恋を紡ぐゆりかごの歌


 幼なじみの一人が死んだ。
 魔法の暴走を防ぎきれず、跳ね返る力の威力を一身に受けて、彼は死んだ。
 焔の魔法はその主である彼を灰に至るまで焼け焦し、残ったのは骨さえ残ら変わり果てた彼の姿。
 それを目の当たりにしたシルフィスは、声の限りに彼を呼んだ。村一番の 魔道師だった。長ずれば、長老の跡継ぎとも黙されていた彼だった。
 彼の体は灰になり、風がさらってやがては消えた。しかし、シルフィスの 胸には鋭いもので引っ掻いたような跡が残った。
 愛おしいものの命が、目の前で消え行く瞬間、それをただ見ているしか 出来なかった自分。散り行く命の儚さ、そのあまりのあっけなさ。
 シルフィスは泣いた。胸を掻きむしり、血の涙を流して泣いた。
 彼の心の一番奥に刻まれた傷は嘖むような痛みを今も残している。今でも その爪痕は彼を時折締めつける。息をさせないとでも言うように彼を苦しめる。
 幼い傷跡は、時折その頭を覗かせた。

 「殿下!」
 瞳を伏せ、眉根に皺を刻んでそこに横たわる皇太子の姿を見たとき、 シルフィスは思わず大声をあげた。駆け寄ってその肩に手をかけた。その青ざめた顔を見て血の気が引くのを知った。
「殿下、しっかりして下さい!」
 その声に気づいたのか、セイリオスの瞳がわずかに見開かれる。いつも、 鮮やかにシルフィスの姿を映す目は今はどんよりと曇っていた。
「…来て、くれたのか…」
 その唇はわずかに微笑みを浮かべた。
「…待ちくたびれたよ…」
 しかし、それもまもなく閉じられて、先程よりも青白く染まった顔色の中、 セイリオスは口をつぐんでしまった。
「殿下、殿下!」
 ただ、それしか出来ない。膝まづいて彼を呼び、その生が今にも消えて しまいそうになるのをどうしようもない思いで見つめるしか出来ない。
 シルフィスが、セイリオスの手に握られた紙に気づいたとき、そして 背後からシオンの声を聞いたときは同時だった。

 儚くも消えゆく命の前で、人はなぜこうも無力なのだろうか。

 夢を見た。
 それは、夢であるはずだった。

 あれは、夕暮れの街、王都を一望できる丘の上へ二人で上ったときの記憶だ。
 いつもの、正装である真っ白な衣装は脱ぎ捨てて、まるで庶民のような格好に身をやつしたセイリオスが、いささか瞳を伏せながら自らの心中を 呟きだした時。いつもは雄々しく臣下を見下ろし、迷いなど一かけらもないようなその瞳がわずかな哀愁に濡れているのを見てシルフィスは心底 驚いた。
「殿下…」
 思わず彼に呼びかけて、その、犯しがたい悲哀の空気に手だしを阻まれる。
 口をつぐんでシルフィスはただその横顔を見つめた。
「…なんだい?」
 そんな彼に気づいたのか、セイリオスはわずかに彼に向かって微笑んだ。 それは夕焼けの赤の中では眩しすぎ、シルフィスは目を細めた。
「…?」
 影が重なった。ふと閉じた瞼の向こうが暗くなったかと思うと、唇に 柔らかいものを感じた。
 視線を上げると、そこにはセイリオスの微笑みだけがあった。未知の間隔に戸惑うシルフィスに、小さく、そして困ったような笑いを一つ漏らして彼は 言った。
「もう、行こうか。日が暮れる」
 セイリオスはシルフィスに手を差し出した。手の平を彼の方に向けて、 それは、まるで淑女を迎え入れる騎士の仕草。
「……はい」
 低い声でそう言って、シルフィスはその手をとった。臣下として、許される行動ではなかったはずだった。シルフィスは一瞬ためらったが、やはりそれを取って、その手つきのぎこちなさにセイリオスがまた笑った。
「今日のことは、他言無用だよ」
 そんな言葉さえもシルフィスを戸惑わせるばかりで。
「君には、何も隠さなくていいという気がするのだよ」
「それは、信頼していただいているというふうにとってもよろしいのですか?」
 シルフィスが背筋を正してそう尋ねると、セイリオスは夕闇の迫る煉瓦の 道に足を止め、シルフィスの方を振り向いて、いくつかの呼吸の後言った。
「……そうだね」

 柔らかな、甘い味。

 「シルフィス」
 名を呼ばれてシルフィスは驚いて頭を上げた。そこは薄暗い宿屋の廊下で、 目の前には筆頭宮廷魔道師。
「起きたか」
 その表情は、わずかに曇りわずかに戸惑い、その色は彼の表情には 見たことのないもので、シルフィスはいささか驚いた。
「…私、居眠りなんてしてたんですね」
 不覚に頬を染めながらシルフィスはつぶやいた。
「ま、無理もないがな」
 シオンは肩をすくめながら言った。
「殿下に会うか?」
 シルフィスは顔をあげた。
「いいんですか…?」
 また、さきほどの表情が浮かぶ。シオンはシルフィスから視線を反らし、 呟くように小さく言った。
「…最後かも、知れんからな」
 シオンはシルフィスに手を差し伸べた。シルフィスはそれをとろうとしたが、しかしそのまま立ち上がった。差し伸べた、空のままの手をシオンは目を 丸くして見、そして微笑んだ。
「入んな」
 まさか、そんな姿を見ようとは。シルフィスは驚いて立ちすくむ。血の気の失せた顔、固く閉じられたままの瞳。まるで、土で出来た人形のように、 そこに横たわるのがあのセイリオスだとは、シルフィスにはにわかには信じられなかった。
「殿…下……」
 シルフィスは息を飲む。
「そんなに、悪いんですか。最後だなんて…」
 シオンは視線を反らしたままだ。セイリオスの顔も、そしてシルフィスの 表情も見ようとはしない。ただ、シルフィスを促すのみ。
「殿下…」
 背後で閉じる扉の音は、シルフィスの緊張の糸を切った。シルフィスは床に 膝を突き、固く閉じた瞳を見つめた。
「こんな…私のせいで…」
 唇が震えるのをシルフィスは堪えた。セイリオスの横たわる寝台に手を突き、力を込めて体の震えを止めようとした。それでも、過去の記憶が恐怖を くすぐる。掻きむしられた胸がその血を流した痛みを思いだす。人の手ではどうにもならない運命の糸の狂いを解きほぐそうと悶えるが、それも今は かなわない。
「…お許し、下さい…」
 永遠に開かない目、二度と動くことのない指、冷えていく体。恐ろしい 情景を目の前に見て、シルフィスの草原の色をした瞳が曇る。靄が視界を覆ったかと思うと、一滴の透明な液体がこぼれ落ちた。
「…あ…」
 それは、シルフィスのあずかり知らぬ所だった。瞳を濡らすその雫の意味を、 シルフィスはまだ知らなかった。
 それはこぼれて、横たわるセイリオスの頬の上に落ちた。日に焼けない白い肌の上に、それは美しく光ってシルフィスは目を奪われた。
「あっ…」
 それはこぼれてシーツの上に落ちた。シルフィスは慌てて彼から離れ、 残りの涙を自分の指でぬぐい去る。
 シルフィスは一歩セイリオスの横たわる寝台から退き、そしてその場を 足早に去った。扉の向こうにはシオンがいて、何か言いたげな瞳をこちらに向けている。
「…殿下は、無事なんですか?」
 シオンは肩を反らせ、眉をしかめて小さく言った。
「さぁな、分からん。とにかく、最善を尽くすのみだ」
「どうか…」
 頼み込もうとして、やめた。シオンの瞳は言われるまでもなくそれを 承知していたからだった。
「シルフィス」
 小さく聞こえたのはシオンの声だった。
「何も、自ら不幸をしょい込むことはない」
 振り返るとシオンはセイリオスの傍らにいて、その顔をのぞき込んでいた。シオンとともに彼の治療に当たっていたイーリスが、その横に立って何事かを囁く。それは、シルフィスには伺い兼ね、彼は軽く会釈をすると、急いで扉を閉じた。

 夢にしては、あまりに熱いその質感。

 彼はまだ、大通りからは死角に当たる、あの宿屋の一室にいるはずだった。
 シルフィスはそこに立っていた。毒を受けた体が戻りきっていないのだ。最初、セイリオスが運び込まれたとき漂っていた血の匂いはもう消えているだろう。
 しかし、あの時見たセイリオスの、血が通っているのかと見まごうほどの 顔色が脳裏をよぎってシルフィスは体を震わせた。
 死というものが呼び起こす恐怖はあまりにも強く、シルフィスはそれに 心臓をもぎ取られそうになるのを感じた。そこにいるはずなのに、その命は生を掴んでいるはずなのに。そうであるはずなのに。
 なぜ、こんなに不安なのだろうか。今にも、神が彼の命をかすめ取って いきそうで。

 殿下が、いなくなる。

 そんな夢は、どうしてここまで苦しいのだろうか。

 儚くも消えゆく命の前で、人はなぜこうも無力なのだろうか。

 殿下がいなくなる。
 そのことが、なぜこんなに自分を苦しめるのか。何くれと世話を してくれた人だからだろうか、アンヘル種にも分け隔てなく手を差し伸べる聡明な人だからだろうか、国を統べるため、必要な人物だからだろうか。 優秀な君主を失う民としての心の痛みだろうか。
「違う」
 シルフィスは一人、ごちた。胸の疼きがかぶりを振る。シルフィスの心が 叫んでいる。あの方に、ここにいて欲しい。クライン王国の皇太子としてではない、セイリオスという男そのものに。彼がそこにいて、呼吸をして、そして微笑みかける。それが、何よりの宝。何よりの至福。
「殿下…」
 シルフィスは目を手の平で覆った。その気持ちを何と名付けるべきか、 シルフィスはまだ知らない。切なく心が軋む、ただ一つの名を叫んで疼く心を犯す病が何と言う名なのか、シルフィスには思い当たる術すらない。
 ただ、セイリオスの無事が見たい。

 焼けて死んだ幼なじみ、あの、悲しみを繰り返すことのないように。 シルフィスは祈った。

 「あ」
 そこに、どのくらい立ち尽くしていたのだろうか。気づけばもう朝日は その顔をすっかり覗かせて、わずかに朝の活気が漂い始めている。
 シルフィスは見とがめられないように慌てて身を翻した。まだ、セイリオスを襲った輩が徘徊しているとも限らない。そして、彼らはシルフィスの名を 語ったのだ。きっと、シルフィスの顔も知っているのだろう。
「…シオン、様?」
 人目を避けるようにすり抜けた影があった。それは深く布をかぶって顔を 隠してはいたが、その端から見えた青みがかった艶のある髪は、まさしくシオンのものだった。シルフィスは胸騒ぎに心を躍らせる。シオンがここに 来るということは、セイリオスに何かがあったのだ。果たしてそれは、吉報か否か。
 セイリオスが姿を覗かせたとき、シルフィスは駆け寄りたいのを懸命に 堪えなければならなかった。シオンと同じようにその姿を隠してはいるものの、シルフィスが彼を見まごうはずはない。シルフィスは、その二つの人影を じっと見つめた。彼の姿は二人の出てくる木戸の、その正面にあった。
「…シルフィス」
 その意外に元気そうな声に、シルフィスは息をついた。足の力が抜けて、 立っていられなくなった。シルフィスはその場にへたり込み、潤みきった瞳をセイリオスに向ける。
「…殿下、ご無事で」
「ああ」
 セイリオスは笑ってシルフィスの方へ足を向けた。目深にかぶった布の中で、その顔色は澄み切っているとは言い難かったが、それでもそれはシルフィスが求め続けたセイリオスの笑顔で、シルフィスは声を震わせた。
「心配、していてくれていたのか」
 シルフィスはうなずいた。震える声を押さえて言った。
「殿下が、殿下に何かあれば、この私も生きてはおりませんでした」
 セイリオスは笑って、シルフィスに手を差し伸べた。シルフィスはそれを ためらった後取って、セイリオスの前に立った。
「それは、このうえもない殺し文句だね」
 シオンは苦虫をかみつぶしたような顔でそこに立っていた。そして シルフィスの方を見ると、むっとしたような表情を投げてよこす。
「おいで、シルフィス。このまま王宮まで、私たちの護衛をして行っては くれないか」
「…喜んで」
 シルフィスは腰の剣を確かめて、そして先導を切って歩きだす。 その足取りは軽やかで、シルフィスは今までの不安が嘘のようにかき消えていくのを感じた。
 シルフィスは首を反らして二人を先導する。シオンが何かセイリオスに囁き、それをセイリオスは笑って交わす。会話の内容は聞き取れなかったし、 聞き取ろうとも思わなかった。
 ただ、、目の前の真実が嬉しい。
「ここで待っておいで」
 王宮に着いたとき、その門前でシルフィスは頭を下げて、そのまま 立ち去ろうとした。しかしセイリオスがそれを止める。そして彼の執務室の前までシルフィスを伴わせたのだ。
「しかし…」
「いいから」
 そう言ってセイリオスはシルフィスを押しとどめた。彼の姿が執務室の中に消えたとき、被り物を脱いだシオンが囁きかけた。
「シルフィス、俺が言ったことを覚えているか」
 シルフィスは振り返ってシオンを見た。その瞳の真摯な色は、いつも あの戯れ言で自分をからかう彼とは到底思えなかった。
「…自ら不幸をしょい込むことはない、とおっしゃったことですか」
「ああ」
 シオンは何かに急かされてでもいるかのように早口にしゃべった。
「いいか、セイリオスが何と言っても断るんだ。それがお前のためなんだから」
「…シオン様?」
 ますます声を潜めて、まるで誰かに聞かれるのを恐れているのか、シオンは 言葉を続ける。
「何も言うな。断るんだ、いいな」
「そんな、承服できません」
 シルフィスはいささか声を荒らげた。
「なぜそんなことをおっしゃるんですか?不幸って、なんのことなんですか」
「いいから…!」
 その時、扉が開いてセイリオスが現れた。その衣装も髪の束ね方も常の彼と変わりなく、シルフィスは安堵が広がっていくのを知った。
「シオン、何か余計なことを吹き込んでいるんじゃないだろうね」
 微笑みさえ浮かべてそう言う。日常が戻ってきた、とそう思った。
「セイル、本気か」
「もちろんだよ」
 シオンの急いた声とは裏腹に、セイリオスは穏やかにそう言い放って シルフィスに手を差し伸べた。
「こちらに」
 シオンの視線を気にしながらも、シルフィスはセイリオスの方へ歩を進めた。
 シオンは眉をしかめはしたが、もうそれ以上は何も言わなかった。
 執務室の中は、涼やかな空気が取り巻いている。
「…シオンに、叱られたよ」
 自虐的にセイリオスは微笑んだ。
「王たらんとするもの、立ち止まることは許されないとね。足を休めることは 死を意味する。自分にとっても、民にとっても」
 セイリオスは大きく息を付いた。大きな机の椅子に腰を下ろし、両手を 組んでその前に立つシルフィスを見つめる。
「…君にも、悪いことをしたな」
 それはあまりに儚い声で、その声が自分の胸を貫き通すのをシルフィスは 知った。
「…悪いと思いながら、君に逃げた。君に迷惑をかけると知っていながら、 自分の心の拠り所に君を利用した」
「殿下…」
 消えゆくような声で自分への責めを綴るセイリオスをシルフィスは 見ていられなかった。
「おやめ下さい、殿下…」
「卑怯な人間だよ、私は」
 ため息が漏れる。
「そうやって、君を傷つけ、自らさえ傷つけた。私一人の体でないことは、 シオンに指摘されるまでもなく、よく分かっているはずなのにな…」
 息をつくわずかな合間さえ、今のシルフィスにはいたたまれなかった。
「そう、ご自分を責めるのはおやめ下さい。私は…殿下にお誘いいただいて、 嬉しかったのですから」
「…そう、言ってくれると、私も安心できるよ」
 セイリオスは微笑んだ。唇の端を持ち上げて、そして眉をしかめる。傷が 痛むらしい。
「…っ…」
「殿下!」
 シルフィスはいささか距離を置いていた彼のところに駆け寄った。
「大丈夫ですか!」
 顔を近づけると、苦しげな息を吐いて瞳を上げるセイリオスがいた。 その視線とかちあって、シルフィスは一瞬たじろぐ。
「…シルフィス」
 囁きに自分の名が漏れた。セイリオスは手を伸ばし、机についた シルフィスの手にそれを添える。
「…君は、分化はまだだったな」
 急に話の矛先を変えられて、シルフィスはとまどいの表情を見せる。
「女になってくれないか、私のために」
 シルフィスは驚きに目を見張った。まさかと彼の瞳を見るが、その 澄んだ色はいつになく真剣な色が広がっている。
「…質問の意味が…」
 息を吸いながら、一文字一文字区切ってシルフィスは声を発した。
「なぜ、そのようなことを…?」
 セイリオスは笑った。あまりのシルフィスの戸惑い方に自嘲するような 笑いを浮かべ、そして席を立った。
「私の妻になってくれ」
 セイリオスはシルフィスの目の前に立ち、その手を取って膝まづく。 シルフィスの手の甲に唇を当て、恭しく目を閉じた。
「で、殿下っ…!」
 慌てふためいてシルフィスはセイリオスを促し、やっとのことで膝を 折るのをやめさせた。
「なにを、なぜ、私を…」
「ずっと、考えていた」
 それでも、セイリオスはシルフィスの手を放しはしなかった。彼に手を とられたままシルフィスは頬を紅潮させてとぎれとぎれの言葉を放つ。
「私が欲しいもの、手に入れたいもの、それはお前でしかあり得ない」
「…殿下…っ…」
 それはあまりに眩しかった。セイリオスの瞳がまっすぐに自分を見つめる、それはあまりにも眩しすぎて、シルフィスは目を伏せた。
「今まで、私自身ずっと戸惑ってきたのだ。お前に会ったときに感じる安らぎ、お前と別れた後に味わう寂しさ、それが一体なんなのか。ずっと気づくことが出来ずにいた」
 シルフィスは困ったように視線をうろうろさせた。ちらりとセイリオスを 見上げると、それはまっすぐに自分に注がれていて、慌ててまた視線を反らせる。
「…お前からの手紙だと思うと、矢も盾もたまらずあそこに行った。よく 考えれば、怪しいところはたくさんあったのに、お前の顔がちらつくと、それ以上のことは考えられなかった」
 窓から朝の風が吹き込んで、シルフィスの蜜の色をした髪をなびかせた。 それを眩しそうにセイリオスが見つめるのが、またシルフィスの頬を染める。
「人をここまで愚かにする感情を、何と言うか知っているかい?」
 シルフィスは、なんとも答えかねて、ただセイリオスを見上げた。 セイリオスは笑って言った。
「恋、と言うのだよ」
 セイリオスは改めてシルフィスの手を握り直し、そして囁くように言った。
「愛してる、シルフィス」
「殿下……」
 そんなときでも、決して姿勢を崩さないのはいかにもセイリオスらしかった。同じ答えがシルフィスから返ってこないとは思ってもいないとでも言うように、小気味いいほどの自信に溢れた表情。
「シルフィスは、私を愛してくれてはいないのかい?」
 シルフィスは首を横には振らなかった。しかし、縦にも振らず、ただ 戸惑いのままセイリオスを見た。
「…私は、そのようなことを考えたことはありません。そのような、 恐れ多い…」
「私が死にかけていると知ったとき、どう思った?」
 セイリオスはまるで、初めて声を出す幼子に言葉を教えるよう、ゆっくり 優しい声音で言った。
「…不安で…」
 シルフィスはその優しさに安堵して、言葉が口から溢れるに任せた。 あの時の、心臓をわしづかみにされたような動揺、心の震え。それが果たして上手く舌に乗るかと危ぶみながら。
「いても立ってもいられなくて、ただ殿下のご無事をお祈りしておりました。 殿下さえご無事なら、この身はどうなってもいいと」
 セイリオスが微笑む。
「それを、愛というのだよ」
 セイリオスはシルフィスの手を解放した。彼の手の平が離れたところが ひやりとした。しかし、程なくシルフィスはセイリオスにその身を包み込まれた。
「…嬉しいよ、シルフィス」
「……殿下…」
 触れ合う肌は、このように心地いいものなのだろうか。回された腕は、 このように暖かなものなのだろうか。間近で感じる彼の匂いは、このように甘いものなのだろうか。
「愛している、シルフィス」
 セイリオスは繰り返した。
「私を愛してくれ、私とともに生きてくれ」
 耳元で呟く声は、溶けて流れる蜜の塊よりも甘く、シルフィスの脳裏を しびれさせた。抱きしめられた体からは力が抜けたが、それをセイリオスが支えてくれた。
「私のために、女になってくれ」
「殿下…」
 シルフィスの声に、セイリオスが抱きしめた腕をほんの少し解いた。そして お互いが触れ合うほどの近さで唇を解く。
「……セイル、と……」
 唇が重なる。その柔らかさをシルフィスは知っている。夕暮れの丘で、 それは一度重ねられた甘さ。シルフィスは目を閉じた。冷たく閉じた唇が、甘さに溶けてゆく。
「……愛してる……」
「セ、イル………」
 その声は途切れることなく、穏やかな旋律を紡ぎだす。やがてシルフィスの 腕がおずおずとセイリオスの背に回された。
「…愛、してる……」
 指は重なり声は溶けて、そしてそこには金色の麗人。どんな淑女よりも 麗しい艶を放った生まれたばかりの女神。
「……セイル…」
「シルフィス……」
 名を呼ぶ声が、途切れることなく紡ぎ出される。
 それは、生まれたばかりの淡い声。
 彼女のあげた、切ない産声。


END