憧れ


 太陽が西へと傾き、周囲を次第に赤く染めていく。
 赤い風景の中、私はある一点を身動きもせずに見つめていた。
 私の視線の先には一組のカップル。
 お互いに抱き合い、幸せそうなキスをしていた。

 私の初恋が終わったと告げる景色。けれども、私の胸には哀しいとか悔しいなどという負の感情は起こらず、逆に憧れを抱いた。それほど、私の見た二人は綺麗で幸せそうで・・・私もいつか、こんな恋をしたいと思わせるものがあった。
 この日、六歳の私の初恋は終わったけれど、その時の願いと憧れは今も続いている。

 授業中、ずっと私は強い視線を感じていた。
 誰のものなのか分かっているので、わざと無視をする。
 それだけのことを、あいつはしたのだ。気づいた素振りなんて絶対、見せてやるもんか。

 あいつ−−−黒川 圭吾は私−−−宇城 風華のクラスメート。
 高校に入学した日に隣の席にいた奴だけど、豊富な話題と社交的な性格の持ち主で、人見知りする私もあまり構えずに話すことの出来た人物だ。
 クラスに慣れて何人も友人はできたが、それでも気軽に軽口を言い合う事の出来るクラスメートとして、彼とは割といい友人関係を築いていた。・・・昨日までは。

 そう、昨日、あいつは・・・圭吾は。

「・・・今日は一人欠席、理由は風邪。特記事項は・・・竹中君が階段で足を滑らせて落ちて、保健室へ行った、と。怪我は捻挫のみ。・・・階段から落ちて怪我は捻挫だけって・・・竹中君、丈夫ねぇ」
「おい、こっちは済んだぞ」
「あ、そう?私も日誌が終わったところ」
「じゃ、それを先生に提出したら帰れるな」
「うん、そうね」

 日直に当たった私と圭吾は最後の教室の見回りと日誌の記録を手分けして行っていた。帰り支度を始めた私の前に立った圭吾はしばらく私の様子を見ていたかと思うと、ひょいっと私の机に置いていた日誌を取り上げる。

「なぁ、この後、ちょっと付き合わないか?」
「駄目」

 忘れ物がないかチェックしていた私は圭吾の誘いに速攻で断りを入れた。その素早さがどうも、カンに触ったらしい。不機嫌な顔つきで圭吾は私を睨んでくる。

「ずいぶんな態度じゃないか、それ」
「ごめん、悪気はなかったのよ。でも、今日は都合が悪いのは本当だから、勘弁して」

 本気で怒っているわけではないだろうけど、機嫌を損ねていることは分かったので私は両手を合わせて謝った。確かに、ちょっと速攻すぎたかな、と思ったし。

「どうしても、無理なのか?」
「うん、そうだけど・・・どうしたの?」

 あまり無理強いとかはしない人なんだけどな。どうしたんだろう。

「お前が欲しがっていた本を手に入れたんだ。今日は風華の誕生日だろう?それを誕生日祝いにするつもりだったんだが」
「え?私の誕生日、知っていたの?」
「まあな」

 びっくりした。誕生日なんて圭吾には言ったことないのに、よく知ったなぁ。おまけに、プレゼントまで用意しているだなんて。
 圭吾の心遣いはすごく、嬉しい。嬉しいんだけど。

「ごめんね、時間がないの。私にも用事があるから」
「用事?」
「そう。従兄達が私の誕生日をお祝いしてくれるの。七時に約束しているから・・・」

 私が欲しがっていた本はかなり分厚く、学校には持ってこれないはずだ。だから、圭吾も付き合えと言ったんだろうし、私が用事で駄目だと言ってもなんとかしないかと言ったのだと思う。でも、圭吾の家を経由して従兄達のところへ行くとなると約束の時間を大幅に送れてしまうのだ。

「どうしても、無理か?理由を電話で知らせるとかは出来ないのか?」
「どうしたの、圭吾?なんだか君らしくないよ?」

 しつこいほど人を誘うだなんて、本当にらしくない。一体、どうしちゃったんだろう。

「俺らしくない、か。じゃあ、風華はどんな俺が俺らしいと思うんだ」
「少なくとも、人が困るような事を無理強いする人ではないわね」

 でなければ、人見知りする私がクラスメートとはいえ、男の人とこうして気軽に話をするなんて出来ない。

「無理強い・・・ね」
「今の圭吾は私にとって、無理強いをしている人よ。圭吾のことだから何か理由はあると思う。でも、私の方にもどうしても約束の時間に行きたい理由があるの」

 圭吾に話をしながらも、私はせっせと机の上を片付け、鞄に教科書などをしまっていた。本当に、早くしないと時間に間に合わなくなってしまう。

「どんな理由なんだ?」
「従兄の一人が今晩、留学するの。本当は私のところに顔を出す時間はないけれど、無理して来てくれるっていうから。今日、優樹兄さんに会わなければ少なくとも四、五年は顔を見ることもできないのよ」

 だから、ごめんね。
 そう言いかけた私は鞄から顔を上げた途端、至近距離にある圭吾の顔を見て息を呑んだ。

「びっくりしたぁ。何時の間に近くまで来たのよ」

 予想もしなかった至近距離に、心臓がドキドキしている。思わず息をついた私は圭吾がこの後、更に予想しない行動をとるとは考えてもいなかった。

「風華は、その従兄が好き・・・なんだな」
「優樹兄さん?うん、好きだけど」

 頭が良くて、穏やかで優しい兄さんは私の自慢の従兄で、大好きな兄さんだ。
 笑顔で圭吾の質問に答えた私だったが、その後で起こった出来事は今までの会話が吹っ飛ぶくらい、衝撃的だった。
 何故って、それは・・・圭吾は。

「馬鹿ぁっ!!」

 教室に平手打ちの音が響き渡る。私は自分の鞄を掴むと後を振り返らずに教室を走り出た。

「風華!」

 圭吾の声が聞こえたけれど、私はきっぱりと無視をする。当たり前だ、あんなことをされて怒らない女の子はいない。人の意志を無視して、キスをするだなんて。それも、ファースト・キスを。
 怒り狂ってはいたけれど、誕生日を祝ってくれる従兄達に会う頃にはその激情も少し治まっていて、留学する優樹兄さんを笑顔で送り出すことが出来た。
 けれども、怒りのボルテージが下がったといってもあんなことをした圭吾を許す気にはならない。
 その怒りはずっと続き、まる一日たった今でも継続中だった。

 ドアベルが店の中に響き、その音と重なるように明るい声が響いた。

「いらっしゃいませー。あら?風華ちゃんじゃない。どうしたの?」
「風華だって?なんだ、昨日の今日じゃないか。何があったんだ?」

 実は、昨日のパーティーはここ、貴博兄さんの喫茶店だったのだ。昨日、顔を見せたばっかりなのにまた、ここに来たのだから貴博兄さんと真綿さんの疑問は当然だろう。

「ん、ちょっと、聞いてもらいたい話があるんだけど・・・いいかな?」

 貴博兄さんと真綿さんは顔を見合わせると視線でお互いの意志を確認する。うーん、さすが、十年も付き合ってゴールインしただけのことはあるなぁ。どこかの歌じゃないけど『目と目で通じ合う』んだもん。

「風華ちゃん、こっちにいらっしゃい」

 真綿さんの手招きに応じ、私はカウンター席の端っこに座る。ここは観葉植物なんかで店内からの視線を遮られる場所だ。

「今はまだ、そんなに忙しくないからな」

 そんなことを言いながら、貴博兄さんは私の好きな紅茶とケーキを出してくれた。

「私、今日は持ち合わせ、ないよ?」
「今日は特別だ。そんな顔をしたお前から金を取れるか」
「そんな顔?」
「怒ったのと、哀しいのと半々って感じかしら。昨日もちょっと引っかかってはいたのよ?何だか様子が変だなって」
「押さえていたつもりなんですけど・・・真綿さんにはバレていましたか」
「俺達だけじゃないぞ。優樹に翼、龍臣も桜も薄々感づいていた」
「そっかぁ」

 ため息をついて目の前に置かれた紅茶を飲んだ私は昨日の出来事を話し始めた。

「・・・で、思いっきりひっぱたいて逃げたんです。今日も一日中、逃げ回っていました」

 口を挟むことなくじっと聞いていた真綿さんはちらっと隣にいる貴博兄さんを見上げる。何故か、貴博兄さんは居心地悪そうな様子で、視線を反らしていた。

「風華ちゃん、いいことを教えてあげる。あなたの従兄の貴博君、まったく同じ事を私にしたのよ」
「え?貴博兄さんが?真綿さんに?」

 びっくりして貴博兄さんを見るとなんとも情けない顔で真綿さんを見下ろしている。

「だから、悪かったよ。もう、時効にしてくれないか」
「知らない」
「真綿ぁ」

 貴博兄さん、情けないってば。
 呆れている私に気づいたのか、貴博兄さんはわざとらしく咳をして空になっていた私のカップに二杯目の紅茶を入れた。

「で、真綿さんはどうしたんですか?」
「どうもこうも。貴博を殴って蹴り飛ばしてやったわよ」

 ・・・忘れていた。細い外見から想像もつかないけど真綿さんは高校時代、空手部の副部長をしていて、インターハイに出場した人だったっけ。

「意外だったなぁ。あのね、私の初恋って貴博兄さんだったんだけど、理想の恋人達っていうのが貴博兄さんと真綿さんだったんですよ」
「あら、そうなの?」
「もう、十年も昔の話ですけどね。あんまりお似合いだったものだからあの時の私、悔しいとか哀しいなんて感情はちっとも沸いてこなかくって。そうかぁ、兄さん達が付き合うまでにそんなことがあったんだ」

 そりゃ、十年も付き合っていれば波乱の一つや二つ、あってもおかしくはないけれど、付き合う前にこんな騒動があったなんて想像もしなかった。

「なぁ、風華。俺と真綿のことは俺達だけの事情ってことで、お前の事情と同じだとは限らない」
「うん」
「それでも、あえて言うとすれば、たぶん、そいつは風華のことが好きでどうしようもなかったんだと思う」
「好きだからって、許される行為じゃないと思うけど」

 不機嫌になる私の前に、今度はチョコレートが出された。これは真綿さんだ。

「あの時の私もそう思ったわ。でもね、貴博の話を聞いてしようがないな、とも思ったの」
「俺は真綿が初恋で、それでどうしようもなく好きだった。初めてでどうしていいか分からなかったんだ。なのに、嫉妬だけは一人前で真綿が他の男と笑っているだけで頭の中がぐるぐるして。煮詰まった末の行動があれになったわけだ」

 貴博兄さんの言葉に私はじっと考え込んだ。圭吾も、そうだというのかな?
 考え込んでいる私に、真綿さんはカウンターに両手をついて身を乗り出してきた。

「ねぇ、風華ちゃん。私達女の子ってね、結構、恋のシュミレーションをしているのよ?気づいていた?」
「シュミレーション・・・ですか?」
「そう。少女漫画とか、少女小説とかあるでしょ?あれで恋に対する免疫ができているのよ」
「・・・成る程」

 ・・・それは、確かに言えるかもしれない。恋に恋する、とまではいかなくてもこんな恋をしたいっていう憧れは持つし、想像したりもする。
 圭吾に対する怒りはまだ、治まってはいない。でも、少しは話を聞いてみようかという気にはなってきた。

「風華、どうする?」
「うん、ここで一人怒っていてもしようがないものね。明日、圭吾と話してみる」
「そう?じゃ、また何かあったらいらっしゃい」
「はい。話を聞いてくれて、ありがとうございました」

 紅茶とケーキ、チョコレートを平らげた私は来た時とは打って変わった心で貴博兄さんの店を出た。
 そう、まずは圭吾と話すこと。そうしないと次へと進めないのだから。
 そう決心して歩いていた私は近道になる公園を通り抜けようとして、その先にいる人物に思わず足を止めた。
 たった今、話を聞こうと決めた本人が、目の前にいる。

「圭吾?」
「風華、話があるんだ」

 目の前に立つ圭吾は心なしか覇気がないようだ。それでも、私を逃がすまいという気持ちだけはひしひしと感じる。
 そう、私は逃げないって決めたんだ。話を聞くって。それが、明日じゃなくて今になっただけじゃないか。

「うん、私も圭吾に話があったんだ」

 夕焼けで赤く染まり出した公園に、私は足を踏み出した。


END