翼天女


「危ない!」
 突然かけられた声に、少女は背後を振り返った。
 地響きを立て、迫り来る牛車に目を見開く。それを見ていた者は少女が立ちすくんでいるとしか思えなかっただろう。
 だが、少女は冷静に袖の中に手を入れ、数枚の札を取り出すとその中の一枚を牛車に向けて投げた。投げた札の輪郭が揺らいだかと思うとそれは一つの怨霊の姿をかたどる。
 2メートルはあろうかという身の丈に加え、筋骨隆々とした体つき。腕の太さなど少女の腰ほどもあるのではないだろうか。その逞しい体の上にあるのは牛の顔。それは、牛鬼であった。
 その怨霊の姿を目にした人々が恐怖とも驚愕とも言えない悲鳴を上げる。
「止めて」
 ただ一言。牛鬼へと言葉を投げた少女はもう一枚の札を口に咥えると護身用に持っていた短剣を抜き放った。
 少女に命じられた牛鬼が暴走していた牛の角を捕まえ、しっかりと押さえたのと少女が飛び上がったのは同時だった。まるで、翼がその背に生えたかのように、ふわりと。
 常識では考えられないほど高く飛び上がった少女は、牛鬼に押さえつけられている暴れ牛を飛び越え、牛と車を繋げている艫綱を手にした短剣で切り離す。切り離した直後、素早く二枚の札を実現化させ、不安定になっていた車を支えた。そして、その直後、牛鬼が怪力を発揮して暴れていた牛を横倒しにする。
 地響きをたて、転倒する牛に人々が我に返った時、そこには怨霊達を札に戻す少女の姿があった。
 時間にして瞬きほどであろうか。その短い時間でこの少女は今の騒ぎを見事に鎮めたのだ。
 驚愕の視線を感じてはいるようだが、少女は他に気になることがあるらしく、スタスタと牛と切り離された車へと近付いて行った。
「お怪我はありませんか?」
 純銀の鈴のような可憐な声が、柔らかい響きを伴なって中の人物の安否を訊ねる。無遠慮に外側の御簾をからげることはしない。それは、この世界に来て学んだことの一つだった。
「は、はい・・・」
 か細い声の響きで少女は中の人物が年若い女性だと知り、慌てて御簾をあげなくて良かったと内心ホッとする。
「私は左大臣家に居候している者です。お望みでしたら、代わりの牛車を調達してきますが・・・」
「左大臣家の・・・?あの、もしや、龍神の神子様でいらっしゃる・・・?」
 脅えていたらしい女性が突然訊ねてきたのに面食らいながらも、少女は律儀にその質問に答えた。内心、通称ばかりが一人歩きをしている事実に苦笑していたが。
「そうとも呼ばれておりますが。これで、私の身の証しは立てることが出来ましたか?」
「はい、お礼を申し上げるのが遅くなり、まことにすみません。龍神の神子様ご自身に助けて頂いたとは身に余る光栄、重ね重ね、お礼を申し上げます」
「あ、いえ・・・そんなにかしこまらなくても・・・。とりあえず、牛車を都合してきますね」
 あまりの感激ぶりに腰が引けた少女は、とにかく用事を済ませようとして背後を振り返ると。
「・・・私達の役目ぐらい、残しておいてくれると嬉しいのだがね」
 呆れた顔や面白がっている顔で少女を見ていた八葉がそこにいた。また、無断で星の姫の屋敷を抜け出した少女を探していて、偶然今の騒ぎに遭遇したようである。
「おまえさぁ・・・一人で全部片付けるなよ。俺達の立場がなくなるじゃねーか」
 呆れたため息をつき、ボリボリと頭を掻く八葉が一人・<イノリ>がぼやく。その横では八葉が一人・<藤原 友雅>がくつくつと面白そうに笑っていた。
「神子殿はいろいろと新鮮な行動をするし、私も楽しませてもらっているけれど・・・まさかこれほど女性の扱いが上手だとは思っていなかったよ」
 私にも手解きをしてくれないかな、などと自分こそが浮名を流している有名人である男性はそんなことを言って少女をからかう。
「たくましくなったな、神子」
 無表情ながらもその口調で感心しているらしいのが分かる八葉が一人・<安部 泰明>の言葉。
 ・・・それ、女の子に対する褒め言葉じゃないぞ。
 案の定、『龍神の神子』である少女・<元宮 あかね>の顔が僅かに引きつっている。
「泰明さん・・・ソレ、褒めているんですか?」
 念の為と問い掛ければ力強く肯定されたりする。
「もちろんだ。牛鬼で暴走した牛を止め、ヤタガラスの札で跳躍力を高めて牛を飛び越え艫綱を切る。尚且つ、不安定な車を天狗と鎧武者で支える。あの短い中でそれだけを冷静に判断できるようになったのだ、褒めて当然だろう」
 ・・・だから、女の子にとっては褒め言葉じゃないってば。
「・・・も、いいです。牛車の手配をしたいのですけど」
「先程、使いを走らせた。じきに代わりがくるだろう」
 ため息をつきつつ、少女が言った要望に青年が答え、その答えに少年が首を傾げた。
「何時の間に使いを走らせたんだ?」
「私も気づかなかったが・・・」
 少年と同様、男性も不思議そうな視線を青年に投げかける。
「式だ。人を走らせるよりも早い」
「式って・・・・月華さん?蒼夜さん?」
「いや、睦月を飛ばした。ただの使いだからな」
 少女と青年の会話を聞くともなしに聞いていた少年が隣に立つ長身の男性を見上げ、ボソッと呟いた。
「あかねの奴・・・えらく、影響を受けていないか?」
「影響、とは?」
 問い返す男性は面白そうな顔で式の話をしている二人を眺めている。適度に人生を面白がり楽しむ人物ではあるが、少女に関する事は何においても面白いものの筆頭に上げられているらしい。
「封印した怨霊達の使い方だよ。まるっきり、陰陽師の式の使い方じゃないか」
「確かにね。だが、それを言えば泰明殿も神子殿の影響を受けているよ」
「・・・何の?」
 少年にとって青年は、何事にも動じず冷静に状況を判断し、行動を起こす頼りにはなるがとっつきにくい、感情に希薄な人物である。確固たる自分の信念も持っているような青年に、影響を与えることなど出来るのだろうか?
 そんな心の内が顔に出ていたのだろう、相変わらず掴みどころのない笑顔で男性はパチリ、と手にしていた扇を閉じ、いまだに何かを話しこんでいる−−−正確には青年が少女にお説教をしているのだが−−−二人を指し示した。
「今まで私達が知っている泰明殿は無表情で・・・まぁ、言ってみれば感情を忘れたような人物だっただろう?だが、神子殿と接しているうちにいろいろな顔を私達に見せるようになった。あれが神子殿の影響でなくて、なんだい?」
「・・・確かに」
 明らかに無断で屋敷を抜け出した事に対するお説教だと分かる、青年の眉を吊り上げた表情を前にして少女は首を竦め、上目遣いに青年を覗っている。出会った頃には絶対、想像できなかった光景だ。
「・・・何か、悪戯がバレて母親に説教されている子供みたいな感じだな」
 素直に感じた感想を呟くと、それを聞いた男性は爆笑した。誰が聞いても爆笑するような感想ではあるが・・・。
「友雅さん?どうしたんですか?」
 さすがに気になったのだろう、首を傾げて少女が問いかけてきた。愛らしいその姿から先程の勇姿を覗う事は出来ない。ある意味、詐欺のような少女だ。
「いやいや。本当に神子殿は面白い方だと思ってね」
 くっくっく、と肩を震わせ、爆笑の余韻を漂わせている男性を見上げ、望む答えが得られないと判断した少女は隣に立つ少年へと視線を向けた。
「あ〜、ちょっと、な」
 少女の無言の問い掛けに少年は曖昧な言葉で誤魔化す。思わず零れた感想だったが、それを正直に当人達に言うほど少年は命知らずではない。少女はともかく、青年の視線がやたらと怖い。ただの直感だがほぼ、少年は確信していた。青年には絶対に聞かせてはいけないと。
「何よ、それ。気になるじゃない。教えてよ、イノリ君っ」
 素直に憤慨する少女だったが、少年はひたすら視線を反らせて沈黙を守った。
「ねぇってば」
 同年代という気安さからだろうか。少年に対して少女は時折、子供っぽい言動をとる。今も少年の腕を掴み、ゆさゆさと揺さぶっていたりする。
「あの・・・言われたものを持ってきましたが・・・」
 少年にとっては救いの神のような言葉がおずおずとした響きでその場へかけられた。声の方向へ視線をやればまだ年端もいかないような少年が牛車を引いている牛の手綱を持って所在無さげに立ちすくんでいた。
「あ・・・有難う。ご苦労様」
 ふわり、と少女が微笑むのを見た少年が驚いたように少女を見上げ、次いで嬉しそうな満面の笑顔を浮かべる。『龍神の神子』という、少年にとっては雲の上のような存在−−−神と同等の存在−−−から直接、感謝の言葉を貰うとは思ってもみなかったのだろう。その瞳には純粋な畏敬と憧憬が浮かんでいた。
「ん、と・・・どうしよう?」
 代わりの牛車を持って来たはいいが、少女はその後どう行動するべきか判断できず、首を傾げる。
 この世界では高貴な身分の女性はやたらとその姿を人前に見せないものだと聞き及んでいる。ならば、牛だけを女性の車へ繋いだ方がいいだろうか?だが、牛と車を繋いでいた艫綱は少女の手によって断ち切られている。
「神子。桜木精の札は持っているか?」
 ふいに問いかけた青年に少女は瞳を瞬かせ、素直に頷いた。
「はい。でも、一体・・・?」
「実体化させた桜木精に幕を張ってもらえ。あと、月華と蒼夜に手伝わせよう」
 青年の言葉を聞いた少女は数瞬、青年の言葉を吟味し、晴れやかな笑顔を浮かべる。
「ああ、そうですね。有難うございます、泰明さん」
 今一つ、二人の会話が分からなかった少年が疑問を口にした。
「何、するんだ、一体?」
「・・・説明するよりも、そのまま見ていた方がよく分かるだろう」
「『百聞は一見にしかず』というわけかい?」
「そうだ」
 三人の会話を背後に聞きながら少女は桜木精の札を取り出し、それを実体化させる。実体化させた桜木精は少女の要望に応じ、桜吹雪で牛から切り離された車を覆い隠した。
「じゃ、行ってきます。月華さん、蒼夜さん、お願いします」
「姫君の望みのままに」
 何時の間にか出現していた二人の式−−−腰まである純銀の髪を高い位置で一つにまとめた菫の瞳の清楚な美女と、蒼い髪を女童のように肩で切り揃えた蒼の瞳の涼やかな美青年−−−が少女の後に続く。二人の式の手によって新しく調達した牛車も桜吹雪で隠された車へと運ばれて行った。
「なるほど。ああすれば確かに車の中の女性は不必要に周囲に姿を見せることはないね。私にすれば、いささか残念だが」
「その言動、どーにかしろ。わざわざ式をよこすっていうのは・・・そうか、式で貴族のお姫様を運べばいいってことだな」
 納得する二人に青年は頷く。視線は桜吹雪の光景へと向けられ、いつでも何があっても、すぐに行動できるようにその手には呪符が握られていた。
 一度後ろを振り返った少女は青年のその姿を見て微かに微笑み、青年の式神と共に桜吹雪の中へと進む。
「あの、大丈夫ですか?代わりの牛車を持ってきましたが・・・」
「わざわざ、有難うございます。本当に龍神の神子様にお会い出来るなんて・・・わたくし、この災難にも感謝したいぐらいですわ」
「あ、あの・・・」
「神子様が天高く飛んだお姿・・・背中に翼が生えたように軽やかで・・・とても美しゅうございました」
「は、はぁ」
 『うっとり(はぁと)』と台詞の最後に付け加えられそうな女性の様子は少女の背に冷や汗を浮かばせるほど浮かれきっており、数々の感謝の言葉は少女に眩暈を覚えさせるほどの美辞麗句だった。しかも、それを本気で言っている辺り、少女も女性にどう対処していいのか分からない。
 そんな二人の会話は少し離れた場所にいる八葉の三人にもはっきりと聞こえ、熱烈大感謝している姫君に少女がおたおたしている様子がよく分かった。
「やれやれ。これでまた、神子殿の信奉者が増えたようだね」
「天真や詩紋の話だと、あっちの世界でもあかねの奴、女にモテていたらしいぜ」
 面白がっている声音で男性が呟けば少年はポリポリと頭を掻く。青年はといえば、少女の身に危険があるわけでもないので、そのまま待機状態だ。・・・誰も助けようとは思わないのか?
 ようよう、代わりの牛車で女性を送り出した頃には疲労困憊している少女がそこにいた。
「ご苦労だったね、神子殿」
「・・・聞こえていたのなら、助けてくださいよ・・・」
 恨めしそうに睨む少女だったが、倍近くの人生経験がある男性にかかればさらりとかわされてしまう。
「おやおや、私などが姫君達のご尊顔を拝してもいいのかな?」
「ぐっ。た、確かに、友雅さんを近づけるわけにはいきませんね」
「さり気に友雅を危険人物扱いしているな、おまえ」
「・・・そろそろ帰るぞ、神子」
「はぁい」
 桜木精を札に戻した少女に帰る旨を伝えた青年はふと、思い付いたように少女に数枚の札を渡した。
「・・・?なんですか、これ」
「鳥の式神だ。何かあれば、飛ばせろ。札の使い方も様になってきているようだし、今の神子なら十分使えるだろう」
「はい、有難うございます」
 にっこり笑い、笑顔を浮かべる少女に、青年も僅かとはいえ、微かな微笑みを浮かべる。そんな二人を眺めていた少年がしみじみと呟いた。
「あいつら・・・本当に影響を受けあってやがる・・・」
「まぁ、端から見ていて面白いけどね」
 どこまでも、面白さを追求する男性の言葉にはあまり頷きたくない少年であった。

 少しずつ、お互いを影響しだしたある日の出来事。


END