それは、なにげない一言。
「ディア様、いつも咲いているあの花、名前はなんて言うのですか?」
金の髪の女王候補の無邪気とさえいえる、質問。
振り返り、確かめる。確かめなくても、わかってはいたけれど。
いつも咲いている花なんて、あれしかない。胸の奥深くに仕舞っている、愛と切なさを糧に咲く花。
それほど遠くはない昔に、あの人から貰った・・・
「私も、名前は知らないのですよ。頂いたものですから」
「そうですか」
そう、名前はない、この花には。
この世でたった一つしかない、たった一つしか創り出さなかった、そして名前さえつけることすらせずに旅立った、あの人。
「じゃあ、ディア様、ご指導有り難うございました」
「また、いつでもいらっしゃい」
いつものように、微笑む事が出来ただろうか。無邪気な質問に昔の想いを引きずったような顔をしなかっただろうか。
・・・今でも、忘れられない、想い、だから・・・
記憶の扉が開き、昔の出来事が鮮やかに蘇る。
「ディア!一緒に帰ろ!」
肩に抱き着くような勢いで、金の髪の親友が駆けてくる。もともと、おっとりとした性質のディアはふんわりと微笑み、親友の言葉に同意する。
「そういえば、もうすぐ、プロムがあるのよねぇ」
「・・・ええ、そうね」
親友と並んで歩きながら、ディアは重たいため息をつく。プロムとは、平たく言えば学校で行うダンスパーティーの事であり、男子が女子をエスコートして参加する事が基本である。ディアはこの行事が苦手で、今もついつい暗い顔になってしまうのを止める事が出来なかった。
「まーた、そんな顔をして。ディアぐらい綺麗な女の子なら、いくらでも相手がいるじゃない、と言いたいところだけど」
輝く琥珀の瞳をくるり、と猫のように回すと金の髪の少女は薄桃の瞳を覗き込んだ。
「あなたの場合、会場に入った後が問題だものね。ディアも、それが憂鬱なんでしょ」
何も言わずとも、自分の気持ちを正確に捉える親友に、甘えているとわかってはいるものの、ついつい縋るような視線を隣に向けてしまう。
「出来るだけ助けてあげるけど、でも、ディア。あなたも嫌なら、きちんと断らなきゃ駄目よ」
「努力、するわ」
貴族の家柄であるディアは否応にもダンスの申し込みが多く、そのほとんどが家柄に惹かれている者である。繊細で人の心に敏感なディアはそのこともあって、プロムへ行く事に消極的なのだ。
「大丈夫。きっと、ディア自身を見てくれる人が現れるわよ。こんなに綺麗で優しくて、よく気が付いて穏やかで、才色兼備の言葉そのままのあなたの魅力に気づかない男達なんて放っておきなさい」
ずけずけとディアにダンスを申し込んでいる男性陣の批評を聞きながら、ディアは苦笑を顔に浮かべる。
「そう、言ってくれるのは、アンジェリークだけよ」
「あ、それ、いいかも。ディアをお嫁さんに貰おうかな」
「アンジェリークのところへお嫁に行くの?私が?」
二人、顔を見合わせ次の瞬間、同時に吹き出していた。
「でもね、私達、きっと、ずっと、一緒よ・・・」
穏やかで幸せな日々。ずっと、このままだと信じていた幼かった、あの頃。
モイライの手が運命の糸車を回し、少女達に別の道を指し示す。
「どうしよう、アンジェリーク・・・」
呆然としたように、薄桃の少女は椅子に座り込んでいる。
「理事長も、気軽に言ってくれるわよね。頑張ってこい、だなんて。この状況で、どうやって頑張れって言うのよ」
二人の少女達は突然、理事長に呼び出され、驚愕の決定事項を聞かされた。二人が女王候補として選ばれ、資質、性格、その他を見極める為に二人の少女達は聖地へ来るようにと、女王から要請がきたのだというのだ。
背中の中程までのサラサラした、真っ直ぐな金の髪をかき回しながら文句を言い募る少女の姿に、薄桃の少女は驚愕の色を浮かべた瞳を向ける。
「アンジェリーク、行くつもりなの?」
「呼ばれたのだもの、行かない訳にはいかないでしょ。まぁ、聖地なんて一生、行けない場所だと思っていたから、面白そうだけど」
かなり、能天気な親友の発言に少女はおそるおそる、自分の不安を打ち明けた。
「でもね、もし、女王に選ばれたら・・・二度と、皆に会えないわ。アンジェリークは、それでもいいの?それに・・・」
琥珀の瞳を煌かせ、心細げな親友の不安を聞いていた金の髪の少女は言葉を途切れさせた薄桃の少女の瞳を覗き込み、続きを促す。
「それに?」
「二人が選ばれたという事は、つまり、ライバルだという事じゃないかしら。どういう風にして選ぶのかわからないけど、結局はあなたと争う形になるのよね・・・」
「私は、一緒に行くのがディアで良かったって思うけど」
魅惑の力に満ちた、琥珀の瞳が煌く。真っ直ぐで、輝く魂がその瞳に現されているような、不思議な琥珀の瞳。
「いくら私でも、知らない場所へ一人で行けなんて言われたら、不安になるわ。でも、ディアが一緒なら、お互いに頑張れるじゃない?励ましあえるじゃない」
弾けるような生命力を感じさせるような、力強い言葉。親友の語る言葉にはいつも、力強さが宿っている。
「もし、女王になって皆に会えなくなったとしても、今度は私が皆を守るのよ。寂しいかもしれないけど、私を愛してくれて、守ってくれたお返しが出来るのだもの。素敵な事だわ」
この瞬間、ディアは親友が女王として相応しいと思った。これほど愛に溢れ、慈しみの心を持つ彼女が相応しいと。
「あなたはいつも、私の背中を押してくれるのね」
では、自分は彼女の手助けをしよう。いつでも、いつまでも、黄金の魂を持つ、親友の側にいよう。かの聖地で待っている運命を知らず、ディアは穏やかに微笑んだ。
「ディア、散歩に行かない?」
聖地に着いてまだ日は浅く、環境の急変に繊細なディアは精神にかなり負担を掛けていた。幼なじみとして、親友として長い間側にいたアンジェリークはその親友の様子が手に取るようにわかり、気分転換になればと外へと誘いをかける。
「ええ、そうね。お天気もいいし・・・行くわ」
ディアもその親友の心遣いがわかり、感謝の目を向けながら立ち上がった。
「どこへ行く?」
「庭園にしましょうか」
「んー、んん、それよりも、湖の方へ行かない?すっごく綺麗なんだって」
神経を参らせている親友に人込みの多い庭園は避けた方がいいと判断したアンジェリークは森の湖の散歩を提案する。もとより、ディアには反対する理由はない。
「そういえば、湖には行った事がないわ」
「私もよ。知っている?湖の別名って、『恋人達の湖』なんだって」
楽しそうに、秘密をこっそり打ち明ける子供のように話す親友に、自然と微笑みが浮かんでくる。鬱屈していた気分が晴れていくのがわかる。
「『恋人達の湖』?ロマンティックだけど、女の子二人で行くのもなんだか不毛な気がするわね」
浮上してきた気分そのままに、ディアは茶目っ気を出して親友に首を傾げてみせた。薄桃の瞳が笑い、本気で言っているのではない事をアンジェリークは容易く察するだろう。
「いいじゃない、綺麗だっていうんだもの。それに、そんな場所に女の子同士で行くっていうのも、オツなものじゃない?」
なにか違うのではないかとも思ったが、屈託のない笑顔に結局はディア曰く、不毛な女の子同士による湖の散歩を遂行するのであった。
平日の昼間という時間帯の為か、湖には人の姿はなく、少女達は貸し切り気分で湖の散策を楽しむ。
岸辺を歩くだけではなく、冷たい湖の中に足先を浸してみたり、草で作った小船を浮かべてみたり。
女王候補としてではなく、ただの少女として二人は長い時間、遊び続けていた。
「ねぇ、アンジェリーク」
遊び疲れ、二人して草の褥に身を預けている時、随分明るくなったディアがとなりに寝転がる親友に疑問に思っていた事を訊ねた。
「ここの別名を、誰から聞いたの?」
訊ねながらとなりを見たディアは思わず、目を擦ってしまいそうになった。いつも太陽のような明るい笑顔の少女が静かな、なにかを愛おしむような微笑みを浮かべたからだ。長い間、側にいたが、親友のこんな表情は初めて見る。
「あのね、クラヴィス様から」
「クラヴィス様?」
闇の守護聖の名前に薄桃の少女は首を傾げた。司る力が闇だからだろうか、寡黙で近寄りがたい雰囲気の青年は確か、こんな少女の他愛もない会話は好まない質だったはずだ。
「他の方から別名があるよって言われたんだけど、教えていただけなかったのよ。で、クラヴィス様を捕まえて、聞き出した訳」
「まぁ・・・」
捕まえられたクラヴィスはさぞかし、面食らったに違いない。そして、クラヴィスの纏う厭世的な雰囲気に負ける事なく、湖の別名を聞き出したアンジェリークも、強者と言えよう。その場面が容易に想像できるだけに、ついつい苦笑が顔に浮かんでくる。
「あー、ディア、なによ、その顔は」
「クラヴィス様も、アンジェリークに捕まって、大変だったな、と思ったらね」
「ひっどーい。ディアってば私の事、そんな風に見ていたんだ。もう、拗ねよっかな」
からかうディアの言葉に、アンジェリークは素直に膨れた。素直な感情のまま、ころころと変わる親友の表情がディアは大好きだった。自分がこれほど感情を露にできないだけに、なおさら。
「でもね、クラヴィス様ってああみえて、お優しいところもあるのよ」
フォローのつもりだろうか、親友の言葉にディアは首を傾げ、続きを促す。
「この間、用事があって宮殿へ行ったのだけど・・・あそこ、すごく広いでしょう?迷子になってしまって。困っていたら、ちょうど通りかかったクラヴィス様に送っていただいたのよ」
「そう、なの」
相槌を打つディアは気づいた。アンジェリークの中で芽を出しかけている、ある想いに。その想い故に、あの静かな微笑みを浮かべた事に。まだ、アンジェリーク自身は気づいていないようだが。
・・・親友の心の中で育とうとしている想い。それは、恋と呼ばれるもの。
それに気づいた時、この親友はどうするのだろう。理性と感情の板挟みに苦しまなければいいのだが・・・願わくば、どうか、この笑顔が曇らないように。
「ああ、ここにいたのか」
ほっとするような落ち着いた声が聞こえ、視線を向けると金褐色の髪を後ろで束ねた青年が少し、難しげな顔をして森の入り口に立っていた。
「カティス様?」
余裕を感じさせる落ち着きを持った緑の守護聖は、普段は気さくで暖かな笑顔の持ち主なのだが今、少女達の目の前に立つ彼はなにか迷っているような表情をしていた。
「・・・あの?なにか、あったのですか?」
訊ねるディアに視線を向け、青年は痛ましげな表情を浮かべる。
「・・・よくない、知らせですか?ディアに関する」
青年の態度を見たアンジェリークの推察に青年は頷き、重い口を開いた。
「そうだ。ディア、お前に知らせがある」
みるみるうちに緊張で強ばった親友の体を抱き締めながら、琥珀の瞳を持つ少女は強い視線で緑の守護聖を見つめ、続きを促す。
「先程、お前の家から聖地に知らせが入った。・・・お前の、祖母が亡くなったそうだ」
「御祖母様・・・が?」
呆然と呟く親友の頬を軽く叩き、アンジェリークは薄桃の瞳を覗き込んだ。
「ディア、大丈夫?」
「え、ええ・・・。御祖母様がお体を悪くされていた事は、知っていたの。だけど、あの時、見送りに来て下さって・・・『頑張っていらっしゃい』っておっしゃって、祝福のキスをして下さって・・・っ」
呟くうちに感情が戻ってきたのだろう、ポロポロと涙を零し、ディアは自分を抱き締めてくれている親友にしがみついた。優しい手が慰めるように背中を撫でていく。
「これを、渡して欲しいとお前の家から届けてきた。もう、長くはないと悟っておられたようだな。お前と会う事も・・・もう、ないとも」
緑の守護聖の手から渡されたのは人魚の涙と呼ばれる石を使った、シンプルな形のイヤリングだった。
御祖父様からプロポーズと一緒にもらったのだと、幼い自分が欲しがった時にそう、言ったイヤリングだ。そんなに気に入ったのなら、形見としてあげますよ、とも。
イヤリングを握り締め、更にディアは泣いた。
「お・・・ばあ、さま・・・おばあ・・・さま・・・っ!」
鳴咽を漏らす親友の背中を静かに撫でながら、アンジェリークは品のいい老婦人を思い出していた。
ディアとよく似た雰囲気を持つ、穏やかに微笑む人だった。ディアを可愛がり、また、幼馴染みで親友の自分も、身分に関係なく可愛がってくれた。あの、見るだけで安心できるような微笑みはもう、見る事が叶わなくなったのだ。
「・・・何をしている」
「ジュリアス様」
落ち着きを取り戻し、ハンカチで涙の跡を拭いていたディアは泣いていたと一目でわかる赤い目で、驚いたように森の入り口に立つ光の守護聖を見た。
ディアの泣き腫らした目を見た主席守護聖は眉を顰める。
「家からの知らせを聞いたのか」
厳しい声に立ちすくみながらも、ディアは素直に頷いた。別段、隠す事でもないからだ。
「はい。カティス様から伺いました」
「女王候補としての自覚が足らぬようだな」
「!?」
だが、光の守護聖の口から出た言葉は叱責だった。驚きに目を見張るディアに、更に畳み掛けるようにジュリアスは叱責を続ける。
「女王候補たる者、私情に流されてはならぬ。いずれは宇宙を支えるかもしれぬのだ、いちいち動揺していては女王など勤まらないぞ。お前は女王候補としての行動に責任を持たなければならないのだ」
「ジュリアス様!」
延々と続こうかと思われた光の守護聖の叱責を止めた少女は、親友を庇うかのようにジュリアスとの間に立ち、強い視線で相手を見返した。
「待って下さい。ディアの気持ちも察してあげて下さい」
琥珀の瞳が煌き、宝石のような光を放つ。背後の親友を気遣いながらも、アンジェリークは迫力ある光の守護聖に気圧される事はない。
「守護聖って、女王と共に宇宙を守り、育てていく方なのでしょう?ならば、ディアの気持ちを・・・もっと、人の気持ちを思いやれる方のはずです」
逆に、魅了の力さえ持つ、琥珀の瞳の力ある視線に、光の守護聖が気圧される。少女の魂の力強さを窺わせるような、力ある言葉にも。
「愛した人がいなくなる。寂しいのも、悲しいのも、当たり前です。それがなければ、心ある人ではありません。そして、泣く事によって悲しみを浄化させ、心を守る。ディアには、それが必要だったのです」
ジュリアスの反論の言葉はなかった。言葉自体、出なかった。輝く琥珀の瞳に魅せられて。
・・・確実に、運命が動き出す・・・
ディアが悲しみから立ち直り、聖地にも馴染みだした頃には、二人の少女達はそれぞれの魅力を守護聖達に認めさせていた。
ディアの穏やかで誠実な人柄は信頼を集め、アンジェリークの活発で溢れる生命力は聖地に新しい風を吹き込んだ。
共に、魅力のある少女達なのだ。一人二人、少女達に好意を寄せる人物が出てきてもおかしくはない。
「ディア。いい天気なのだが、散歩にでないか?」
「カティス様」
穏やかな緑の守護聖の訪問にディアも素直に誘いに応じる。
「ここにも、大分慣れたようだな」
「はい。カティス様にはいろいろご心配をおかけして、すみませんでした」
祖母が亡くなったと知らされた日の事を言っているのだとカティスは察し、ゆるく首を振った。
「いや。それよりもジュリアスの言葉に傷ついてはいないかと、そちらの方が心配だったのだが、大丈夫なようで安心した。ジュリアスも悪気はないのだろうが、仕事や努め第一の人間だからな。どうしても、ああいう言葉を言ってしまう」
ため息をつく青年を見上げ、『気にしていない』と少女は微笑む。
「アンジェリークが庇ってくれましたし、あの後も慰めてくれましたから。いつも、そうなんです。いつも、いつも、アンジェリークに助けられて。プロムの時でさえ、ダンスの誘いを断れなくて困っているとそれを察してくれるアンジェリークに助けられるんです。あの子だって踊りたいでしょうに、自分の事は後回しにして私の事を優先して。私がもう少ししっかりしていればいいのですけれど・・・」
自己嫌悪に陥る少女の肩を励ますように青年は軽く叩いた。
「だが、その分、君は人の気持ちを察し、そして誠実であろうとするだろう?人の気持ちを考え、どう動けばいいのかを考える。そういう長所もある事を忘れてはいけないよ」
「・・・有り難うございます」
アンジェリーク以外に面と向かって褒められた事のないディアは薄桃の瞳を見開き、嬉しそうに微笑んだ。柔らかく、綺麗な微笑みにカティスは目を奪われる。
・・・静かに、想いが深まっていく・・・
ディアとカティスが少しずつ、心の距離を縮めているように、アンジェリークと闇の守護聖も次第にお互いを見つめ始めていることにディアは気づいていた。そして、闇と相対する光の守護聖もまた、魅了の光を宿す琥珀の瞳を持つ親友を見つめていることも。
幸か不幸か、周囲の状況を素早く察知する能力に秀でたディアではあるが、今回ばかりはどうすることも出来ない。
恋する人間にどうこう言えない、というのは建前で実際は恐れていたのだ。
もし、親友が恋を選んだら。
自動的に自分が女王になるだろう。だが、そうなったら・・・
脳裏に浮かぶ面影。もう、一緒に散歩も出来ない。それどころか、普通に話す事すら出来ない。
心の奥深くにある本音に目を背けながら、日々が過ぎていく。
森の湖。
光の守護聖と闇の守護聖が向かい合って立っている。二人の間にはピリピリとした緊張感が漂っていた。
「アンジェリークに必要以上の関心を抱いているようだな」
ジュリアスの言葉にクラヴィスは何も答えず、無反応、無表情。ただ、アメジストの瞳だけは暗い炎が踊っているように、不穏な光を放っている。
何の反応も返さないクラヴィスにいらついたかのように、更にジュリアスはつめよる。
「先程、アンジェリークに会った。おぬしが此処にいるから断っておいてくれと頼まれたが、お前達は自分達の立場を理解しているのか」
ジュリアスは気づかない。自分の心に。アンジェリークがクラヴィスと会おうとしていた事に嫉妬を覚えている事実に。
初めて、クラヴィスの表情が動いた。一瞬ではあったが。
驚愕、不審、そして・・・怒り。
その一瞬の後、再び能面のような無表情を顔に張り付けたクラヴィスはとうとう、一言も発言する事なくジュリアスの前から立ち去った。
「クラヴィス、何か言ったらどうなのだ!?」
ジュリアスの言葉にも視線を投げるだけ。だが、闇の化身はその瞳に深い苛立ちを表していた。光の化身は気づかなかったが。
そして。
一部始終を偶然、目撃している者がいた。
薄桃の髪と瞳を持つ少女、ディアが。
立ち去る闇の守護聖を見て、慌ててあとを追いかけようとする。
少女は知っていた。アンジェリークが今日の散歩をとても楽しみにしていた事を。
だが、突然女王からの呼び出しを受けたのだ。だから、女王の言葉を伝えに来た光の守護聖に闇の守護聖への伝言を頼んだのだが・・・光の守護聖は意識的にか無意識にか、少女が女王に呼び出された事を闇の守護聖に伝えなかった。
今、クラヴィスは怒りを抱えている。
アンジェリークが来なかった事。ジュリアスに伝言を頼んだ事。
その二つからクラヴィスは、アンジェリークがジュリアスと出かける事にしたのだと誤解した。闇の守護聖がそう、思った事がディアにはわかった。
その誤解を正そうと走ろうとして・・・足が止まった。
浮かんだ面影は金の瞳の優しい笑み。
もし、アンジェリークが女王を辞退したら・・・
迷いは一瞬。
だが、その一瞬が決定打だった。
気づいた時、闇の姿はどこにもなかった。
「アンジェリークを女王とし、世界をその手に委ねます」
女王の一声で、次期女王が決まった。
「謹んで、お受けします」
心の奥の悲しみを見事なほど隠し切った少女が王冠を受け取る。
新しい時代が始まった。
それは裏切り。そして・・・罪。決して、許される事のない・・・
「本当に、いいの?ディア」
「ええ、ここに来た時から決めていたの。ずっと、あなたの側にいて、力になろうって。あまり、役には立たないでしょうけど」
「そんなことないわ。ディアがいてくれたら、すごく嬉しい。でも、あっちにはもう、会えないのよ?それでも?」
無言で頷く穏やかな親友に、新女王はようやく微笑みをみせる。
「ありがとう、ディア」
悠久に近い時が流れる。
活発な少女は高貴な輝きを持つ女神へと成長し、繊細な心を持った少女は落ち着きのある美女へと変化した。
時が流れる。ゆっくりとだが、確実に。
炎と水の守護聖が同時に交替した。
新しい夢の守護聖が華やかにやってきた。
真っ直ぐな瞳の風の守護聖が緊張した面持ちで女王と対面した。
突然の鋼の守護聖の交替。
そして。
再び、モイライの手の糸車が回る。
「ディア」
自分の部屋を訪れた訪問者を迎え、薄桃の女王補佐官は柔らかに微笑む。
「いいところにいらっしゃったわ、カティス。ちょうど、お茶にしようとしていたところなの。ご一緒にいかが?」
「ああ。では、もらうとしよう」
優美なカップに薄青の光が揺れ、暖かな湯気がたちのぼる。
「リュミエールからいただいたハーブティーですわ。口にあうとよろしいのですけど」
無類のお茶好きで有名な水の守護聖の名をあげ、女王補佐官は向かいに座る緑の守護聖に入れたハーブティーをすすめる。
すっきりした、あまりくせのないハーブティーはさすがに水の守護聖が選んだものだと思わせるほど、美味しいものだった。
「それで、カティス。何のお話がありますの?」
しばらく、お互いに無言でお茶を楽しんでいたが、ディアの言葉にカティスは真剣な瞳を相手に向けた。
いつも穏やかな光を浮かべていた金の瞳が、とてつもなく真剣になっている。
「ディア。俺はもうすぐ、守護聖の任を降りる」
「・・・え?」
「今朝の事だ。サクリアの衰えを感じた。陛下に伺い、交替の時期が来た事を教えられた」
淡々と話す緑の守護聖の態度にディアも衝撃から立ち直り、手にしていたカップをソーサーに戻した。
こうなると、カティスが何の為にここに来たのか、簡単に推察できる。そのための心の準備をディアはカップを元に戻す事で行った。
「そう、ですか」
極めて落ち着いた声が出せた事に、ほっとする。だが、気は抜けない。本番はこれからだ。
「もうしばらくすれば、後任が聖地にやってくるだろう。後任に諸々の事を引き継いだ後、俺は聖地を出るが・・・その時はディア」
金の瞳が真っ直ぐに薄桃の瞳を射抜く。
「一緒に、来てくれないだろうか。いや、来てほしい。・・・君を、愛している」
ぎゅっと、テーブルの下の手を握る。
ゆっくりと口を開き。
「ごめんなさい、カティス。私、行けません」
拒否、だった。薄桃の瞳に涙が浮かぶ。
「行け、ません。陛下を置いては。誓ったのです。ずっと、側にいようって」
「ディア」
「ですから」
儚く崩れそうな雰囲気を纏わせながらも、穏やかな薄桃の瞳には断固たる決意の光があった。
カタン。
無言で立ち上がった緑の守護聖は薄桃の女王補佐官の前に立ち、優しい線を描く頬を両手で包み込む。
「・・・わかった。だが、聞かせて欲しい事が一つ、ある。・・・俺の事を、少しでも想っていてくれただろうか」
薄桃の瞳が大きく見開かれる。
「・・・ディア?」
「だめ、です。ごめんなさい。言えません」
「ディア?」
「言えません!!」
悲鳴に近い声で叫ぶとディアは両手で自分の顔を覆った。
「言ってしまえば自分が制御できなくなる・・・あなたに、ついて行ってしまいそうになる・・・」
その呟きがなによりもディアの気持ちを代弁していた。
ついて行きたい。でも、行けない。
哀しい想いがここでも紡がれていた。
「ディア。一緒に行ってもいいのよ?」
「陛下?」
「好きなのでしょう?ずっと、ずっと、好きだったのでしょう?」
プライベートな時間ではずっと砕けた口調になる親友に、ディアは自然な微笑みをみせる。無理などしていない、綺麗な微笑み。
「でも、私はいつまでもあなたの側にいると決めました」
「ディア」
「無理なんて、していませんよ?」
微笑んで退出する有能で信頼する親友に、聞こえないとわかっていて、女王は呟く。
「バカな子ね・・・。私の事なんか、気にしなくていいのに」
コン、コンコン。
「ディア。俺だが・・・」
ノックの音に扉を開けようとしていたディアはノブに手を掛けたまま、硬直した。
「開けては、くれないのか?」
「・・・ごめんなさい・・・」
交替する事を聞いた日から、ディアは出来る限り、緑の守護聖を避けていた。会って、話をすれば心の奥深くに封印した想いが蘇りそうで。できるだけ、事務的な話だけの接触ですませていた。
そして、後任の緑の守護聖の少年にすべてを引き継いだカティスは明朝、聖地を出る。
「最後に聞きに来た。一緒に、来てくれないか?」
最後の、最後。ラスト・チャンスともいえる、カティスの問い。
だが。
「ごめんなさい。やっぱり、私、行けません・・・」
消え入りそうなか細い声に、男は深い息をついた。わかってはいたが、どうしても問わずにはいられなかったのだ。
「わかった。すまない、余計な事を言って、煩わせて。・・・ここに、花を置いておく。ただひとつ、俺が作った花だ。ディアが俺を想っている間、咲き続ける。・・・早い時期に咲かなくなる事を、祈る」
コト、と扉の前に何かを置く音がしたあと、足音がゆっくりと遠ざかる。
足音が消えた頃、扉を開けると可憐な花が咲いている小さな鉢植えが置かれていた。
光に透けると金色のようにみえる、不思議な花。彼の瞳を思い起こさせるような、暖かく輝くような金の花。
鉢植えを胸に抱き締め、扉にもたれる。
「・・・今度はちゃんと、断ったからね、アンジェリーク・・・」
「・・・バカな子・・・」
女王の私室の窓から夜空を眺めながら、魅了の力を持つ瞳、琥珀の瞳の持ち主はポツリと呟く。
「本当に、バカなんだから。どうして、断らなきゃならない時に断れないで、断ってはいけない時に断るのかしら」
深い、ため息。
「あの時の事を、気にしているの?でも、私はあの事がなくても・・・女王を選んだわ」
それでも、あの優しい親友は側にあろうとしただろう。それが手に取るようにわかるだけに、ため息を禁じ得ない。
「バカね・・・」
古馴染みの守護聖に見送られ、元・緑の守護聖は聖地の門をくぐった。
それを女王補佐官は女王の執務室から見送る。その背に女王は声をかけた。
「見送りに行かなくてもいいの?」
「いいんです、ここからで。あの人の前に出ても、何を言っていいのかわからなくなりますから」
微笑みながら親友の女王が片づけた書類を取り上げ、執務室を出る。
ふと、思い立って自分の部屋を覗く。
テーブルの上に置かれた鉢植えには金の花が咲き、風に揺れている。
「・・・っ」
急激に、今までの感情が蘇ってきた。
口元を押さえ、鳴咽を堪える。
後悔などしていない。これは、自分が考え、自分で決めた事なのだから。決して、他人の思惑など介入してはいない。
(ああ・・・だけど、だけれど・・・カティス・・・!!)
パアアアァァァーーー
ディアの全身から溢れるサクリアを受け、鉢植えの花が次々と花開く。
(愛しています・・・カティス)
愛しています・・・カティス
風の中に柔らかな声を聞いたような気がして、ふと、歩みを止める。
声を探すように周囲を見渡し、最後に後ろを振り返る。もう、聖地の門は見えない。
苦笑が浮かぶ。
「・・・未練、かな・・・」
そう、呟いた後、男は再び歩き出した。その手に、薄桃の花の鉢植えを持って。
カチャ。
カップとソーサーがぶつかる音に、われに返った。
長い追憶にカップの中の紅茶もすっかり冷めてしまっている。
椅子から立ち上がると鉢植えを置いているテーブルに近寄り、花にそっと触れる。想いを受け取った、金に輝く花がゆっくりと、次々に咲き出す。
−−−いつの日か、この花が咲かなくなる事を祈る。
「カティス。この花が咲かなくなる、なんて事は決してないわ」
白い手が愛しそうに花に触れる。
「どうして、宇宙を支えるのが女王なのか、知っているかしら。どうして女王・・・女性なのか。・・・それはね、女性の本能の一つが『愛する事』だからよ。その『愛』の祈りで、女王は宇宙を支えているの」
窓の外を眺め、ふわりと微笑む。想いを昇華した者が持つ、綺麗な微笑み。
「あなたを愛した『愛』は、ずっと、消える事はないわ。だって、それが女性だから」
清楚な美貌に浮かぶのは優しく、柔らかな想い。
「あなたを愛しているわ。ずっと、ずっと、愛しているわ、カティス・・・」
愛しているわ、カティス
END
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