何時かの日に

何時かの日に


『何時か、きっと・・・・・行くから』
『・・・・・はい』

 麗らかな午後である。
「今日和」
 穏やかな声がかけられる。
「今日和」
 墨色の少年に至極丁寧な態度で青翠の少女は挨拶をした。
「ティムカ様、今まで有り難うございました。せっかく教えていただいたのに、私は女王にはなれませんでしたけど、これからはレイチェルの補佐官として、教えていただいたことを活かしていきたいと思います」
 相変わらず相手の目を見据えて話す少女に、とても十三才とは思えない少年《元品位の教官ティムカ》はそっと控えめに微笑む。
「頑張って下さいね、アンジェリーク」
「はい」
 応えて晴れやかな笑顔を浮かべる少女《元女王候補生アンジェリーク》である。
「アンジェリーク、ティムカ」
「あぁ、ヴィクトールさん」
「今日和、ヴィクトール様」
 にこっと少女と少年がやって来た鳶色の男に同時に笑いかける。二人共その男のことをとても慕っているのがよく分かる笑顔である。
「出発は明日だったな」
「はい。今まで有り難うございました。教えていただいたことは決して忘れません」
 勝ち気なブルーグリーンの瞳がきらきらと意志の力に煌いている。
「頑張れよ」
 大きな手でアンジェリークの頭を少々−本人に自覚はないが−乱暴に撫でる《元精神の教官ヴィクトール》はおおらかに笑った。
「本当に、お二人にはよくしていただいてもらって、ホント、有り難うございました」
 ぽろりと少女の瞳から涙が零れる。
「あ」
 驚いて少女は涙を拭う。
「ごめんなさい」
「・・・・・いいんですよ」
「そうだぞ」
 年下の筈なのに時には自分よりも年上に思えた品位の教官と、まるで父親みたいに慕った精神の教官は、何時だって優しくて、思わず甘えてしまう。
「何時だって、応援してますよ」
「あっちでも元気でな」
 一度別宇宙へと移れば、多分こちらに戻って来ることは出来ない。同じように、宇宙の成長の為に他の宇宙の干渉を最小限にする為、この宇宙から来る者も稀だろう。きっともう、この人達には会えない。
「はい・・・・・」
 ポロポロと涙が、拭う度に零れていった・・・・・

 清らかな音の満ちる《森の湖》別名《恋人達の湖》に流れ込む《祈りの滝》に、少女は最後の願いをかける。
『どうか、会わせて下さい』
 会えないまま行ってしまえば悔いが残ると、少女は最後の祈りを捧げる。
 太陽が昇り来れば、彼女は親友である別宇宙の《女王レイチェル》と共に《女王補佐官アンジェリーク》としてこの生まれ育った宇宙を後にする。
 そして・・・・・
「来てくれなかった」
 ポツリと少女は呟く。
「やっぱり駄目ね」
 あまりこういった『おまじない』の類いを信じる性ではないのだけれど、それでも信じてしまいたくなる程に、会いたかった。
「いい加減、帰らなきゃ」
 涙のにじみかけた目を擦り、少女は気丈に前を睨むように帰り道をたどる。
「・・・・・セイラン様」
 そっと唇が群青の青年の名を呟く。

 瑠璃の髪  群青の瞳  しなやかな肢体
 気まぐれな猫みたいな天の邪鬼な《感性の教官セイラン》

 本当に天の邪鬼で、色々とイジめられた。こっちが焦るのを見ては楽しそうに笑ったりする人だった。
 だけど、笑うと子供みたいで、それを指摘すると驚いた顔をして、それが好きだった。

 好きだった・・・・・

 零れ落ちた言葉
「セイラン様」

「何?」

「セイラン様っ!?」
 思いがけず返ってきた答えに少女は驚いて振り返る。

 森の湖と他の場所とを繋ぐ狭い小道に彼はいた。

「今晩和」
「あ、今晩和」
 ぺこちゃん、と、ほとんど『良い子のご挨拶』である。
「女の子が出歩いていい時間じゃないね。早くお帰り」
 月影で艶やかに微笑む青年
「・・・・・あの、セイラン様、今まで有り難うございました」
 月明かりの下で精一杯笑う少女
「このまま何も言えずに行くのは嫌だったから、よかった」
 安堵の吐息を零しながら、少女は漏れかける言葉を飲み込んだ。

『貴方が好きです』

 あの子を一人にさせることは出来ないから。
 どんなに勝ち気な性格でも、自分よりも一つ年下で、親しい者にはちょっと甘えて寂しがり屋なところを見せるあの子を、一人になんてさせられないから、言えない。言ってはいけない。

『貴方が好きです』

「・・・・・僕は会いたくなかったな」
 しばらくの沈黙の果て、彼は呟いた。
「会いたくなかった。だからこんな時間まで森にいたのにね」
 自嘲の笑みに、少女は泣きそうな顔をする。
「私、嫌われて、いました?」
 生来の勝ち気さで泣くことだけはしたくないと、そんな弱いただの女の子だと彼には思われたくなかった。
「そうじゃないよ、逆」
 白い手がそっと影から光へと伸ばされ、栗色の髪を撫でる。
「君のことは気に入っていたからね。あんまり人付き合いしなかったせいで、こういうのって苦手なんだ。嫌いな相手なら幾らでも言えるんだろうけどね」
 苦笑ぎみの声に、少女は泣き笑いを浮かべる。
 嫌われてはいないと分かって安堵して、だけど『気に入っていた』と言われて往生際悪く、初めての恋が泣いている。
「どうしても行くのかい?」
「・・・・・、はい」
 答える声が震える。言葉を操ることがこんなに難しいことだなんて知らなかった。
「・・・・・だって、レイチェルを一人になんてさせられないんですもの。あの子ってば、あれで意外と甘えっ子なところがあって、母性本能が刺激されるんですもん」
 わざと茶目っ気あふれる仕草で少女はウィンクしてみせる。
「そう」
 月の影で見え辛い青年の顔に浮かぶのは、苦渋だった。
「じゃあ、私、帰りますね」
 青年の表情に気がつかず、彼女は精一杯笑って頭を下げると踵を返す。

 揺れて膨らむ栗色の髪、遠ざかろうとする後ろ姿に、耐え切れない心が叫んだ。
「アンジェリーク!」

 白い腕が捕らえる。

「何時か、きっと・・・・・行くから」
 抱き締めて、そう言うことしか出来なかった。

「迎えに行くから」

 白い腕に捕らえられる。

「・・・・・はい」
 抱き締められて、そう答えることしか出来なかった。

「待っています」

叶わない願いだと知りながら
それでも望まずにはいられない願い

二人共 それ以外 言葉に出来なかった

 朝が訪れる。
 旅立ちの空は憎らしい程清しく晴れ渡っていた。

「セイラン様」

 桜の花びらのような唇が細く恋した人の名を呼ぶ。

 その人はいない。

 別れはもうすましたから、と、自分に言い聞かせながら進む。それでも、もう一度と願う心は変わらず痛む。
 もう一度、せめてもう一度、その姿を、その声を、と。

 ふわり

 風が髪を流す。

「アンジェリーク?」
 突然違い何処かを見つめる友人に、そっと一つ年下の女王が声をかける。
「何でもない」
 何かに堪えるような瞳で少女は微笑む。
「行きましょう」

 瑠璃の声が、青金石の姿が、聞こえたような、見えたような、そんな気がした。

『迎えに行くから』

 己が宇宙へと足を踏み入れる女王と、その側近くに仕える女王補佐官の姿を群青の瞳が見つめていた。

『待っています』

 それは、遠い約束・・・・・

そして、三年の時が流れる

「随分伸びたわね」
「何が?」
 生まれ育った宇宙の女王に比べれば何処となくエスニカルな雰囲気のある衣装の女王の言葉に、腹心にして一番の親友である女王補佐官は首を傾げる。
「髪のことよ。こっちに来てから全然切ってないじゃない」
「あぁ、うん」
 だいぶ伸びた栗色の髪を摘まんで女王補佐官は笑う。
「気に入らない?」
「別に、いいんじゃない?私はお陰で遊べるし」
「遊ばず仕事をしなさい」
「チェッ」
 愛らしく舌打ちをするレイチェルだが、悪いが幾つか実際年齢より年上に見える顔立ちなので、似合わない。もっとも、それが逆にアンバランスな魅力になる女王様だが。
「もぉっ!」
 腰に手を当て、今年二十歳の女王補佐官はご立腹のポーズである。だが、その印象的なブルーグリーンの瞳は、笑っている。

 三年前の女王試験の後、ずっと二人はこうやって日々を過ごしていた。

 椅子から腰を上げて、アンジェリークは言う。
「今日ので私の持ち分は終わったから、帰るわね」
「アルフォンシアによろしくね」
「うん」
 かつてアンジェリークと共にこの宇宙を育てた精神生命体《聖獣アルフォンシア》は、今ではその彼女の心を受けて具現化し、アンジェリークに飼われている。レイチェルも自分の相棒であった現在宇宙を守護する唯一の意志となった《聖獣ルーティス》とは色違いで、愛らしさ爆発なアルフォンシアを可愛がっているのだ。
「今度連れてきてね」
「やぁよ、あの子ったら絶対かまって欲しがって、仕事の邪魔するもん」
 手早く書類をまとめていたアンジェリークは、ここでジロリと女王を睨む。
「・・・・・レイチェル、実はそれが目当てなんじゃないでしょうね?」
「テヘッ」
「もぉっ!女王陛下がそれでどうすんのよっ!?」
 怒り出す補佐官に、年若い女王は神妙に顔を伏せるのだが、微妙に肩が揺れだし、
「キャハハハッ!あんたってば、ほぉんとこっちが思った通りのリアクションするんだもんねぇ」
 指差して笑い転げる。
「レイチェル!」
 どうやら、気分転換にアンジェリークで遊んでいたらしい女王陛下であった。

 かつて親しんだ別の聖地にも似たこの宇宙の聖地、その外れにある森と泉を彼女はとても愛していた。
 緑の樹木を映した泉の美しさは、昼であればあくまで輝き澄み渡り、夜では清かに星空を映して、さながらビロードで内張りされた宝石箱を覗くようだ。
 今宵はまた昼間に降った雨で樹木の若葉にも宝石が撒かれ、光を反射して更に彩りを添えている。
「・・・・・」
 気丈な眼差しを和ませ、もはや少女とは呼べなくなった彼女は宝石箱のような泉に浸した手を閃かせる。
 途端、宙に撒かれた滴がまるで、至宝の如く煌き落ちる。
 その様をクスクスと笑って見ていた彼女はやっと立ち上がると、自分の家としてあてがわれた屋敷へと続く、崖というには高さはさ程ないが少しばかり危ない小道へと通い慣れた足取りで歩む。実は彼女の屋敷の裏庭とこの森の泉とは少し細い道とで繋がっているのだ。
「やぁっぱり、今日は来るべきじゃなかったわね」
 慣れているからと甘く見た。夕刻のまだ太陽の光の届く時刻に歩く分はまるで不自由はなかったのだが、流石に夜道ではこの小道は不自由極まりない。滑らないように、おっかなびっくり、普段の彼女から言えば随分と慎重に歩を進める。
 しかし、
「っ!?」
 気がついた時には遅かった。
 悲鳴も上げられない。気がつけば天地が逆転している。

『ドザッ!!』

「いったぁい・・・・・」
 ズキズキと痛む身体に、思わず少女の唇から言葉を漏らす。
「・・・・・それはこっちの台詞だ」
「え!?」
「何時まで人の上に乗っかっているつもり?」
「あの」
「早くどいてくれないか?こっちも痛いんだよ」
「あの、何処にいるの?」
「はぁ?」
 突然上から降って来た女王補佐官の下敷きにされている青年が眉をしかめて、上に乗っかったままの彼女の目の前で手を振る。
「本当に見えてないみたいだね。何処か、強く打ったの?」
「頭が特に痛いから、もしかしたら・・・・・」
「そう、専門的な知識がないから確実性はないけど、そのせいかもね」
 そう言って、彼女を自分の上からどかせると立ち上がり、腕を取る。
「送って行ってあげるよ、家の方でいいの?それとも病院にする?」
「ぅんと、もう閉まっている筈だから、家の方へ。家にも医療員がいるから」
「分かった」
「すみません、お願いします」
 本来ならきちんと相手に向かって礼を言うべきだろうが、目が見えないせいでだいたいの位置しか掴めず、それが上手く出来ないことに苛立たしい思いで深々と頭を下げる。
「別にいいよ。ほら、足元が危なっかしいんだから、ちゃんと掴まって」
「あ、はい」
 腕に掴まってそれでも危なっかしい様子で、彼の歩調に合わせて歩いて行く。
 どうやら、彼は自分よりも頭一つ分程度背が高いらしい。掴まっている腕の位置だとかからそう推測しながら、薫る涼しい、否、涼しいを通り越して冴え冴えとした香りに首を傾げる。
「何?」
 首を傾げたのを見咎めでもしたのか、青年が問いかける。香り同様涼しい声だ。
「何処かであったことありますか?私が誰で、何処に住んでいるかも知っているようですけど?」
 声から年上か同じ年くらいと判断して、出来るだけ丁寧な口調で問いかけを返す。
「この聖地で女王補佐官のことを知らない者なんていないよ。同じように、その住まいもね」
「それもそうね」
 当然である。聖地に住まう者のなかでは、女王に次ぐ地位である女王補佐官を、知らない方がおかしい。
「さ、着いたよ。こっちにも用があるから、ここまで」
「すみませんでした。その、遅くなりましたけど、怪我はありませんか?」
「ない」
 きっぱりと短く答え、屋敷の玄関前まで送った青年は、そっと彼女の長い髪を梳く。
「何か?」
 首を傾げる仕草もあどけなく、彼女は問う。

「っ!?」
 反射的にいるだろうあたりをつけて、彼女が青年めがけて腕を振り上げる。
「じゃあね」
 クスクスと笑う声が遠のく。
「・・・・・」
「きゅぴゅゆんっ」
「アンジェリーク様っ!もうっ、こんな日にまで森の泉に足をお運びになられるだなんて、足元が危ないのに」
 アンジェリークの帰りを察知して駆けて来たアルフォンシアと、それを追いかけて来た女王補佐官の屋形に仕える女官の延々とお小言も耳に入らぬ様子で、少女は唇を噛み締めていた。

「どしたの、その髪?」
「聞かないで」
「『聞かないで』って言われても、気になるわよ」
 女王の執務室に入って髪を覆うクリーム色の布を外したなりの言葉に、アンジェリークはキリキリと勝ち気な性格を教える切れ長の瞳と柳眉をつり上げて言うが、背中を覆う程に伸びていた栗色の髪が、三年前と同じ程に切り揃えられているのだ。不審に思わないわけがなく、レイチェルが言うのも当たり前だ。
「・・・・・切られたのよ」
「誰に?」
「知らない」
「はぁ?」
「ぜぇったい、許さないんだから」
 プンプンとたいへんなご立腹状態で握り拳でそう怒りの言葉を呟く女王補佐官の姿に、首を傾げるしかない女王であった。

 あの後、屋敷の女官達があまりにも騒ぐので聖地屈指の医療院に行って治療してもらい−目の方はやはりただのショックによるものであった為至極簡単に治った−、視力を取り戻して驚いた。
『これ、どうして?何時の間に?』
 肩を、背を、覆い隠していた栗色の髪の一部がバッサリと切られている。ちょうど右肩を覆っていた部分だ。
『・・・・・あいつ』
 助けてくれた人ではあったけれど、その彼を敬う気持ちだなんて、もはやまるでなかった。五感のうちの一つである視力を失っていた自分から、突然初めての口づけを奪ったような相手に、誰が感謝だとかを持たなくてはならないと言うのだ!?

 かくて彼女は言う。
「ぜぇったい、許さないんだから」
 と。

 バシャンバッチャン
「あぁもおっ!苛々する!」
 ブッチブチに怒っているアンジェリークが叫んだ。
 場所は森の泉である。怒りのパワーは凄まじく、何時もの半分の時間で仕事を終わらせると彼女は不完全燃焼分の怒りを消費しようとここに来たのであるが、完全にブチキレているらしい。盛大に叫んでいる。
「・・・・・てたのに」
 悔し涙すら浮かべて彼女は呟き、唇を噛み締める。
「ホント、悔しいったらないわ」
 肩口で切り揃えられた栗色の髪が俯いた拍子に肩から滑り落ち、動きに合わせてふわりと広がった。

「何が悔しいのさ」

 瑠璃の声に振り返る。
「うそ」
「何が?」
「どうしてここに」
 座り込んで泉の水に八つ当たりをしていた少女は向き直って白い指で、そっと屈み込んでいる人の顔に触れる。
 暖かい。
 顔から、首、腕や胴、足へと、順に触れる。
 やっぱり、暖かい。
「くすぐったいよ」
 瑠璃の声に笑いが混じる。
「そんなに信じられない?」
 見上げてくる顔に端正な顔が近づく。
「信じられないなら、信じさせてあげるよ」
 桜色の唇が薔薇色の唇に塞がれる。

 その人はそこにいる

 離れた唇を追うように、彼女は立ち上がった。
「セイラン様」
「ここにいるよ」
 白い腕が立ち上がった彼女を抱き締める。

 あごを搦め捕る指がきつい力で、小さな唇を開けさせる。

「ん」

 小さな声が漏れる。

 赤く頬を染めて彼女は青年の腕の中に納まる。
 荒い息を整えようとする仕草がひどく子供っぽく映る彼女を抱く腕はそのまま、自分の胸に顔を埋めている人の耳元に唇を寄せる。

「これは、君のかい?」

「はい?」
「足元を見てごらんよ」
「はぁ」
 言われて見てみれば、青年の足元でピンクのぷわぷわしたものが青年の服の長い裾を噛んで上目遣いに睨んでいる。
 ・・・・・

「アルフォンシア!?」

「ちょっと、こら、離しなさい!」
 セイランの腕を払いのけ、屈み込んでアンジェリークは自分の元パートナー、今では可愛くてたまらないペットを抱き上げる。
「駄目でしょ、こんなことしちゃ!」
「きゅぴぴっ」
 飼い主に怒られ額を軽く弾かれたアルフォンシアは不満そうに反論する。
「セイラン様はアルフォンシアには何もしていないでしょ、どうして噛み付いたりなんてするのっ」
「きゅぅん」
「・・・・・アンジェリーク」
 しばらく彼女と彼女の聖獣のやり取りをただ見ていた青年が少女を呼ぶと、素直に少女は首を傾げる。
「ん」
「きゅぴっ!!」
 ・・・・・
「フム、やっぱりアルフォンシアは僕がアンジェリークに手を出すのが気に入らないらしいね」
 噛み付かれた手を振って、ピンクのぷわぷわを外したセイランの台詞である。
「・・・・・確かめる為にいきなりキスなんてしないで下さい!」
 まったくだ。
「きゅぴゅ?」
「どうしたの?」
 アンジェリークが詰め寄って怒っている為、可成近づいたセイランの胸の辺りを腕に抱えたアルフォンシアが不思議そうにクンクンと嗅ぎ出すのを見て取って、飼い主が首を傾げる。
「よく分からないわよ、アルフォンシア」
 女王候補時代、精神生命体であった頃のアルフォンシアとの意思疎通には支障がなかったのだが、流石にアルフォンシアも実体化してからは完全には聞き取れなくなってしまっているので、上手く言葉が伝わってこずに首を傾げる。
「見かけはウサギとリスを合わせて羽をつけたようなものだけど、鼻は犬と言ったところらしいね。・・・・・これに気がついたらしい」
 そう言ってセイランは懐から小さな袋を取り出す。
 最初アンジェリークは綾織りの趣味のいい、香り袋かと思ったのだが、その中身を見て驚いた。
「それ、私の髪ですか?」
「そうだよ」
「何時、そんなものを?」
 彼女には覚えがなく、そう問いかける。
「昨日の夜」
「はい?」
「だから、昨日の夜」
「それって、まさか!?」
 『ぼてっ』
「きゅんっ」
 驚いた拍子にアルフォンシアを落としたアンジェリークであったが、それにも気がつかずセイランの胸元を掴むと引き寄せ、間近でその香りを確かめる。
「だから、くすぐったいって」
 苦笑しながらそう言い、それでもされるがままにしているあたりが彼の余裕である。
「この香り、昨日の」
 フルフルと少女の肩が揺れる。
「あれ、セイラン様だったんですか!?」
「そうだけど?」
 楽しそうにクスクスと彼は笑う。
「どうしてあの時何にも言ってくれなかったんですっ!?」
「聞かなかっただろう?」
「聞きましたっ!!」
「聞いてないよ。君は僕に『どうして私を知っているのか』と聞いてきたんだよ」
 『忘れたのかい?』と元感性の教官が言い、言葉に詰まる女王補佐官である。確かに、そうも言ったからだ。
「・・・・・」
 恨みがましそうに青年を見上げていた瞳が、不意に緩む。
「かったぁ」
 グズグズと泣き出した彼女に驚いて、彼は彼女を引き寄せる。
「いったいどうしたって言うんだい?」
「よかった・・・・・知らない人に勝手に、って、ずっと」
「・・・・・ゴメン」
 腕に抱いて、慰める声をかける。
「絶対好きな人って、ずっと決めてたから」
「それって、僕ならいいわけ?」
「え?」
 あどけない、少女としか思えない顔で見上げてくる彼女の額に口づけを贈る。
「僕なら、いいの?」
 その言葉に、言葉が言葉にならない様子で少女は狼狽えていたが、優しいクリーム色の衣装で包んだ腕で抱き着く。
「セイラン様以外は嫌」
 あまりにも率直な言葉に顔をうっすらと赤く染めて、セイランはたおやかな少女を抱く腕を強くする。
「遅くなったね」
 胸の奥深く抱き締めて、彼はそう言う。
「回り道をしたよ。昔の僕じゃ、別の宇宙とは言え、女王補佐官となることになった君を攫うだけの力がなかった。女王補佐官と言えば最も女王に近い者、宇宙を支える者を支える者だ。そんな地位に就こうという人を、あの時の僕は捕まえることなんて出来なかった。僕はまだ、そんな力がなかった。君を攫って、君へと向けられる非難から守ってあげられる程強くも大人でもなかった」
「セイラン様」
 抱き締めてくれる人の名を呼ぶと、言葉を奪われる。
「やっと、言える」

「・・・・・好きだよ、アンジェリーク」

「セイラン様」

「僕は君を迎えに来たんだ」

 叶わぬ願いと知りながらも 捨て切れなかった想いが昇華する
 『何時か』と願った日が 溶けていく
 『何時か』は『現在』になったのだから

 触れるだけの口づけが終わりを告げ、彼女は自分の腕のなかにいる。
 形のよい指が優しく髪を梳くにまかせ、目を細めて彼女は彼の暖かさを感じていた。側にあって欲しかった、愛しい人がそこにいることを確かめるように。
「・・・・・アンジェリーク、一ついいかい?」
「はい?」
 素直な瞳が見上げる。『何ですか?』と問う瞳は青翠の宝石のようで、煌き輝き、彼を惹きつける。

「コレ、何とかしていいかい?」

「アルフォンシア!!」
 アンジェリークが叫ぶ。
「・・・・・」
 裾を引っ張るぐらいでは埒があかないとでも思ったのか、アルフォンシアがセイランの足に噛み付いている。少女が怒るのも当然だ。
「せぇのっ」
 無表情に勢いづけにそう言い、足にピンクのぷわぷわ聖獣をつけたまま、思いっきり勢いをつけて足を振る青年である。
「きゅぴぃぃぃぃぃっ!」
「アルフォンシア!?」
 先程とは台詞は一緒だが別な意味で叫ぶアンジェリークである。
 ボールよろしく、ピンクのまるまるとしたモノが空を飛んで行った・・・・・

『キラリンッ』

 元とはいえ、聖獣を蹴る−正確には蹴ったわけではないがほとんど変わらない−ことが出来るのは、宇宙広しと言えど、この天の邪鬼な芸術家くらいのものだろう・・・・・

「セイラン様ぁ」
 『幾ら何でも酷いぃ』とばかりに抗議するが、何処吹く風だ。
「人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死ね」
「・・・・・」
 ・・・・・
「どうしたのさ?」
「・・・・・いえ」
 賢明にもコメントを避ける女王補佐官である。
 と、そこへ、

『がんっ』

「うわっ」

「アルフォンシア!?」

 アルフォンシアの捨て身の一撃−飛んで来て体当たりした−に、流石のセイランも−何せ頭に受けたので−少女を抱いていた腕が解けてしまう。

「・・・・・」
「うぅっ」

 アンジェリークそっちのけで睨み合う一人と一匹・・・・・
 端から見ていると、あまりの情けなさに涙も出て来ない状態だ。
 ・・・・・幾らなんでも、アルフォンシアと本気で喧嘩しようとするな・・・・・

「セイラン様、アルフォンシア」
 何とか仲裁しようと恐る恐るアンジェリークが声をかけるが、つくづくとピンクの縫いぐるみ、もとい、ピンクの(元)聖獣を眺めた(元)感性の教官曰く、
「デブ」
「ぴぃっ!!」
 ・・・・・気にしていたらしい。『お菓子大好き』のお陰で、可成丸くなってきていたのだ。
「・・・・・」
 『情けないことするのはいい加減に止めて』と、涙ながらに訴えようか、本気でそう考える(元)女王候補である。

「場所を変えよう」
「変えてもついて来ますよ」
「フム」
 唐突な言葉にも冷静に答える少女に、青年は首を傾げる。
「何を!?」
 ヒョイッとばかりにアルフォンシアの首根っこを捕まえると、

『ぽっちゃん』

 妙に響く水の音・・・・・

「あぁ!アルフォンシア!!」
「さぁ、行こう」
「セイラン様、酷い・・・・・」
 罪悪感のかけらも見られない綺麗な綺麗な顔に、思わずがっくりと力の抜ける少女である。それ以外のリアクションが彼女の中にはなかった・・・・・
「何処行くの?」
「アルフォンシア、泳げないわけじゃないですけど、あんなところじゃ」
 『羽も濡れて使えないし』と続けて、泉に白い足を入れようとした少女を、問答無用で横抱きに抱え上げる。
「せっかく邪魔者を排除したのに、行く必要ないよ」
「セイラン様・・・・・」
「アルフォンシアは三年間ずっと君といたんだろう?今日くらい僕とずっと一緒にいてくれてもいいんじゃないかい?」
 我が侭な言葉である。だが、それに同意してしまいたい自分がいることも分かっている少女は、内心合掌した。
『ゴメン、アルフォンシア』
 アルフォンシアは泣くだろうが、セイランはご機嫌である。
「昨日の夜遅くに来たんでね。こっとはよく知らないんだ。教えてくれるかい?」
 『因みに、来たばっかりの散歩中に君が降って来た』とはセイランの台詞である。
「はい。あ、でも、靴を履きますから、少し待ってくれませんか?」
 実はまだ裸足のままであった彼女の言葉だが、彼はクスクスと楽しそうに笑って言ってのける。
「僕が君の足になればすむことさ」
 驚いて目を白黒させる恋人の唇を軽く塞いで、彼は言う。

「さぁ、行こう」

「はい」

 幸せに笑って、彼女は青年の首に腕を回した。

 数日後、女王補佐官アンジェリークの解任が各地に通達される。
 解任後の彼女は最も親しんだ友人に己の半身とも言える聖獣を預け、生まれ育った宇宙へと帰還した。

 その側に、希代の芸術家と称賛される芸術家セイランの姿があったのは、言うまでもない・・・・・

END