花宴
板で葺いた、小さな家。食卓代わりの木の机と、二つのしっかりした木の椅子。二つの体が横たわるための寝台。 それが、今の二人の持つ全てだった。この小さな財産に囲まれて、二人の生活はあった。 その体が、昔は無数の宝石と絹とビロード、香木と額飾りと指輪に囲まれて暮らしていたことを知る者はここにはない。 そして、この二人が以前は兄妹であったことを知る者も。 「おかえりなさいませ」 扉の向こうから、薄い緋色に光る髪を揺らめかせた少女と言ってもいいような女性が現れた。彼女とよく似た容姿をした、彼女とは対照的な髪の色を持つ青年を迎える。 「お夕食の用意、出来ておりますわ」 「そうか、ありがたいな」 机の上から漂う暖かな湯気と香り。薄黄色い液体の中から野菜の頭が顔を出す。その脇には、小さなパンと一皿の薄い肉。 それが、彼らの晩餐だった。彼らが今まで知っていたのとは似ても似つかぬそれが、なんの身分も持たない者たちの日常であるということを知ったのは、この屋根の下に腰を落ち着かせてからのことだった。 「セイル」 その言葉を、彼女は宝石のように扱った。口からこぼれ出るのさえも愛しげに、舌の先で転がしながら、その言葉を綴る。 「今日のお仕事は、上手く行きましたの?」 それに込められた愛情と、暖かさだけは、どんな豪奢な料理にも勝るスパイスだった。そして、それ以外は何もない。 「ああ、どうにかね」 スープをすくい上げる匙を止めて、セイルと呼ばれた彼もまた微笑む。 「ディアーナは、今日、何か変わったことでもあったかい?」 二人は向かい合わせに座り、額を寄せ合ってその時間を楽しむ。 「お隣の方に、ここいらでは手に入らないようなお野菜を戴きましたのですわ」 にっこりと微笑んでディアーナは言った。 「ですから、今日は少し豪華版ですの」 嬉しげに自分のしつらえたスープを差す。 「どうかしら、上手く出来ています?」 「ああ、とてもね」 もう一口飲み込んで見せながらセイリオスは笑顔を作る。 「ディアーナが、こんなに料理上手だなど、思いも寄らなかったな」 「まぁ、それは……」 ディアーナはそれに続く言葉を飲み込んだ。彼女が言葉を濁したことに、セイリオスも気づいたようだったがそれ以上は何も言わなかった。 それは、アイシュに教えてもらったからですわ。 言ってはいけない言葉があった。彼らの過去は振り返るためにあるわけではなかった。二人は全てを捨ててここにいた。捨てたものを口にすることは禁じられたこと。どちらかがそう言ったわけではない、そう決めたわけでもない。ただ、暗黙の了解として二人の前にそれはあった。 「明日は、どちらにいらっしゃるの?」 ディアーナはわずかに続いた沈黙の後、言った。 「今日のように、遅くならなければよいのですけれど」 「それは大丈夫だよ」 彼女を慰めるようにセイリオスは言う。 「明日は、町の方で代筆業の仕事が入ったんだよ。だから、そう遅くならずに帰れる」 「まぁ、そうですの」 ディアーナは嬉しそうに手を打った。 「では、明日は暖かいものをもう一品増やしてお待ちしておりますわ」 「…無理しなくていいんだよ」 少し困ったようにセイリオスが言った。 「無理ではありませんわ」 食事の後片付けも、慣れた手つきで行われた。そのようなことは、ここに流れ着くまでしたこともなかったのだけれど。 「セイルのために何か出来るのが嬉しいのですの」 彼女は何をかも嬉々とやった。たとえ、それが寒さの中、手の甲がひび割れる水仕事などであったとしても、恋人のために何かをしてやれる、それは今まで知らなかった喜びだったのだ。 「こんなこと、今まで知りませんでしたわ」 ディアーナは微笑む。 「あのままでしたら、知ることもなかったですわ。わたくしのすること一つ一つがあなたを満たす。それが、こんなに嬉しいなんて」 「…ディアーナ」 背後から抱きすくめられる。首に、セイリオスの吐息を感じて心臓を高鳴らせる。それすらも、許されないことだったのに。 「…わたくし、幸せですわ」 そうつぶやいて、ディアーナは瞳を閉じた。薄く開いた唇に、セイリオスのそれを感じて小さく吐息をつく。 「愛しているよ、ディアーナ…」 「……わたくしも、ですわ……」 知らなかった、小さな幸福、許されなかった恋のたどり着いたその先。二人が共に願うことがあるとするならただ一つ、それは、この幸せが儚く消える泡と同じものではなければいいと、それだけだった。 この国では、庶民の男は髪を長く伸ばしたりはしない。クラインでは当たり前だった日常が、辿り着いたこの国では当たり前ではなかった。セイリオスは、流れるばかりに艶めいていた長い髪を切った。それは、この国に来てセイリオスがやった、最初のことだった。 「…もったいないですわ」 それを見て、ディアーナは唇をとがらせた。 「こんなに、綺麗ですのに」 切り取られて床に落ちた髪を拾い上げて、ディアーナは嘆息する。 「そんなものが大切なんじゃないよ」 生まれたときから伸ばし続けてきたという髪をあっさり切り落として、それでもかえってさばさばしたとでも言うようにセイリオスは微笑んだ。 「これまでの風習にこだわって、この国に溶け込むことが出来ないようなことになればそれこそ、困ったことになる」 短くなった髪の、涼しくなった首の後ろに手をやってセイリオスははにかんだように笑いをこぼす。 「今、私たちに一番大切なものは何か、分かっているかい?」 名残惜しげに髪の一束を手のひらに乗せ、愛撫するディアーナの背中を両腕で包み込んで、セイリオスがその耳の後ろからディアーナの手の中を見つめる。 「もちろんですわ」 ディアーナはそっと振り返り、あまりにも近いところにある、自分と同じ色の瞳を見つけて戸惑ったように声を上げた。 「じゃ、それはもう捨てて。過去のしがらみにこだわっていてはいけない」 「え、でも…」 特に気を使って手入れするわけでもないのに、切り落とされてもなお艶めく髪をディアーナは名残惜しそうに見つめた。 「…このお兄様の髪、一房頂いておいてはいけないかしら?」 ディアーナは慌てて口を塞いだ。 「あの、セイルの…」 微笑ましげに笑ってセイリオスはうなずいた。その頃のディアーナは、まだ昔兄であった者をその名で呼ぶことに慣れてはいなかったのだ。 「…じゃ、しまっておいで。目に付かないところに」 ディアーナは自分の肩に回された手をそっと解き、ここに来るまで身に付けていた衣装の懐を探った。取り出した白い衣のスカーフにそれを包み込み、ほどけないようにしっかり結ぶ。 「何でそんなもの、欲しがるんだろうね」 呆れたようにセイリオスは笑った。 「だって、綺麗なんですもの……」 セイリオスは、切り落とされた彼の髪より更に長いディアーナのそれに指を絡ませ、幾度か梳いてみせた。 「私にはお前の髪の方が美しく見えるけどね」 「そんな、わたくしの髪なんて…」 指が一筋ディアーナの髪をすくい取り、唇がその上を這った。 「…いい香りがする」 「もぅ、セイル…!」 ディアーナは抵抗したが、セイリオスは彼女の髪をとらえ、離そうとはしない。 「やっ……」 髪をわずかに引かれ、よろめいた体を抱きすくめられる。抱えられ、唇を与えられ、頬や首に這い始めたそれに鋭敏に神経を尖らせ始める。ふと目をやった窓の外には、桃色の花を満開に彩った木々の群れが見えた。 「…美しいところですわね」 吐息とともにディアーナはつぶやいた。その声はか細い喘ぎに取って代わられた。 「……そうだね…」 セイリオスのつぶやきもわずかな息に消しとられる。二人の重なり合った指先には、窓から差し込む光の暖かさが伝わってきた。 そんな記憶を、戸棚の整理をしているとき見つけた白いスカーフに呼び起こされた。丁寧に畳まれ結び目を作られたその中に包まれたものが何であるかは開けずとも分かっている。ディアーナは微笑み、それをそっと懐に入れた。 あれから、もう一年近くになる。 兄妹だったこともある、海の向こうの国の王族の二人の過去を詮索するものはここにはいなかった。海に面したこの国では、二人のように身元を明かせず流れ着いてくるものも多いらしい。彼らのようなものは珍しくはなかった。わずかな言葉の違いや習慣の違いから、遠いところから来たということだけは推測されたらしく、二人は海を越えてやってきた、年若い夫婦とでも、近くに住む者に思われているようだった。今では、長年呼び慣れた兄との呼び名も、ディアーナの口をついて出ることもなくなっていた。 ディアーナは立ち上がって窓の外を見た。これが、この国の夫婦の生活の常だった。夫が外に働きに出、妻が家を守る。子供を産み、育てるのも妻の仕事だった。それを助けるために夫がいた。 年若いディアーナを、世話してくれる近所の女性がいた。最初、家の切り盛りの仕方もわからずにおろおろするディアーナに優しくそれを教えてくれたのもその女性だった。彼女はもう中年と言ってもいいほどの年で、ディアーナを娘のように思っているらしかった。 昔、亡くした娘にディアーナが少し似ている、と打ち明けられたことがあった。 ディアーナには、そう言う天性の能力があったらしかった。家を守る仕事はディアーナにとって苦痛にならなかった。夕方、ここに戻ってくるセイリオスを待つのも楽しみの一つだった。しつらえられた食卓に腰を下ろし、扉の向こうに耳を澄ます。たいていは同じほどの時間に、遠くから足音が聞こえてくる。その特徴あるしっかりした歩き方が誰のものであるか、ディアーナには考えずとも分かる。それが近づいてくる。扉の前で止まり、二回、ノックの音が聞こえる。 「おかえりなさいませ」 「ただいま」 扉を開けて、決められた言葉で彼を迎える。そして口付けを交わしあう。朝になって、セイリオスがまた家を出るときまではそこには二人以外は誰もいない。二人は睦言を交わし指を絡め、自分たちに許されるとは思ってもみなかった小さな幸福に酔うのだった。 「まさか、こういうふうに役に立つとは思わなかったけどね」 セイリオスは苦笑いを漏らした。 「身分が明かせないからね、定職にはつけないけれど、ここら辺では結構、読み書きの出来る人間が貴重なんだよ」 「…そうですの」 ディアーナは、時折セイリオスの昼間の生活を聞きたがった。そんなとき、セイリオスは彼女の手をもてあそぶように指を絡めたり、手のひらを押し付けてみたりしながら話をする。 「それは、読み書きというなら、セイルよりも上手な人もいませんでしょう?」 「…違いない」 二人は笑った。クラインでも、庶民の身分にある者では読み書きの出来る者はそう多くはなかった。ましてや、流れ者の多いこの町では、そんな技術を身に付ける余裕もない者がほとんどだ。セイリオスが仕事を求めれば、それに不自由することはなかった。 「だからといって、お前に姫君のような生活をさせることまではかなわないけれどね」 「まぁ、そんな」 ディアーナは驚いて肩をすくめた。 「わたくし、今で充分幸せですのよ。無理はなさらないで下さいませ」 真剣な瞳でそう言うディアーナに、セイリオスは微笑む。 「わたくしが恐れることがあるとすれば、今の生活が壊れてしまうことですわ」 ディアーナは、ふと瞳を曇らせた。 「…今が、一番幸せなんですの」 「それは、私もだよ」 甘い口付け、甘い言葉、甘い空気。全ては二人のためにあり、そしてそれは夢のような空間だった。 「こんな幸せが、許されるとは思いませんでしたもの…」 セイリオスの胸に体を預け、ディアーナは小さくため息をついてみせる。 「願いがあるとすれば、ずっと、こうやって一緒にいられたら、ということですわ…」 その時、ふと胸をかすめたことがあった。一年前に捨てた自分たちの国は、どうなっているのだろうか。そんなことは、考えたこともなかった。なのに、なぜ今このときに思い起こさせられたのだろうか。 よぎった不安は、セイリオスには言えなかった。ただ、彼の腕に添えた手に力を込めて、ディアーナはただならぬ予感に身を震わせた。 「…ディアーナ?」 それを感じてセイリオスが不審な声を向ける。ディアーナはそれを否定した。 「…なんでもありませんわ」 ディアーナが恐れるのはただ一つ、今の幸福がその手から飛び去っていってしまうことだけだった。 いつもの足音を聞いて、いつものように扉に駆け寄る。その向こうにセイリオスの顔を期待したディアーナは、驚いて小さな悲鳴を上げた。 「…え?これ……」 「ただいま」 その向こうからセイリオスの声が聞こえる。ディアーナの視線を奪ったのは桃色と、白と、赤の花。それは一まとめの花束になって、その向こうにセイリオスの顔があった。 「まぁ、どうしましたの、これ…?」 どさっと重みを感じさせる音がして。それはディアーナの腕の中に収められた。セイリオスはにっこりと笑って扉を閉じる。 「綺麗だろう?」 「え、ええ…」 まるで桃色の霧を漂わせでもするかのように、その大きな花束は香気を放っていた。ディアーナは、問うことも忘れてそれを見つめる。 「…美しいですわ…」 セイリオスはディアーナの表情に微笑むと、奥に入って上着を取った。ディアーナは慌ててそれを振り返る。 「どうなさったんですの、これ?」 「お前が喜ぶと思って」 ディアーナはそれをしげしげと眺めた。赤い大きな花が三本、それを取り囲むように小さな桃色の花、そして彩りを引き立たせるのは無数の霞のような花の群れ。 「喜んでもらえたかな?」 「…もちろんですわ」 ディアーナは息を飲みながら答えた。 「お前の好きそうな色合いの花束が置いてあったのでね、買ってきた」 「そんな……」 驚きが喜びに変わったころ、セイリオスは外出着を部屋着に着替え終わってディアーナの方に歩み寄ってきた。 「こんな美しいもの、ありがとうですわ…」 ディアーナの微笑みに勝るとも劣らないそれをセイリオスも彼女に投げ掛けた。 「私も嬉しいよ、喜んでもらえてね」 その花束の芳香をディアーナは胸いっぱいに吸い込む。 「香りも素晴らしいですわ。こんな大きな花束…」 花束を抱えたままのディアーナの、その手にセイリオスが手を伸ばしたとき、扉が小さく音を立てた。 「…あら?」 ディアーナが視線をそちらに向けると、セイリオスもそれに倣う。そこには、扉のすき間から差し込まれたのであろう、白い紙が見えた。 「なんだ…?」 不審を隠さずにセイリオスが眉をしかめ、扉に近づく。紙を取り上げると、それは白い封筒だった。 「お手紙…ですの?」 「一体誰が…」 手紙をよこしてくるような知り合いなどないはずだ。しかも、こんな夜更けに扉のすき間に差し込んでくるなど、尋常なものとは思えなかった。 「……これは…・」 セイリオスが息を飲んだ。顔色がさっと変わる。瞳を大きく見開いて、封筒を持つ手がわなわなと震えるのを見えた。 「どうなさったの…?」 ディアーナが花束を抱えたまま歩み寄る。セイリオスの手が、しわが出来るほどに掴んだ封筒の表書きを見た。 ばさり、花束が床を彩った。赤い花の首が取れて、床を転がったがそれに頓着するものはそこにはいなかった。皮肉なほどに香り高い花の匂いがそこら中に広がる。 セイリオス・アル・サークリッド殿下。 見慣れた字で、捨てたはずの名前が記してあった。そして、その下に記された署名は。 「…シオン・カイナス……」 意外なほど細い、華奢な字を書くかつての兄の臣下をディアーナもよく知っていた。それは紛う方なき彼の字で、蝋管にある紋章は、王家に次ぐ名門、カイナス家のそれにほかならない。 「……セイル……」 ディアーナは立っていられない震えを抑えるために、セイリオスの腕をつかもうと手を伸ばした。それより早く、セイリオスは扉に走りよりそれを開け、さっと辺りを見回す。 そこに、この手紙を届けた者の姿があるわけもなかった。 「どうして、シオンがここを……?」 わななく声でディアーナは言った。セイリオスは苦渋に満ちた表情で首を振り、椅子に腰を下ろした。震える手が封を切る。紙の破れる嫌な音がした。 「………」 それに目を通し終わったセイリオスは、聞いたこともないほどの深いため息をついた。 「何を言ってきたんですの?」 ディアーナは落ち着かなく両手を胸の前で組み、セイリオスの顔をのぞき込む。 「…父上が亡くなった」 ディアーナは息を飲んだ。 「一ヶ月ほど前の話だそうだ。その間、シオンが密かに私たちの行方を追っていたらしい。葬儀は、一週間後に予定されている。それに、皇太子として出席し、国に戻って王位を継げと」 セイリオスは一気にそれだけを言ってしまうと、手紙をディアーナに差し出した。それを受け取り、ディアーナはその、懐かしい字を追った。 それは、まず無沙汰の詫びを固い言葉で記してあった。友人同士の言葉ではなく、臣下から主君への言葉だった。 内容は簡潔だった。セイリオスが今し方説明したようなことを難しい表現で書いてあった。そして、国王崩御の後の殯期間である今、彼が国政を代理として動かしているらしいということも分かった。 そして、最後にやや砕けた言葉でこうあった。王位にふさわしいのはお前しかいない。戻ってきて欲しい。 沈黙は鉛より重かった。ディアーナは一通り読んだ後、その、久方ぶりに見るシオンの字を目だけでぼんやりと追った。意味は頭に入らない。ただ、悲痛に顔を歪めるセイリオスを見ていられなくて、ディアーナは当てどもなく視線を漂わせた。 「………何が……」 セイリオスはつぶやいた。 「何が、最善策なのだ。どうすればいいというのだ、私は」 「…セイル…」 ディアーナは絞り出すように言った。 「国に、お戻りなさいませ…」 それ以外、どんなことを言えるというのだろうか。 「シオンの言うことは、民の言葉ですわ。セイルは、やはり国を離れてはいけなかった。ここにこうしているのは間違いなのですわ」 それは、蚊の鳴くような声だったが針を落としても聞こえるその静寂の中では恐ろしいほどに重い響きをもって届いた。 「…お父様のお後を、お継ぎなさらなくてはいけませんわ…」 「ディアーナ!」 貫くような声でセイリオスが叫んだ。 「お前がそれを言うのか?お前が、私に国に戻って王になれと?そのようなこと、私は望んでいないのに…」 ディアーナは唇を噛んだ。セイリオスは、彼には珍しいほどに感情を荒らげてディアーナに食ってかかる。 「私の望みはお前だけなのだよ。お前さえそばにいてくれれば、他にはなにもいらないのに…」 「セイル……」 心臓を直接つかみ取られるような痛みが走る。それを、眉をしかめてぐっと堪えた。 「セイルは昔、言っていませんでしたかしら…?私は民のものだ、と。その体に流れる血は、民のためにあるのだと」 「ディアーナ……」 駄々を捏ねる子供のような表情をしたセイリオスは、息を吐きながらつぶやいた。 「民が、セイルが王であることを望んでいるのですわ。その気持ちに、応えねばならないのではありませんこと…?」 「……ディアーナ!」 それしか言葉を知らないかのように、セイリオスは叫ぶ。彼女の体を引き寄せて、乱暴なほどに抱きすくめる。 「お前だけだ、私が欲しいのは…」 「セイル……」 血がつながっていなくとも、クラインでは兄と妹である二人が全うに結ばれる道があろうはずがない。何かを裏切らなければ、二人が共にいられることはないのだ。そして、その裏切りすらも彼らを許さずに足音を潜めて忍び寄ってくる。それは、運命の鋭い鋏が決して彼らを結びつけるつもりはなく、どこまでも追いかけてその絆を断ち切ろうとでも言うように。 「……許されないことなのですわ……」 ディアーナは喘いだ。空気が足りなかった。呼吸するには、この部屋の空気は薄すぎた。 「わたくしたちがこうしていることでさえ、誰かを苦しめている……」 それは、痛いほどに抱きしめられているからなのかもしれなかった。その抱擁は苦しいものでしかなかった。触れ合う体は、今は刃のように心を傷つける。 「わたくしは……」 「ディアーナ、ディアーナ……っ」 それは、泣いているように聞こえた。肩に押し付けられたセイリオスの顔は見えない。しかし、それは、涙を流しているときのような声だった。 「………セイル……」 月が青く二人を照らす。それは暖かいものではなかった。冬の海に身を沈めたような震え上がるほどの冷たさ。抱きしめあう二人の間にさえ、もう温もりはなかった。そこにあるのは突き刺す刃の苦しみと、息もできないほどの情熱の刺。激しければ激しいほどに互いを苦悶に陥れる矛盾した愛情。 床には、幸福の残滓が落ちていた。鮮やかな色を月の光に染めながら、それは先ほどたった一枚の紙で途切れた二人の幸福の思い出をひそやかに映す。 シオンからの手紙は舞って、床に落ちた。 夜はとうに更けていた。二人は寝台の上で、忍び来る、幸福に影差す足音に脅えながら、それでも眠ってしまっていたらしい。 ディアーナが瞳を開けると、夜更けの闇が飛び込んできた。恐ろしいほどに、暗い。ディアーナは幸福な夢から覚めたその不快感に体を震わせた。 もう、昨日までの日々は夢でしかない。夢でしか見られない。 傍らのセイリオスを見ると、苦痛に耐えるような表情のまま、わずかな寝息を立てていた。ディアーナはその顔に手を這わせ、彼の顔に刻まれた苦悶の皺をそっと押し広げた。 闇の中、立ち上がるのは勇気がいった。手探りで先へ進むと、何かを踏んだ。柔らかいそれは、セイリオスにもらった花束から落ちた花らしかった。ディアーナはそれを拾い上げた。 幸福だったころの夢の中で、ディアーナはあることに気がついた。それは、今まであえて目を背けてきたことだった。セイリオスと一緒にいたい、彼との幸福を求めたい、その気持ちが忘れさせていたあまりにも簡単な事実だった。 王家の者として、時には自我を捨てねばならないときもある。それを、ディアーナは忘れていた。ただ、恋のみを追い求めていた。そして、その末路に行き当たった今、ディアーナはやっと忘れていたそのことを思い出したのだ。 衣服はまとったままだった。夜着に変える余裕もなく、ただ苦痛に打ち震えていた。その懐の奥深く、絹が肌をこする感触があった。そこに入れたままだった、宝物を包んだ絹のスカーフ。 その持ち主であった恋人を振り返った。暗闇でその姿ははっきりとは分からぬものの、わずかな輪郭を確認してディアーナは微笑んだ。手のひらに力を込めて、自分を鼓舞するようにうなずいた。 ディアーナの足は、夜露に濡れる面の道に、滑るように下ろされた。音を潜ませて扉を閉じ、そして空を浮くように驚くほど軽い足取りで先を行った。 その向こうには、幸せの末路があった。 港町を少し行けば、小高い丘があるのをディアーナは知っていた。そこからは海が見渡せる。月が出ているので表は歩くのに不自由しない程度には明るい。ディアーナは、まるで楽しい場所に赴くかのように先を急ぐ。 緑の小さな林があって、その向こうは丘だった。切り立ったその頂上からすぐ足下は海で、目を回すほどに高い。丘の岩肌を撫でる波の音が夜の闇に響いては物悲しい音楽のように耳を突く。 規則正しいその音に、ディアーナはしばし耳を奪われた。 懐から白い包みを取り出した。それを愛しげに抱きしめ、頬を這わせる。ふと思い立ってそれを解き、かつてセイリオスの体を飾っていた長い髪の一房を抜き取る。それは、今し方切り落とされたかのようにその艶を失ってはいなかった。 「……さようなら」 小さくつぶやいて、それを海に向かって投げた。風がそれを眼下へ運ぶ。ゆっくりとそれは落ちてゆき、視界からすっかり消えたとき、ディアーナも地を蹴った。 さようなら。 それは、永遠の別れを告げる言葉だった。しがらみと、苦難と、そして自分の存在が引き起こす不幸からの別離。 波の音が耳を打った。しかし、それは遠いままだった。 「ディアーナ!」 名をを呼ばれ、その声に引き留められた足は均衡を失って半分だけ宙を蹴り、倒れ落ちそうによろめいた。 「ディアーナ…!」 体は抱き留められ、彼女は自分の葬った恋人の髪の後を追えなかった。強い力で抱きしめられ、ディアーナは地面に座り込んでしまった。 「……セイル…」 苦しいほどの力で抱き留められた。ディアーナはそれを振り解こうともがく。 「嫌ですわ、離してください…!」 「馬鹿者!」 叱咤の声が飛んで、ディアーナはびくっと体を震わせた。 「お前が死ぬようなことがあったら、私も生きてはいないものと思え」 「そんな、でも…」 セイリオスは寸でのところで引き留めたディアーナの体を、決して離さないとでも言うように力を込めて抱きしめている。 「なぜ、こんなことを考える。私に死ぬより辛い思いを味合わせる気か」 「でも、でも、わたくしがいなければ…!」 ディアーナは叫んだ。 「わたくしさえいなければ、セイルはクラインに戻ることができるのですわ。それが、皆が願っていることなのに、わたくしの存在がセイルを苦しめている…」 「違う!」 セイリオスは力強く首を振った。 「私を苦しめているのは、私自身の優柔不断さだ。お前にはなんの責めもないこと、全て、私自身の責任なのだ」 「…セイル……」 夜風が二人を包む。それは冷たくてディアーナは小さく首を震わせる。それに気づいてセイリオスは改めて固く彼女を抱きしめ直した。 「すまなかった、苦しめて」 「そんな、セイルは悪くありませんわ…」 ディアーナは小さく悲鳴を上げた。 「わたくしが、わたくしさえ耐えればよいことだったのですもの。こんなふうにセイルを独り占めしたいと思ったから、全てをわたくしのものにしたいと思ったから…」 「それは、私も同じだよ」 セイリオスはそこで、初めて薄い微笑みをみせた。 「お前を私のものにしたいと思った。私だけのものとして、誰にも邪魔されずに二人だけでいたいと思った。王族であるがゆえに、兄妹であるがゆえに越えることを許されぬ矩から逃げた。それが、この有り様だ」 笑いは自嘲に変わった。 「私の甘さゆえに、お前をここまで傷つけてしまった。お前にこんな覚悟をさせるほど追いつめてしまった。全て、私が不徳ゆえ招いたことだ」 そして、頭を垂れて表情を隠すセイリオスをディアーナは慌てておしとどめた。 「そんな、セイル…!」 「…すまなかった」 ぎり、と歯を鳴らす音がした。ディアーナはおろおろと彼の肩に手をやる。 「セイリオス、顔を上げて…」 その次に、ディアーナがセイリオスの表情を見たとき、そこには先ほどの苦悩とは裏腹な、晴れ渡りさえしたような明るい表情があった。 「結婚しよう、ディアーナ」 「………え?」 それは、聞き返したからとて無理からぬ言葉だった。その言葉を、夢見たときもあった。しかし、血のつながらぬとは言っても兄妹であり、そして国を統べる立場からしても、二人の間では決して叶うことのない幻のような言葉であったはずだった。 「そんな、王位はどうなさるの…?」 「父上の後は継ぐよ」 セイリオスは驚くほどあっさりと言った。 「葬儀が済めば、私が国王だ。そして、お前は王妃になるんだ」 「そんなこと、出来るわけありませんわ…」 ディアーナは何と答えてよいものやら、喘ぐように言葉をついだ。 「それができれば、わたくしたち……」 「いいんだよ、昨日から、ずっと考えていた。ようやく、今ごろになって気がついたんだ」 セイリオスはディアーナを抱きしめていた腕を解いた。視線をやれば、わずかではあったが朝の光が暗い空を焼いている。 「お前は、私の一年間の遊学中に見つけた王妃たるべき最愛の女性。お前以外には、私の妻になる者は考えられないよ」 セイリオスは、自分を妹としてではなく、別の女性として娶ろうというのか。 「そんな、では、ディアーナ・エル・サークリッドはどこに行きますの?」 「ここにいるじゃないか」 セイリオスはディアーナの手を取った。 「お前は、ディアーナ・エル・サークリッドだ。今までも、これからもね」 「………」 ディアーナは言葉を失ったまま呆然とその言葉を聞いていた。 「…そんなこと、民や宮殿の者たちが納得しますかしら?」 「納得させるよ、何としてでもね」 セイリオスはディアーナを促して立ち上がった。 朝焼けは広がるのが早い。さきほどは、薄い紙のようだった黄金色の光も今では目を射るほどに眩しく輝いている。二人の影が背後に長く延びて、それでも頭上にはまるで燃え残ったかのように夜の闇がわずかに貼り付いているのだ。 「悪かったね」 セイリオスは言った。 「私が、お前をここまで追いつめたのだ。その罪は、許されるものではない」 「そんなこと…」 ディアーナはセイリオスを振り返った。セイリオスは恭しく頭を垂れ、ディアーナの右手を取るとそっと口付けた。 「その罪を、一生を掛けて償わせてくれ」 顔を上げてそう言うセイリオスの表情はあまりにも眩しくて、ディアーナは朝焼けに負けない程に頬を染めて戸惑いながらもうなずいた。 「お前のおかげで生まれ変われた私に、今度こそ、お前を守る騎士の役目を与えてくれ」 セイリオスは背筋を伸ばし、ディアーナの耳元に顔を寄せてもう一度こう囁いた。 「…結婚、してくれるかい?」 「……もちろんですわ」 ディアーナは小さく答えた。セイリオスの愛の言葉を囁く唇が、わずかに彼女の耳をかすめて彼女の頬をますます染める。 「愛していますわ、この先ずっと、永遠に……」 微笑みが生まれ、取り合う手からは温もりが伝わる。ディアーナの不安な表情は、セイリオスの頼もしいまでの決意に満ちたそれの前に、柔らかく溶けていった。 「愛しているよ」 生まれたばかりの朝日が新しい空気の中を包む。その中で二人が交わすのは、永遠を誓う、今までで一番甘い口付け。 END |