片恋


 神殿は、いつにないにぎわいに包まれている。
 そこに集う人々は皆、とっておきの華やかな衣装に身を包み、笑い交わし、銘々がこの良き日に彩りを添えていた。
「さぁ、出来ましたわ」
 侍女に声をかけられて、ディアーナはほぅと息をついた。大きな鏡の中には、薔薇色の衣装に身を包んだ少女が立っている。胸には茜色の薔薇が三つ、髪を緩やかに結い上げて同じ色のそれをそこに挿す。肌を白く、唇を赤く、耳を 飾り胸元を飾り。そこにいるのは、目にも綾な麗しい姫君の姿だった。
「お美しくていらっしゃいますわ」
 ディアーナに長年仕えている親ほどの年の侍女が言った。
「ひいき目で申し上げるのじゃございませんわ、姫さまは、私が今まで 見てきたどんな姫君よりもお美しいですわ、特に、こうやって着飾られますと」
「…ありがとう」
 鏡の中の少女はつぶやく。まばゆい宝石と、彩りの中に潜む影に気づいた ものは、誰もいない。
 …シルフィス、よりも?
 「お式は、もう少しで始まりますわ。神殿の方に向かわれたほうが いいのではありませんか?」
「そうですわね」
 ディアーナは、重い衣装の裾をさばくと、きびすを返した。
「でも、その前にわたくし、ちょっとシルフィスのところに行ってきますわ」
「まぁ、姫さま」
 侍女がそれを制する。
「あちらも、今はお忙しくていらっしゃいましょう。どうしてもお目に かかりたいと申されるなら、お式が終わってからになさったほうが」
 ディアーナは少し振り向いて、言った。
「いいの、今、行っておきたいのですわ」
「姫さま!」
 侍女の制止の言葉を振り切って、ディアーナはその部屋を出た。着慣れない、絹を重ねたドレスを引きずるようにして、目的の部屋を目指す。粉白粉と、 花の匂いが入り交じる神殿の奥の控室だった。自分が衣装を調えたその部屋よりも、いくぶん広い。
「…シルフィス、いますの?」
 その扉を軽く叩くと、中から話し声がして、それが開いた。そこには、 ディアーナにはあまり馴染みのない年若い侍女が姿を表した。
「まぁ、姫さま」
 ディアーナが視線をそらせると、そこにはシルフィスがいた。まばゆい光に包まれて、ともすれば、見間違えてしまいそうになる姿だった。
「姫」
 今まで聞きなれたそれとはわずかに違う声でシルフィスは言った。
「よろしいのですか、ここにおいでになって」
「ええ、いいんですの。シルフィスに会いたかったのですから」
 ディアーナは後ろ手に扉を閉じた。一人で出歩くことを侍女が たしなめたのに、少し舌を出して見せ、そしてシルフィスの方に歩み寄る。
「…美しいですわ……」
 息を飲む光景だった。シルフィスのほっそりした体は真っ白な絹とレースとベールに包まれていた。長い髪を飾る花も白だった。白い肌を 引き立たせる色に唇が彩られ、緑の瞳をいっそう美しく見せる宝石が、額に飾られていた。
「シルフィスのこのような姿、初めて見ましたけれど」
 ディアーナは息を継ぎながら言った。
「美しいですわ、想像していたよりもずっと」
「姫こそ」
 照れたようにシルフィスは微笑んだ。
「その色、姫にとてもよくお似合いです」
 シルフィスは手を伸ばした。
「…走っていらしたのですね?」
 シルフィスの細い指がディアーナの髪にかかった。器用なそれが、そこに ある花に触れた。
「少し、乱れていらっしゃいますね?せっかく綺麗に装われたのですから、 走ってはいけませんよ」
「…はぁい、ですわ」
 ディアーナは小さく返事をした。
「シルフィス、お母様みたいですのね」
「…姫」
 シルフィスは肩をすくめて小さく笑った。
「いいえ、お母様、ではなくお姉様、ですものね」
 視線の向こうには、大きな花束があった。両手で持てるように、ブーケの 形を施したものだ。真っ白な百合と、薔薇と、そして無数の霞草があしらってあった。
「嬉しいですわ、シルフィスに、お姉様になっていただけるなんて」
 ディアーナは微笑んで首をかしげて見せた。
「ずっと一緒にいられるんですのね」
 親友の一人だった彼女は、今やまばゆいまでの女に成長を遂げて、ここに 立っていた。王族の一人になることを決意して。
「…ずっと、じゃありませんでしたわ」
 ディアーナは言いよどんだ。
「わたくしが、お嫁に行くまで、ですわね」
「姫」
 ディアーナが顔を上げたとき、扉の向こうでざわざわと声がした。扉が 開けられ、そして数人の男が笑い交わしながら部屋に入ってくる。
「まぁ、お兄様」
 彼女の兄は、いつもの見慣れた正装とはまた違う白の衣装に身を包み、 微笑みながらそこに立っていた。シルフィスの表情が、さっと晴れ間が差したように明るくなった。
「ディアーナも来ていたのか」
 いつもなら、妹姫の王女らしからぬ行為をたしなめるところだ。しかし、 今日の彼は浮かべた笑みを絶やすことなく、二人に近寄った。
「どうだ、美しいだろう、お前の新しい姉君は」
 シルフィスがさっと頬を染めるのに、ディアーナはにっこりと微笑んだ。
「ええですわ、シルフィスが美しいのは知っていましたけれど、今日の シルフィスはまるで妖精のようですこと」
「…姫っ…!」
 兄妹に手放しで誉めそやされて、シルフィスはこれ以上はないほどに頬を 染める。
「全く、私も素晴らしい妃を選んだことだとは思わないか」
 セイリオスはすっとシルフィスに近寄った。
「…そう、固くなることはない」
 それは、とても甘い声だった。
「緊張、しているのか?」
「…少し」
 シルフィスは消え入るような声で言った。
「大丈夫だ、私に任せておけば」
 セイリオスはシルフィスの頬に手を寄せて、うつむきがちだったそれを上に 上げさせた。
「それとも、この私とともにあってもまだ不安か…?」
「……いいえ、とんでもありません」
「姫さま」
 まもなく、神の前で永遠の誓いを立てようという、美しい二人を 見つめていたディアーナは、侍女の一人に声をかけられてはっと顔を上げた。
「そろそろ、神殿の方にお向かいなさいませ」
「…そうですわね」
 ひそかなささやきを交わしあう兄と、新しく姉になるシルフィスの方に ディアーナは声をかけた。
「お兄様、わたくし、失礼いたしますわ」
「ああ」
 セイリオスは振り返った。
「神殿で、またお目にかかりましょう」
「姫さま、よろしくお願いいたします」
 ディアーナは穏やかに笑みを浮かべた。
「ええ、もちろんですわ」
 背中の向こうに、神の祝福を授けられた二人の姿があった。
 …あそこにいるのが、わたくしなのだったら。
「ねぇ、ご存知?」
 自分を迎えに来た、古参の侍女にディアーナは話しかける。
「シルフィスは、姿もとっても美しいけれど、心もとても清らかなのですわ」
 侍女はそれにうなずく。
「ええ、そうお聞きしておりますわ」
「シルフィスはね、決して人を妬んだりするような醜い感情は 持ちあわせていないの。いつも人のことを考えて、決して出しゃばったりもしないのですわ」
 ディアーナの言葉に、侍女は変わらぬ相づちを打ちながら、ディアーナの その言葉に首をかしげて見せる。
「お兄様はお兄様で、とっても素晴らしい方だし、女神様の祝福がお二人の 上にあるのは、当然のことですわよね」
「…姫さま?」
 …それが、わたくしなのだったら。
 神殿は美しく飾り付けられていた。決して華美にならず、それでいて この喜びの日を演出するにふさわしい白や桃色の花で埋め尽くされていた。
「…美しいですわ」
 二人の一番近しい血縁者として、ディアーナは祭壇にもっとも近い席を 与えられた。彼女には、婚礼においての大切な役目があった。
「シルフィスも、お兄様も、神殿も、皆とっても美しいわ」
 ディアーナは一人小さくため息を付いた。
「……醜いのは、わたくしの心だけですわ」
 誰も知らなかった。薔薇色の衣装に身を包み、きらめく宝石に負けぬ 可憐さを放っているこの姫君の、その胸の内に宿るやるせないまでの黒い炎が燃えていることを。
 …わたくしが、シルフィスより美しくて、シルフィスより清らかな心を 持っているのだとすれば、お兄様はわたくしをお選びになったのかしら。
 式の始まりに、ディアーナの内に宿っていたのはそんな言葉だった。
 …わたくしが、シルフィスのようだったら。お兄様は、わたくしを 愛されたのかしら。
 神官がクライン王国の皇太子と、アンヘル種の娘の婚姻を女神に報告する。この二人が結ばれるまでの道は、種族の違いから来る弊害も相まって、決して平坦なものではなかった。それだからこそ、乗り越えた障害の数の分だけ 二人の姿は輝いて見える。招かれた者は皆、人形のようによりそう美しい二人に感歎のため息を隠さない。
 神の祝福を示す、白い花がディアーナの手には握られていた。二人が神への誓いの言葉を述べ、立ち上がったとき、ディアーナもそれに倣って祭壇近くの自分の席を立った。二人の元に歩みより、花を二人の手に渡す。
「ご成婚、おめでとうですわ」
「ありがとう、ディアーナ」
 セイリオスはそれを、これ以上はない幸せそうな顔をして受け取った。
「ありがとうございます、姫」
 先日女への分化を遂げたばかりとは思えないほどにたおやかなしぐさで、 シルフィスもそれを手に取った。未婚の、清いままの女性から渡される白い花を成婚の証とする、この国の古くからの習慣だった。
 …ここにいるのがわたくしだったら。
 ディアーナは、シルフィスに手渡す花の向こうで考える。
 …真っ白なドレスを着て、白い花を手渡されているのがわたくしだったら。
 それは、恐ろしいまでの考えだった。神は、決してそのような妄想を 許すまい。急いでディアーナが首を振ってその考えを打ち消したのを、セイリオスもシルフィスも気づいた様子はなかった。
 …わたくしが、シルフィスのようだったら、わたくしがシルフィス なのだったら。
 ディアーナは、ぼんやりと二人を見上げる。ステンドグラスを通して 差し込む、まぶしいまでの太陽の光が目を刺した。それは、決してディアーナを照らすものではない。
 …わたくしが、シルフィスなのだったら。
 そんなはずもなかった。彼と彼女は兄妹で、いかに仲が良かろうと、 結婚できる間柄ではない。そして、いかに兄が優しかろうと、彼女を妹以上として見ているわけでもないことぐらい、考えずとも彼女自身が 一番よく知り抜いていた。
「ご成婚、おめでとうですわ」
 ディアーナはにっこりと微笑んで、そう言った。
 …シルフィスが、いなかったら。
 微笑みの裏に浮かぶ、黒い炎。ディアーナはそれを必死に打ち消す。そんな、考えるのも恐ろしいことが、自分の心から出たなんて。
 …それが、わたくしなのだったら。
 それでも、片恋に燃やす炎がディアーナの胸を嘗める。かき消しても、 そこにぽっかり浮かぶのは、願っても栓ない切なる望み。
「お兄様、どうぞ、お幸せに」
 声は浮かんで、かすれて消えた。

 …わたくし、なのだったら。


END