睦言


 汗ばんだ肌を広げて、絡み合ったまま眠る夜はいくつも訪れた。
 手を伸ばせば、そこにいる。確かな温もりがそこにあることを感じて、微笑みながら眠りにつくのは、最近知った、新たな喜びの時だった。たいていは、体に力の入らないシルフィスをかばってシオンは常より倍ほども優しい。先ほどまで苦しいまでの愛撫を醸し出していたその手は、シルフィスの髪を柔らかく撫で、まるで母親に甘えるような気持ちでシルフィスは眠りにつく。眠りが破れたころ、目覚めのあまり良くないシオンはまだ夢の中だ。
 手を伸ばせば、そこにいる。決して裏切られない暖かさにシルフィスは、微笑みを隠すことが出来ない。
「…起きたのか」
 シルフィスが、まだまどろみの中にいるシオンの、自分の首の下に回された腕を引き抜いてそれに口付けを与えているとき、声がした。
「はい…おはよう、ございます」
 シオンの瞳は開かれて、そこからは澄み切った紅茶のような色をした目が現れる。まだ、騎士見習いとして訓練所に通っていたころ、シオンが作りすぎたと言ってたくさんの紅茶の葉をくれたことを思いだした。それは、客にも出さずに一人で飲んだ。
「まぁた、そんな」
 シルフィスの抱えたシオンの腕がひょいと空を切り、シルフィスの唇をその指が 撫でた。
「その、敬語、様付け、やめろってば。宮廷にいるような気になる」
 いくら伴侶とは言っても、宮殿の中での規律には従わなくてはならない。せめて家の中では親しい言葉を使って欲しいとシオンが望むのにも関らず、シルフィスは今まで使い慣れた敬語を閨の中ですらしばしば口にした。シオンに対して使い慣れたこちらの方が、口を突いて出やすいのだ。
「ここでは、そんな言葉遣いはしないって約束だろう?」
「…はい、すみません」
 言って、シルフィスは口を押さえた。上目遣いにシオンを見るシルフィスに、シオンは目を丸くして、そして笑いだした。
「まぁったく、お前ってやつは…」
 そしていきなり起き上がると寝台の上に腰掛けていたシルフィスの肩を抱きすく めた。
「ちょ…」
 バランスを崩してシルフィスがシオンの上に倒れ掛かる。シオンは笑い声を立て ながらそんなシルフィスを抱きしめた。
「可愛いやつ」
 腕に包まれて、シルフィスはいささか戸惑ったが、それでもその暖かさに逆らえるはずもなくて、そのまま成すがままにシオンの上に倒れこんでいた。
 心臓の音が聞こえる。規則正しく打つそれは、脳裏に響いてまどろみを誘う。シオンの腕の中で、シオンの心臓の音を聞きながら、穏やかな空気に酔う。
「…仕事は?」
 シルフィスが聞くと、シオンは肩をすくめた。
「今の俺は、これが仕事」
「…シオン!」
 がばと起き上がって、シルフィスは声を荒らげた。
「駄目だよ、そんなことじゃ。ちゃんと、規則は守らなきゃ」
「いいんだって」
 シオンはシルフィスの言葉を気にする風もなく、横に転がって頬杖を突き、面白そうにシルフィスを見ている。
「そんなに急いで行かなくてもいいんだよ。ちゃんと、やるべきことはやっているから、ご心配なく」
 そしてシルフィスの頭をかき回した。
「もう、頭をぐちゃぐちゃにしないでって」
「ごめんごめん」
 相変わらすの笑い声を立てながら、口では不満を漏らすシルフィスも、それを聞くと頬がほころんでしまう。つられてシルフィスも笑いながら、再び寝台の上に重なりあって身を横たえる。
「…お前は?」
 天井の方を向きながらシオンが聞いた。
「今日は、昼出でいいんだって」
 うつぶせになってそんなシオンを眺めながらシルフィスは言う。
「…行かなくても言いように、言っておいてやるよ」
 シオンがつぶやくように言った。
「そんなわけには…」
 驚いてシルフィスが目を丸くする。
「今日は、遠征訓練の打ち合わせもあるし、新しい騎士見習いの接見も…」
「急ぎの仕事じゃないだろう?俺が、殿下に言っておいてやるから」
 シオンは首をひねってシルフィスを見た。
「それに、すぐには動けないだろう」
 なんのことか、と目をしばたたかせ、思い当たってシルフィスは真っ赤に頬を染 めた。
「そ、そんなこと…」
「ないか?」
 意地悪い光さえ込めてシオンは問う。シルフィスはそれに気丈に答えようとし、そして下半身から来る鈍い痛みに口をつぐんでしまった。
「…ある」
 小さく言うと、唇を奪われた。シオンはもう一度、ついばむような口付けをする とまた体を横たえる。
「ま、俺に任せとけって」
 それでもシルフィスは尖らせた唇を容易には解かない。
「そんな、シオンに言ってもらったりしたら分かる人には分かっちゃうだろう?そんな恥ずかしいこと、いやだ」
「大丈夫、大丈夫、心配しなさんな」
 無責任とも思えるほどの軽さでシオンは手を振った。
「そんなこと、心配しなくてもみんな、もう今さら分かっているから」
「シオンっ!」
 憤慨してシルフィスが声を立てる。それをなだめるようにシオンがまた彼女の頭 をなでる。
「怒った顔も、綺麗だぞ」
「…シオン…」
 ため息とともに彼の名を口にすると、シオンがシルフィスの体を引き寄せる。その先に言葉はなくて、そこには寄り添った二つの体。シルフィスは、力が抜けたように目を閉じて、それ以上はもう何も言わなかった。
 暖かな時間が過ぎていく。薄い眠りを誘うような、静寂の中の
「…シオン」
 名を呼ばれて、彼は彼女の方を振り向いた。ぼんやりと、ともすれば大気にかき消えてしまうような小さな声で、シルフィスはシオンを呼んだ。
「……もしも…」
 シルフィスは歌うように言った。
「もしも、私が突然死んでしまったら、悲しい?」
 体を起こして、まじまじとシルフィスの顔をのぞき込むのはシオン。シルフィスは、その新緑の色の瞳をシオンのそれに絡めて答えを待った。
「悲しい?毎日、泣いたりするかな?」
「…当たり前だ」
 頬を寄せ合う近さで抱きしめられる。腕の中で、シルフィスの歌が続く。
「もし、私が死んだら、シオンが私にくれたものはみんな、焼いて」
 シルフィスは指を差した。目の前にある小さなクロゼットには、シオンがシルフィスに選んだ草色のドレスがあった。それは、シルフィスのもっともお気に入りで。
 寝台の横には、サイドテーブル。そこには木彫りの写真立てがあって、まだ女になっていないころのシルフィスが、はにかみながら微笑んでいる。
「それも、これも。私と一緒に焼いて」
 ため息をつきながら、シオンの体に身を預ける。
「みんな焼いて、クラインの土地に返して欲しい」
 シオンは何も言わなかった。シルフィスの体をただ抱いて、シルフィスとは違う方向を見ている。
「私が、シオンに会った、このクラインの土地に…」
 シルフィスの瞳が、夢見るように空を踊る。
「死ぬのなら、シオンの腕の中がいいな…」
 死を意識したことは何度もある。騎士見習いの頃でさえそうだった。郊外の湖で、モンスターに遭遇したこともある。その時は、一緒にいたレオニスに助けてもらった。その時、レオニスが間に合わなかったら、一人だったら、自分は今ごろここにはいなかったかもしれない。
「でも、私が死んだら、また結婚してくれてもいいんだよ」
 シオンがわずかに身じろぎした。
「誰か、またシオンのことを求めて来るだろうから。また、愛されるだろうから」
 シルフィスは体の力を抜いた。
「そうしたら、また幸せになって」
 今の刹那が幸せなら。同じ幸福を分け合う人が他に現れたなら。
「…シルフィス…」
 初めて、シオンが声を上げた。シルフィスを抱きすくめ、息もできないほどにしてしまう。
「……でも、私の誕生日だけは、一人で、泣いて」
 言葉は最後まで続かず。抱きすくめ唇の愛撫を優しく始めるシオンの動きに遮られる。くすぐったいまでのそれに、肩をすくめて応じながらシルフィスは瞳を伏せた。
「………私を、思って」
 手を伸ばすと、シオンがそれを掴んだ。指が、それ自身が生き物であるかのようにすいと絡まり、そして引き寄せられて、言葉が奪われる。
「……ね?」
 シオンは何も言わなかった。彼が発したのは言葉ではなく、恋を語る相手にしか 分からない甘い吐息。
「……分かったよ」
 呆れたようにつぶやいて、その後は口付けだけ。何もまとわないままの肌を寄せ合い、巣の中に隠れる小鳥のように、愛情だけを分け合う。ついばむ唇からは、蜜よりも濃い甘露。
「…大丈夫だ」
 シオンが言った。
「元気なうちに遺言を残しておけば、なかなか死なないって言うし」
 その言葉に、シルフィスも笑った。
「それに、お前さんを先に死なせやしないよ。そうなったら、還魂の術で呼び戻し てやる」
「…あれは、禁忌だろう?」
 過激な言葉にシルフィスが眉をしかめる。
「そんなこと、知ったことか」
 シルフィスの、蜜の色をした髪を指先で摘んで、その色を確かめるようにしながらシオンが言い捨てた。
「お前のためなら、禁忌も何も破って見せる。何も、怖いものなんかないさ」
「……」
 シルフィスは、髪をもてあそばれるのに逆らいもしないで、ただじっとシオンを 見つめる。
「…失敗、したら?」
 クライン一の宮廷魔道師にこんな質問は無用だったかもしれない。しかし、シオンはそれに気を悪くすることもなく微笑んだ。
「そうしたら、俺がお前を追っかけてやるよ。一人になんか、させない」
 髪を指を、手首を腕を、シオンの唇が這わないところはなかった。それらの目に見えない刻印を抱きしめて、シルフィスは微笑む。照りつけた朝日の中で、それは眩しく輝いた。
「…シルフィス……」
 名を呼ぶ声も愛おしくて、それは何よりの宝だった。甘い声も暖かい手も、全てはシルフィスの見つけた宝物。その腕に抱かれながら、甘い夢を見るための。
「愛してる……」
 二人の口から同時に同じ言葉が出て、そして二つの影が重なった。差し込む光線も、遠慮がちに目を伏せる。
 この瞬間が、永遠に続けばいいのに、とは、シルフィスの心からの願いだった。


END