春
また、春が来ましたわね、シオン。 珊瑚の色の唇を、三日月の形にして、麗しの姫君は微笑んだ。 わたくし、春が一番好きなんですの。 日の光を浴びて、その白い体を茜色に染めながら、彼女は屈託なく笑う。 シオンが丹精した花が、一斉に開くからですわ。みんなが美しい姿を 見せてくれる時だからですわ。 …まぁ、わたくしに? 差し出した花に、彼女は驚いて目を丸くした。 よろしいのですの、こんなたくさん。 一抱えもある、その大きな花束の中のどの花よりも美しく、彼女は表情を ほころばせた。 嬉しいですわ、ありがとう、シオン。 桃色に光る、暖かな光の中で交わした、重ねるだけの口付け。 ダリスの動向が危ぶまれ始めたのは、その頃だった。北の砦で偵察活動を 行っていた騎士たちの報告によって、ダリスの魔法兵器の存在が確認された。それを止める手だては、クラインにはなかった。 ただ、一つの方法を除いて。 必要なのは人質と、ダリス王家に反旗を翻す、前国王の遺児の首。人質には、クラインの第二王女が選ばれた。ダリス国王の花嫁として。 …行くのか… ディアーナは、穏やかな笑みを浮かべたままシオンを見つめた。 「王女としての勤めですわ。王家に生まれた以上、こういうことは避けては 通れません」 それは、分かっている。それは、シオンとてその覚悟がなかったわけでは ない。 …ダリス国王の、花嫁になるのか、お前が… シオンはともすれば漏れる、荒い息をかみ殺しながら言った。動揺を 悟られるのはいやだった。愛する姫君の前では、毅然とその門出を見送りたかった。 「仕方ありませんわ」 ディアーナは、どこまでも気丈だった。 「わたくし、参ります」 そこには、その小さな肩には背負いきれない程の責任がのし掛かっていた。それを、健気に耐えようとする姿はあまりにも切なかった。 「…シオン」 ふと、瞳が緩む。菫の花の色をしたそれが、淡くシオンの姿を映す。 「わたくしのこと、忘れないでいてくださいませね」 シオンはうなずいた。それにディアーナは微笑み、その胸に小さな頭を もたせ掛ける。 「わたくし、あなたへの貞節は守り抜くつもりですの」 健気な決意は、小さく漏れた。 「シオン、わたくしのすべては、あなたのもの」 回された手が、痛々しかった。この小さな白い手が国の命運を 握らされているのかと思うと、いたたまれなかった。 「そのことを、覚えておいてくださいませ」 近隣諸国の同意を得て、クラインがダリスに反旗を翻したのは姫君の 輿入れのあとだった。ダリス王国は連合軍の攻撃を受け、殲滅した。国王は自らが裏切った前国王の第一王子によって縊られた。ダリスは新国王によって、その荒廃した国土を復興させるために再び立ち上がる。 牲となったクラインの姫君の奪還は、連合軍の突撃とともに行われた。 しかし、彼女の姿が見つかった時、それはすでに遅かったのだと知る。クラインが宣戦布告を行った、そのほんのわずか数刻前だった。 姫君は、その貞節を守り抜いた。 夫となったダリス国王に触れられるのを拒み、自らその命を絶ったのだ。 健気な決意が真っ赤な血となって流れ出したという。 あの、無邪気でかわいらしいばかりだった少女の、どこにそんな覚悟が 潜んでいたというのだろうか。 クラインは、勝利の喜びよりも、その愛された姫君の選んだ道への涙に 包まれた。彼女に死を選ばせたその責めに自らを追い込み、皇太子の瞳は二度と喜びを映すこともなく、扉の向こうにその姿を消した。 その背中に、声をかけられるものは誰もない。 そして、健気な姫君が貞節を誓ったかの魔道師は、その亡骸から一束の髪を 切り取ることを許された。 また、春が来ましたわね、シオン。 見上げる空に、桃色の霧が浮かぶ。 わたくし、春が一番好きなんですの。 彼女の、柔らかな笑みは今も鮮やかに浮かび上がる。 …なぜだか、ご存知…? いたずらっぽい表情が、目の前をよぎる。 わたくしが、初めてシオンに会ったのは、この季節でしたからですわ。 彼が忘れてしまった記憶を、彼女はしっかりととどめていた。 シオン、わたくしを何と言ったか覚えています…? わたくしのこと、田舎ボケのお姫さん、って言ったのですわ。 笑い声が響く。 わたくし、今でも世間知らずの箱入り娘ですかしら。 そこにあるのは、美しいまでの高貴な影。健気な姫君の、彼への誠意。 目を奪う、麗しい幻影。 でも、わたくし、人を愛することを覚えましたのよ。 重ねただけの唇は、永遠の誠意の誓い。変わらぬ忠誠の揺るぎない証。 それを、教えてくれたのは、あなたですわ。 彼の花たちは、姫君の愛を糧として、巡り来る季節の中、また、美しく その顔を太陽に向ける。 シオン。 また、春が来ましたわね。 END |