夢路の果て


 夢を見た。

 シルフィスは宝石をちりばめた豪奢な衣装を身にまとい、白い馬車の中にいた。参道では多くの人がこちらに向かって手を振り、それに応えてシルフィスが白い手袋をはめた右手をためらいながらわずかに揺らすと、歓声が返事となって返ってきた。
 晴れやかな日差しの中、音楽が鳴り響き、たくさんの花びらが舞い、シルフィスが乗っている馬車の前後にも白い馬に乗った騎兵や彫り物のされた銃をささげ持った兵士たちが付き添って花を添え、歓喜の声が止むことはない。
 隣を見れば、そこにいるのはセイリオスだった。いつもは優しい中にも厳しい色をたたえている表情がわずかに緩み、シルフィスと視線が合うとにっこりと微笑んだ。
 その、屈託のないまでの笑顔にシルフィスが慌てて視線を伏せると、背中に手を差し伸べられ、それが真っ白な衣装の上をすっと滑ったかと思うと首の後ろに添えられて、シルフィスは少し上を向かされた。
「…シルフィス」
 甘い声がして、唇が重なった。シルフィスは驚いてそれを跳ね除けようとしたが、体は彼女のいうことを聞こうとはしなかった。その手はやはりセイリオスの背中に回されて。それを優しく抱きしめた。
「殿、下……」
 シルフィスが呻くように、唇の隙間から呟くと、セイリオスは顔を遠ざけてその深い菫の花の色をした瞳でシルフィスを見つめた。
「セイル、だ」
 シルフィスが顔を下げたとき、頬にまとわりつく布があってそれに手を添えた。それは細かいレースを幾重にも重ねた輝くようなベール。耳元をくすぐるものに手を添えてみると、指先には小さな白い花びらがついて来た。
 見ればセイリオスはいつもの、皇太子としての正装ではなく、水色と白で彩られた見たことのない衣装をまとっていた。その胸には、一束の小さな花。
 セイリオスの背中の後ろにある、馬車の窓には知らない女が映っていた。蜜色の髪、新緑の瞳、それは見慣れた色であったはずなのに。そこに映っている女はそれを高く結い上げ、白いベールで包み込み、花を飾り宝石を巻き。唇さえ赤く染めてこちらを驚いたように見ている。
「どうしたんだい、シルフィス」
 そんな彼女をいたわるようにセイリオスが言ったとき、馬車が止まった。セイリオスに手を取られてそれから降りるとき、あまりにも長いドレスの裾が邪魔になった。それにつまづきそうになるシルフィスを、セイリオスはただ黙って微笑んで見ていた。
「シルフィス!」
 跳ねるような声が飛び込んできた。それはあの、お転婆でおませな愛らしい薄緋色の髪をした姫君。彼女もまた、いつもとは違うより華やかな衣装に身を包み、そして手には花束を携えてシルフィスに走り寄った。
「これからはシルフィスのこと、お姉様、ってお呼びしてよろしいのですわね」
 無邪気なその声にどう応えたものか、見上げればそこにある宮殿の一番大きな扉にまで続く赤い絨毯の上に立ちながら、シルフィスはディアーナとセイリオスを交互に眺めた。
「お兄様、シルフィス、ご成婚おめでとうですわ」
「ああ……」
 右手をセイリオスにとられ、左にはディアーナが付き添い、靴が埋まってしまうほどの絨毯の中を、シルフィスは歩いた。回りを取り囲むたくさんの人々は、皆にこやかな笑みを作ってシルフィスを見守っている。
「嬉しいですわ、わたくし、ずっとシルフィスといられるんですのね」
 ディアーナは無邪気にシルフィスの回りを跳ね回り、シルフィスに微笑みを作らせた。
「ディアーナ、シルフィスはお前と結婚するわけではないよ。この私を一番に考えておいてもらわねば困るのだがな」
 セイリオスの笑いを含んだ声に、ディアーナはますますにこやかに応じる。
「分かっていますわ、でも、わたくしとも仲良くしてね、シルフィス」
「…もちろんです…」
 顔をのぞき込まれて、シルフィスは曖昧にうなずく。ディアーナは笑った。
「シルフィスったら、緊張していらっしゃるの?」
 鈴を転がすような声が、悲鳴に変わった。耳をつく鈍い音がした。それは腹の底まで響き渡る、骨までを揺るがすような音で、シルフィスがその耳慣れない音にはっと振り向くと、目の前には真っ赤な焔。それは細かな飛沫となって、白く塗られたシルフィスの頬をかすめた。鉄の匂いが鼻をつく。
「…殿下…!」
 左胸に赤く抉られた痕を付けたセイリオスが大きく目を見開いて、何か言いたげに口を動かしたかと思うと視界から消えた。
 鋭い音がもう一つ響き、火薬のいやな臭いがした。血の匂いが広がった。ディアーナの悲鳴が耳を突いた。
「いやぁ、お兄様、シルフィス!」
 何があったのか、頭を巡らせる前に、シルフィスはその場に膝を突いた。青ざめたセイリオスの顔を見た。それは、まるで…。

 シルフィスは、魔法の力を持たずに生まれた。
 アンヘル種の中でも異端だった彼女は、魔力を持たず剣を振るい、騎士になることを夢見て育った。そして、十五の春に王都に出る決心をしたそんな年若い同志に、長老は餞をよせた。
「お前は、魔法の力を持たないようだ。しかし、その体に流れるアンヘルの血が、お前に特別な力を与えている」
 シルフィスは、長老の、自分と同じ色をした目に見入る。
「お前は、たった一つの真実を手に入れる。たった一つの真実を夢に見る。夢に真実を映し出す力を宿している」
 枯れ木のような手をシルフィスのそれに沿えて、長老はまるで魔法の力を流し込むかのように言葉を呟く。シルフィスは神妙な表情でそれを見つめる。
「お前は、真実となる夢を見る。お前の見た夢は真実となる」
 シルフィスは眉をしかめ、その言葉を理解しがたいと言ったふうに受け取った。
「どの夢がそうなのか、誰にも分からない。きっと、お前自身にも分からない。しかし、お前の夢は真実となる。その、示すところを吉となすか凶となすか、いずれもお前次第だ」
 シルフィスは、その言葉を背に王都に向かった。彼女の夢を、望みを手に入れるために。

 「殿…下…?」
 起き上がったときの自分の悲鳴をはっきりと聞いた。それを誰かに聞きとがめられてはいないかと胸を押さえながら辺りを見回す、誰もいるはずはない、ここは、自分一人に与えられた部屋だ。口から飛びだしそうに跳ねる心臓をシルフィスは必死に押さえた。夜着が汗に湿って、それが肌に吸い付くのが気味悪い。シルフィスは首を振った。
 深い呼吸をいくつもして、やっと体は平静さを取り戻した。しかし、それでもなお落ち着かないのはなぜなのか。シルフィスは起き上がり、濡れた夜着をはぎ取った。
「…殿下…!」
 その名を呟くと、新たな不安が胸を刺す。淀み来る恐怖がシルフィスをいても立ってもいられなくさせる。生々しい夢だった。それは、まるで用意された映像を見るように。白い衣装、髪を飾る花、穏やかな暖かさ、幸せの一時、そして…。
 シルフィスの衣服は素早く訓練用の、軽快で肌の露出を防ぐ衣装に変えられた。腰には与えられたばかりの剣を差し、シルフィスは未明の宿舎をあとにした。慌ただしい足音を聞いたものがいるかもしれなかったが、それは、今のシルフィスには頓着すべきことではなかった。
 王宮は静まり返って人影もない。勝手知ったる道を行き、顔見知りにさえなった門番に中庭に通され、そこからセイリオスの執務室はすぐだ。
 朝まだきというのに、そこには彼がいた。いつものようににっこりと微笑み、そしてシルフィスの名を呼んだ。
「どうした、こんな朝早く」
「…殿下、こそ…」
 何も変わらない、何もおかしなことはない。夢の波動が魔力になって、二人を包んでいくこともない。シルフィスは神経をとがらせて、目の前のセイリオスの顔を見た。
「なにかあったのかい?悲壮な顔をしているよ」
 セイリオスは笑って、シルフィスに椅子を勧めた。
「まだ、侍女たちがそろっていないんだ。私でよければ、お茶でもご馳走させて くれないか?」
「そんな、殿下自ら…」
 シルフィスは言いよどんだが、セイリオスはそんなことは気にしない、とでも言うように笑った。
「いいんだよ、たまにはね」
 手伝おうにも要領がわからない。そんなシルフィスを尻目に、セイリオスは嬉々とさえして茶器を暖めた。
「こういうことは、なかなかやらせてもらえなくてね」
「そんな、殿下のなさることではありません」
 シルフィスの言葉にセイリオスは笑ったが、それでも手を休めない。
「こんな時は、手ずからお茶ぐらい入れるのが礼儀というものだろう?」
 セイリオスはおもむろにシルフィスの方を振り向いた。シルフィスは思わず後ずさった。その、恐ろしいほどに深く澄んだ瞳に射られて。
「…シルフィス」
「…は、い…」
 夢が横切る。白い焔と、赤い焔、それらが視界をかすめて去って、シルフィスは眩暈に倒れそうな体をやっとのことで支えた。
「よく、来てくれた」
 さっと空気が変わった。それは、セイリオスが急に唇を引き締めて表情を変えたからかもしれなかった。
 ある予感を感じ取ってシルフィスは背筋をぎゅっと伸ばした。
 いつもの、執務に当たるときとは違う種の真剣さを秘めて、セイリオスは口を開いた。
「話が、あるんだ」

 夢を見た。
 魔法の力を持たずに生まれたアンヘルの娘はそれとは知らず、夢を現実に転じる力を持っていた。
 すなわち、彼女の見た夢が真実、真実を夢に見、そしてそれに抗う術をまだ知らない。何が真実となるのか、何をして真実とするのか。その応えを求めて、彼女は抗う。
 真実となるのは、どの夢か。白い衣装を着た夢か、愛らしい姫君が妹となる夢か。はたまた、その先の。
 シルフィスは首を振った。
 そんなことはさせない、させたくない、させてはならない。それは、頑ななまでの決意。目の前でまばたきもせず立つ男への、それが答え。

 「この命に代えても、殿下をお守りいたします」

 それは、彼女の永遠の誓い。


END