昔語り
「見つけた」 それが恋の第一声だった 星の縫い取りのされた夜空のヴェールの下で、漆黒の夜の具現者が一人立っていた。誰かを待っているわけでなく、ただ降るような星空の下に立っていた。 唇が言葉を紡ぐ。 「時の河の果て きっとその先にいる貴方を見つける」 抑揚のつけられた声は、空気を揺らせて辺りに染み渡った。 何の気なしに視線の行った先にそれはあった。柔らかな色彩のそれは、 「珍しいですねぇ、貴方が読書ですか?」 「別に。視線が行っただけだ」 「そうなんですか。それも何かの縁でしょう。読んでみてはどうですか?」 片手でも軽く感じるあまり厚くない本を渡され、目次を開いた彼は顔を引きつらせた。 「私が読むと思うか?」 「そうですねぇ、あまり興味のそそられる内容ではないでしょうけど、貴方はどんな本でもそうでしょう?」 「・・・・・だからといって、童話はなかろう?」 「昔語りですよ。それも実際にあった話ばかりだそうです。意外とポピュラーな話もありますから、幾つ知っているのか数えてみてはどうですかぁ?」 「・・・・・」 しばらく口を閉ざしていた彼は、邪気のない『ほえほえ』とした笑顔の相手に言った。 「どうしても私に読書をさせたいらしいな」 「えぇ」 夢を見る。 自分の記憶にはない見覚えのない視界が巡る。 自然に作られた常緑樹のアーチの下を珍し気に見回しながら、自分ではない誰かが歩いている。 ・・・・・どうやら、知っている誰かという訳でもなさそうだ。視界に時折入る長い髪は月の光のような銀色。自分の知る者のなかに、銀の髪の者はいないのだから。 突然アーチが途切れ、目の前に緑の壁。行き止まりなのでは仕方がないと、踵を返そうとした時に、それが耳朶を打った。 「歌声」 呟く声も知らないモノ。自分でもなく、知り合いのモノでもない。 「こっちか」 よく見てみれば、すぐ横に細い道が続いている。気がつかなかったのも、星の光も滞りがちな朧月夜では致し方ない。 「時の河の果て きっとその先にいる貴方を見つける」 夢のように、そこにいたのは一人の女性 雪白の肌に金茶の髪が柔らかく滑っている。身を包むのは真珠色のドレスに透ける水のヴェール 「見つけた」 滑り出た言葉に、誰より驚いたのは本人のようだった。何処の誰だか知らないが、視線のみならず感情とかまで可成同調しているようだ。 「何方ですか?」 振り向いたのは、可憐な面いっぱいに純粋な驚きとそれ以上の好奇心をたたえた、まだ少女のような愛らしさの漂う女性だった。 「どうなさったのですか?」 「これか?ルヴァに押し付けられた」 机の上に無造作に置かれた本に、銀に青がかった不思議な光を反射する髪の青年が口元を上品に隠して笑い声を漏らす。 「成程、そうでしたか」 「昔語りだとか言っていたな。まだ読んでいないが」 「えぇ、私も知っているのがありますね。よく母が話してくれたモノです」 そのページは海だった。彼の生まれ育った水の惑星に伝わる、マーメイドの童話。子供を寝かしつける時に話すような、明るく優しい話。 「母親か」 もはや浮かぶ面影はセピアに色褪せ、思い出すのは豊かな暗色系の髪に夢見るような菫色の瞳、世界と天秤にかけたならば迷わず選ぶ程に愛した黒髪の父の側で誰よりも幸せそうな微笑みの柔らかさ。思い出せるのはそれだけ。それでも、自分を産んでくれた人、完全に忘れ去ることだけは決してないだろう、永遠の女性・・・・・ 夢を見る 永遠程続きそうな春の野原 花を揺らす優しい風 全てを輝かせる太陽は空に 「アンジュ」 呼びかけると、嬉しそうに少女のような女性が笑った。金茶の髪に琥珀色の瞳、太陽の元で鮮やかに開く向日葵のような。 「待たせましたか?」 「いいえ、私が早く来すぎたんですわ」 優しく笑う女性の名は《アンジュ》、自分は《ルゥディ》というのだと、同調した記憶から知れた。 想い合う間柄、幸せな恋人達、妬ましい程に。重なり合った心がそれを教える。 「近いうち、戦に出るようです」 「まぁ」 たちまち顔を曇らせるアンジュに、ルゥディは元気づけるように笑いかける。自分には決して出来はしない、そう確信出来る笑顔。満ち足りた恋が浮かべることを許す優しい表情など、出来はしない。 「大丈夫、心配するようなことにはなりませんよ」 「ですが」 不安気に彼女はルゥディの袖を掴む。ルゥディは騎士階級だ。戦があれば出なくてはならない職業的な部分もある。体面を気にしなくてはいけない下級ではあるが貴族でもある。 「どうか、御無事で」 「はい」 しばらく会えなくなるだろう恋人達は、それでもその瞬間はとても幸せだった。 『何のことはない、これのせいか』 冷ややかな容貌の闇の守護聖は内心思った。 「クラヴィス?いますか?」 「あぁ」 短く応えを返すと、桜の精霊のようなたおやかな美女が現れる。 「珍しいですわね、読書ですか?」 「ルヴァに押し付けられた。実際に読んでおかないと、後でうるさいからな」 憮然とした面持ちで闇の青年は肩を竦めて、手元の本を机に置く。夜の静寂を何時でも保つ部屋に、軽い物の置かれる音が異様な程大きく響いた。 「そうね、ルヴァなら絶対に感想を求めますものね」 たおやかな外見にあった笑いを零す美女に、だがその美しさは認めても認めるだけの青年は首を傾げる。 「何の用だ?」 「あぁ、陛下のお呼び出しですわ。明日の午後、女王謁見の間に、全守護聖の招集をかけられました」 「・・・・・女王の交替か」 「・・・・・歴代でも、もった方ですわ」 「そうだな。守護聖に比べて女王の交替は幾分早いからな」 ふと、心に過去の記憶とそれに付随する想いが蘇る。胸を締めつけるようなそれに、彼は反射的に顔を背けるように心を他方へ向けた。 「新しい女王。世界の安定という大義名分の元、また犠牲者が出るのか」 「クラヴィス」 「・・・・・」 非難めいた感情よりも途方にくれたような感情がより強い声が彼の名を呼んだが、彼は応えなかった。 夢を見る。 ともすればかき消えそうな意識を繋ぎ止めるのはたった一人へ捧げた想いだった。 「アンジュ」 囁きは言葉として耳に届くことはなかった。唇より出されたのは不可視の言葉ではなく赤き命の水、即ち血だった。 「帰ると、貴女の元へ帰ると、約束したのに」 心に宿るのは、愛しい人との約束を破りかねないが為の痛み。 自分と自分以外の誰かの血を吸った大地に身を横たえ、ルゥディは呟き続ける。より明確な意識を保つ為、帰る為に。 「私の帰る場所は貴女の元なのだから」 それは叶わないだろう願い 槍によって胸射し貫かれ、暗黒の闇が意識を覆い尽くそうと忍び寄る。 「アンジュ」 その言葉を最後に、ルゥディと呼ばれる青年の意識は永遠の闇の淵へと落ちて行った。 寝台の上に半身を起こした青年は、愕然と手のひらを見つめる。 「涙?何故?」 彼の頬伝い、透明な涙が手のひらに幾つも丸く止まり、ほのかなランプの灯火に輝きを返している。 「夢のせいか?」 幸せになれる筈だった恋人達は、抗えぬ戦故に引き裂かれた。 「どんなに言われても、突っぱねるべきだったな」 苦笑しながら、彼は脳裏に一冊の本を思い浮かべる。どうしてもと言われて仕方なく持ち帰った読みかけの本の中に、その昔語りはあった。ここ数日見る続き物の夢が、どうやらそれらしいと気がついたのはついこの間だったが、知らない筈の物語を何故夢にまで見るのかは、彼には分からなかった。 夢を見る。 寄るべき器なき者の不確かさで、意識だけが風に乗って街を駆け抜ける。 『あれは・・・・・』 嘆き悲しみ、太陽を慕う向日葵のような女性がか弱い日陰の菫のように弱々し気な風情で座っていた。 「あぁ、どうして戻って来ては下さらなかったのですか?」 顔を覆うヴェールの向こうで、琥珀色の瞳が止めどなく涙を零し続ける。愛しい相手を失って、ただ泣くことしか出来ない弱き者が、今の彼女だった。喪に服す必要はない筈だが、彼女は夫とみなした相手の死を悼んで黒一色の衣装で身を包んでいた。手には黒い手袋、顔はヴェールで覆い隠し、外界を拒絶するように。 「貴方、愛しい方、貴方なくして、どうして私が生きていられましょう?」 黒い手が、何時の間にか装飾性に富んだ懐剣を抱いている。ルゥディから送られた、彼の家の紋の刻まれたそれに彼女は頬擦りをする。 涙が鞘に当たって砕ける。 「愛しい方、どうか貴方の元へと」 窓を開け、滅亡へと転げ落ちて行く街を彼女は見た。 大陸随一と呼ばれた美しい国は、もはや斜陽の時代すら過ぎていたのだ。 繁栄すればこそ、何時かは訪れる滅亡 「時の河の果て きっとその先にいる貴方を見つける」 呟いたアンジュの胸に懐剣が突き立てられ、よろめいたその華奢な身体は眼下の大地へと堕ちた。 「アンジュ!」 聞こえる筈のない声が届いた。 「ルゥディ様」 「何てことを」 「ルゥディ様、確かに貴方ですのね?生きて、いらっしゃったのですね」 「死にきれず、一命取り留め、やっと、ここまでこれたのに、貴女の元へと帰って来たのに!」 血に汚れた銀色の髪の青年の紫の瞳に映る女性の命の炎は消えかけて・・・・・ 「良かった。生きていらっしゃって、良かった」 『伝えることが出来る』と、彼女は囁く。 「愛していますわ、たった一人の私の貴方」 途切れがちの言葉に、ルゥディは嫌がるように首を横に振る。 「逝かないで下さい」 頑是ない子供のような姿に、彼女はうっすら微笑む。 「時の河の果て きっとその先にいる貴方を見つける」 『どうぞ、貴方は生きて下さい』 それが、彼女の最後の言葉だった。金と琥珀の太陽が似合う女性は、最愛の者の腕の中で安らかな最後の吐息を零した。 「私には、貴女一人をここに残してなんて、いけません」 急速に熱を失う相手の身体を抱き締め、彼は呟く。 「私《ルゥディ・クラウシェラス》は《アンジュ・リィスティジュ》を、たとえ死しても愛し続けます」 誓いの口づけは、死の味がしたことだろう。 「また、会いましょう。今度こそ幸せになる為に」 妻の胸を鞘とする懐剣を引き抜き、彼はためらうことなく己が心臓を貫いた。 『今度こそ、幸せに』 それが、彼の最後の言葉だった。 馬鹿騒ぎを抜け出し、星の光に誘われるように彼は夜の庭を奥へ奥へ進んでいた。 「また、金の髪か」 心に残る金の輝き 忘れることなどないその煌き 自分はあの金の輝きを探していたのだから。 そう考え、彼は驚いて否定する。 「馬鹿なことを」 首を振って、考えを追い払う。探してなど、いない筈だ。 「もう、恋などしないのだろう?」 自分自身に彼は呟く。『もうあんな想いはたくさんだろう』と。 今聖地にて君臨するいと気高き麗しの女王を、その地位に彼女が就く以前慕っていた。彼女に恋をした。だが、それは叶わなかった。 しかし何故だか、今はそのことを思い出しても悲しまなくなってしまっている自分に気がついた。 「あれのせいか」 女王に似た金色の髪の女王候補生を見た瞬間、時が戻ったような気がしたせいだろうと彼は考えた。 振り返れば、《聖殿》と呼ばれる女王試験会場に建てられた建物の光が随分と遠くなっていた。今でも女王候補を交えて馬鹿騒ぎは続いていることだろう。 唇が言葉を紡ぐ。 「時の河の果て きっとその先にいる貴方を見つける」 抑揚のつけられた声は、空気を揺らせて辺りに染み渡った。 「誰だ?」 誰何の声に、木の陰から一人の少女が現れる。 「見つけた」 金色の髪と翠の瞳の少女が呟いた。『やっと見つけた』『やっと出会えた』、そんな表情で。 「お前、女王候補の・・・・・」 「はい、《闇の守護聖》様」 『にっこり』と太陽のような輝く笑みを浮かべた少女は彼の元へと進む。 「気がついたらいらっしゃらないのですもの」 無邪気な子供のような雰囲気に、奇妙な近視感があった。 「お前?」 「一緒にいて、良いですか?」 頬を赤く染めて、少女は上目使いに青年を見る。 「あの、何だか初めてお会いした気がしないんです。変ですよね?でも・・・・・」 己の抱いている近視感を、少女もまた持っているらしい。 「まぁ、良かろう」 素っ気なく答えると、嬉しそうに少女は笑う。 確かに、己が探していた笑顔だった・・・・・ 『昔語りですよ。それも実際にあった話ばかりだそうです』 何時ぞやの世話好きな同輩の声が聞こえた気がした。 たとえばもしかしたら、本当に自分ではない自分と、少女ではない彼女は、遠い昔に出会っていたのかもしれない。肯定する要素も否定する要素もないなら、どちらを支持するかは自分次第だ。 なら、この近視感を信じてみるのも良いだろう。 「名を聞いていなかったな」 二人の間に恋という名のモノが芽生えたのは、この瞬間だったのかもしれない。何時か彼の見た夢の中の二人のように だが、二人の恋は多難ではあったが幸せな結末へと向かっていったのだ。 「私ですか?私は《アンジェリーク》と申します」 END |