瞳の先の未来


「めぐれ、天の声。響け、地の声。−−−彼のものを封ぜよ」
 柔らかく澄んだ、水晶のような声が辺りに響く。数枚の札が、それ自体に命があるように怨霊へと飛んでいく。
「封印」
 封印の札が光の法陣へと変化するとキラキラと輝く光が怨霊へと降り注いだ。聖なる光が怨霊を拘束し、一枚の札へと変わる。
 その札を手に取った少女はくるりと振り向くと、自分の背後にいる人々へ向かってにこり、と笑った。
 風変わりな少女だった。明るい栗色の髪はこの世界の女性の常識から外れ、肩の辺りで切り揃えられている。動き易さを重視した服装もまた、然り。水干のような格好は上半身だけ。腰から下は袴のようでそうではなく、しかも、膝上から下までの足を惜しげもなく晒している。
 この風変わりな少女は<元宮 あかね>といい、つい先日まで『龍神の神子』として京を駆け巡っていた少女であった。
 京を脅かしていた鬼の一族との決着もつき、もともとこの世界の人間ではなかった少女は当然、自分の世界に戻るはずだった。
 だが、少女は帰らなかった。
 理由はただ一つ。帰りたくないと思うほどの想いをある人物に寄せていたがために。
 少女の想いは成就し、少女は今も『龍神の神子』として京の町に、藤姫の館に住み続けている。
 鬼の一族の脅威がなくなったとはいえ、少女の『龍神の神子』としての能力がなくなった訳ではない。それどころかますます増大してコントロールに苦心するぐらいだ。
 そんな能力の持ち主を陰陽関係者が放っておくはずもなく。今回もそんな彼らの要望に応えて出てきた訳なのである。
「・・・封印、完了しました」
 にこり、と明るい笑顔を浮かべる少女に冷たい美貌の青年が近寄った。萌葱色の長髪を右脇で纏めた独特の髪型。右は金、左は深緑という色違いの瞳が人形のように整った顔の中で絶妙なバランスを取って収まっている。
 冷たくも凄みのある美貌の持ち主である青年は<安部 泰明>といい、稀代の陰陽師である<安部 晴明>の愛弟子であった。そして、少女がこの世界に残る決心をした最大の原因でもある。
「・・・?どうしたんですか、泰明さん?」
 たった今、大変な仕事をしたという自覚のない少女は無表情に近寄る青年を恐れ気もなく見上げる。
 冷たく整った顔に無表情。しかも、本人は愛想なんてものは持ち合わせておらず、自覚もないが故に無表情ですたすたと近寄られると結構、怖いものがあったりする。
 だが、『龍神の神子』と呼ばれる少女はまったく気にせず、にこにこと青年を見上げていた。無防備なほど真っ直ぐな信頼と好意が大きな栗色の瞳に浮かび、少女の纏う神気を透明に輝かせる。
「・・・見せてみろ」
「はい?」
 あまりの言葉数の少なさに少女はきょとん、と首を傾げた。サラサラとした栗色の髪が揺れ、隠れていた額が露わになる。
「!?や、や、や、泰明さんっ!?」
 おそらくは怨霊のかまいたちにでもやられたのだろう。髪で隠れていた額に浅い切り傷が出来ていた。少女の両頬に手を添え、まじまじとその傷を見詰めていた青年は顔を近づけたかと思うと、その傷をペロリと舐めたのである。少女の動揺は言うまでもなく、ましてや、周囲の人間はあっけにとられるしかない。
 そんな周囲を見事なまでに無視した青年は少女の額から唇を離し、少女の手を掴むとスタスタと歩き出した。
「傷を治す。来い」
「は、はい」
 どことなく、青年の機嫌が悪そうなのを感じ取り、手を引っ張られるままについて歩く少女はそっと横の顔を窺う。
 冷たい美貌は少しも変わらないように見える。が、短い期間とはいえ、青年とは深い付き合いをするようになった少女には分かった。
「あのー、泰明さん?どうして、怒っているんですか?私、何かしました?」
「・・・怒って、いる?」
 驚いたように見下ろしてくる青年に少女も目をぱちくりさせる。
「分かっていなかったんですか?泰明さん、怒っていますよ?」
「そうか・・・怒っていたのか、私は・・・」
 あまりにもズレた反応に少女もどう応えようかと悩んでしまう。人ではない彼が自分と関わる事で一つ一つの心−−−感情−−−を覚えていることは理解しているつもりだが・・・目の前でこうもズレたというか、ボケた反応を返されると下手なリアクションなど出来ない気がする。
「分かっていなかったんですね・・・」
 ふぅ、とため息をついた少女はちょうど辿り着いた縁側に腰を下ろし、青年の服を引っ張ると自分の隣へと掛けさせる。そうして青年の両頬に手を添え、まじまじと色違いの瞳を見詰めた。
「どうして、そんな気持ちになったんですか?」
 優しく、柔らかな声がゆっくりと訊ねてくる。自分の顔を包んでいる暖かい手と同じように、心を柔らかく包んでくれるような声の響きが青年の僅かに緊張していた体から余分な力を抜けさせた。
 大きな、そして澄んだ栗色の瞳に自分が映っているのを見ながら、青年は自分の感情を見詰めていく。
「お前が傷つけられたことを、怒っていたのだと思う。何よりも、誰よりも大切で・・・必ず守ると思っていたのに・・・」
「小さな掠り傷ですよ」
 愛の告白にしか聞こえない台詞に少女は赤くなり、慌てて青年の両頬に添えていた手を引っ込めようとした。
「あかね」
 だが、その手は青年の手に捕らえられ、更に引き寄せられる。
「あ、あ、あ、あのっ」
 『神子』という敬称ではなく自分の名前を呼ばれたことと、青年の顔が急接近したことで少女の顔はますます赤くなった。
「どんなに小さな傷でも・・・あかねが傷つくのは嫌だ。出来得ることなら藤姫の屋敷の中で大人しくしていて欲しい・・・いや、私の元で何者にも傷つけられないように守っていたい。・・・だが、そうしてしまえば、あかねはあかねでなくなる」
 少女の細い肩の上に顔を伏せ、青年はため息をつく。
「分かっているのだ・・・。怨霊に苦しむ者がいると聞けば、優しいお前はその者達を救いに飛び出すのだと。救いを求めている者だけではない。苦しみを与えている怨霊でさえ、お前は救おうとする。そんなお前だからこそ、私は惹かれたのに・・・」
「泰明さん」
 ふわり、と青年の背に暖かな手が回された。コツン、と少女の額が青年の胸に預けられる。
「私、優しくなんてないですよ?それどころか、すごく自分勝手な女の子です。・・・だって、私が怨霊の封印に出向くのは泰明さんに会うためなんですから」
「あかね?それは・・・」
 唖然としている青年を見上げ、少女はふわりと微笑んだ。
「私が怨霊の封印に出向けば、泰明さんは必ず私を守りに来てくれるでしょう?たとえ、仕事上のことでも顔を見れるじゃないですか。話が出来るじゃないですか。だから、私は・・・」
「あかね」
 少女の言葉に、青年は感情を押さえきれず力の限り、少女を抱きしめてしまう。嬉しくて・・・どうしようもなく嬉しくて。そして、限りなく少女が愛しかった。
 だが、その青年の想いの強さに比例した力の強さは少女の細い体には強すぎ、思わず少女は呻き声をあげてしまう。
「や、泰明さん・・・く、るし・・・」
「す、すまない」
 慌てて力を緩める青年の腕の中、少女は何度か深呼吸をすると安心させるように微笑んだ。
「びっくりしました。泰明さんって細く見えるのに・・・やっぱり男の人なんですね。すごく、力が強くて・・・安心します」
「安心・・・するのか?私は、お前を脅えさせたかと・・・」
「どうしてですか?泰明さんは私を守ってくれているのに。ずっと側で守ってくれて・・・そして、これからもずっと守ってくれる人なのに。ずっと、一緒にいる人なのに」
 青年の片手を取ると、目を閉じた少女は自分の片頬をその手に寄せる。
「この手は私を守ってくれる。それを知っているのに、脅えるはずがないじゃありませんか。私は信じていますから。泰明さんを・・・そして、泰明さんと一緒にいる未来を」
 透き通った栗色の瞳が真っ直ぐに青年を見つめる。無防備に思えるほど無垢で純粋で・・・だからこそ強い瞳。
 そんな少女の瞳の中に、青年は確かな未来を見た。
 少女と共に歩いていく未来を。
「ああ。私も信じる。あかねと共にいる未来を」
 再び少女を抱き締めた青年はその幸せに酔う。もう、二度と抱き締めるどころか顔を見ることも出来ないと思っていた少女は今、この腕の中にある。
「あかね。愛している」
 ごく自然に口をついて出た言葉に、少女は首まで真っ赤になった。滅多に言ってくれない言葉だけに免疫はなく、そして威力は絶大だ。
「愛している」
 繰り返される言葉に、思考停止寸前になりながらもどうにか、少女は青年の耳に唇を近づける。
「私も・・・」
 囁きは小さく、風に攫われそうだったが確かに青年は聞き遂げた。
 冷たい青年の美貌が柔らかい、満面の笑みを浮かべる。
 この上もなく幸せそうな青年の笑顔に見惚れている少女の顔の上に影が落ちる。
「私の、神子・・・」
 幸せな静寂を乱すものはなにもなかった。


END