『抱き締めて キスをして
ずっとずぅっと側にいて』
「アンジェリークゥ?」
ぼんやりと窓際に椅子を置いて読書に勤しんでいた栗色の髪の少女が名前を呼ばれて顔を上げる。
「なぁに?レイチェル?」
忠実な片腕であり無二の親友である一つ年下の少女《女王補佐官レイチェル》は何やら分厚いファイルを幾つも両手に抱え、珍しく女王補佐官の衣装に身を包んでいる。何処かエスニカルなその衣装は、琥珀色の彼女によく似合っていた。
「どうしたの?」
サラサラと流れる栗色の髪を向日葵色のリボンで結んでいる《女王アンジェリーク》は首を傾げる。まだ生まれて間もないこの宇宙には、彼女達以外の生命体は可成少なく、そのせいもあってか彼女達は二人が出会った頃に着ていた制服を好んで着用しているのだ。
「ちょっとあっちに行ってくるね」
「あっちって、まさか、私達の生まれた!?」
自らの補佐官の言っている場所が何処であるのか正確に察した女王は思わず椅子から立ちあがってしまう。
「何で、どうして!?」
鮮やかな青翠の瞳を見開き、何やら異常な程震える声で問いかける親友の様子を内心注意深く観察しながら、ホワイトリップを綺麗に引いた唇を彼女は動かす。
「こっちに来る前に、あっちの女王陛下に頼まれたのよ。何でも王立研究院からの署名が届いてね、新しい宇宙について研究したいから、ある程度まとまったら資料をこっちにも譲ってくれないかって」
彼女達の生まれた宇宙はここではない。
かつてこの空間には別の宇宙があった。だがこの空間の寿命故に、その宇宙は別なる空間に移動することで宇宙崩壊の危機から脱したのだ。
その宇宙で彼女達は生まれ育ち、運命の日を迎えたのである。
何もない虚無の空間になったこの場所に新しい宇宙の卵が産まれ、かつてここにあった宇宙の少女達を女王として指名した。
その指名された少女達こそが現在、女王であるアンジェリークと補佐官であるレイチェルである。
宇宙を導く女王はただ一人。故に生まれ育った宇宙の女王のお膝元で、彼女達は女王試験に臨み、その長くもあり短くもある時間に、決して切れない友情という名の絆を結んだのである。
時が満ちてアンジェリークが女王として即位、その補佐官にと強く望まれたレイチェルはこれを承諾し、これから生命の芽生える自分達の育てた宇宙へと二人は足を踏み入れたのである。
「まだまだ少ないけど、新しい命も生まれてデータも集まってきたしね」
元々『王立研究院創立以来の天才』との呼び声も高かったレイチェルは、こちらに移ってからも探求心の赴くままにデータを集めていた。そのデータを、同じように探求心旺盛な王立研究院の所員が欲しがり、研究したがるのは当然といえば当然である。
「あの時と違って今は全然危なくないし、行って来ていいよね?」
「仕方ないわね。あの時はレイチェルに残ってもらったし、今度は私がお留守番ね♪」
『あの時』と言った瞬間に肩を微かに震わせながら、女王である少女は茶目っ気たっぷりにウィンクしてみせる。
一年程前のことである。
女王である身としては異例なことであろうが、彼女は二度と足を踏み入れることもないだろうと思っていた生まれ育った宇宙に帰還していた。
その宇宙の危機を救わんが為に。
『皇帝』と名乗る強大な敵に女王と守護聖という宇宙を支える柱を捕らえられ、助けを求めてきた女王補佐官に応えて。
かつての女王試験で共に時間を過ごした教官協力者と共に守護聖を救出し、その後彼等と共に女王を助け、皇帝の野望を砕き、彼女は戻って来ていたのである。
「じゃ、行ってくるね」
わざわざ二つの宇宙を繋ぐ回廊にまで見送りに来た女王に苦笑しながら補佐官は手を振る。
「うん。いってらっしゃい。皆様方によろしく言ってね」
『あの時』にはまだ生命は生まれていなかった。だからこそ女王が欠けるという不安定な状態でも宇宙は崩壊などしなかったのだが、今はあの時とは違う。彼女は行くわけにはいかない。だからこそ、彼女は見送りに来たのだ。
「分かってるって」
気楽な様子で扉の先に補佐官の姿が消えたのを見届け、女王はため息を零す。
親友の身を気遣うからではなく、この扉の先にある宇宙にいる、たった一人の人のことを想うが為に。
今にも降るような星の群れを、部屋からバルコニーへと出してきた大きなクッションにもたれて見上げていたアンジェリークは、潤んだ瞳を閉じる。
広がる黒いスクリーンに愛しい人の姿を浮かべて。
「・・・・・様」
そっと星に囁く、愛しい人の名前を。
二度と会えない想い人は
瑠璃の髪と群青の瞳 青金石の姿
端麗な美貌とそれを見事に裏切る皮肉な態度
希代の芸術家と呼ばれながら名声を何より嫌い
女王試験期間においては感性を導く教官で
女王の命すら自らの好奇心故に応じたという
気まぐれな猫のような
《感性の教官セイラン》
辛くて辛くて、途中で止めてしまいたい程辛かった旅で、それ以上に嬉しかったのは、生まれ育った宇宙を救えたことではなく、彼に会えて一緒にいられたことだった。
試験期間、最初こそ生来の勝ち気な性格が彼の皮肉な台詞に一々反応してしまい、随分と言い返しては言い負かされて悔しい思いをした。したが、それはその時だけの感情で、後に引きずるようなこともなく、だからこそ彼の言葉に嘘だけはないのだと気がついた。気がついて、何となくお互い気が合って、色々な話をした。恋と言える程の想いではなかっただろうが、それは恋の卵ではあった。
恋の卵を抱き締めたまま女王となったのだ。いっそのこと、そのまま想いに気づかずにいられたらどれ程よかっただろう?
だが、再び出会い、旅をして、自分は想いに気がついてしまった。
一番近くにいてくれた。
変わらない皮肉な口調で真実だけを口にして、皇帝が偽りの姿で仲間となり、その正体を知って打ちのめされた自分を浮上させてくれたのも彼だった。素直ではない性格は、彼もだったのだろう。後になって気がつくような慰めをしてくれたこともあった。そのことを彼に言えば、きっと否定するだろうけど。
一緒に星を見た。
想いに気がついて、その想いを彼に気づかれないようにしながら、一緒に星を見た。
素直でない彼が、ほんの少しだけ気持ちを明かしてくれたのも星空の下だった。皇帝のいる虚空の城へと向かう前夜、『君を失うようなことになったら』と、言ってくれた。
とても、嬉しかった。
努めて考えないようにしていたというのに、それは明るいレイチェルのお陰で成功していたのに、そのレイチェルがいない為にあっさりと心に去来する。
「会いたい」
たった一つの願いは、
「セイラン様に会いたい」
叶うことのない願いであった。
あれ以来、『風邪をひいたらどうすんのよっ!?』とレイチェルには怒られるのだが、星の綺麗な夜にはバルコニーにクッションとシーツを出して眠るようになった。
星空の下にいると、あの方が側にいてくれているような気がしたから。気のせいだと、そう冷静に言う自分がいるのも分かっている。それでもかまわないと、そう思ったから。
そう、思わずにはいられなかったから・・・・・
柔らかなシーツにくるまって、星の光に包まれて、大きな宇宙の小さな女王は、遥けき彼方の幻を思う。
帰れない過去の星空のバルコニー
二人きりで最後に会った場所
『さよならは言わないよ』
そう言ってくれたけど、会えない。
会いたいのに、寂しいのに、会えない。
「セイラン様」
『何?』
幻の声が還る。
『僕に何か用があるの?』
聞いたこともないような優しい声で。
会いたくても、会えない。
願っても、叶わない。
『世の中には、言葉にしなくても分かることがあるけど、言葉にしなくちゃ分からないことの方が多いんだよ』
夢でしか、会えない。
夢でしか、叶わない。
「・・・・・して」
でも、それは同時に、
「抱き締めて キスをして
ずっとずぅっと側にいて」
夢でなら、会える。
夢でなら、叶う。
『いいよ』
その時だけの幻だけど
『ずっと側にいて、
抱き締めてキスをしてあげる』
「んふ」
吐息を零して暖かなクッションに顔を摺り寄せる。
気持ちいい・・・・・
『アンジェリーク』
優しい幻の声
『起きてるんだろう?』
何だかくすぐったくて、知らないふりをしたくなる。
『キスしちゃうよ?』
「ん」
触れて 離れて 触れて
少しずつ長く深くなっていく口づけ
「誰?」
零れた問いに不機嫌な答え
「君って、僕以外とキスするの?」
「セイラン様!?」
涼しい声に驚き、微睡みを破って少女は瞳を見開く。
「セイラン様」
震える声 指先
「まだ夜だけど、一応おはよう。僕の眠り姫」
長い指を栗色の髪に差し込み、驚いている少女を引き寄せ、彼はそっと少女の唇と自分のそれとを重ねた。
「どうして?」
当然のように自分の隣に滑り込んで、当たり前のように自分を抱き締める人の、端麗な美貌に震える指先を当てる。暖かい。
「どうして、ここに?」
震える唇に何度も触れながら、彼はクスクスと笑みを零しながら囁いた。
「君に会う為以外に、何があるっていうのさ」
軽く頬に触れて、くすぐったそうに方をすくめる少女の手を取る。
「それと、これを渡しに」
左の手にそれが滑る。
「僕と結婚してくれませんか?」
「・・・・・はい?」
左手の薬指でシルバーリングが輝く。
「ずっと、一緒にいよう」
リングに口づけ、彼は言う。
「愛してる、アンジェリーク」
なんて、これは優しい夢だろう
なんて、これは残酷な夢だろう
「このまま覚めなければいいのに」
一筋涙を流しながら少女はそう呟いた。
「夢が覚めなければいいのに」
呆れたようなため息を零し、青年は少女を深く抱き締める。
「夢じゃないよ。僕はここにいる。君の側にいる」
抱き締められたことが、あった。
抱き締めるように自分を庇ってくれた時に、涼しい香りに包まれた。
夢ではない。
彼はここにいる。
自分を抱き締めてくれている。
「私、女王です」
「うん」
「私、女王なんです」
「分かってるよ、そんなこと」
「なら!」
女王は誰のものでもなく、宇宙のもの。
宇宙を愛しても、個人を愛することは許されない。
「どうして出来ないことを言うんですか?」
胸の中で泣き続ける少女を、彼は優しく宥めるように撫でてやる。
「あの日、別れてから、僕が何処にいたと思う?」
「?」
泣き濡れた瞳が彼を見上げる。
「ずっと聖地に止まっていたんだ」
『女王陛下の御命令でね』と言って、鮮やかなブルーグリーンの涙の湧きいずる泉に口づける。
「一年間、あそこであそこだけにある代々の女王の歴史を調べさせられたよ」
問いかける眼差しに微笑みを添えて彼は更に言葉を紡ぐ。
「僕だけじゃなく、守護聖様方もだったけどね。そうして、やっと見つけたんだ。人の妻でもあった女王を」
少女の眼差しは驚きのそれに変わり、青年の笑みは深くなる。
「実際その女王以前には数こそ少ないけど、何人か同じように人の妻だった女王がいた。ただその女王は夫をすぐに亡くしてしまって、そのショックからサクリアの喪失が早く、女王交替が歴代でも最も早かった。次に即位した女王は、それ故に『出来れば女王は宇宙だけを愛するように』との言葉を残したんだ。女王交替は天変地異が起こり易いからね。あまり時間を置かずに交替することがない方がいいから、ということらしい」
「じゃあ、それなら」
「そう」
満足そうに彼は笑って言った。
「ずっと一緒にいられるよ」
今度は嬉し泣きに濡れる少女に、クスクスと青年は悪戯な声をかける。
「僕を想って泣いていたんだって?」
「・・・・・!?」
パァッと思わず顔を赤らめる少女の素直な反応に、彼は爆笑を噛み殺しかねて肩を震わせた。
「最初はちょうどレイチェルが来ただろう?だからレイチェルと一緒にくるつもりだったんだけど、そんなことを聞かされては、ね」
ちゃんと分からないところで泣いていた筈なのに、それを察し、更には想い人までもかの親友に見抜かれていたことに、彼女は火を吹く思いで頬を押さえる。
「きゃっ」
お父さんが子供に『たかいたかい』をする要領で持ち上げられた少女が思わず小さな悲鳴を零す。ちょうど真下にきた青年の顔の両脇に手を置こうとして、しかし置けずにバタバタと両手をばたつかせる。
「軽いね。あの時も思ったけど、今は尚更軽い」
旅を続ける中で、何度かセイランの手を借りたことがある。その時のことを言っているのだろう。
「そんなに僕に会いたかった?」
「し、知らない!!」
楽し気に群青の瞳を煌かせて尋ねられた少女は思いっきりそう叫んでしまい、彼の笑いを更に増長させてしまった。
「僕は会いたかったよ」
クスクスと笑いながら、そっと少女の身体を支える腕を下ろして、彼は極近い位置に近づいた彼女の瞳を覗き込む。
「君は違うの?」
吐息が触れる程近い唇から紡がれる言葉と、覗き込んでくる深い群青の瞳の真摯な響きと光に、アンジェリークは躊躇うように唇を微かに動かし、決死の覚悟を固めたような様子で、細く囁いた。
「私も、会いたかったです」
「未来を造ろう。二人でさ」
抱き締める腕は変わらず優しくて強い
「はい」
星空の下の約束
「そう言えば、アンジェリーク」
「はい?」
「返事は?」
「え?」
「僕はまだ君に返事をもらってないんだけど」
「あ!?」
「言ってくれないのかい?」
「えっと、そのぉ・・・・・」
「・・・・・『僕と結婚してくれませんか?』」
「は、はいっ」
それは星が聞き届けた聖なる誓い
「あのね、セイラン様、お願いがあるんですけど」
「僕じゃないといけないのかい?」
「セイラン様以外には出来ません」
「ふぅん・・・・・運がいいね。今の僕は機嫌がいいんだ。言ってごらんよ」
二人だけの約束
「・・・・・いいよ。叶えてあげよう。だから、他の奴に言うんじゃないよ」
「えぇ、勿論です」
二人だから叶えられる願い事
『抱き締めて キスをして
ずっとずぅっと側にいて』
END
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