲げる。
「それなら代わりにこっちでもどう?」
「絶対にごめんです」
「そう、それは残念だ」
憮然とした即答に本当は吹き出したい程の愉快さを感じながら青年《女王補佐役セイラン》は出来るだけ何時もと変わらない声で言葉を返す。
「ぷうっ」
それでも笑みから微妙に震える声に、少女《女王補佐官アンジェリーク》の眉がつり上がった。
以前彼女は『普通全部飲んだってそれ程酔わないぞ』というような軽いアルコールを口にしたことがあったのだが、どうやら先天的にアルコールに対する免疫が欠如でもしていたのか二杯で見事に酔っ払って、親友や同僚の目の前で青年に懐きまくった−もしくは自分から迫っていたと言ってもいい−という経歴があり、それ以来決してアルコールに手は出さないと誓っているらしい。
「ほら、腕を外して。ちゃんと容れてあげるから」
「はぁい」
途端に機嫌を直して少女はソファに納まる。『好きな物は美味しい物』と言い切る青年が容れるお茶が彼女の大好きな物の一つである。
因みに、ここは女王補佐役としてセイランにあてがわれた《聖命宮》内部の彼の私室であるが、異常なまでに家具の少ない部屋は、それ故にあくまで『寝る』為だけに使われていることが分かる。もっとも、彼一人だけならここではなく、面倒くさがって隣のアトリエ−仕事で泊まり込む場所なのに何故かある−の長椅子で寝るのだが。
「はい」
「有り難うございます」
にっこりと笑んで彼女に恋する者にとっては犯罪的なまでに愛らしい笑顔で、彼女は瀟洒なカップを受け取る。本来ならば彼女の勝ち気な顔立ちは愛らしさとは遠いところにある筈なのだが、彼女の素直な本質が垣間見える大きな瞳が勝ち気さと愛らしさを見事に調和させているようだ。
「・・・・・」
少女の笑みに笑みを誘われながらも無言で隣に座った青年は杯を重ねる。
と、元々シャワーを使ったばかりの少女は、それだけが原因とは思えない程度に赤く染まった顔を青年に向ける。
「セイラン様、これ」
「ご注文通りの紅茶」
「お酒入ってるでしょう!?」
「ご名答」
「セイラン様ぁ」
しかし、紅茶に垂らした程度のアルコールも駄目なのか・・・・・
「ヤダもぉ」
そんなことを言いながらカップを目の前の足の短いテーブルに置く時に、さらりと彼女の肩を覆う程の長さの髪が角度によっては可成危ないところまで見える胸元に落ちる。
「私がお酒に弱いって知ってるのに、どうして入れたりなんてしたんですか?」
怒った声で言いながら同僚である青年を睨みつける。
その勝ち気な目元をうっすらと赤く染めている姿は、見事に彼の心を刺激してくれるのだが、無論神ならぬ身である彼女に分かるわけもない。ついでに、彼がたくさんの茶目っ気と同時にどんな意図でお酒を入れたのか、なんてことも、勿論分からないわけである。
「セイラン様」
『答えなさい』とばかりに名前を呼ぶアンジェリークの頬を包み込んで、一瞬掠めるだけのキスが降る。それを認識した瞬間に完熟林檎にも負けない程真っ赤になることを、セイランは当然知ったうえで、である。
「どうして入れたのか、と問われたら、答えは二つだよ。『ただの悪戯』と」
澄まして少女の反応を見ていた青年は答えの最後を彼女の耳元で小さく囁く。
「『君が欲しいから』」
「?」
もう酔いだしたのか純粋に意味が掴めなかったらしく首を傾げ、彼女は意味が分かった瞬間にはザァッと青ざめると同時に逃げ出そうとする。のだが、とっくに彼の腕に抱き締められて逃げられない状態である。それでも諦めが悪い性格がジタバタと手足をばたつかせるという行動をさせたが。
「家に帰ります」
「その格好で?」
シャワーを浴びた後なので外を歩くには決して向かない格好であることを思い出した少女は、それでも往生際悪くバタバタしている。
「それなら部屋に戻りますっ」
女王補佐役のセイランに部屋があるなら、当然女王補佐官であるアンジェリークも部屋はもらっている。そこへ帰ると彼女は言うのだが、再びさらりとした口調で彼は言う。
「湯冷めするよ」
「もう一回入るようなことしたくないだけです!」
「そうきたか」
すでに慌てまくって叫んだりしたお陰で肩で息をしている少女を腕に抱いて、彼は少し考える。いっそ問答無用でことに至った方がいいかもしれないと。無意識にサラサラとしたまっすぐでしなやかな髪を梳くと、彼女愛用のシャンプーの爽やかな中にも何処か甘いグリーンハーブの香りがして、更に逃がす気が失せてしまう。
青年の片手が少女の置いたティーカップに寄り添うように置かれたグラスに向かう。
「?」
片手で抱いたまま−彼女なら一口含んだだけで倒れるかもしれない程度に強い−お酒を口にしているのを見て少女の頭の中は疑問符で埋め尽くされる。
「っ!?」
恋人の意図に気がついたのと口づけはほぼ同時で、否応もなく喉を液体が通っていくのを誰より恋しい青年に対する猛烈な怒りと共に認めざるを得なかった少女である。
「けほっ」
強引な飲ませ方に少し気管に入ってしまったらしく咳き込む少女の唇の端から、細く零れた跡を青年の唇がすする。
「やんっ」
「感じる?」
「セイラン様の馬鹿ぁ」
押し倒されたアンジェリークの正直な返答である。
「好きだよ」
「馬鹿」
「愛してるよ」
「馬鹿」
「そんなことばかり言ってると、いぢめるよ?」
湯冷めしないようにと羽織っていたカーディガンを下の白いシャツごと脱がしながら、赤い刻印を刻み付ける。
「帰してなんてあげない」
「っ」
きゅっと目をつぶった彼女の顔が反らされる。
無意識に自分の服の袖を掴んでいることに気がついたセイランは、艶やかな笑みを浮かべてアンジェリークの唇を塞ぐ。
『トトンッ』
「セイラン様、女王陛下よりのお召しでございます」
「・・・・・」
思わず目をぱちくりさせる少女の上で、思いっきり秀麗な美貌を嫌そうに歪めた青年は閉められたままの扉に言い放つ。
「後にしてって伝えて」
「セイラン様っ!!」
『陛下のお召しでしょうがぁ!?』と、彼女が言おうが聞くような青年ではない。
だが、
「そのぉ、緊急の用件ですので、お早くと、申されていたのですが」
なかに補佐役の他に恋人でもある補佐官がいることを察して躊躇いがちに、だが『女王陛下の御命令』の為にしっかりと聞こえるようにと紡がれた言葉に、あからさまな舌打ちを打つと、仕方なさそうに彼は身を起こす。
「アンジェリークは関係ないの?」
「はい」
「分かった。すぐ行く」
「はい」
言葉少なに『馬に蹴られて死ね』の役回りをした侍従はとっとと退散したようだ。
緩めた服を直しながら視線を向けると、真っ赤に染まった顔を背けて同じように直している少女が映り、彼はグラスに手をかける。
「ん」
再びのそれに彼女は目を見開き、抵抗する力を失う。
「良い子だね」
楽しそうに笑って囁き、彼女をこの部屋から出て行く時に使おうと彼女自身が用意していた−つまり彼女に泊まっていく意志はなかったということである−外套を使ってくるむと抱き上げる。
「・・・・・」
ぐったりと全身の力を放棄せざるを得なかった少女は、辛うじて動かせるまぶたを上へと押し上げて青金石の青年を見上げた。自分の意志を無視して自由を奪い、寝台へと置き去りにする人を。
「すぐに戻って来るから」
白い頬に掠めるキスをして、その人は部屋を後にした。
「セイランさまのばかぁ」
子供みたいに呟いて、自分を包むマントを掴んで少女はそっと目を閉じた。
夢を見た。
「行ってくるから、大人しく待っておいで」
『何処へ行くの?どうして行くの?』
「浮気なんてしたらみっちりお仕置きしてあげるからね」
『どうして行くの?どうして私を置いて行くの?』
悲しい夢でした。
朝日がカーテン越しに差し込む部屋で、アンジェリークは目覚めた。
「セイラン様?」
お酒には弱いが二日酔いはないという体質の少女は、すっきりと冴え渡った頭を左右に振る。
「もうお仕事してるのかな?それともあのまま徹夜したのかしら?」
『どっちだろ?』などと考えながら彼女はクローゼットを開けると、当然のように部屋の主である青年の服と、何故だか少女の服があった。
実はこの部屋だけに限らず、青年の屋敷の青年の部屋にも彼女の衣服が置かれている。彼女が自分の屋敷で寝る回数と青年の屋敷に泊まる回数ならば圧倒的に自分の方が多いのだが、聖命宮の場合は全くの逆で、彼女は自分の部屋で寝たのは両手で数えられる程度である。後は全て青年の部屋で寝たことになる−その事実から青年の押しの強さが可成であることが容易に推測出来るだろう−。そうなると着替えを取りに戻るのも面倒ということで−本当はそれを口実に少女が逃げないようにだろうが−青年が補佐官服や私服を何着か置いておいたのだ−青年の屋敷の方はそのついでということらしい−。
「おはよう、レイチェル」
「おはよう」
この宇宙最初の女王として名を残すことの決まっている《女王レイチェル》は自分の補佐官の姿に一瞬目を見張った。
「何、どうしたのよ?」
その態度に驚いたアンジェリークが首を傾げる。別段変わらない普段通りの服装だ。何をそんなに驚かれなくてはならないと言うのか?
「うぅん。ただ、元気そうだなって」
「はぁ?」
素っ頓狂な声をアンジェリークがあげた途端に再びドアが開く。
「おはようございます、レイチェル。あ、アンジェリークも来ていたんですね。おはようございます」
「おはようございます、ティムカ様」
かつてはレイチェル同様教えを請う教師であり、今では同僚という間柄である《特別補佐役ティムカ》に丁寧に彼女は頭を下げる。
「元気、そうですね」
『意外』という念に彩られた言葉に彼女は眉をひそめる。
「二人共、私が元気だと何か不都合でも?」
腰に手を当ててわざと大袈裟に怒ってみせると、琥珀色の二人は視線を合わせる。
「だって、ねぇ」
「えぇ」
言葉を濁す二人だ。
「本当に、どうしたの?」
困惑した少女が問うと、躊躇うように彼女の親友が言葉を紡ぐ。
「だって、しばらく、セイランがいないのに」
「え?」
「知らなかったんですか?」
大きな墨色の瞳を瞬かせて少年が言う言葉に、無言で少女は首を縦に振る。
「セイラン様、何処に行ったの?」
ちょっぴり意地悪でとっても強引でだけど誰よりも愛しい恋人のこととなれば、かつての師弟関係がいまだに抜けず口調も自然と丁寧になっていたのが少し欠けるのは致し方ないだろう。
「セイラン様、何処?」
「その、ね。落ち着いて聞いてよ?」
恐る恐ると言った風に金髪と菫の瞳、髪が溶けてしまいそうな琥珀色の肌の女王は言葉を途切れさせがちに言った。
「ハンラン?」
宇宙は安定した。だがそれは最低限の安定でしかなくて。
人の心はいつの時代でも、何処の地であろうと不安定なのだ。
「そうなのよ。で、ヴィクトールが指揮をとって、セイランは私の名代って形で行ってもらったの」
聖地守備軍を統括する《元精神の教官ヴィクトール》の名と少女の恋人の名を言った女王は指折り数える。
「私はいけないし、あんたもこの手のことには向かないし」
そして、特別補佐役が続ける。
「僕も星の皆との約束がありますから」
本来ならば王位を継ぐべき者王太子として帰らなくてはならないのを二十才までという条件で説得して来てもらったティムカには、女王の名代として危ない戦地に出て行ってもらうわけにはいかない。たとえ本人が行きたがったとしても、信用問題がかかっているのだ、行かせられない。
「というわけで、消去法でいくとセイランしか残ってなかったというか」
『あの毒舌考えるとちょっとねぇ』などと言うレイチェルの言葉はアンジェリークの耳には届いていなかった。
「・・・・・そんなの、私、聞いてない」
「絶対心配するから、言ってから行くようにって、言っておいたんだけどね」
「セイランさん、アンジェリークが寂しそうな顔をするの、見たくなかったんですよ」
ありそうな話である。女王候補を降りてまで、自分と共に、と想ってくれた少女を、彼はとても愛しているのだから。
「遠いの?」
「けっこうね」
「じゃあ、しばらくは帰って来れないんだ」
シュンと項垂れた姿は普段の気丈な彼女からはまるで想像出来ないような、痛々しさすら漂うようなそれで、再び金と菫と琥珀の女王と墨色と琥珀色の王子は顔を見合わせた。想像以上に彼女の心はあの天の邪鬼な雪の白大理石と青金石の青年のことで埋め尽くされているということを知らされ、純粋に側にいてくれないことを悲しんでいる雰囲気に、飲み込まれそうだった。
「・・・・・えぇいっ!」
突然少女が毅然と前を向く。
「な、何よ、いったい?」
「アンジェリーク?」
驚いた二人にグッと握り拳で彼女は高らかに言う。
「ウジウジ悩むなんて私らしくないわ!さぁっ、前向きに仕事をちゃっちゃっと片付けちゃおう」
誰にだって無理な笑顔だとすぐに分かる笑顔で、彼女は書類を手にした。
「きゅぴるるん♪」
たいへんご機嫌な鳴き声が吹き抜けの廊下に響く。
「ただいま、アルフォンシア」
ピンクのプワプワとした毛玉・・・・・、もとい、《元聖獣アルフォンシア》は大好きなご主人様であるアンジェリークの腕につぶらな目を細めて顔を擦りつけ、ご機嫌の様子だ。ここしばらく帰っていなかったので寂しかっただろうに、その不満もご主人様を見つけた途端に氷解したのだろう。
「お帰りなさいませ」
「お帰りなさいませ、アンジェリーク様」
ピンクの元聖獣の声を聞きつけてたくさんの侍女達が駆けて来る。ここはレイチェルがアンジェリークに下賜した女王補佐官の屋敷である。
「長めのお休みをもらったんだけど、いいかな?」
栗色の髪を揺らせて意向をうかがう館の主人に、呆れたようにこの館に仕える女性達は口々にさえずる。
「ここはアンジェリーク様のお屋敷ですのに、そんな言い方なさらずとも」
「もう少し足繁くお帰り下さいませ。ですから実感が湧かないのですわ」
「そうですわ。アルフォンシアもとても寂しそうですのよ」
「幾らペットより恋人が大切とはいえ」
最後は好意的なからかいの言葉であるから、クスクスという笑い声が幾つも続く。
「・・・・・もおっ」
真っ赤に染まった頬を膨らませて少女は唇を尖らせる。
「きゅぴぴっ」
「なぁに?」
腕のなかで声をあげるアルフォンシアに、アンジェリークは首を傾げ、これまた女官達がさえずる。
「アルフォンシアもアンジェリーク様にもっと帰って来て欲しいんですよ」
「きっとアルフォンシアは、セイラン様にアンジェリーク様を取られるのが嫌なんですわよ、ねぇ?」
「きゅんっ」
彼女のペットと恋人は、たいへん相性が悪い。呆れてしまう程悪い。それにもってきてアルフォンシアもセイランも、独占欲が可成強い方らしく、お互いにアンジェリークを独り占めしようとしては邪魔されて睨み合うという、なかなかに情けない状態に突入することが多々あり、これでは親密度が上がろう筈もない、というものだ。
「あはは」
それを知っているからこそ、彼女は苦笑いを漏らしたのである。
夢を見た。
「おかえりなさい」
返事は返りませんでした
とても悲しい夢でした。
「きゅるるぅ」
「アルフォンシア?」
一緒に寝ていた聖なる獣に頬を嘗められて起きた少女に、ピンクの縫いぐるみみたいな聖獣は首を傾げる。
「きゅぴゅ?」
『大丈夫?』と問う意志の乗せられた声に、彼女は自分の頬に手をやり、冷たい涙の跡を自覚して切なく目を伏せる。
「ごめんね、大丈夫よ」
優しく笑って白い腕がピンクの毛皮を抱き締める。
「おやすみ、アルフォンシア」
「きゃぴゅるるん」
「・・・・・」
寂しいの
どうしていてくれないの?
寂しいの
何処にいるの?
帰って来て
躊躇いがちなノックに、書類に判を押していた女王が顔を上げる。
「入っていいわよ」
気安い口調ながらも凛とした声に、『失礼致します』と声をかけて、侍従の一人が入って来る。
「女王補佐官アンジェリーク様の館の者より書状が届いております」
「アンジェリーク本人からではないの?」
眉をひそめて女王は軽く頷き手を差し伸べる。
恭しい動作でその侍従は女王の蜂蜜色の手に手紙を渡すと、気をきかせてすぐさま退出した。
「・・・・・重症ね」
ため息をついて女王は手紙を置くと、組んだ指の上に額を当てる。
「どうしました?レイチェル」
何時もの調子でやって来た聖地中央に位置する聖命宮にも当然部屋を与えられている特別補佐役は、憂いの女王に問いかける。
「アンジェリークのところの女官長からの手紙なんだけど、見る?」
「いいんですか?」
頷くことで答えとした金髪の少女から手紙を受け取り、目を通した墨色の少年の瞳にも憂いが宿る。
「選択を間違えたかしら?」
「いいえ。女王の名代としてたる人物は、僕達補佐役補佐官以外いませんよ」
緩く首を振って否定する褐色の肌の少年に救いを求めて、だが自分からそれを拒否するように琥珀の肌の女王は目を伏せる。
「あの子がセイランを心から慕っているのを、知っていたのにね」
時に兄弟にたとえられる空にいる太陽と月のように、切っても切り離せぬ程に親密な友人である。鮮やかな微笑みと素直な心の誰より大好きな親友のことを、何から何まで、全部知っていると思っていたのに・・・・・自分は甘かったのだ。
「せめて、一緒に行かせてあげればよかったわ」
「それは、ヴィクトールさんが嫌がった、と思いますけど」
「そうなのよねぇ」
綺麗に梳かれた髪をクシャクシャと乱しながら、女王は『オテアゲ』と呟いた。
窓辺で雨の降るさまを見ている少女の膝で、愛らしいウサギとリスを足して割ったような生き物が声をかける。
「きゅぴゅるぅ」
「・・・・・」
「きゅきゅんっ」
「え、あ、何?」
ツンツンッと袖を引っ張られるまでぼんやりしていた少女は膝に抱いて撫でていたピンクの聖獣へと問う。
「きゅるきゅゆん」
気遣わしいその調子に、彼女は泣きそうな顔をする。
一番可愛いペットは勿論のことアルフォンシアで、そのアルフォンシアが目の仇にしているのが一番大好きな恋人セイランで、という風に、どうしても、彼のことへと思考が向いてしまう。
「早く帰って来て」
ポツリと、絶望的な声が呟かれた。
夢を見た。
『セイラン様、何処にいるの?』
夢の中にもあの人はいませんでした
とてもとても哀しい夢でした。
白いレースが揺れる。
「補佐官様?」
白い指が冷たい金具の取っ手に触れる。
「まだお戻りには」
『キィ・・・・・』
白い幻のような人影は消える。
「アンジェリーク様」
引きずられたように、白い少女の姿を見た女官は少女の名を悲しく呟いた。
眼差しは誰かを探し
故に誰も何も映さず
唇が誰かの名を呼び
故に誰も何も応えない
人の気配のないアトリエ
白い服の少女の桜色の唇から言葉が漏れる。
「セイラン様」
切なくて切なくて、泣き出しそうな顔で彼女は呟く。
「セイラン様」
寂しくて寂しくて、今にも泣きそうな顔で彼女は呟く。
「セイラン様」
悲しくて、哀しくて、愛しくて、彼女の瞳から涙が零れた。
人の気配のない私室
元々家具の少ない部屋は整えられ、綺麗すぎて生活感がない。・・・・・あの人の気配がない。
「セイラン様」
泣きながら少女が部屋を見回す。
「セイラン様、何処?」
グスグスと泣きながら少女は青年の姿を探す。
「嘘つき」
『すぐに戻って来るから』
「嘘つき」
子供のように、同じ言葉を何度も繰り返す。
「セイラン様の嘘つき」
「誰が嘘つきだって?」
「セイラン様!?」
パッと劇的なまでに泣き顔を笑顔に変えて彼女は振り返る。
「あ」
・・・・・だけど、誰もいない。
「セイラン様、私もう駄目」
ポロポロと涙の滴を幾つも零しながら、彼女は拭うことも忘れて遠い場所にいる筈の人へと言葉を放つ。
「セイラン様がいないと寂しいよぉ」
彼女の勝ち気さも気丈さも、全ては生来のもの。後天的に培われたものではない。ないのに、アンジェリークはセイランの不在にここまで泣くのは、
「早く帰って来て」
生来の、生まれながらの性格にまで影響を及ぼす程に、彼女が彼を愛したせいだ。
ぬくもりのない寝台に彼女は潜り込んだ。
「もう起きない」
呟く。
「決して起きない」
誓う。
「絶対に起きたりなんかしない」
小さな音を立てて、女王と女王補佐官が友情を育んだ女王試験期間中に女王の資質を磨く教官であった人の部屋の扉が開き、一人分の丸みを帯びた寝台に金と琥珀と菫の人影が近づく。
「アンジェリーク」
「・・・・・」
「起きなさいよ」
「・・・・・イヤ」
「嫌じゃないでしょう?あんた、それでも補佐官なわけ?」
金の女王は高飛車に一つ年上の女王補佐官を叱りつける。
「・・・・・るの」
「何?」
「あの人が帰って来るまで、ここで待っているの」
「・・・・・馬鹿」
一言だけ呟いて、琥珀の女王は踵を返す。
自分ではどうやったってこの友人の心の鬱を払ってやることが出来ないのだと知っていても、どうしてもこのままにしておけなくて、だけどやっぱり無理だと知って、彼女は無力な自分に対して憤っていた。
ずっと待ってるから
早く帰って来てね
幾つ太陽が昇って、そして沈んだか知らぬまま、満ちていた月が欠け、欠けていた月が何時の間に満ちたか知らぬまま、彼女は微睡みを紡ぐ。
切なくて 寂しくて
悲しくて 哀しくて 愛しくて
「セイラン様」
時折呟かれる名前は彼女の最愛の人のもの。
「待ってるから」
それは彼女の誓い
「早く帰って来て」
それは彼女の願い
「セイラン様」
それでも
貴方だけを待っているから
いながらにしていなかった、姿の見えなかった筈の月が再び清らかな姿で君臨する夜
密やかに漏れる月の光を頬に受け、少女は微睡みの中で彼を待つ。
「セイラン様」
まぶたが震え、言葉が漏れる。
涙の跡の消えない頬に、雪白の指が触れる。
「何?」
涼しい声が耳朶を打つ。
「セイラン様」
「だから、何?」
「ずっと待ってるから」
「うん」
「早く帰って来て」
「帰って来たよ」
ゆっくりと無垢な光を宿した瞳が現れる。
映るのは、瑠璃色の影
「セイラン様?」
純白の光は半身を起こしてそれを見上げる。
「ただいま、アンジェリーク」
そっと赤い唇が、涙の跡に触れる。
「ただいま」
銀の月に映える人が、優しく笑んで言葉を待っている。
他の誰でもない、自分の選んだ、そして自分を選んだ天使の言葉を。
「お帰りなさい」
白い天使が青い人影に抱き着く。
「寂しかった?」
「うん」
子供みたいに頷いて、少女は潤んだ瞳で彼に訴える。
「セイラン様がいなくて、寂しかった」
「嬉しいことを言ってくれる」
クスクス笑って頬に額にキスを繰り返し、彼は最愛の少女を抱く腕に感じる違和感に時間というものを感じずにはいられなかった。
「ずっとここで待ってたのかい?」
「うん」
コクリと素直に頷く少女は、記憶より少し頬がやつれている。
「ずっとずっと待ってた」
何時も気丈で、時にはこの自分をやり込める程に勝ち気な少女が、こんなになる程自分を想ってくれていたのが、彼には素直に嬉しい。
「会いたかった」
最後にそれだけを呟いて、後は声もなくただ彼に抱き着いて、彼女はそこにその人がいることを確かめる。
聞き慣れた命が刻む鼓動が、泣きたい程今の彼女には愛おしかった。
「僕も会いたかったよ」
耳をくくすぐる涼しい声に、アンジェリークは泣き出す。
「ずっと、会いたかったよ」
涙で濡れた頬を包み、セイランは最愛の少女に口づけを贈った。
もう言葉なんて、いらなかった。
安らいだ寝息に目を細め、眩しい程に白い肩にまでシーツを引き上げて、抱き締める。暖かなその体温は、とても長い間求めて、だけど得られることのなかった優しいもの。
愛しくてたまらない、長く離れることが苦痛な程に愛しい少女だ。
「僕だけのアンジェリーク」
天使という名の織り込まれた名前
「僕だけの白い天使」
その名前の通りに、少し勝ち気にすぎるけれど、それでも彼女は彼の天使
「セイラン様」
腕のなかで、少女が寝惚けた声をあげる。
「ここにいるから、オヤスミ」
自分でも驚く程に優しい声で言葉を紡ぐ。勝ち気な目元を緩めて、まるで子供のようなあどけない寝顔を、もっとずっと見ていたかったから。
「オヤスミ」
もう一度囁くと、安らいだ寝顔に微笑みが浮かべられた。
久しぶりに寝たという感覚を持って彼女は目覚めた。
「セイラン様?」
ペタペタと白い手を伸ばしてそこら辺を叩くのだが、手のひらに感じるのは滑らかな絹の感触だけで。
「セイラン様?」
起き上がった少女は首を左右に振る。
・・・・・何処にもあの人がいない。
「セイラン様!?」
脅えたように少女が声を張り上げる。
どうしていないの?夢でなんかある筈ないのに!?
「何?」
驚いたようにシャワールームから滴を多量に零す髪を拭きながら青年が現れると、泣きそうな顔で彼を見つけた少女は慌てて寝台から降りて青年に抱き着く。
「どうかしたのかい?」
「・・・・・」
少しでも離れているのが嫌なのだろうが、これはまた随分と極端な反応だ。また、置いて行かれたとでも思ったのかもしれない。
「ちゃんと、言ってから行けばよかったね」
自分が彼女の寂しそうな顔を見たくないという我が侭から何も告げずにこの地を後にして、その後ずっとこの少女は自分を探していたのだろう。
「ごめんなさい」
「何?」
「ごめんなさい」
瑠璃色の髪から落ちる滴で、彼女がまとっているシーツに涙の跡のような染みが幾つもつけられる。
「・・・・・まさか浮気したとか?」
「してませんっ!」
噛みつくように彼女が叫ぶ。
「誰がそんなことをするって言うんですっ!?」
『侮辱だ』と叫ぶ少女に、彼はにっこりと笑って言ってのける。
「それは残念だ」
「何故?」
「おしおきしてあげようと思ったのに」
「・・・・・」
清々しい顔で言い放たれ、『どんなおしおきかあんまり想像したくない』と彼女は思って沈黙する。
「で、何を君は謝るの?」
ポンポンッと頭を軽く叩かれて、彼女は緑青の瞳で見上げる。
「・・・・・側にいて下さい。今日だけは、私にセイラン様を束縛させて下さい」
誰よりも束縛を、執着されることを厭う青年に、それだけを願う。
「我が侭だって、分かっています。だけど、今日だけは」
『お願いですから』と続けるアンジェリークの桜の花びらの色をした唇が、薔薇色の唇に塞がれる。
「ごめんだね」
見上げてくる少女に冷たく整った横顔を見せて彼は素っ気なく返答した。叱られた子犬みたいに少女の瞳が落胆に染まるのを横目に見ながら、彼は続ける。
「どうして僕が、束縛しようとしている存在に束縛されなくちゃいけないのさ」
「?」
きょとんとした顔で首を傾げる少女の耳元に唇を寄せる。
「分からない?ようするに、僕が君を離さないってことだよ」
軽く頬にキスをされて、驚いた少女を奇妙な浮遊感が捕らえる。気がつけば、青年の腕に抱え上げられていた。
「今日だけは何処にも行かせたりなんかしないよ」
我が侭なことを高らかに言い放ち、彼は彼女の言葉を奪った。どんな反論も許さないような、そんなキスで。
その日、昨夜遅い時刻に帰還を果たした筈の女王補佐役と、その人の最愛の少女の姿を見かけた者はいなかった。
「ねぇねぇ、もしもまた何かの用事でセイランにしばらくの間聖地を留守にしてもらう時は、アンジェリークも連れてってもらうわけにはいかない?」
後日のこと、女王様が言った。女王の名代を立てなくてはいけないような大事件がそうそうあってもらっては困るが、ないとは言いきれなかったからなのだが、
「もしもそんなことになりそうになったら、俺は将軍位についてでも反対します」
キッパリといまだに将軍位を固辞している聖地守備軍を統括する赤のかかった黒髪の男が言うと、傷ついたように女王補佐官が言う。
「そりゃあ、邪魔になるかもしれませんけどね」
「絶対そうなるに決まっているだろう?」
サラッとした口調で女王補佐役が言い、女王補佐官が怒り出す前に言い添える。
「勿論、僕としては連れて行ければそれに越したことはないけどね」
対して、恋人達を出来る限り視界に入れないようにしながら生真面目な男は言ったものである。
「お前とアンジェリークが一緒じゃ、目的地に着く前に人数が半分になる」
「何ですか、それ?」
特別補佐役が首を傾げる。
「アンジェリークがいれば確かにセイランの毒舌も身内に対する分がもう少しマシだろうが、それ以上に雰囲気に胃を壊す奴が出る」
女王が呟いた。
「何が嫌って、反論出来ないとこよねぇ」
「セイラン様ったら、そんなに毒舌使ってたんですか?」
別な部分に反応して女王補佐官が問えば、男は疲れ果てた顔で答えた。身内にも被害者は出たが、それ以上に可哀想だったのが、
「マジに胃を壊して、向こうの交渉役が三回変わった」
「それは、随分と」
『元々可成の皮肉屋で毒舌家ではあったがそれは凄い』など、妙な関心をしているのが分かる特別補佐役の台詞である。
「言いたいことがあればとっとと言えばいいんだ。無理に付き合わせられるこっちの身にもなって欲しいね」
不機嫌にそう言うのは勿論女王補佐役で、からかったのは女王だった。
「早く帰ってアンジェリークをかまいたかったから?」
それに対するセイランの返答はと言えば、
「それ以外に何かあるとでも?」
であった。
『何かが違う』と力なく呟いてしまうアンジェリークである。
その端では、『しょせん人事』とばかりにレイチェルが笑い転げ、ティムカが同じように笑いたいのを必死に押さえ、ヴィクトールが苦笑していた。
ようするに、相変わらずお互いにベタ惚れな恋人達の話である。
END
|