呪文


如何ナ定メノ狂イシヤ。

「きゃぁぁっ、もう、うるさいっ!」
 黄色い叫び声が響いた。
「もう、わかってるってば、言われなくてもちゃんとやるってば」
「そう言って、お前はいつも口実付けてさぼるんだからな。こないだの課題は 今日中!遅れたら許さんからな」
「許さん、って、あんた一体何者っ?ああっ、やだやだ、小姑っ!」
「なんだと?」
 そんな言い争うような声が、ここ魔法研究院で聞かれるようになったのは、ここ半年のこと。その声の片割れが十九歳の若さで緋色の肩掛を取ったと、 天才との評判も高い魔法研究院所属の魔道師、キール・セリアン。そしてきんきん響く、もう一つの声は異世界から召喚されてきた、変わった名前の 少女のものであることは、ここ研究院に知らぬ者はなかった。
「小姑ったら小姑っ!」
「お前なぁ…!」

汝、我ヲ求ムルカ。
汝、我ヲ乞ウカ。

「お前のためなんだぞ、分かってるのか?」
 頬を膨らませてすねて見せる彼女に、キールは畳み掛けて言った。
「元の世界に、戻りたくないのか?」
「……」

我、汝ヲ求ム。
我、汝ヲ乞ウ。

「メイっ!」
 キールの声に、メイは顎をつんと天に上げて、そしてその視線をキールに 投げてよこした。
「…なんだよ」
 その表情に、キールはむっとしたように唇をとがらせた。
「…いいの?」
 メイがつぶやいた。キールは耳を澄ますように首を傾ける。
「なにがだ?」
 見ればメイは先ほどのきんきんした声はどこへやら、唇を噛んでキールを 上目遣いに見つめている。
「……メイ?」

我、汝ヲ求ム。
我、汝ヲ乞ウ。

如何ナ定メノ紡ギシヤ。
我、汝ヲ恋フ。

「…キールの馬鹿」
「はぁ?」
 メイの表情が曇ったことに、キールは気づいてはいるのだろうがその理由を図ることはできなかったらしく、戸惑いの表情を見せる。
「何なんだ、一体?」
 のぞき込んでくるキールに頬を膨らませ、そっぽを向いてメイはひときわ 大きな声で叫んだ。
「知らないっ、キールの馬鹿っ!」
 後に残ったのは、メイの軽い靴の足音、そして、困惑したままのキール。
「…何なんだ、あいつ…」

汝、我ヲ恋ハン…。

「知らないっ!」
 そう捨て台詞を残して、走り去ったメイは今、自室のベッドの上に 倒れている。衣服も靴もそのままに、扉さえもしっかりとは閉じぬまま、彼女は柔らかい上掛けの中に顔をうずめている。
「…キールの、馬鹿」
 つぶやくのはその言葉。メイはごろりと寝返りを打った。窓の外には、 夕暮れが見えている。キールに言われた課題はまだ終わっていない。もうすぐ夜が来て、今日という日は終わってしまうだろう。そうすれば朝が来て、 また夜が。
「…あたし、いつまでここにいられるんだろう?」
 それは小さなつぶやきだった。メイは叫びそうになる自分の声を抑えた。
「いつまで…?」
 早く帰りたいはずだった。もう、この異世界に迷い込んできてから 半年になる。両親の顔も、友達の顔も、半年前に見た、それきりだった。それどころか文化も概念も何もかもが全く違うこの世界で毎日、驚きと 居心地の悪さを感じながら生きてきたはずだった。
「あたし、いつまでここにいられるんだろう?」
 それは、おかしなことだった。早く帰れることを願っていたはずだった。 早く、元の世界に帰ってこの奇妙な世界から去ってしまいたかったはずだった。
「……それなのに」
 ここにいたい。この異世界で暮らしたい。
 帰りたいという気持ちがないと言えば嘘になる。両親は今ごろ何を やっているのだろうか。友達は、先生は。元の世界にいたころは煩わしかった学校の生活でさえもが懐かしく、そこに戻ることをひたすら希求していた はずだった。
「………」
 それは、ある一人の名。その名を本人の前でそのような甘い声で 呼んだことはなかった。そのようなことは許されないと、自ら決めていた。
「だって、いつかは帰るんだもん」
 帰る日が、待ち遠しかった。そのはずだったのに、今ではキールは自分が 元の世界に帰るための魔法を見つけなければいいと思ってさえいる。
「そしたら……」
 そうすれば、ずっと、ここに。
「あたし、変かも…」
 望郷の念よりも、恋心は強いものだろうか。それとも、半年間も 引き離されて、故郷を恋うる気持ちが萎えてしまったのだろうか。ともすれば、恋は何にも勝るものなのだろうか。
「……帰れなくても、いい」
 その言葉を口にしたとき、メイは心臓がびくんと跳ねるのを知った。しかし、それは次に来るあるさざ波のような言葉に押しやられてしまった。
「………キール…」
 それは、未知の感情。習い覚えた魔法でも、どうにもならない不可解な 気持ち。

 それは、この世界に来てからしばらく経ったころであったはずだ。
 自分を召喚した魔道師は、愛想というものをどこかに忘れてきたような 男だった。自分には、責任ゆえに仕方なく接する、そう言う印象をどうしてもぬぐえなかった。
 その口で、自分には口うるさく小言ばかりを言ってくる。「小姑」という あだ名を面白半分に付けたのは、その頃だった。
 そんな彼の、健気なほどの姿を見た。十代で緋色の魔道師、それゆえの 妬みや嫉みも多く、それに対していつも辛辣に皮肉を返し、決して屈することのなかった彼の、その裏に積み上げられた努力を見た。
 書庫で夜遅くまで続けた勉強に眠ってしまった姿は、メイを突き動かした。尊大な態度の裏にある、彼の自信の根拠を見て、それはいつしか尊敬と、 そしてひそかな思慕に変わっていった。
 それに、恋という名を付けることが出来るようになったのは、それから 間もなくのこと。

「メイっ!」
 扉越しに聞こえたその声に、メイは驚いて飛び上がった。見れば扉が 半開きで、その向こうに長いローブの影が見える。
「…誰?」
「俺だ、キールだ」
 分かっていても、わざと尋ねたくなる。メイはベッドから下りると扉を 開けた。
「なに?」
 そこにはキールの緑の瞳があった。それをまだまっすぐに見られることを 感謝しつつ、メイは彼を迎え入れた。
「課題は?」
 キールは機械的にそう聞いた。メイは顎を反らして小さく言う。
「まだ」
「何でだよ、今日中に、って言っておいただろ?」
 メイは、じっと彼を見た。その視線にたじろいでキールは口をつぐんだ。
「…何だよ?」
「ねぇ」
 メイは両手を後ろで組んで、首をかしげて見せた。
「あたし、なんのために勉強するの?」
 キールは目をしばたたかせた。そして言った。
「お前も魔法を勉強して、早く元の世界に戻れる方法を探しださないと いけないだろう?」
 そんなふうに言うのだ。
「俺も、いろいろ方法を探してはみている。お前もお前なりに努力しないと、 帰れるものも帰れなくなるぞ」
「……」
 口をつぐむ。
「帰りたいんだろう?」
 メイは顔を上げてキールを見た。その、度のない眼鏡の奥の緑の瞳。 亜麻色の髪。メイは唇を噛んで、言った。
「キールは、あたしに帰って欲しいの?」
「……は?」
 唐突なその言葉にキールが聞き返す。メイは眉をしかめ、そしてもう少し 大きな声でこう繰り返した。
「キールは、あたしがさっさと帰っちゃったらいいと思ってるの?」
「…メイ?」
 メイは瞳の色を尖らせ、きっとキールを見上げてメイは言葉を接いだ。
「キールは、あたしがいなくなっちゃったらいいと思ってるの?」
 それは、今まで決して口にしたことはなかったのに。一度唇を破ると、 まるで止めどなくあふれる涙のように次から次へと流れ出た。
「あたしなんか、いて欲しくないの?」
「…メイ?」
 疑問に満ちた声は、無理もなかった。自分は今、とても不条理なことを 言っている。そうは分かっていても、言葉は押さえられなかった。
「……あたしは」
 メイは言った。
「帰りたくない」
「………」
 キールは口をつぐんだ。これ以上は見開けないほどに目を見開いて、 その唇は言葉を忘れたかのように薄く開いたままだった。
「あたし、ここにいたい」
 後悔はなかった。その気持ちに、嘘はなかった。ここにいたい、この国に いたい。キールのそばにいたい。
「……メイ」
 やがて、重くキールが口を開いた。
「どうしてだ、って、聞いてもいいか?」
 メイは顔を上げた。そして、その瞳の色に心臓を高鳴らせた。
「…どうして…?」
 言おうと思った。キールのそばにいたいから。キールをずっと、 見ていたいから。そして、それを言いよどんで唇を噛んだ。
「どうして、って…」
 否定の言葉が返ってきたら。キールが、自分を求めていなかったら。ただ、自分に接してくれるのは異世界から召喚してしまった責任だけで、それ以上は何もなかったら。
 本当の気持ちが唇からこぼれるその一瞬先、メイの脳裏をそんな不安が よぎった。愛されていなくてもいい、この恋に応えてもらおうなどとの、そこまでの高望みはすまい。ただ、自分を否定されることには耐えられない。もし、キールの口から否定の言葉が出れば、自分にはどこにも居場所が なくなってしまう。
「どうして、って、どうしても、よ」
 メイはことさらに声をとがらせた。
「気に入ったの、ここ。キールみたいにうるさいやつもいるけど、あたし、 見たことないものばっかで楽しいし、魔法とか使えるようになって、今までにない自分を発見、て感じで。あっちの世界には、魔法とか、ないもん」

我、汝ヲ求ム。
我、汝ヲ乞ウ。

「…メイ」
 キールはうめくように言った。
「魔法の上達を望むなら、もっと勉強しないといけないと思わないか?」
「そ、それは、そうだけどさ」
 メイは言葉を濁らせた。
「でも、そんなに焦らなくてもいいんじゃない、ってことよ。キールも、 そんなわけだから、別にあたしを帰してくれようと、無理しなくてもいいよ」
 キールはその細い眉をすっとしならせて、ため息のような声を出した。
「……分かった」
 そして、きびすを返す。
「課題の締め切りは、明日に延ばしてやる。これ以上は延びないぞ」
「分かった分かった」
 メイは両手を胸の前で振って、微笑んで見せた。
「明日までにはやっとくから。今度こそ」
 キールは何も言わなかった。ことさらに笑顔を作るメイに、いつになく 厳しい表情を向けて、そしてその場を立ち去った。
「…キール…」
 小さくささやいてみた。それを聞き届けるものはそこにはもうおらず、 夜風だけが胸を刺す。
「言え、ないよねぇ」
 肩をすくめて、メイは扉を閉じた。
「あたしって、馬鹿かも」
 自虐の笑いに身を委ね、メイはベッドに飛び込んだ。眠りだけがもたらす、 つかの間の癒しを求めて。

汝、我ヲ求ムルカ。
汝、我ヲ乞ウカ。

我、汝ヲ求ム。
我、汝ヲ乞ウ。

 月の夜、人知れず習い覚えた魔法の練習をすることがあった。この時間、 魔法研究所の中庭に、訪れるものはいない。邪魔をされずに練習できる、言い換えれば、人に迷惑をかけずに覚え立ての魔法を試してみることの出来る絶好の時間だった。
「天の恵みし癒しの君」
 覚えた呪文を小さく唱える。
「我がもとに降り、その姿を表せ」
 その呪文は、局地的に雨を降らせるものであったはずだった。メイの 頭上には、霧のような雨が降ってこなくてはならないはずだ。しかし、待てど暮せどそこにあるのは薄く浮かんだ大きな月。水など、一滴も落ちてはこない。
「あっれ〜、おかしいなぁ…」
 そして、もう一度それを唱える。それを何度か繰り返す。
「…呪文、間違ってたかな」
 必死に記憶を呼び起こし、もう一度、その詠唱を試す。
「天の恵みし癒しの君、我がもとに降り、その姿を表せ!」
 どしゃ、と背後で音がした。
「うわ、やった?」
 メイが振り返ると、そこには果たして大きな水たまりがあった。そして その中には、バケツの水でもかぶったように濡れ鼠のまま絶句する、キールの姿。
「うわぁ、キール!何でこんなところにいるのよ?」
「…それは、俺の台詞だ」
 首を振って水をはね飛ばし、水に曇った眼鏡を外し、大きくため息をついて 見せた。
「なにやってんだ。違うだろ、降雨の呪文は」
 そして、キールがささやいた呪文は、先程メイが唱えたそれとは微妙に違い、そこには無事、優しい雨が降った。
「うわ、あたしの上に降らせないでよっ」
「お返しだ」
 ずぶぬれのキールは、そう言ってさらに呪文を重ねた。雨が途切れたとき、そこには濡れそぼった二人の姿があった。
「間違った呪文で、よくこれだけの水を召喚できたな」
「…それって、褒めてる?」
「まさか」
 キールはにやりと笑い、指先で顔を流れる水滴をぬぐい取った。
「ちょっと、部屋、戻ろうよ」
 濡れ鼠の自分の体を見て、メイは悲鳴を上げた。
「このままじゃ、風邪引いちゃう、ね、キールも」
 キールはメイを見て、そして小さく言った。
「…こんな時間に、うろうろしてるんじゃない」
「…ん?」
 その口調に、メイは振り返った。
「研究院の中と言えども、何があるか分からんだろう?」
「そんな…」
 メイは唇をとがらせた。
「あたしの勝手じゃない、ほっといてよ」
「いや、放っておかない」
 キールは強い口調で言った。
「何かあったら、俺が困る」
 メイの表情は、ますますかたくなになる。
「何で困るのよ」
 そして、憤慨したように言葉を続けた。
「キールには関係ないじゃない、何で困るの、自分が異世界から召喚した 異世界人に、なんかあったら責任問題だから?」
 風が吹くと、濡れた体が冷えた。しかし、メイはそんなことにはもう 気づいてはいなかった。
「そうよね、キールにとって、あたしは責任で、義務で、だから放って おくわけにはいけない存在なのよね」
 キールの顔は見なかった、見られなかった。
「別に、心配してもらわなくても結構よ、あんたに迷惑かけるようなことは しないつもりだから」
「…メイ!」
 鋭い声にメイが振り向くと、キールが間近に立っていた。
「…何よ」
 腕をつかまれた。倒れそうになる体を抱き留められた。濡れた手が、背中を 支えるのが冷たかった。
「…聞いても、いいか」
 そんな瞳の色は見たことがなかった。メイは息を飲み、間近に迫るその 深い色に呼吸を止めた。
「何で、帰りたくないんだ」
「…言ったじゃない」
 メイは小さく言った。
「ここが気に入ったからよ。もとの世界より、ここが気に入ったから」
「……それだけか?」
 キールは尋ねる。メイは、あえぐように息を求め、うなずいた。
「それだけよ、ほかに、何があるって言うの」
 その瞳の色に、寂しげなものを見た、と思った。その色に心が揺さぶられた。それは、いつものキールからは想像も出来ないくらい切なげな色で、心臓を ぎゅっとつかんでくるような、そんな気持ちにさせられた。
「…そうか」
 キールは、メイの体を開放した。抱きすくめられていたと言ってもいい その体は、キールのぬくもりを失って、濡れているからという以上に寂しく冷えた。
「なら、いい」
 きびすを返して、キールは言った。
「何があるか分からんからな、こんな時間にうろつくな」
「…キールこそ」
 キールはメイから遠ざかっていた。何歩かそこから歩み去り、そして 振り返って視線だけを投げてよこした。
「……お前を、探していたんだ」
 メイは立ち尽くした。
「部屋にいなかったから、探していたんだ」
「…なんの、用?」
 キールは答えなかった。
「もう、済んだ」
 そのままキールはメイの方を見なかった。避けるようにその場から去って いく。その後ろ姿はあまりに遠く、そして、二度とすがりつけないような気持ちにさせた。
「…キール…!」
 メイは叫んだ。それは内なる衝動だった。その声が背中に跳ね返る前に、 キールは振り返ってメイを見た。
「あたし……」
 キールが魔法の習い始めに言った言葉を思いだした。魔法は、理論と意志。理論を理解する柔軟さと、望みをかなえるための強い意志があれば、 誰にだって使えるものだと。今、メイは一つの呪文を唱えようとしていた。それは、魔法使いならずとも、幾多の女性が唱えてきた呪文。そして、 強い意志と強い願いが必要な呪文。
「あたし、帰りたくないの」
 キールは立ち尽くしたまま聞いていた。彼のマントの裾から、水雫が幾粒か こぼれ落ちた。
「あたし、ここにいたいの。キールがいるから」
 わずかに、硬い表情が緩んだ。信じられないというような影が、よぎって 消えた。
「キールと別れたくないから、ここにいたいの」
「……メイ」
 メイは駆けた。駆け寄ってキールのもとに寄り、そしてわずかに上にある その瞳を見つめて、ささやいた。
「キールが、好き」

汝、我ヲ求ムルカ。
汝、我ヲ乞ウカ。

我、汝ヲ求ム。
我、汝ヲ乞ウ。

 キールは何も言わなかった。その沈黙は、メイを押しつぶし、高鳴る心臓はその限界までに鼓動を速めていた。
「…ごめん」
 沈黙の末、そう言ったのはメイだった。
「ごめん、勝手なこと言って。こんなこと言われたら、帰してやるとか 言いにくいよね」
 メイは照れ隠しのように笑って、額に手を添えた。
「嘘、今の、嘘。忘れて」
 メイの体に影が差した。気づけばその体は温かい何かに抱き寄せられ、 メイは一瞬呼吸を失うほどにそれに固く包まれた。
「…キール…?」
「嘘、なのか?」
 あえぐようにキールは言った。
「嘘か、今の。嘘言ったのか」
「…や、キール、痛い」
 メイの訴えは彼には届かない。キールはますます固くメイを抱きしめ、 濡れた髪がメイの頬に張り付いた。
「…嘘、か」
「嘘じゃないよ。あたし、キールが好き」
 メイは小さく言った。
「帰りたくないのも、ここにいたいのも、キールが好きだから」
 メイは、キールの腕の中でもがいた。
「嘘じゃないけど、迷惑だったら、忘れて」
 温かい力がこもる。
「…メイ」
 呼びかける声に、熱がこもる。濡れた体を忘れるほどに、熱い声。
「俺が、お前と同じことを思っていないとでも思っているのか」
 その、遠回しな言葉はキールらしく、メイはそれをどうとっていいのかと 戸惑った。
「どういう、こと……?」
「……」
 キールは口をつぐむ。抱きしめられた体が熱い。
「俺は、考えてはいけないことを考えてた」
 つぶやくように始まった告白。メイは耳を疑った。
「お前を、元の世界に帰してやらないといけない、とそればかりを考えてきた。そのために資料を調べて、書庫にこもって。それが、俺の間違いでこの世界に召喚してしまったお前への、償いだと思ってた」
 キールの腕に力がこもった。それを、メイは息をするのも忘れてただ 享受していた。
「…でも、いつしかそう思わなくなってた」
 キールは腕から、メイを開放する。
「お前が、この世界に残ってくれたら、そんなことを考えるようになっていた」
 解かれた腕で、メイは両の肩を捕まれた。真摯な瞳を受けて、メイは自然と それに引きつけられた。
「勝手だよな、分かってる。そんなこと、許されることじゃないって。お前を、本来の生活から引き離した俺が、こんなこと考えるなんて傲慢だって」
「キ、ル…」
 夜空の星は、いつしか数を増していた。それは、目にも綾にきらきらと 輝き始める。
「でも、どうしようもなかった。俺は、お前を帰したくない」
 その先は小さなささやきだった。この静寂の中でも、耳を澄まさねば 聞き取れないほどの。
「……好きだ」
 メイの肩をつかむ手が震える。
「こんな勝手な俺だけど、俺は、お前が好きだ」
 メイは息を飲んで、その言葉を反芻した。何度も噛みしめて、味わって。 それは、どんな蜜よりも甘い言葉。
「…ずるい」
 メイは言った。
「ずるいよ、キール、女の子に先に言わせて」
 微笑みを浮かべて、メイはいつもの口調でキールを責める。
「そう言うことは、男の方から言うもんよ」
「…そうだな」
 キールもそれにつられた。
「…好きよ」
 メイは言った。それは、先程よりもよどみのない言葉だった。
「キールもそう思ってくれてて、嬉しい」
 二人は微笑みあった。濡れた体は、再びお互いのそれに腕を回す。

汝、我ヲ求ムルカ。
汝、我ヲ乞ウカ。

我、汝ヲ求ム。
我、汝ヲ乞ウ。

 それは、何よりも強い恋の呪文。


END