桜月夜
コト・・・ 「・・・またか」 微かな音を聞きつけた青年が眉をひそめ、呟いた。 時刻は夜の十時。散歩に最適な時間とは言えないのに隣人の少女はここ二週間ほど、こうしてこっそり部屋を抜け出してはどこかへと出かけている。 そして、帰ってくるのはいつも真夜中過ぎ。 「毎日、一体どこへ行っているんだか」 窓からそっと外をうかがうと、白いワンピースに青いショールを羽織った少女が踊るような足取りで森へと向かっていた。 「・・・森、だと?」 今日、初めて少女が通っていた場所を知った青年はギョッとして立ちあがる。昼間ならともかく、夜に森に入るなど常識では考えられない。魔物が少なくなり、危険が減ったとはいえ、まったくいなくなったわけではないのだ。 「仕方がないな」 手にしていた魔術書を机の上に置くと、青年は少女を追うために外へと出ていった。 森の中に入った青年は遠くに白い人影を見つけると急いでその後を追う。急いで追っているはずなのに、その距離はなかなか縮まらず青年は奇妙な焦燥感に捕われた。 −イソゲ。イソガナケレバ キエテシマウ。 心の奥から聞こえてくる声。それは、あえて目を背けていた自分の不安だ。 少女はここに残ると言ったのに。自分の側にいると言ってくれたのに。それなのに、この不安は一体何処から来るものなのか? 少女を追っていた青年の足が早足になり、駆け出すような早さに変わる。そして、青年は少女に追いついた。 「・・・」 真っ先に少女の名前を呼ぼうとした青年はその風景に目を見張り、絶句する。 辺り一面、ピンクの色彩で染められていた。 はらはら、はらはらと舞い散る花びら。 散り落ちた花びらで敷き詰められたピンクの絨毯。 周辺の木々はピンクの可愛らしい花を一杯に咲かせ、散らしている。 その一本の樹の根元に敷布を広げ、座り込んで花を見上げている少女がいた。 舞い散る花と同じ、ピンクの唇から澄んだ歌声が零れている。 まるで神聖な場に踏み込んでしまったような錯覚に陥り、青年はなかなか少女の名前を呼ぶことが出来なかった。 ためらっている青年の気配を察したのだろうか。少女の歌声がやみ、視線が青年の方へと向くと驚いたように少女は青年の名前を呼ぶ。 「キール?どうしてここにいるの?」 さっきまでの、触れるのを躊躇うような神聖な空気は消えうせ、何時もの明るく生命力に溢れた少女に青年はほっとし、座り込んでいる少女の側に寄った。 「ここ二週間ほど、部屋を抜け出していただろう」 「あ、やっぱりバレていたんだ」 ペロリ、と舌を出す少女の側に座った青年はコン、とその額を小突く。 「バレないと思っていたのか?」 「ううん。でも、何にも言わないから、ひょっとして、と思っていた」 「まさか、二週間もこの状態が続くとは思っていなかったんだよ。しかも、行き先が森だとはな」 「・・・何か、問題あるの?森だと」 キョトン、と首を傾げた少女に青年の眉が吊り上った。 「メイ、お前なぁ、一体どれだけここにいるんだ!森にはまだ、魔物が生息しているってこと、忘れたんじゃないだろうな!!」 「あ、えーと・・・忘れたわけじゃ、ないけどぉ」 がうっと咆えた青年の勢いに思わず首を竦めた少女が上目遣いに青年を伺う。 「・・・桜、見たかったんだもん」 ぼそっと呟いた言葉に青年は周囲の木々を見まわした。 「『さくら』?この樹、『さくら』って言うのか?」 「知らないの?クラインではどう呼ぶか知らないけど、あたしの世界では桜って言うの。あたし、桜が大好きなんだ」 はらはらと舞う花びらを少女は夢見るような瞳で見つめる。 「咲き始めの可憐さ、満開の華やかさ。太陽の下で見る桜の艶やかさ、月明かりの下で見る桜の神秘さ。そう、花ぼんぼりみたいに月の光で桜自身が光っているように見えるの。・・・でもね、あたしが一番好きな桜は散るとき」 手を伸ばし、花びらを受けとめながら少女は青年を振り仰ぐとにっこりと笑った。 「一斉に咲いて、一斉に散る。その散り方が潔くて・・・あたしのいた国ではそれが共感できるお国柄なんだ」 「・・・お前もある意味、潔いよな」 「そう?」 自分ではそう思わないけどな、と呟く少女の栗色の髪に青年は手を伸ばし、サラリ、と梳く。少女がこの世界に来てから毎日のようにかけていた補助魔法。必然の行動だったのだが、それが楽しみになったのは何時のことだったのか。 サラリ、サラリ。 しなやかで柔らかな少女の髪は、言わないけれど青年のお気に入りで。補助魔法をかける時以外でも青年はよく、少女の髪を梳いていた。 子供扱いのようなこの行動も、青年相手だと少女は文句も言わずにそれを受け入れる。自分の髪の間を滑るように梳いていくその手が優しくて、暖かくて、心地良いと知っているから。 「この世界にいると決めた時、お前、何をしようとしていたか覚えているか?」 サラリ、サラリと髪を梳きながら青年が問い掛けた言葉に少女は首を傾げ、数ヶ月前の記憶を掘り起こしてみる。 「えーっとぉ・・・あ、荷物の整理をしようとしたっけ」 「整理という簡単な言葉では済まないだろうが。全部、捨てようとしたんだぞ、お前」 そう、この少女はこちらの世界に召喚された時、一緒に持っていた数々の品物を処分しようとしたのだ。青年が慌ててそれを止めたので、それらはゴミにならずにすんだのだが。 「いくら、ここに残るって言ったって、あんなに大事にしていた物なのに・・・潔すぎる」 「・・・だって、キール、気にするでしょ?」 慎重に、相手を伺うように少女は青年を上目遣いに見上げ、その言葉に青年は少女の髪を梳いていた手を止めて相手を見下ろした。 「気にする?」 「あたしが向こうの話をする度にキール、辛そうな顔をするんだもん。ここに残ることを決めたのは他の誰でもないあたし自身だし、あたしがそう決めたのはキールの側に居たかったから」 「メイ」 「なのに、キール自身が『帰してやれない』っていう自己嫌悪に陥っていたら、あたしが何の為にここに残ったのか分からなくなるじゃない。だから未練も、何もかも、きっぱり捨てようとしたのよ。あたしが今、一番大事なのは、向こうの世界の物じゃなくてキールなんだから」 いつも、思う。この少女の強さと鮮やかさに惹かれたのだと。 寂しくないわけがないのだ。もう、二度と生まれ育った世界を見ることが出来ないのに、それでも少女は笑っている。自分の我が侭に近い求愛に答えて、ここに、いる。 「ねぇ、キール。忘れないでね。あたしはここが好きで、あんたが好きで、ここにいるってことを」 「・・・そうだな」 てらいのない、素直な少女の好意に青年はため息のような呟きで応え、少女を引き寄せるとその腕の中に閉じ込めた。少女の栗色の髪に頬を乗せ、抱き締めた腕に力を込める。 柔らかくて、暖かな感触が愛しかった。 確かに少女がこの腕の中にいるということが、嬉しかった。 「あったかい・・・」 青年の胸にもたれ、幸せそうに瞳を閉じていた少女がうっとりと呟く。 「お前、薄着なんだよ。この時期に、しかも夜、そんな格好で出れば冷えて当たり前だ」 小言を言いながらも青年の腕は少女を抱き締めたまま、その言葉さえ、どこか甘さが滲んでいる。 「気にならなかったから・・・」 「風邪を引くぞ」 「大丈夫よ」 何気ない会話が嬉しくて、お互いの体温が優しくて、幸せで。 今、何よりも大事な・・・。 花吹雪の中で続けられる会話はとても甘く、幸せな雰囲気に満ちていた。 END |