Rain SHADOW
雨の影で 泣いている 愛しい愛おしい 貴女 金色ふわふわ髪の少女が湖水を渡る風に髪をなびかせ立っていた。翠の至玉は周りの木々に負けぬ透明度と輝きを秘めた優しい色、口元に柔らかな笑みを浮かべてそこにいる。 ふと、顔が曇る。凍りついたように、信じたくないように、少女は口元に白い手を持っていく。隠された唇が紡いだ言葉は呟いた少女の耳にだけ届くようなか細いモノで、泣き出しそうな小さな声を他に聞く者はいない。瞳にみるみるたまる涙が零れる一歩手前で止まって不意に少女は身を翻す。短いスカートが風をはらんで大きく広がり、その動きの性急さを教える。もう一瞬とてここにいたくないとでも言いたげな態度をその華奢な身体で示しつつ、少女は逃げるようにそこを去った。 「ANGE?」 「クラヴィス?どうしました?」 桜色の衣に身を包んだ美貌の女王補佐官は首を傾げる。 「アンジェリークがいたような・・・・・」 「また、アンジェリークですか?随分とお気に入りですこと」 「お互い様だろう?ディア?」 昔馴染みの女性のからかいの混じった声に《 闇の守護聖》 はいささか苛立たし気な声で言い返した。 「あの子達は可愛いのですもの。見ていて微笑ましいと思いますわ」 『クスクス』と笑う《 女王補佐官ディア》 に、彼らしからぬ性急さで《 闇の守護聖クラヴィス》は言った。 「何の用だ?このような処にまでわざわざ来て言うことなのだろうな?」 「勿論ですわ。・・・・・アンジェリークのことです。手を出さないで下さいね?あの子は次代女王たる資格を持つ希有なる少女、分かっているでしょう?」 「失礼な」 「失礼は承知の上ですが、あの子に向けられる貴方の視線が危険だと思えばこそ」 「・・・・・」 「恋情を抱くなとまではいえません。そこまで人の心に踏み込むことは陛下にとて出来ないものですから。でも、決してこれ以上アンジェリークに近づかないで。この頃のあの子は迷っています、貴方のせいだわ」 断罪の言葉だ。心を抉る程に、それは正鵠を射ている。何時の間にか惹かれていたあの金色の少女。過去を思い出させる彼女に、何時の間にか惹かれた。そして彼女の元へと通ううちに、少女も自分のことを気にしてくれるようになっていたことに気がついた。 「・・・・・見つめるなと、出来ることなら近づくなと?」 「そうです」 「それらが出来るなら、それは恋ではないな。出来るものならとっくにしている」 「それでも、止めていただきます」 断罪者は冷ややかにそう言った。親友である女王の力が尽きるのもすぐだ。特定の誰かを愛している者は女王にはなれない。世界の為にあえて穏やかな女王補佐官は断罪者でなくてはならなかった。彼の心に枷をはめる者でなくてはならなかった。 夕闇が迫っていた・・・・・ 飛空都市にも酒場はある。娼館も、ある。一つの都市を形成するこの場に住まう一部の者の快楽の為に、それは存在する。そしてそこを利用するのは、別に飛空都市にて働く一般の男性だけではない。誰とは特定しないが守護聖の幾人かも利用している。 けだる気に夜をまとった彼は娼館から公園へと歩んでいた。彼は自分を押さえられない程の激情を溜め込む前に、自分をコントロールする為に、感情をすり替え女を必要として娼館へ行った帰りであった。なのに、 「クラヴィス様?」 朝もやのかかる公園に少女がいた。彼が忘れようと努力したことを霧散させる可憐な姿に、胸の奥で先程までの寝物語が思い出させられた。罪悪感と、愛しいとの想い、否、『それは欲望だ』と彼の中の彼が言った。否定は出来ない。 「おはようございます」 「あぁ」 『抱き締めたい』と思う。想うように思ってしまう。止められない筈のその想いは、何時ぞやの昔馴染みの美女の言葉の枷にもがいている。 「何処かに行ってらっしゃったのですか?」 首を傾げかけ、《 女王候補》 の顔が歪む。彼の通って来た道が何処へ通じるのか、彼女も飛空都市に住む以上当然知っている。少女特有の嫌悪感は、彼女が清らかである証拠でもある。彼クラヴィスは、ひどく自分が汚れているような気がした。 「随分と早いな」 話題を変えようと彼はそう言った。嫉妬を呼び起こす言葉を聞くはめになるとは露程も思わずに。 「今日はマルセル様とのお約束があるもので、早くから目が覚めちゃったんです」 はにかんだ笑顔も可愛らしい。だが、自分以外にも向けられるのだ、この笑顔は。 「あっ!」 少女の身体が黒衣に包まれる。自分以外に向けられる笑顔なんて、我慢できない。 『ワタシ・ダケ・ニ・ミセテ』 「嫌!」 少女が手荒い拒絶をした。真っ赤に染まった頬は、羞恥よりも怒りであることを燃えるような翠の瞳が教える。 「他の人の、香りがする・・・・・」 見る間に潤んだ翠の宝石 自分の犯した致命的な取り返しのつかない愚かな行為 「アンジェリーク!」 制止を含んだ声にも一瞬の迷いなく《 女王候補アンジェリーク》 は駆け去った。 残されたのは、苦い笑みを浮かべた闇の化身だけ・・・・・ 黒い雲が雨を呼んだ 比較的良い天気ばかりの飛空都市にしては珍しく、雨が降る。 「アンジェリーク」 闇の中で闇の化身が光の天使の名を呼ぶ。愛し気に、大切そうに、この上ない甘さを秘めた声が、小さく小さく言葉を紡ぐ。 雨音が密やかに心を狂気に誘うように、単調に音色が響く。少しづつ、少しづつ、秘めやかに、心に何かが忍び込んで来る。空が涙を流している。涙が心を狂わせる。 「?」 ここで雨音が単一でないことに気がついて、クラヴィスは私室の大きなバルコニーに続く磨り硝子の窓を開けた。降る雨に視界の悪い華奢で優美な背よりも高い柵を隠す木々の方に視線を向ける。雨が木の葉を打つ音以外が、確かにするのだが、何処だろう? 「アンジェリーク!」 鈍い金色の輝きに、雨に濡れることを考えることなく彼はその身を外に翻した。 「クラヴィス、様?」 「どうした?」 少女は後ずさり、彼が訝しみながら伸ばした手は乱暴に払われる。 「嫌い、クラヴィス様なんて大嫌い!」 叫ぶように言った少女の身体が急に倒れる。意識を何処かに飛ばした少女の身体を反射的に受け止めた闇色の青年は、そのあまりの冷たさに驚いて抱え上げる。このまま少女を雨に打たせることは少女の健康を損なうことになる、何時までもここにはいられない。 身につけた制服全てから雨が滴り落ちる程に、霧よりも大きいとはいえ細かなシャワー程の粒ではこれ程濡れるには時間がかかる。何時からここにいたのか?何の為に? ひとまず中へと振り返って、『ぎくり』と身を震わせた。 彼自身の私室の唯一の大きな窓がよく見える。何時もは薄いカーテンも閉められてまるで中は見えないが、今日は気まぐれから前からカーテンは全開に開けられ、中の様子が影のように霞んで見える。 「まさか、な」 『期待してはいけない』と戒めながらも、心の片隅で『そうであれば』と呟いた。 夜の黒と紫で彩られた闇の守護聖の私室で少女は部屋の主に、宝物のように大切に抱かれていた。柔らかな金色の髪が滴が垂れることはないがまだ濡れたままなのは、彼が誰の手も借りずに自分だけで全てしようとしているからだろう。誰にも何も言わず知らせず、闇の守護聖たるクラヴィスは大きな夜色のバスタオルでくるんだアンジェリークの身体を抱き締めて、濡れたままの金色の髪を撫でている。心底愛し気に・・・・・ 「ん?」 小さな声が漏れる。赤い唇が深い吐息を零した。 「アンジェリーク?大丈夫か?」 「あ、え?クラヴィス様?」 翠の瞳が焦点を結んだ。 「突然気を失ったので驚いたぞ。大丈夫か?」 髪を撫でていた白い手が頬に伸びる。冷たい手のひらがもっと冷たい頬に触れる。 「やぁ、触らないで」 イヤイヤをする少女に、青年の眉が寄せられる。 「何故だ?」 「クラヴィス様なんて、嫌い」 涙をたたえた翠の宝石に、彼の中の理性と呼ぶモノが砕ける。 「や、離して」 『ジタバタ』ともがく少女の身体を押さえ付けて、深い口づけを強引に押し付ける。 「・・・・・」 柔らかな毛の長い絨毯に、少女の身体が逃げられないように押し付けられている。覆い被さる青年が唇を離した時には、少女はまた、その意識を飛ばしていた。涙がそれを、逃げる為の手段であることを告げている。 今また苦い苦い笑みを浮かべて、闇を司る者は天使の身体を抱き直した。 ゆらゆら ゆらら あたたかい だれかがそばにいる? あなた だぁれ? 翠の至宝が白いヴェールから現れる。 「あ・・・・・」 自分を包む暖かな闇の具現者の腕から反射的に逃れようとした少女は、しかしその人の意識が眠りの園へと旅立っていることに気がついて、動きを止めた。『起こすのは可哀想だ』と思った。『このまま見ていたい』と思った。その想いの根源は、 「クラヴィス様が誰を好きでも、私は好きです、なんて言えません。だって、私は」 『貴方に愛されたい』と唇だけで空気を震わせることなく囁く。 「クラヴィス様」 呟いて頬を寄せる。白い頬が黒い衣装に当てられ、その中の心臓の唄う規則正しい音を聞いた。生きて側にいる愛しい人・・・・・ とくん とくん とくん・・・・・ 「・・・・・アンジェリーク」 『ふわり』と冷たい指が少女の肌に触れた。何時気がついたのか、闇の青年の手が少女の白い頬からあご、首筋、まろやかな肩へと焦らすようにゆっくりと動く。視線の甘さと手の動きに、少女は金縛りにあったように凍りついた。 「アンジェリーク、愛している」 その言葉にやっとアンジェリークは逃れようともがきだした。 「離して、離して下さい!」 大きなタオルの下には乳白色の肌と、それとは違う純白の下着だけである。それに気がついているのかいないのか、多分気がつかないままに、暴れて黒い布の間から二つの白がちらつく。 理性と感情がぶつかりあうのを自覚しながら、華奢な身体を黒で隠そうと彼は押さえ付けるが必死な少女の力は侮れない。理性が焼き切れる。 「嫌!離して!」 敬語も何もなく手足をばたつかせて腕の枷から逃れようと必死の少女に、感情が勝ってしまった。 「はなし」 最後の言葉は青年の唇に触れた。 泣けてくる程 優しい優しい ついばむような口づけ 「どうしてですか?クラヴィス様にはディア様がいらっしゃるのでしょう?」 「誤解だな」 彼は即答する。何時までも逃げられるのは嫌だ。このまま逃がす気もないけれど。 「だって、森の湖に二人でいらっしゃったじゃないですか」 「あれは、ディアから内密の話があるからと言われて行ったんだ。私とディアはそんな仲ではない」 「でも」 力なく呟くアンジェリークの頬に唇が当てられる。くすぐったさに身をよじる少女の身体は青年の下、横たえられている。柔らかな絨毯は、『ふんわり』、少女の身体を支えてくれる。 「お前を、愛している。誓って言う、お前を愛している」 耳元で囁かれる言葉に、少女の頬が赤く染まる、羞恥と喜びの二つに。それでも不安に揺れる心が問いを作る。 「本当、ですか?」 「あぁ」 短い答えの早さに、少女は華やかに笑う。心の中で渦巻いていた尊敬していた筈の人への、身を焦がす程の嫉妬が跡形もなく綺麗に消え去っていた。 冷たい指を、少女の細い手が包む。自身の頬に当てて、呟くように、 「クラヴィス様だけを、愛しています」 彼の心を侵した幸福な波はそのまま彼を酔わせる。想う者に想われて、それ以上の幸福があろうか? 白い額に、頬に、順に儀式めいた口づけを贈る。 「私の天使」 三度目の唇への口づけは甘く熱いモノだった。永遠程も長く続けながら、刹那程短く離す。二人して幸福な波に攫われながら。 「クラヴィス様」 喘ぐような吐息に混じって名を呼ばれた闇の守護者は応えるように、白い首筋に烙印を押す。赤い深紅の所有の印を押しながら、白い肌を染めていく。 「ん」 意味のない言葉が漏れる。何も知らない無垢さ故に、それには微かに恐怖の色が混じっていることは否めない。それは仕方のないことだ。心身共に類い稀なる清らかさ故に、彼女は《世界の母》とも呼べる存在になることを許される資格を持っているのだから。 「アンジェリーク、私だけの、アンジェリーク」 この行為は、少女から資格を奪う行為。遠くない過去に桜色をまとったかの女性から戒められていた行為だ。分かっていながら、禁忌を犯す。 『私だけのアンジェリーク』 所有の言葉、それを望む心、それ故の行為。守護聖たる者が、決して犯してはならないそれは罪だ。それでもあの日の言葉通り、止められるものならばとっくに止めている。止められる筈がない、彼女の所有権を誰にも渡す気がないのだから。 「お前がお前をくれるなら、私は私をお前にやろう」 熱い、簡単に壊れそうに細い身体を抱き締めて彼は甘い呟きを少女に囁く。黒い瞳に揺らめく焔は『応』との答え以外は焼き尽くすだろう。 「答えは?」 促す言葉に、少女は『こくん』と頷いた。 欲しいのは、互いだった。 白々しく明けていく空 金色の太陽に照らされて、薄いカーテン越しに清冽な光が薄い影を作った。 「ふぁ」 金色の髪を乱して少女が起き上がる。まろやかな肩から幾枚もの薄物が滑り落ちる。漆黒、闇の紫、深い深い夜の青、傍らの青年が重ねて着ていた服の抜け殻。 「ここ?」 『ぼへら』とした顔で少女が左右を見る。何処にいるのか分かっていないようだ。 突然腕を引かれてバランスを崩したアンジェリークは、クラヴィスの腕の中に転がる。低い笑い声が耳元で続く。 「クラヴィス様?」 「あぁ、起きたようだな」 腕の中に転がり込んだ少女の金色の髪を撫でながら、闇色の青年は笑って愛し気に目を細めた。愛しくて仕方ない、そんな想いが見え隠れする仕草に、少女は嬉しそうにその白い腕を青年の首に巻き付ける。 「クラヴィス様」 甘えた声に優しい口づけを贈る。目元に、優しい優しい口づけ 唇を幾度となく触れ合わせ、彼は言う。吐息の合間か、唇を触れ合わせたままで。 「側にいてくれ。他の何も望まないから」 それだけを願う彼に、同じように彼女は応じる。 「側にいます。他の誰より、側にいます」 明るく優しい色彩の女王補佐官の執務室で、悪びれもせずに金の髪の女王候補はその任を降りることを告げた。 「運命は変わるもの」 ため息をつく女王補佐官は、自分が二人を見くびっていたことを知った。過去の日の悲しい恋の結末をつぶさに見た彼女は、だからあの日のようにまた恋が破れるものと思っていたけれど、彼はあの時のように少女を離さなかった、彼女は友と違い自分に対して素直だった。《 女王候補》と《守護聖》であるという垣根は確かに存在していただろうに、二人で越えることを選んだ。その強さに自分は気がつかなかった。女王の意志は絶対ではない。命令など踏み越えて、二人はどんな妨害も乗り越えるだろう。現に少女は言う。 「たとえ誰が許さなくても、私はクラヴィス様が許してくだされば幸せです。どんなことだって成し遂げます」 晴れやかに言う少女に過去の日の友の泣き顔が写る。彼女は時の流れに逆らうことなく女王となって、泣いた。誰よりも強いと思っていた友も、やはり弱かったのだと知った、友の初めての涙だった。 だから思う、心から願う。友の分も、 「幸せになりなさい」 『当然だ』と言わんばかりに頷き応える少女。大丈夫だ、この子なら全てを犠牲にすることを厭わず、だけど何も犠牲にせずに、彼を愛して、彼に愛され、幸せになるだろう。 「お行きなさい、貴女の最愛の人の処へ」 幸せいっぱいの笑顔で、少女は駆けて行った。 『幸せになりなさい』 女王補佐官は風に心からの言葉を乗せて、優しい微笑みを浮かべた。 闇色の執務室のドアを叩く。すぐに返る返事に金色の少女は幸せな笑顔で扉を開く。視界の先では愛しい人が笑って身を沈めていた椅子から立ち上がっている。滅多やたらに他人に向けられない闇の化身の笑顔を独り占めしている幸福感に心を震わせながら、少女は彼の腕の中に納まる。すると少女がいることを確かめるように、口づけを雨と降らせながら彼は腕の力を強くしながら囁いた。 「私だけのアンジェリーク」 所有の言葉に、少女は言う。 「私だけのクラヴィス様」 お互いを手に入れて、二人は幸せだった。 END |