その日は、超常の扉の開く日
『何なのよぉ!』
この物語は、目覚めたばかりの《 女王候補生アンジェリーク》 の声にすることすら出来ない有らん限りの絶叫より始まることとなる。
・・・・・この時点の少女は、まだそれ程不幸でなかったかもしれない・・・・・
朝日を受けて輝くふわふわの金色の髪をした幼女が『とことこ』と歩いて来るのを見とがめた《女王候補生ロザリア》
は首を傾げた。公園ならともかく、ここは守護聖達の住まう聖殿だ。一般の者が入ることは禁じられてはいないが、やはり近づき難いらしく、大人ならともかく、子供とは・・・・・?
「お嬢ちゃん、何処から来たの?」
実は一人っ子であったロザリアは子供好きである。あどけないお人形さんのような幼女に問いかけるその声は、慈しみに溢れた優しいモノである。
「ろざりあぁ」
いきなりロザリアを認めた幼女は爆進するや否や、突如泣きついた。
驚くロザリアの心に流れる金色の輝きが残る。『何処かで見ただろうか?』と。
「お嬢ちゃん、落ち着いて、名前は?」
「アンジェリーク」
沈黙が流れた。
「えっと、アンジェリーク・・・・・、の妹?」
「ちっがぁう!」
幼女は叫んだ。
「何やってんの?ロザリア?」
叫び声に引かれて次々と守護聖が集まる。
「おや、可愛らしい。何処となくアンジェリークに似ていますねぇ」
おっとりと《 地の守護聖ルヴァ》 がそう言うと、《 緑の守護聖マルセル》
や《風の守護聖ランディ》が深く頷く。
緑の瞳の幼女は涙目になってスカート部分に当たる場所を握る。
「この服、でっけぇデニムのシャツをリボンで止めてるだけじゃねぇか」
「みたいねぇ。折角可愛いのに・・・・・やっぱこういうお人形さんみたいな子は可愛いフリルいっぱいエプロンドレスが一番よ」
「不思議の国のアリスをやるには、少し小さいですよ」
《 鋼の守護聖ゼフェル》 の台詞に、口調こそ軽いが目がかなりマジな《 夢の守護聖オリヴィエ》の言葉。そして《
水の守護聖リュミエール》 も言葉こそ上記のようなものであるが、着せてみたいというような顔をしている。
「可愛いお嬢ちゃん、名前は?」
『己には節操がないのか?』というような周囲の視線もなんのその、な《 炎の守護聖オスカー》の台詞に、幼女は答えた。
「アンジェリーク」
沈黙が流れた。
「はい?」
「だから、私はアンジェリークですってば!」
「おぉ!」
『ポンッ』と手を打ち、《 光の守護聖ジュリアス》 が言った。
「アンジェリークの妹か」
「ちっがぁう!」
先程以上に叫んだ幼女は『ぜいぜい』と肩で息をすると、本気で泣きながら走った。その際に『もう誰も信じられない』等と呟いていたりする(笑)。
「ちょっと何処へ行くの?」
ロザリアの制止も聞かずに走り去ろうとした幼女は、途中闇色の壁に勢いよくぶつかって勢いよく転んだ。
「いったぁい」
「ほぉ・・・・・」
軽く驚きにその切れ長の目を見開かせ、《 闇の守護聖クラヴィス》 はその幼女の小さく軽い身体を抱き上げた。
「随分縮んだものだな」
「分かって下さるのはクラヴィス様だけですぅ」
『ピーピー』と金色の髪と翠の瞳の子供はクラヴィスの首に腕を回して泣くと、クラヴィスが何処となく困ったような顔で『ポンポン』と軽くその背を叩いて落ち着かせようとする。
「知ってるんですか?その子のこと?」
問いかけの言葉に、クラヴィスは呆れたような顔で同僚達の顔を見回し、全く分かっていないことに更に呆れると、言った。
「これは、女王候補のアンジェリーク本人だ」
『気がつかなかったのか?』と少しの沈黙の後に出されたクラヴィスの言葉は、届いていなかった。思考回路がしばらくの間停止した守護聖と女王候補生が、その回路を修復するや叫んだからである。
「「「「「「「「「何だってぇ!」」」」」」」」」
『ふわんふわん』の金色の糸のような髪に、緑柱石(エメラルド)のような瞳、薄く薔薇色を溶かした陶磁器のような白い肌、可愛い淡いピンク地に小さな花束柄のたくさんついたワンピースのスカートの間から白いフリルいっぱいのペチコート、上着にも当然フリルがいぃっぱい、といったビスクドールのような少女が全守護聖と女王候補の前に『ちょこん』、と座っている。
「アンジェリーク・・・・・」
変わり果てた姿に、居間として使用している部屋にいる誰もが途方にくれている−正確にはクラヴィスのみ見事なポーカーフェイスで表面上は除く−。
「・・・・・あぅぅぅぅぅ・・・・・」
『ぐすぐす』と泣いていなければ本物のビスクドールと見間違う幼女は、確かに彼等の知るアンジェリークという名の少女そっくりだが、やはり信じ難い。
『ジッ』と見ていたマルセルが動いた。アンジェリークの目線に合わせて膝を折り、唐突に、
「可愛いっ」
・・・・・おまいさん・・・・・
「マルセル様」
アンジェリークに抱き着いているのをロザリアが止めようとするかと思いきや、
「狡 いですわ!」
と言って、マルセルから奪う−全くの余談ではあるが、アンジェリークの服は商店街でロザリアが購入したものである−。
「私は人形じゃないぃ!」
『ジタバタ』と髪を乱して暴れるが、大体五才程度の現在のアンジェリークでは逃れることが出来ない−髪が長いのはその頃のアンジェリークが伸ばしていたからであろう−。
「ロザリア、私にも」
オリヴィエまでもがそんなことを言い出す。
何故か−本当に何故か−何人もの守護聖達がアンジェリークの取り合いをし始める。
「・・・・・」
そろそろと、言い合いに夢中の皆からアンジェリークは唯一人悠然とソファに座って騒ぎを冷淡に見つめるクラヴィスの後ろに逃げ出す。
「苦労するな」
「・・・・・しくしく」
その声でアンジェリークが逃げ出していたことに気がついたオリヴィエが、
「アンジェリーク、オイデオイデ」
「その手のリボンは何です?」
「えへ」
『えへ』、ではない・・・・・
色とりどりのリボンを持って誘いをかけるオリヴィエの姿に思わず頭を抱えるアンジェリークを、『ひょい』とクラヴィスが持ち上げると膝の上に乗せる。
「!?」
「ズッコイ!」
何時の間にか背後に移動していたマルセルが行動に移す一瞬前にクラヴィスがアンジェリークを膝の上に乗せたのだ。
「皆さん、お茶にしましょうか?」
状況打破の為にとルヴァの持って来た−正確には年少組も手伝った−様々な本の山と格闘していた一同に、リュミエールが誘いをかけた。彼の膝の上にも当然分厚い本が沈座している。
「あ、もらえますかぁ?」
にこやかに笑んですぐに手早くお茶の準備をしたリュミエールは、クラヴィスの膝の上のアンジェリーク−流石に誰もクラヴィスから取り上げられなかった−に声をかける。
「美味しいお菓子があるんですよ」
『オイデオイデ』とのオーラが見える気がするんだが・・・・・
「静かにしろ」
低くクラヴィスが言の葉を紡ぐ。
「は?」
「寝ている」
見れば、アンジェリークが安らかな寝息を立てて眠っている。クラヴィスの腕に暖かな生命の重さが心地良い。
「でも、ちょっと起きていただかないと」
『痺れがきてしまいますでしょう?』と言ってアンジェリークの頬に触れると、優しく揺り起こす。
「起きて下さい、アンジェリーク」
「うみゅ?」
意味不明な言葉を呟きつつ『こしこし』と目をこすって起きるアンジェリークに、超至近距離で『にぃっこり』と笑いかけて抱き上げる。
「眠いのならお昼になったら起こしますから、それまでここで寝ていて下さい」
陽の当たる処に置かれている大きなクッションにアンジェリークを置くと、自らの薄絹の肩布を外してかけてやる。その動作と眼差しはひたすらに優しい。
「・・・・・おやすみなさい」
「はい、おやすみ」
極上の無垢さと無邪気さで、鮮やかに艶やかに心に残る、他を圧する魅力に溢れた笑顔を浮かべて眠りにつくアンジェリークに、リュミエールは穏やかに目を細め、
「こういうのを、天使の微笑みと言うんでしょうかねぇ?」
ルヴァが呟く。問いかけの形をとってはいるがそれは彼にとっての真実で、彼は『うんうん』と一人頷いている。元々、彼はアンジェリークの笑顔をお気に入りとしていたのだが小さなアンジェリークのその笑顔も好きになったようだ。
「だーっ!」
突如本の山と格闘していることに限界が来たゼフェルが頭をかきむしると、脱兎のごとく逃げ出した。
「僕も、ちょっと・・・・・」
一度に本を見過ぎて酔ったかのようにふらふらしているマルセルも、そう言ってテラスから外へと出た。
さて結局のところ本との格闘の結果はどうなったかというと、ようするに原因は全然分からず、リュミエールに起こされたアンジェリークは落胆に深いため息をこぼした。
「別にいいじゃないか、お嬢ちゃん」
ため息をこぼす生きた一級品のビスクドールの頭を撫でて慰めるオスカーの頭を、オリヴィエがはたいた。かなり本気の一撃であった。
「己は外見が可愛ければ年齢制限はないのか!?」
そう言われたオスカーは気障に人差し指を左右に揺らして、こう答えた。
「勿論、外見が可愛い子も捨て難いが、性格が可愛い子も好きだ」
・・・・・言い切るんじゃない・・・・・
「アンジェリーク!森の湖に遊びに行こう!」
天下無敵の無邪気さを誇る緑の守護聖は金色の幼女を抱き上げ、
「あ!これ!」
「待たんか!」
先輩守護聖達の声もなんのその、子犬程軽い少女を抱き上げたまま森の湖へと走り去る。因みに、アンジェリークの方はいきなりの申し出についていけずに、なすがまま流れに身を任せている状態である。
「連れて来たよ!」
あいた片手を『ブンブン』と振って、マルセルは幾つかの人影にそう叫んだ。
「きゃあ」
嬉しそうに叫んでロザリアがアンジェリークをマルセルから受け取る。マルセルは流石に抱いていた腕が痺れたのか、血行を良くしようと腕を動かしている。
「アンジェリーク、ちょい乗ってみ」
「はい?」
特に疑わずにアンジェリークはゼフェルの手招きに応じて近づき、ソレに乗った。
「よっし!」
『にやりんこ』と邪気のない笑みを浮かべると、ゼフェルは足元に置いておいたコントローラーのスイッチをONにした。
エンジン音が響き、アンジェリークの悲鳴も響いた・・・・・
所変わり主星にある聖神殿のなかでも最も奥まった場所に位置する女王の間で、一人宇宙の秩序を守る為に祈りを捧げていた現女王はその慈愛に満ち溢れた美貌を突如として青ざめさせると、まだあどけない女学生、女王候補の頃から信頼を寄せ合う女王補佐官を呼んだ。
「何の御用ですか?陛下?」
穏やかな《女王補佐官ディア》 の声は、どんなに気が高ぶっていたとしても落ち着かせる不思議な力を有しているのだが、この時ばかりは女王の気を静めることは叶わなかった。
「急いで飛空都市の全守護聖に伝えて、『女王候補が危ない』と」
「何故?」
「私の力が弱まり、時空の扉が開こうとしています。代々の女王の力によって封じられていたその扉の先には、宇宙の混沌を望むモノがいる。今日はハロウィン、最も不思議の力が高まる日。弱まる私の力も増してはいますが、それ以上に混沌を望みしモノの力が増幅されている。扉が開き、最初に狙うのは、新しい宇宙を支える力を持った二人の女王候補でしょう・・・・・行って伝えて、『女王候補を守れ』と!」
凛と高い天井に響く声に、女王補佐官も強ばらせた顔で一礼すると退出する。
「「どうか、間に合って・・・・・」」
扉を挟んだ二人の美女から全く同じ言葉が漏れた・・・・・
「何てことをしたんです!」
めったやたらに声を荒げるということのない温和な人柄で知られる地の守護聖は、その眉を吊り上げて怒っている。
「・・・・・」
バツの悪そうな顔でゼフェルが縮こまっているのも珍しいが、それに輪をかけてルヴァが怒っていることが珍しい。
「アンジェリーク」
『わたわた』と白と青を基調とした衣装に身を包んだリュミエールが、これまた珍しく裳裾が地面につかない程の早さで居間のテラスから盲愛溺愛しまくりのアンジェリークの元へ駆け寄る。
「ほぇ〜」
半分気を失いかけた顔で幼女は立っている。そして、その危なっかしいアンジェリークとそれを支える
ランディの髪から『ポタポタ』と滴が落ちていたりする。
・・・・・何をしたんだ、ゼフェル・・・・・
話し自体はことのほか簡単である。ようするに器用さを誇るゼフェルが作った大型ラジコン飛行機にアンジェリークを乗せたうえ、その飛行機を飛ばしたというのだ。
勿論のことだが、それだけではない・・・・・
最初こそ驚いて悲鳴をあげたアンジェリークではあったが、すぐに安全だと分かると今度は歓声をあげたのであるが、それに気を良くしたゼフェルが通常飛行から一回転や急降下などという飛行をさせた際に、運悪くアンジェリークが、落ちてしまったのである。運良く湖に落ちたので怪我はなかった−これを不幸中の幸いと言うのだろう−が、ショックでアンジェリークの意識は現在半分朦朧としているのだ−ランディが何故濡れているのかというと、アンジェリークを助けに湖に飛び込んだからである−。
だから、何時もならとっくに逃げ出している筈のゼフェルも自覚があるのでルヴァの有り難いお説教を−仕方なく−聞く羽目になったのである・・・・・
「はいはぁい、こっち向いてぇ」
極甘な声で注意を引くと、オリヴィエがアンジェリークの金色の髪にタオルを当てて動かす。
「風邪引いちゃうからね、お風呂に入りなさい」
「はい」
「うん、可愛い」
「!?」
『にっこり』と笑うとオリヴィエは、今は少し青ざめ薔薇色を失った陶磁器のような白い頬に『そっ』と口づけた。くすぐったいその感触は、下界にいる母親から幾度も与えられたモノと酷似していた。
「ロザリア、連れていってあげて。ノブに背が届かないだろうから。ランディも、いくら元気だからってそのまんまじゃ駄目だからね、あんたも自分の部屋に戻ってせめて着替えておいで」
「はい」
正論なので特に逆らわずにランディは頷き、何げなくその視線を転じるとルヴァとジュリアスの最強のお説教コンビに叱られているゼフェルが写った。
・・・・・この時点でなら、まだどん底の不幸ではなかった・・・・・
空が荒れ始めたことに気がついたのは、誰が一番早かっただろう
黒雲が空を覆い、風が硝子を打ちつける
ハロウィンの騒動が始まった・・・・・
『ほかほか』に出来上がったアンジェリークの金色の髪を、ロザリアが丁寧に乾かした後に何度も櫛を入れる。少しウェーブがかかった金色の髪の艶が増す程に梳くと、ロザリアはやっとアンジェリークを解放する、かに見えたのだが、
「ほら、何処行くの?オリヴィエ様が呼んでらっしゃるんだから」
いやぁな予感に逃げ出そうとする幼女を抱き上げ、問答無用に夢を司る人の執務室へと連れて行く。
「いらっしゃぁい」
『来たくなかったです』とは言えないが、何時もの陽気さに更に磨きをかけているオリヴィエと、
「待っていましたよ」
『待ってなくていいです』とは言えないが、何時もの温和な笑みを浮かべているリュミエールの姿に、アンジェリークはため息を禁じることは出来なかった。
「やってみたかったんだよねぇ、今日はハロウィンだもの」
手に色とりどりのリボンを持ったオリヴィエが言う。
「大丈夫ですよ。アンジェリークなら似合いますから」
光彩の関係で濃淡の変わる布を持ったリュミエールが言う。
「お手伝いしまぁす」
それはそれは嬉しそうに言うロザリアに、アンジェリークはとうとう完全に諦めた。
長めの金色の髪をたくさんのリボンで飾り付けられ、ご丁寧に薄い羽根付きの妖精の代表格ティンカーベル風のピンクのドレスを着せられ、ハロウィンの仮装をさせたオリヴィエとリュミエールとロザリアに半ば引きずられて来たアンジェリークは、守護聖達に異様なまでに、ウケた・・・・・
「いやぁ、可愛いですねぇ」
『にこにこにこにこにこ・・・・・』と、何処までも穏やかにルヴァが言う。
「可愛いぃ」
大きなラヴェンダーの瞳にキラキラの星を浮かべてマルセルが絶賛する。
「大きなお嬢ちゃんも捨て難いが、小さなお嬢ちゃんも捨て難いな」
何処まで本気なのか、オスカーの台詞である。・・・・・確かに、確かに実際年齢ならばどう考えてもどんな女性も彼の実際年齢と掛け離れているからある意味ロリコンだけれど、外見年齢五才程度の子供に走るんじゃない!
異変に気がついたのは、闇の守護聖であった。
「・・・・・」
無言で窓辺に立つと、荒れ狂い出した外の様子に、何か気に入らない気配に、クラヴィスは不快気に眉を寄せた。何かしらの気配に対する感知能力は、光と闇の守護聖が特に強いのだが、歴代のなかでも最もクラヴィスが強いと噂され、それはまた事実でもあった。
「どうしました?」
「空が、おかしい」
呟くような答えに、好奇心旺盛な年少組が硝子越しに外を見る。
まだ今一つ掴みきれないが、何か嫌な気配が、する?
空を覆う雲が割れ、《無》 が生じた。
四大元素である風水火土のなかでも《火》 は攻撃性を表すという。そしてそれは、守護聖達にも当てはまるのは周知の事実であった。炎の守護聖が家伝の剣を無言のうちに抜くと、外へと出た。
血気盛んな風や鋼の守護聖もまた外へ出ると、訝し気に呟いた。
「《扉》?」
それは確かに、《 扉》 であった。歴代の女王が封じていた《 扉》は木製の重厚な作りをした、まさしく《扉》
の形をしていたのだ。
重厚な作りに似合った重い音がすると、《扉》 は開かれた。
「逃げなさい!アンジェリーク!ロザリア!」
澄んだ人の心を落ち着かせるその声は、切羽詰まった響きを乗せていた。
「狙いは貴女達なのよ!」
桜色の衣を荒れる風に翻し、ディアが走って来る。必死のその表情に、二人の女王候補生は小さく頷いて戦闘能力の低いルヴァに連れられ建物の更に内部へ。だが、
「アンジェリーク!」
ティンカーベルが、空を飛んでいた。
「やぁん」
『ばたばた』と暴れているアンジェリークの姿から、彼女の意志ではないことは明白であるが、ならば一体誰の仕業なのだろう?
「アンジェリーク!」
悲鳴に近しい声がロザリアの唇から紡がれる。伸ばされた手は一瞬確かに触れ合ったがそれだけであった。捕らわれの蝶のように、アンジェリークの小さな身体を搦め捕る不思議な糸が存在していたのだ。
そして、混沌を望むモノが現れた・・・・・
ソレは、形を持たない思念の存在であった。アンジェリークを搦め捕る糸もソレの一部であるのだ。
「アンジェリークを放しなさい!」
銀色の声音は、日頃からルヴァに並ぶ程の温和な人柄の笑みを絶やさないリュミエールのモノだ。何時もその白い繊細な指で弦を爪弾いて世にも妙なる楽を奏し、時に清らかな銀色の声で唄を歌う、そんな涼やかな風流人の姿を、皆で大切に想い慈しんでいる少女の危機にかなぐり捨てている。無意識に零れ落ちたサクリアがリュミエールの怒りに反応して水を召喚し、揺蕩う水に囲まれたかの人は、異様なまでの迫力に満ちている。
「っ!」
行動に出たのはオスカーが最初だった。アンジェリークを捕らえる糸を、サクリアを操作して炎をまとわせた剣で切ろうと、烈破の気合と共に驚くべき跳脚で捕らわれの妖精よりも高く舞い上がると、その剣を残像すら残らない速さで動かした。
「馬鹿な!」
全てを断ち切る力を有するその剣には、何の手ごたえもなかった。
アンジェリークを捕らえて放さない糸は、物質ではなくあくまで思念であったのだ。
『私のせいだ・・・・・』
少女は眼下の光景に心を締め付けられた。
『皆様方が力を奮えないのは、私のせいだ。私が捕まっているから・・・・・』
少女は考えた。『虜囚の自分に出来る最良の策とは一体何なのか?』、と。
脳裏に桜色の衣装を着た美女の言葉が思い出された。そして、その時渡されたある物のこと。
躊躇など、アンジェリークはしなかった・・・・・
刃の白銀 鮮血の赤
悲鳴を上げたのは、多分いまひとりの女王候補と女王補佐官であったのだろうが、愕然とした思いはその光景を見た全員共通のモノであった。
『女王制度自体に不満を持つ者に狙われた時の用心に』との言葉と共に渡された神鳥の透かし彫りのされた鞘と華奢な刀は、彼女達を守る物であって、傷つける物ではなかったのに!
他者から見ればこれ以上ない位の不幸だが、それでも少女はそうは思わなかった。
混沌を望むモノであるソレにとって、その行動は不可解であったが、別段不利になることだとは思えなかった。ソレの成すべきことは次期女王を殺すことだから、己の胸を刃の鞘と成した女王候補の肉の塊など用はなくなったので、金色の髪の幼女の身体を固い大地に向けて、無造作に落とした。
「駄目!」
大地を覆う翠色の絨毯を緑を司る者が操ってクッション代わりとした。無事に受け止めれたことに安堵の光がラヴェンダーの瞳に宿る。
血まみれの幼女に駆け寄るロザリアとディアの整った面に青が色濃い。
「よくも!」
空色の瞳に怒り。風を司る者である少年のサクリアが、カマイタチという空気の摩擦による見えざる刃を造る。
「今日ばかりは手伝ってやるよ!」
深紅の瞳に怒り。鋼を司る者は、己のサクリアを風の少年のサクリアに同乗させる。風に鋼の堅さが加わる。
声にならない、それは悲鳴だった。
まだまだ守護聖歴が浅い二人が別々に攻撃したとてその威力はたかが知れていただろうが、相乗効果をもたらしたその力は確実にソレを傷つけた。
「逃がしません!」
『ピシャリ』と言い切ったのは地を司る人だった。
一時退却だろうか、地面に沈みかけたソレを阻む為に、ルヴァはその手を大地につけるとサクリアを放出して自分を認めさせた。彼こそ大地と共に生きる友たり得る者。大地に認められるとルヴァはすぐさま願う。大地は異質なソレを拒絶する。
「逃がしてなど、やらないからね」
艶やかな美貌を鮮やかな感情が彩り、危うい妖艶な美しさ。夢を司る人は、空間を綺麗な虹色の檻でくるんでいた。その言葉通りに、逃亡を防ぐ強固な枷。
「切り裂いてやろう」
冷厳な声がそう言った。サファイアブルーの瞳に宿るのは、冷たい炎。豪奢なハニーブロンドが風になびいていなければ、それは大理石と金と最高級の青玉を使って造られた彫像のようだ。大理石のような冷たさを感じる白い指が示すままに、光がソレを切り裂いていく。光を司る人は、本気の殺意を持っていた。
「己がなくなっていく恐怖を味わえ」
ひどく冷ややかな声がそう言った。アメジストの瞳に空虚な色が浮かんでいる。それはまさしく無明の闇であろう。黒絹の髪と夕闇から漆黒へのグラデーションのローブがはためく様は、一枚の絵となったならばどれ程の人を魅了するのだろうか。紫水晶の瞳の眼差しの延長線上にある切り裂かれた場所がだんだんと闇に侵食されていく。闇を司る人は、一片の慈悲も持っていない。
血に汚れるのも全く構わず幼女を抱いてその血の流れを少なくしようと血が液体であることからサクリアを使っていた水を司る人が、海色の瞳に危険な色を浮かべ、
「許せない・・・・・」
呟きはほんの微かなものであったが、だからこそ恐ろしい。
白い繊細な指がソレを指した。
「オスカー、水ごと、完全に燃やして下さい」
出来得る限り柔軟な水を使って濃縮されたソレに、冷たい一瞥を与えてリュミエールが同期守護聖に言った。
「おうよ!」
最大級の炎を持って、炎を司る人は言った。燃える炎に照らされて、髪が炎そのもののような深紅に染まって風になびいている。
「!」
今度こそ、ソレは炎の剣に切り裂かれ、燃えたのである。
血の気の失せた白すぎる頬に、リュミエールが触れる。
「死なないで・・・・・」
自分の無力感に海の滴を零してリュミエールは頬を寄せる。
「アンジェリーク!」
翠の瞳がそっと、くすんで見えた。
「リュミエール様?」
「もう大丈夫だから・・・・・もう、あんなことしないで!」
ロザリアがそう叫んだ。紺色の瞳から涙を零しながら。
「ゴメン、なさ・・・・・」
くすんだ翠が鮮やかになる。
「!」
言葉にならない悲鳴が上がった。
混沌を望むモノは、道連れを欲しがっていた。
「駄目ぇ!」
二人の少女の叫びは見事に一つであった。
二人は確かに女王候補でしかなかったが、そのサクリアは・・・・・
《 無》の中心にあった扉が開いた。
少女達の思いのままに、混沌を望むモノを消し去る力を行使した。
一片のかけらも残さず、ソレをまさしく消去した。
驚きに声もない一同のなかで、最初に張り詰めた気が『ぷっつり』と切れたのは、アンジェリークであった。
「アンジェリーク!」
たくさんの声を聞きながら、アンジェリークは気を失った。
目覚める一瞬前に、女王の声をアンジェリークは聞いた。
『よく頑張りましたね。その強い心を忘れないで、心強くなればサクリアは更に強まるでしょう・・・・・さぁ、皆が貴女を待っていますよ・・・・・』
そして、目覚めた。
「・・・・・」
『叫ぶべきかな?』等と、アンジェリークは妙に冷静な頭で考えた。視界を左右に動かすと九人の守護聖達が揃っているのはいい。彼等が安らかに眠っている−ほぼ床にザコ寝状態−のもいいとしよう。だが、寝返りをうった瞬間にマルセルの顔が飛び込んで来たのには驚いた。
ふと気がついた、彼女は自分が本来の女子高生の姿であることに。何時戻ったのか、何故戻れたのか、彼女には分からないことがたくさんあった。
「傷が、治ってる?」
着ている夜着は、白い薄物の着物である。アンジェリーク自身のモノではないのだが、こういうのも嫌いではないので別に何とも思わない。流石に、『少し薄いかな?』くらいは思ったが。
ベッドから降りて外の空気が吸いたいのだが、途中で絶対に守護聖を起こしてしまうこと請け合いである。せいぜい半身を起こしておくぐらいがやっとだ。
「アンジェリーク!」
華やいだ声が響く。扉を開いて現れたロザリアだ。後ろにディアの姿も見える。
「おはよう。気分はどうかしら?」
「とってもいいです」
「そう・・・・・」
『にっこり』と微笑んで、ディアは足元のランディを蹴飛ばした。後は連鎖を起こして守護聖全員が起きることとなったのだが、もうちょっとやりようがないのだろうか?
「アンジェリーク!」
相変わらずの勢いで起きたばかりのマルセルが飛びつく。懐く姿は子犬と変わらない。
「ご心配おかけしました」
「いいえぇ・・・・・無事で何よりですよ」
やんわりとルヴァがそう言った。
「ほら、アンジェリークはまだ疲れてるんだろうから、離れろって」
「あぁもぉ!お前は赤ん坊か!」
「やぁん」
引き剥がそうとするランディとゼフェルにマルセルが抗ってもがくと、アンジェリークは小さく笑って母親が子供にするように優しくマルセルの頭を撫でてやる。優しいその仕草に、今は遠い母を思い出してマルセルがうっとりと目を細めた。
「傷も治っているし、もう大丈夫ですから」
心配気な二つの視線に応えて、少女は言った。
「私、どれくらい寝ていたんですか?それに、何時の間に戻ったんでしょうか?」
それに答えたのはジュリアスだった。
「ハロウィンは昨日のことだ。歴代の女王が封じることしか出来なかったモノを滅した礼として、傷の方は女王陛下が特別に力を送って下さったので完治しているんだ」
「後姿の方はアレが触手を伸ばしてお嬢ちゃんのサクリアごと奪っていたんだと。これは女王陛下が教えて下さったんだから、まず間違いはないだろうな」
『あの姿も可愛かったけど、やっぱりお嬢ちゃんはこの姿の方がいいな』、そう付け加えたオスカーの頭を叩いたのはオリヴィエとリュミエールだった。見事なコンビネーションであった。
「こんな時にまで口説くんじゃない」
「いい加減になさい」
『プンプン』と怒る二人の姿にクラヴィスが珍しく笑みを零す。
「良い天気」
窓の外を見てそう呟いた金色の少女に、紺色の少女が言った。
「動けるなら後で森の湖へ遊びに行こうか?」
「うん!」
そうして澄み切り晴れ渡った空の下に華やいだ声が響く
物語は、こうして幕をとじるのだ・・・・・
END
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