嵐の夜

嵐の夜


 その日、本当に珍しい事だが空模様が悪かった。
「お帰り、濡れたでしょう?」
 振り向いた先に、びしょ濡れに濡れた《 元女王候補生アンジェリーク》 と《闇の守護聖クラヴィス》がいた。
「寮よりこちらが近かった」
 張り付く闇色の髪をかき揚げ、クラヴィスはそう言った。アンジェリークも髪を飾るリボンをほどいている。
「タオルを持って来ますから、そこにいて下さいね」
 穏やかに《 地の守護聖ルヴァ》 は言って走り去り、すぐに聖殿に住む唯一の女性である《女王補佐官ディア》 と共に帰って来た。
「風邪をひかないようにしないといけませんね」
 慈愛の眼差し、慈愛の表情、何時もと変わらぬディアはアンジェリークにタオルを渡して、手を引くと二階へと。
「ゆっくり浸かりなさい。服は私のを貸して上げますから」
 自身の部屋についているバスルームにアンジェリークを入れると、そう言いながらディアはアンジェリークに合いそうな服を見繕った。
 長く浸かって少々ふらついているアンジェリークを見て、ディアは満足げに微笑む。
「よく似合いますよ。今日は雨が酷く強いですから泊まってお行きなさい」
 白に近い薔薇色のゆったりとした服に着替えたアンジェリークは、『こっくり』と頷いて肯定した。

 守護聖は全部で九名、なかにはまだまだ若く幼いアンジェリークと同年代もいる。
「アンジェリーク、オセロしよ」
「はい、マルセル様」
 最年少の《 緑の守護聖マルセル》 は人一倍人懐っこく可愛らしい少年だ。ついつい母性本能をつつかれて相手をすると、すぅぐに懐いてくれて可愛い!
「僕からね」
 一喜一憂賑やかに遊んでいる二人を見ているのは、《 風の守護聖ランディ》 と《鋼の守護聖ゼフェル》。この二人は普段は特に仲が良い方ではない。どちらかというと悪い方なのだが、懐いてくれているマルセルを挟むとそれ程でもない。マルセルに対して二人共兄貴的な立場で、そこが共通しているのかもしれない。
「雨が酷いな」
「嵐になるらしいぞ」
「自然現象は基本的に干渉しないことになってるから、雷鳴るかな?」
「鳴るだろうな」
 『ピキッ』とアンジェリークの動きが止まる。顔色が悪い。
「雷嫌いなのか?」
「ピカピカで綺麗なのに」
 好き勝手言い出した三人に、アンジェリークは『ボソボソ』と言い訳を言う。
「小さな頃に庭の木に雷が落ちた上に、木が私に向けて倒れたんです」
「そりゃ、嫌だわな」
 微笑して言うランディ。頷くマルセルとゼフェル。
「布団被って寝なきゃ」
 気分を奮起させる為わざと盛大にため息をついたアンジェリークは続けて言った。
「マルセル様、ズルはいけません」
「えー、分かっちゃった?」
 どさくさに紛れて不正行為をしようとしたマルセルは、見つかって『ペロリ』と舌を出すという可愛い仕草をする。
「もう・・・・・」
 わざと怒った口調でアンジェリークが言った途端、それはきた。

「きゃぁぁぁぁぁ!」
 盛大な少女の悲鳴にバタバタと自室にいた二十代の守護聖達が慌てて駆けて来る。
「どうした!」
「落ち着いて、アンジェリーク」
 『ガタガタ』と痛々しい程脅えたアンジェリークを慰めるマルセル達の姿を見て、大体の事が飲み込めた守護聖達である。
「原因は雷か?」
「小さな頃に雷に倒された木がアンジェリークの方に倒れたそうです」
「トラウマだな」
「ほら、もう泣かない。雷はもう鳴ってないでしょう?」
 『ドンガラピッシャン!』
「きゃぁぁぁぁぁ!」
 《夢の守護聖オリヴィエ》 が言った途端にコレだ。
「泣くんじゃないって、お嬢ちゃん」
 『ミーミー』とまるで猫か子供のように泣くアンジェリークを慰める《 炎の守護聖オスカー》や、
「いいかげんに泣き止め」
 呆れたように《 光の守護聖ジュリアス》 。
 その時、ふと気が付いてルヴァが姿を探す。確かにいたはずなのだが、
「リュミエール?」

 何時の間にか抜け出していた《 水の守護聖リュミエール》 が向かった先は、漆黒と黒に近い紫水晶のあしらわれた部屋だ。
「クラヴィス様、いらっしゃいますか?」
 現れた比較的仲の良い水の守護聖の姿を認めて、クラヴィスは口を開く。
「何か用か?」
「さっきからアンジェリークが泣いていますよ」
 自分の為に次代の女王の資格を捨てて側にいることを承知してくれた少女の名と状態を知ったクラヴィスが反応する。
「私が行っても泣き止むまい」
 行けば他の守護聖からからかわれることは必定だ。だから、知っても行くに行けない。本当は駆けつけたいのだが、そんな理由でここに止まっているのだ。
「そうですか、では、私がアンジェリークをいただきますよ?」
 にこやかにリュミエールは続ける。
「女王候補生だった時は言えませんでしたが、今なら言えますからね」
「リュミエール・・・・・」
「私以外にも、アンジェリークは可愛いですから恋敵はたくさんいますよ」
「・・・・・何処にいる」
「案内しましょうか?」
 黒髪の守護聖は頷いた。不承不承といった風情で。

「クラヴィス様!」
 『ワッ』と少女は泣きつく。ゆったりとした袖が膨らみその中の腕が、クラヴィスを捕らえる。
「・・・・・」
 どうしたものか、こういうシチュエーションに全く免疫のないクラヴィスは本気で考え込む。唯分かるのは、金糸の髪を撫でてやった方が良いことだけ。
 気が付けば、それは優雅な動作でリュミエールがアンジェリークの顔を覗き込んで湯気の立つカップを渡そうとしていた。
「これを飲んで落ち着いて下さい」
「・・・あ・・有り難うございます」
 大分落ち着いてきたアンジェリークが受け取ったカップには、どうやらミルクが入っているらしい。乳白色の温かな色が優しく、アンジェリークを落ち着かせる。
「他の人達は任せて下さい」
 クラヴィスにだけ聞こえるような、殆ど唇を動かさない小さな声をリュミエールは紡ぎ出して言った。
「さぁ、アンジェリークも落ち着いたようですから、皆さん部屋にお戻りになってはいかがですか?」
 誰よりも優しく誰よりも優美なリュミエールは、しかし、誰よりも怒らせると怖い。視線に魔力、有無を言わせぬ迫力に満ちたそれが恐ろしい。
「どうなさいました?」
 優雅な春の小川のせせらぎのような声の裏で、荒々しい急流のような性格のもう一人のリュミエールが言っている。
「早く行け!」
 マルセルはあからさまに怖がって回れ右をする。もちろん他の守護聖達も程度の差こそあれ、顔色を変えて三々五々に散って行く。リュミエールは、ある意味守護聖一である。
「また後で来ますから飲み終わったら置いといて下さい。片付けますから」
 そう言って、優雅にかの人は去って行った。
 残ったのは、何故からかいもせずに皆が帰って行ったのか考えるよりもからかわれずにすんだことを喜んでいるクラヴィスと、やっと落ち着き実はジュリアス達が来たことに気づいていなかったアンジェリークだけであった。

 何時までも立っているのも何だからと、クラヴィスがアンジェリークを連れて近くのソファに座る。
 暫くの間は雨音とアンジェリークのミルクを飲む音だけが辺りを支配する。
「それは、ミルクか?」
「はい、お砂糖入りのホットミルクです」
 涙の跡は残っているが、明るい笑顔を取り戻したアンジェリークが答える。
「あ!」
 『ヒョイッ』とばかりに少女の手からカップをとって、クラヴィスは一口口に含む。少々甘すぎる感もあるが、少女には丁度いいだろう。
 無造作に返されたアンジェリークは頬を赤くしてカップの縁をそっとなぞる。クラヴィスが《間接キス》というものを知っているのか、いないのか、アンジェリークは本気で考えた。
「どうした?」
 慌ててなんでもないという意思表示に首を振る。クラヴィスは知らないのだと決定してアンジェリークは残りを一気に飲み干す。ここに至ってクラヴィスはアンジェリークが飲むのを躊躇していた原因に、やっと気がついた。何処か鈍い。
 『コンッ』と軽い音がして、そっちを見る二人の黒と緑の瞳は戸の辺りに立つ青い瞳の青年を写した。『サッ』と立ち上がってカップを返すアンジェリークは気がつかなかったが、クラヴィスはハッキリと気がついた。さっきのシーンを見られたことを。
「リュミエール様、有り難うございました。美味しかったです」
「それは良かった。部屋まではクラヴィス様に連れて行っていただきなさい。いいですよね?クラヴィス様」
「あぁ」
 それ以外の答えが何処にあろう?残ればリュミエールにやんわりと皮肉られるか脅されるのが分かっているのに!

 また雷が轟音と共に落ちる。その度にびくついてアンジェリークの足が止まる。
「雷が少なくなるまで、私の部屋にいるか?」
 見るも哀れな程青ざめたアンジェリークにクラヴィスが問う。すぐさま少女は肯定の意を返した。

 守護聖達は執務室の隣に各々 私室を持っている。クラヴィスもまたしかりだ。
 執務室同様私室もまた黒を基調としていて、金の髪と白に近い薔薇色の服のアンジェリークは浮いている。
「掴まっていていいぞ」
 クラヴィスの言葉に、少女は『パッ』とクラヴィスに掴まる。
 金糸の髪を定期的に梳いていくクラヴィスと雷に脅えたアンジェリークの間に会話は成立しない。しかし、心地良い独特の雰囲気が部屋を覆っている。それはクラヴィスの持つ闇の安らぎと、アンジェリークを女王候補とさせた不思議な力なのかもしれない。
「アンジェリーク」
 名を呼ぶと、少女は瞳にいっぱい涙をためて見上げる。不意に涙が零れて白い頬を伝って落ちていく。
「大丈夫だ、アンジェリーク」
 あやすような優しい声がアンジェリークの心に安らぎを与える。そっと涙に口付けると暖かさが広がっていく。
「大丈夫だ・・・・・アンジェリーク」
 唇が重なる。一瞬だけで、少女は崩れる。
「アンジェリーク!」
 慌てて膝をついて見ると、アンジェリークは林檎やトマトにも負けぬ程赤く染まった頬を押さえている。
「狡いです。不意打ちだなんて」
 ポツリと少女は抗議する。
「ずる、!」
 再度言おうとした言葉は途中で途切れる。唇を塞がれては、言葉を紡ぐことは出来ないのだから。
 如何程経ったのか?しっかりとアンジェリークの頭を押さえつけていたクラヴィスの手が今度は背に回される。唇はまだ離れない。どちらも離すということを忘れているのだろう。それ程までに当然のように感じたのだから。
「ん」
 やっと離れた時、アンジェリークはクラヴィスに身体を預けた。うっとりとしたその表情は恋する乙女特有のそれ。
「雷には慣れたのか?」
 瞬間に轟く雷音!アンジェリークは呻くように言った。
「忘れてたのに、思い出させないで下さい」
「悪かった」
 微笑のかけらのまぶされた声。
 そのまま二人は毛の長い絨毯の上に座り込む。クラヴィスは手近のクッションを取ってそれに背を預ける。アンジェリークはクラヴィスの腕の中、離してもらえないし、離れたくない。二人は互いに与え与えられる暖かさの中に穏やかな至福を感じていた。
 時が過ぎて雷鳴も遠ざかった時には、何時の間にやらアンジェリークは眠りについていた。安らかに眠る少女を胸に、クラヴィスもまた眠りについた。
 全てから守る為か、逃がさないようにか、しっかりと腕に抱いて。

 目が覚めたアンジェリークの目の前は、真っ黒だった。
「起きたか?」
 頭のすぐ上で声がする。アンジェリークの顔から血の気が失せる。
 当てられた耳から聞こえるのが心臓の鼓動なら、目の前が黒いビロードのようなものが服だとしたら、当然これは・・・・・!
「寝ぼけているのか?」
 からかうような響きの宿る声は、耳を心地よく打つ低いモノで、それの持ち主を一人しか彼女は知らなかった。
「アンジェリーク?」
「はい!」
 条件反射的に答えた少女が仰ぎ見たのは、白い顔の一部分。
「アンジェリーク」
 主観的には永遠で一瞬の不可思議な時間、気がつけば少し離れたところに自分を見つめ名を囁く人の顔がある。
「クラヴィス様・・・・・」
 『うっとり』と名を紡いでいる場合ではない!
「わ、私昨日、そのまま」
「そのまま寝たな。私のほうも眠くなったのでそのまま寝たのだが」
 『どうした?』と言いたげな瞳に少女は引きつった笑みを浮かべる。複雑に交差する感情故にだ。
 『こういう場合は、何もなくて良かったと喜ぶべきか、自分に魅力がないと嘆くべきなのか?両方な気がする』
 本気でアンジェリークは考えた。
「アンジェリーク。言うまでもないが、このことは他言無用だ。オスカー辺りが知った日には、逃げ回ることになるぞ」
 それはすごく嫌な想像だ。
「はい」
 素直にアンジェリークは答えた。

 自分の王立スモルニィ女学院高等部の制服に着替えて−場所はディアの部屋の隣室−、アンジェリークは食堂に降りて行く。
 別段何時もと変わりない風景だったはずだった。守護聖でないアンジェリークと何時もならここで食事をとる−執務室でとる人もいる−幾人かの人物がいないだけで。
「アンジェリーク!」
 怒声に近しい大声で全力疾走したものと思われるランディが叫ぶ。ついでに転ぶ!
「なぁにやってんだか」
 呆れてゼフェルがボソリと呟く。
「アンジェリーク!」
「はい!」
 思わず手を挙げて−学校での癖だろう−答えるアンジェリークは、嫌な予感というものに襲われた。
「君さ、昨日一晩クラヴィス様のところにいたって本当?」
 『ドンガラガッシャン!』
 昨夜の雷に負けず劣らず盛大な音を立ててすっころぶ者一名−蛇足ながらそれはルヴァだ−。
「「「ゴホッ!」」」
 咳き込む者約三名−蛇足ながらリュミエール、ゼフェル、アンジェリークだ−。
「?」
 何も分かっていない者が一名−蛇足ながらマルセルだ−。
 真顔のランディに詰め寄るアンジェリーク。
「誰がそんなこと言ったんです!」
「オリヴィエ様らしいけど、どうなんだ?」
 好奇心一杯の瞳で見るランディの存在を完全無視して両手を握り締め、アンジェリークは怒りのバッテンマークをつける。
 『いくらなんでも、言い触らすなんて』
 見られたり、見られて困るようなことをしてしまった自分達の非は完全に−当然だが−頭にない。
「アンジェリーク!」
 非常に珍しいことだが、走って来たクラヴィスがアンジェリークの名を呼ぶ。
「クラヴィス様!」
「逃げるぞ!」
「はい!」
 元気に答えて二人は駆け出す。後ろには守護聖達が追いかけて来ている。
「やれやれ、騒がしいですね」
 平常心を取り戻したリュミエールは呟く。その彼にマルセルが『キョトン』とした顔で聞いた。
「皆なんで追いかけるの?鬼ごっこ?」
 無邪気といえば無邪気だが、苦笑するルヴァが言った。

「アンジェリーク、誰が言い触らしたか知っているか?」
「オリヴィエ様だそうです」
「絶対許さん!」
 走りながらの二人の会話である。

 この日より一ヶ月程の間オリヴィエが悪夢にうなされたのだが原因が何であるか、言わなくとも察していただけるだろう・・・・・

END