愛情って何だろう?
悲しくて辛くて、泣いてしまうこと
ピンクの裳裾を捌いて少女から女性へと変わろうとしている少女が困ったような声で呼ぶが、相手からの返事はない。
「・・・・・フゥ」
白亜の建物から緑の庭園へと下りた少女を攫おうとでもいうのか、風が音を立てて渡って行く。風の手によって緑の木々と色とりどりの花々が『ザァッ』と歓声をあげる。
「どちらにいらっしゃるのかしら?」
風に流れる金色の髪を押さえて少女《 女王補佐官アンジェリーク》 は呟く。うわべは子供っぽさが抜けて女王補佐官らしくなったと言われるようになったが、子供の持つ無垢さ無邪気さを全然失わない少女は彼女らしく首を傾げる。こんなちょっとした仕草に子供っぽさが強く出るのだが、本人は全く知らないし、周りの者もそこらへんが可愛くて仕方がないので知らせたりはしない。へたに知らせてこの仕草が見えなくなったら『悲しい』とは、少女を可愛がっている皆の一致した意見である。
「マルセル様!」
再度呼ぶが返事はない。
「アンジェリーク、どうした?」
「ジュリアス様、マルセル様をご存知ではありません?マルセル様ったら、先日『チェリーパイが食べたい』と言うから作りましたのに、何処にもいらっしゃらないんです」
チェリーパイは暇をみてはお菓子作りに精を出すアンジェリークのところに繁々と通う《緑の守護聖マルセル》
の好物である。
「いや、知らん。すまんな」
「いいえ、そうですか。・・・・・では」
優雅に礼をすると少女は身を翻そうとするのを見た《 光の守護聖ジュリアス》は声をかける。
「私も探そう」
「有り難うございます」
惜しみない笑顔と純粋な好意は彼女の愛される最大の理由。だからこそ、ことあるごとに守護聖達はアンジェリークにかまい、それ故に牽制しあっている。知らないのはただ本人ばかり。
聖神殿は香しい花々の咲き乱れる前庭、樹木が植えられ涼やかな中庭を有する。
「あ!いたぁ!」
聖神殿の中庭の更に奥には林程ではないが中庭よりも木々が生い茂っており、緑系の色を好んで身につけるマルセルは木々の間で膝を抱えていた。
「マルセル様、今日はチェリーパイを焼きましたので、一緒にお茶にしましょう」
『パタパタ』と駆け足で近寄って少女は満面の笑みを浮かべてそう誘ったが、少年の表情を見た途端にその顔が凍りついた。
「どうなさったんです?」
慌てて少女がそう言うと、マルセルは声をあげて泣きついた。先程までは何とか膝を抱えて声を殺していたのが、大好きなアンジェリークを見た途端に必死におし止めていた堤が壊れたように耐えられなくなったのだ。
「母様が、母様が!」
後は声にならない。だけど思いは伝わる。
「泣かないで下さい」
自身もまた泣きながら、少女は優しく腕に自分とは違った金色の髪を抱く。その心からの労りは、涙を流すごとに乾いていく心に染み込んでいく。
「おや、どうしたんですかぁ?」
『ひょっこり』、現れた《 地の守護聖ルヴァ》 にジュリアスは軽く肩を竦め、
「何時までそうしているつもりだ」
少々不機嫌な声で彼は言った。
「泣ける時に泣いていなくては、そのうち心が壊れてしまいます」
『ぎゅっ』とマルセルを抱き締めてアンジェリークはジュリアスを睨みつける。翠の眼差しの強さは少女の心の強さの現れ。
「泣ける時は限られています、特に男の方は。大切な人を失って泣くことが不名誉なことだとおっしゃるのですか?」
強い眼差し、強い声、アンジェリークがアンジェリークであるが故の心の強さ、それこそが先代女王に見いだされた理由の一つ。
「愛した人と別れることは苦痛、共にいた間に培われた愛情が深ければ深い程に悲しくて辛くて、泣きたくなる。そういうものでしょう?私だって、試験が終わって家に帰ろうと思った時は皆様方とお別れすることが悲しかった、残ることを決めた時は家族と離れることが辛かった。でも、また会えるかもしれない、0ではない可能性があれば、まだ良いです。でもマルセル様は・・・・・」
感極まって言葉が絶える。
「そういうものなのか?」
「ジュリアス様?」
「私には、分からない」
ひどく幼い子供が途方にくれた時の顔によく似た表情で彼は言った。彼はそういった感情を本当に知らない。
「・・・・・」
『何か言わなくてはいけない』と思った。だが、それが心の中で言葉という形をとる前にジュリアスは身を翻して聖神殿へと歩んで行った。
「ジュリアス・・・・・」
周りのことがよく見え、人々の心に聡い徳高き守護聖は気遣わし気な視線を白と金の後ろ姿に向けた。
女王補佐官であるアンジェリークにも守護聖同様に聖神殿に執務室と徹夜の仕事の為に私室が用意されているが、ルヴァとマルセルの二人を誘って招き入れたのは当然私室の方である。暖かい紅茶とこんがりキツネ色に焼けたチェリーパイの香りにマルセルの目から流れる涙は、ほんの少しだけになった。現金なものである。
「頑張って作ったんですけど、いかがですか?」
「美味しい」
「本当に、相変わらず上手ですね」
「有り難うございます」
破願して少女は自分も口にする。
「アンジェリーク、有り難うね。まだちょっと悲しいけど、お陰で楽になったよ」
「マルセル様」
ほんわかとした雰囲気にルヴァが満足そうにお茶を口に持っていった丁度その時、遠慮も何もないドアを叩く音がした。
「よぉっ!」
「お茶してる頃だと思って、いい?」
「えぇ、どうぞ」
マルセルと共にひとまとめに『年少組』と呼ばれる《 鋼の守護聖ゼフェル》
と《風の守護聖ランディ》が手に土産を持って現れたのであった。
「ゼフェル様は甘いのお好きじゃないですから、こっちのクッキー出しますね。少し苦めですから私はあまり食べませんので、どうぞ」
白磁の皿に黒っぽいクッキーが幾らか無造作に乗せられる。
「サンキュ」
「マルセルどうした?目が赤いぞ?」
基本的に最年少のマルセルは皆からかまわれやすいのだが、特にランディやゼフェルは『お兄さん』的な立場におり、何かにくれ−アンジェリーク相手程ではないが−気にかけかまってやっている。
「うん、母様がね、死んじゃったの。それで、ちょっと泣いちゃって」
『みっともないでしょ』と舌を出すマルセルに、ゼフェルは、
「泣くのなんて当たり前だろ。泣かない奴の方がおかしいって」
何時も通りのぶっきらぼうな言い方だが、その中に織り込まれた感情は意外な程に優しい。自分に対しても他人に対しても斜に構えるところがあるゼフェルだが、そういうわりに優しい他者を労る部分はまるで未開の野のように荒れているようで、無垢さを保っている。ただたんに、素直にそれを出すことを彼は潔しとしない為にちょっと乱暴な言葉遣いをするだけなのだ。
「そうですよ。ゼフェルなんて泣いて暴れて手がつけられませんでしたからね」
『けろり』とした顔でルヴァがゼフェルの過去を暴露する。
「だぁ!そういうことはバラすなぁ!」
真っ赤になってゼフェルが叫ぶが、ルヴァは何処吹く風とばかりに、
「でも本当のことでしょう?・・・・・ランディはしばらくの間天の岩戸よろしく部屋から出て来ませんでしたよね?」
今度はランディの過去をバラした。
「わぁ!ルヴァ様!」
「それに比べれば、ただ泣くだけのマルセルなんて可愛いモノですよ」
その時のことを思い出してしみじみというルヴァに、アンジェリークとマルセルが心底おかしそうな声で笑う。
「「悪かったな」」
この時ばかりはぴったり同じ言葉を同時に二人は言った。日頃はそれ程仲が良くないがこんな風に全く同じ反応をするのは『胸の深いところにある心がきっと同じだから』と、アンジェリークは考えている。『ただ、それが表に出る時に全く別の形をとるので全然似ていないように思ってしまうのだ』、と。多分その考えは正解の全てではないが一つだろう。無数にある答えの全てを本人だって知らないことが当たり前なのだから。
「仕方ねぇじゃんか。第一、ルヴァはどうだったんだよ?」
「私ですかぁ?そうですねぇ・・・・・泣きは、しましたよ。でも、もうその時点で私は君達みたいに若くなかったですからねぇ。リュミエールぐらいだったんですよ。だから確かに悲しくて泣きはしましたけど、暴れも閉じこもりもしませんでしたよ?」
何時もの優しい穏やかな笑みに茶目っ気が混じっているが、ほんの少し影が横切ったのを見て取った少女は言った。それは心からの気遣い。
「お茶のおかわりはいかがですか?」
少女は相手に自分が気づいたことを気づかれないようにと細心の注意を払って、知らないふりをしながら、『少しでも元気になれますように』との願いをお茶にたっぷりと浸して。
「いただきます」
元々お茶が大好きなルヴァだが、アンジェリークが手ずから容れてくれるお茶はそのなかでも別格扱いだ。静かな水面に一滴でも滴が落ちれば揺れるように、悲しみに揺れる心が、彼女の心のように暖かなお茶を飲むと元気になれる。
「別れることは悲しいけど」
カップを包み込むように持ったマルセルが『にっこり』、笑って言った。
「誰かを好きって良いですよね?何だか勇気が湧いてきて、元気になれる」
『その通りだ』と、ルヴァは思った。
愛情って何だろう?
あったかくって優しくて、相手を包み込むこと
その日の夜は宴会だった。ただし、ほんの内輪だけの。提案者は《 女王ロザリア・デ・カタルヘナ》で、参加者は《
闇の守護聖クラヴィス》 《水の守護聖リュミエール》 《炎の守護聖オスカー》《夢の守護聖オリヴィエ》
と守護聖年少組と−これには本来クラヴィスも加わるのだが−年長組、そしてアンジェリークという、民が最高に尊敬する神にも等しい人々である。もっとも、彼等とて人間、身に宿るサクリアが常人よりもずっと大きいが故に『世界の安定の為』という大義名分の元に《女王》や《
守護聖》 といった地位についているにすぎない。確かにある程度−一応個人差があるが−成長すると時は彼等だけ避けて通り、人の何倍もの寿命を得るが、それは単なる副産物だ。常人でも−女王や守護聖程ではないが−サクリアが強い者の老化は遅く、寿命も長いのだから。彼等は神ではない、あくまで人間なのだ。であるから・・・・・
「キャハハハハハッ!」
「バック転行きまぁす!」
「俺様の酒が飲めんのか!?」
というように酒癖が悪い者とててる。・・・・・いるけど、尊敬しまくっている人達が見たらイメージとのギャップに泣くぞ?
「アンジェリークゥ」
『にこにこ』、すっかり元気を取り戻したマルセルがクッションを抱えてアンジェリークの隣に『チョコン』と座ると、とんでもないことを無意味なまでに朗らかに言った。
「一緒に寝ようね」
・・・・・待て・・・・・
「はい、マルセル様」
・・・・・待て待て・・・・・
「わぁい、アンジェリーク好き」
・・・・・待て待て待てい!本気か?
「マァルゥセェルゥ」
守護聖中最も優雅と言われ、実際女も羨む優美な美貌の青年守護聖リュミエールは声と眼差しに、思いっっっっっきり刺を含ませた。アンジェリークを溺愛すること一、二を争う彼がいるのに、先の台詞を言ったマルセルはある意味とっても大胆不敵であろう。
「何考えてんのよぉ?オスカーじゃあるまいしさぁ」
飲み過ぎない程度に押さえているとはいえ、ついついほろ酔い気分になるまで飲んでいたオリヴィエが髪をかき上げそう言った。元来艶麗な美貌の持ち主であるオリヴィエだ、『パラパラ』と零れた髪の間から見える潤んだ瞳は見た者が思わず知らず『ゾクッ』とする程壮絶に美しい。
「オリヴィエ、お前、どういう意味だ?」
自慢の髪を『情熱の深紅』と臆面もなく言ってのけ、プレイボーイとして名を馳せててるオスカーは『釈然としねぇぞ』といった顔で言い、オリヴィエではなく−たいへん珍しいことだが−神秘的なアメジストの瞳と排他的な雰囲気で他を圧するクラヴィスが、片手に琥珀色の液体の入ったグラスを揺らせて言った。カットされた硝子の断面がそれぞれ頭上のシャンデリアの光を受けて乱反射する。
「女ったらし(きっぱり)」
・・・・・本当に崇拝者達が見たら泣くぞぉ?
「アンジェリーク、自分は大切にしないと」
心底から言っているロザリアに、アンジェリークとマルセルは顔を見合わせて、
「「何で?」」
・・・・・年頃の男の子と女の子が一緒に寝るのは止した方がいいのを、理解していないのだろうか?・・・・・多分していないんだろう。
「今夜は一晩中マルセル様の故郷の星のことを聞くお約束だったんですけど」
「何処がいけないのかなぁ?」
本気で首を傾げる辺り、無垢すぎる。否、無垢というより、無知だな、こうまで徹底していると。
「どんな理由だろうと駄目ですよ」
『めっ』と言うようにちょっと怖い顔で怒るルヴァに、アンジェリークとマルセルは仕方なさそうなため息をついて、
「「はぁい、先生」」
茶目っ気たっぷりに返事をした。
「悪いわね、婆や」
「宜しいのですよ、これくらい」
ロザリアの乳母である女性がふくよかな頬に優しい笑顔のしわを作って女王に言った。彼女にとってロザリアは我が子のように愛し育てた、誇り高いが傲慢ではない、芯には他者を労る心を持つ、彼女にとって自慢の『娘』であった。今では時の流れを異なることになってしまったのだが、それでも彼女にとって愛しい愛しい『娘』であることに変わりはない。
「しかし、これが守護聖様方と女王補佐官様だとは思えませんねぇ」
心底しみじみ言う婆やに、『くすくす』とロザリアは笑う。
「全くよ。でも、アンジェリークはアンジェリークらしいと思うわ」
「そうでございますね。女王候補として女王陛下と試験をしていらした頃から無邪気でいらっしゃいました。・・・・・ねぇ、陛下」
「何?」
酒瓶が片付けられてこじんまりとした、よく皆が集まる部屋で安らかな寝息を立てて眠っている守護聖と女王補佐官に軽い布を風邪をひかないようにとかけながら、婆やは言う。
「私ごときでは先代様の御心、その深慮遠謀は把握しきれません。が、わざわざ試験を催されたのは、どちらがなろうと辛い役目である女王、その心を支える補佐官を与える為ではなかったのでしょうか?先代様も先代補佐官様とは親友であられたとか、自分と同じ運命を生きる者に支える者を、そうお考えだったのでは?」
「そうかもしれない、違うかもしれない。それを知っているのは先代女王だけよ」
長さの関係で結えていない髪を人差し指で『クルクル』と巻いて、現女王はいっそ実の母より愛情を与えてくれた乳母に、
「さぁ、私も寝なくては。ちゃんと寝ないとお肌に悪いものね?」
「えぇ、そうでございますよ。・・・・・お嬢ちゃま」
慈愛の微笑みを浮かべて彼女はそう言い、ロザリアもまた『にっこり』と華のある笑顔を浮かべて部屋を出た。
さて全くの余談ではあるが、翌日のこと『早起きは三文の得』と考えるルヴァは酔いの残る頭を振って何げなく手をついた時に触れた金色の髪を見ること数瞬、思わず寝ていた皆が起きる程の叫び声を上げた。
・・・・・普通は女の子が叫ぶものだと思うのだけど−余談だがルヴァは右にいてアンジェリークの左はマルセルが寄り添っていた−。
愛情って何だろう?
形はないけれど、確かに存在するモノ
柔らかな髪を故郷の星の風習に従って緩く見えないようにまとめた彼は、何時もの時間にやって来た金色の髪の少女を満面の笑顔で迎えた。
「いらっしゃい」
「今日和」
この頃のお気に入りである午後のお茶のお茶受けとして綺麗な花、否、花のような和菓子を取り出したアンジェリークはルヴァの差し出した漆塗りの盆にそれを一つ一つ丁寧に乗せ、ルヴァは薫り高い緑茶を煎じる。
「そういえば、気がつきましたか?」
「は?」
「ジュリアスがこのところ『ボゥッ』としているでしょう?」
「えぇ、何時もなら決して誤字脱字のある書類なんてお出しになりませんのに、だんだんと増えてきてます」
「何か原因を知りませんか?」
少女は首を振る。
「気になりますね」
「なりますねぇ」
『ウーン』とばかりに考え込む二人の耳に低くもなくさりとて高すぎない性別判断がしにくい声が届いた。
「ヤッホー!お茶してるんなら混ぜてよ」
「いいですよ」
中庭に面したテラスとそのテラスを有する部屋の主は、『にっこり』後光が差すような笑顔で応じる。
「あら、新色ですか?」
「あ、分かった?そうなのよぉ、良い色でしょ?」
陽気さの裏の自分自身を見られることが嫌なのか、人前に出る時はきっちり髪の一筋にまで気を配っているオリヴィエは、だが泰然自若な態度が安らげるルヴァと全てを包み込んでくれるようなアンジェリークにだけは例外として結構素直に受け答えする。もっとも元々社交的で話術に富んでいる彼の話し方から、各所にちりばめた本心をきちんと読み取れているかどうかまでは彼は責任を取る気はないが、多分二人とも理屈でない処で読み取っているのだろう。だからこそ、素直になれる。
「やっぱり、ほら、美を司る者としてそういうのにも精通していないとねぇ」
「よくお似合いですよ」
「アリガト」
「お茶をどうぞ」
容れられたお茶の香りに目を細め、オリヴィエはアンジェリークに言った。
「アンジェリークは何時もその服よね?」
「一応制服みたいなモノですし」
「それじゃなきゃ駄目なわけじゃないでしょ?もっと他の流行だとかも知らないと」
「そうですか?」
「そうよ」
これといって衣服に執着がないルヴァは首を傾げるが、そこは美しさを司る守護聖であるオリヴィエとしては花の蕾もほころびかけた年頃のアンジェリークが何時も−確かに似合うが−同じ服であるのが気に入らないのだろう。『着飾ってこその服』と考えているのだ、彼は。
「いい店知ってんの。教えたげるから、今度行かない?」
そうして、疑問は心の片隅に追いやられた。
『コンコンッ』
「開いている」
「失礼します、ジュリアス様」
重厚な扉を開いて、白い手に幾つかの書類を持って、アンジェリークが目に痛い程に白い《光の守護聖》
の執務室に足を踏み入れる。臆したところ、怯んだところはまるで感じられない自然な態度で少女はジュリアスの前に立つと、
「先日の会議後の調査結果です。こちらは今度の会議までに提出していただく書類ですので宜しくお願いします」
仕事にも慣れ、気持ちが良い程に明朗に告げた少女は、不意に言った。翠の瞳が心配気に揺れている。
「・・・・・お悩みの御様子ですね?どうかなさいましたか?」
緑柱石の瞳の光に耐え切れなくなったように、ジュリアスは常の彼らしくもなく視線をそらして少女の問いから逃れようとする。
「私ごときではお力にはなれないでしょう。ですが悩みを私も知ることで軽くすることは出来るかもしれません。・・・・・どうなさったのですか?」
真剣な声と眼差しに、ジュリアスは紺碧の海に映った蒼天のような二つとないだろう稀なる深いブルーの瞳を少女に向けると言った。
「母親が死んだと言ってマルセルが泣いていた時、アンジェリーク、お前が言った台詞は私には分からなかった。今も分からない」
物憂い気にジュリアスは豪奢な金色の髪をかき揚げる。
「私は生まれてすぐに次期《 光の守護聖》 との宣辞を受けたそうだ。先代の《光の守護聖》の力の弱まりは緩慢で、正式に聖地に上がったのは五才だった筈だ。父母は私を女王陛下を守る守護聖でも筆頭である《
光の守護聖》 として恥ずかしくないよう厳しく接していた。それを不満と思ったことは一度とてなかった。だが」
彼の瞳は彼女を見てはいない。無意識に避けていたことを掘り出そうとして自己防衛とも言える心の痛みに耐えながら、心の深い場所にいるもう一人の自分を見ている。
「それは、『愛情』だったのだろうか?」
「ジュリアス様」
「育まれた愛情が故に別離の涙を流すのだと、お前は言っていた。だが、私は二人の死を知っても、泣くことが出来なかった。悲しくなかったわけではない。それでも、涙が流れなかったのは事実だ」
ジュリアスの執務室、白い部屋の大きくとられた窓から満面に太陽の金の光が全てを照らし出すように伸びて、黒い黒い影を焼き付ける。
「私は両親を愛していたのだろうか?二人は私を愛していてくれただろうか?」
苦悩のにじむ声・・・・・
「『愛していた』わけではないでしょう」
『さらり』、少女は答える。
「きっと、今も『愛している』んですよ」
ひどく無邪気にアンジェリークは言う。
「『愛している』から思うんです、『愛していたのだろうか?』って。相手に対して何かの感情を持っていなければそんな風に思い悩むことはありませんもの。大丈夫、ジュリアス様はお父様やお母様のことを『愛しています』よ。・・・・・それに私はジュリアス様の御両親を知りませんけど・・・・・でもきっと、御両親だってジュリアス様のことを『愛していらっしゃいました』よ」
白い面にある笑みに、ジュリアスは何処か見覚えがあった。思い出すことも稀な遥かな過去の日に、彼の母が浮かべていた笑みだった。包み込むような暖かな微笑み、与えられていなかったわけではないのだ。ただ、それ以上に厳しく接せられていたことが心に残っていただけのこと。
「有り難う」
心からの慈しみと愛しさに、机越しに少女の華奢な身体を抱き締める。甘い香りは、母のモノとは全く違う。そう、愛されて、抱き締められたことだってあった。忘れていたけれど・・・・・
『コンコン』
「ジュリアス、入りますよ」
のどかにそう言って無造作に扉が開かれ、守護聖一温厚と言われるルヴァが現れた。そうして、
「何やってんですかぁ!」
「あら、ルヴァ様も今度の会議のことですか?」
目ざとく手にある書類を見つけたアンジェリークは、同時にあまりの光景に後の言葉が続かず絶句しているルヴァの様子も目に入っているだろうに、『のっほほん』とそんなことを言ってのけた。
「・・・・・アンジェリーク、これから大事な話があるので」
「はい、私の方は終わりましたから」
『待て、行くな!』との身振りを−身の危険を感じて−するジュリアスには気がつかなかったのだろうか、無情にもあっさりと金色の髪の天使のような可愛らしい少女は、それはそれは可愛らしい笑みを浮かべて歩いて行く。
「では、書類出来ましたら私の方まで宜しくお願いします」
『ぺこり』と最後に一礼して、天使は扉の向こうに消えてしまう。
「・・・・・ジュリアス」
目は前髪に隠れて見えないのだが、視線はジュリアスに『ビシバシ』とばかりに叩きつけられている。本気で怖い。
「いい度胸ですねぇ。紳士条約があるっていうのに」
「紳士条約?」
「知らなかったです?」
「知らん」
「ふむ。・・・・・ようするに、アンジェリークに対する抜け駆け禁止条約ですよ。皆があの子のことを想っていますからね。それにしても、リュミエールやマルセルがさっきのを見ていたら」
「見ていたら?」
「怒り狂ってフクロですね」
「・・・・・」
嫌な想像だ・・・・・
愛情って何だろう?
何かのことを好きだと思う気持ちのコト
満天の星空の下で天使が羽根を休めている。
「・・・・・星は何時か巡り巡って人になる 大地に生きる人になる
人は星のかけらを抱いて歩く 人は星のかけらを抱いて眠る
人は何時か巡り巡って星になる 天に輝く星になる
星は人の心を抱いて昇る 星は人の夢を抱いて翔る」
囁くように天使は口ずさむ。白い指がリュートの弦をつま弾いて、小さな不思議なメロディーが風に乗って意外な程に辺りに響いているのを天使は知っているだろうか?
「星は何時か巡り巡って人になる 大地に生きる人になる
時は流れて止まらず 人は刹那と永遠を知る 刹那の愛と永遠の憎しみ
時は流れて止まらず 人は弱さの中の強さを知る 憎むことの弱さと愛の強さ
流れ流れて何時の日にか 刹那の愛は憎むことの弱さを知るだろう
流れ流れて何時の日にか 永遠の憎しみは愛の強さを知るだろう
時の流れに身を任せ 小さな星の灯火掲げて憎んだモノを愛した時 人は地上の星になる
人は何時か巡り巡って星になる 地上で輝く星になる・・・・・」
淡い色彩のゆったりとしたサリーと呼ばれる衣装をまとった天使は最後に余韻を残して目を伏せた。
『カタリ』
傍らに素っ気ない程にシンプルであるが故にある種の美しさを醸し出すリュートを置いた天使はその白い面を天に向けた。静かに開かれたまぶたの奥の翠の瞳が、星が集まって出来た河を見る。
「夜風に誘われました。クラヴィス様は?」
近づいて来る闇の化身の気配に気がついた天使は、笑んでそう問いかけた。かけら程も邪気のない笑顔・・・・・
「お前に誘われた」
「聞こえてましたの?」
「あぁ」
「恥ずかしいですね。リュミエール様に比べて私のは拙いですし」
「なかなか良かったぞ・・・・・」
「嬉しいです」
褒められたことを素直に受け止めることの出来る天使は頬を染めて応える。
「ジュリアスの奴は一度落ち込むと鬱陶しい程深みにはまるのだが、上手く浮上したようだな」
相反するからこそ、己と最も遠いからこそ目についてしまう光の片割れのことを闇の具現者は言った。
「クラヴィス様も御身内の方が亡くなった時は悲しまれました?」
「私は何時両親が死んだのか分からない。だから悲しんだことはない」
意外な答えに天使は首を傾げる。
「私の一族はそういうモノだからだ。決して誰かの目にふれるところでは死なない。故に死んではいるだろうが、何時なのかは分からない」
どんな表情をしていいのか分からないといった風な天使に、彼は続ける。
「だから初めて聖地に訪れた日には決まって思い出すことにしている。もっとも、時の流れのなかに、面影も朧であやふやだがな」
闇色と見間違う神秘的なアメジストの瞳が星を見上げる。細いが男らしいしっかりとした指が空を指し示す。
「生きている間は二人の守護星を見ては思い出した。今は守護星そのものが父であり母だと、私は思う」
「素敵ですね」
「人は何時か巡り巡って星になる 天に輝く星になる」
呟くように一節を彼は謡う。
「母が私を寝かしつける時によく謡っていた歌だ。この影響もあるのだろうな」
輪廻転生を題材にした歌、一つの場所にとらわれないジプシーが広めたと言われる古い古い歌だ。
「人は何時か巡り巡って星になる 地上で輝く星になる・・・・・」
置かれたリュートの澄んだ音色が夜に響く。戯れにクラヴィスが弦を弾いたのだ。
無邪気な天使はリュートを手に取りつま弾きだす。何時もは可愛らしいとの形容詞がつく天使の、星明かりに金色の髪が淡く煌く様は素直に綺麗と思えるような神秘的な色。
暫くは言葉もなく何処か懐かしい音色に聞き入る。自在に楽器を操る天賦の才に恵まれた《水の守護聖リュミエール》
に教えられているANGELもまた才に恵まれているらしく、その音色は穏やかで天使の心のままに優しい。
「アンジェリーク」
「はい?」
無垢な天使は首を傾げる。
「お前の家族は優しかったか?」
「えぇ。優しくって、大好きです」
「そうか」
満足気に頷く闇の化身に、天使はにこやかな笑顔と共に言った。何処までも無邪気な天使はその言葉が与える衝撃も考えずに、
「クラヴィス様のことも好きですよ」
「・・・・・」
クリティカルヒットとばかりに大打撃を受けた闇の化身は、切れ長のその目を大きく見開いて、それこそ穴があくのではないかと思えるまでに天使を凝視する。
「クラヴィス様もリュミエール様もマルセル様も、ルヴァ様もオリヴィエ様もゼフェル様もランディ様もオスカー様もジュリアス様も、女王陛下も、皆みぃんな、大好き」
嘘偽りのない本当の、真実の言葉。何時だって彼女は彼女の真実だけを口にする。
だ・け・ど・・・・・
『違う、何か違うぞ。本当にこの子は十六を過ぎているのか?』
もっともといえば、もっともだ。
「どうかしました?」
無邪気で無垢な天使は脱力する闇の化身に首を傾げる。無邪気さ無垢さがうりの天使とはいえ、あんまりだ。
「・・・・・否」
暫しの沈黙の果てに、彼はそう小さく呟いた。それ以外にどんな対応があろうか?
「さぁ、夜も更けた」
「はい」
抱え込むようにリュートを持った天使は、腰掛けている噴水の縁から『ぴょこん』と立ち上がると元気に返事をした。
「お休みなさい、クラヴィス様」
「あぁ」
『bye−bye』と手を振る金色の天使に、闇の化身もまた小さく手を振り返した。
鏡の向こう側にも少女がいる。柔らかな金色の髪と好奇心に輝く翠の瞳の少女。
「今日も一日良い日でした」
そう、誰かに報告するように、少女は笑顔でそう言うとブラシに手を伸ばした。ふわふわとした金色の髪を丁寧に梳いて、軽くおさげに結って立ち上がる。
「明日も良い日で、皆様方と仲良く暮らせますように」
誰よりも純粋に誰かを好きでいることに関しては、多分この少女が一番。心底から願いを呟く。
「さぁて、今日はもう寝なくっちゃ」
『ふっかふか』の布団に包まって、少女は呟いた。
「大切な人達と私にとって、明日も良い日でありますように」
END
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