名前を呼んで


「行ってきまーす」
 玄関の扉を開け、一人の少女が元気な声で家の奥へと声をかける。
「行ってらっしゃい。遅くなりそう?」
 穏やかに笑い、帰宅時間を聞いてきた母親に少女は首を傾げ、少し考え込んだ。
「そんなに遅くならないと思うけど・・・でも、夕御飯は食べて帰るから」
「はいはい。気をつけて行ってらっしゃい」
「はぁい」
 満面の笑顔で良い子のお返事をした少女はご機嫌に玄関の外へと出て行ったのだった。

 待ち合わせの場所の近くまでくると、すぐに約束していた人の姿が視界に入る。なにせ、目立つのだ。
 金茶の髪に緑の瞳。端正な顔に人好きのする笑顔。軽く腕を組み、樹にもたれ、視線を地面に向けているが上背はかなりある。
 そして、その身に纏う雰囲気。
 若者らしい、溌剌とした空気なのにどこか威厳のある落ちつき。
 特別な者なのだと思わせるなにかが、その青年にはあった。
「ごめんね、和南城君。待たせちゃった?」
 小走りに駆け寄り、青年を見上げて話しかける少女に青年はにっこりと笑う。
「大丈夫、時間ぴったりだよ」
「良かったぁ。出掛けにちょっとばたばたしちゃったから、和南城君を待たせてしまったかと思ったの」
 ほっと安堵の吐息をつく少女の姿に穏やかに笑いながらも、青年は前々から言っていることを行っていない少女の額をコンッと軽く小突いた。
「夕香里。違うだろう?」
「え?」
「和南城じゃないだろ?」
「あっ」
 青年の言外の意味に気づいた少女はとたんに赤くなり、視線をあらぬ方向へと逸らせる。
「夕香里?」
「う・・・後じゃ、駄目?」
「駄目」
 即答。
「ううぅ〜〜〜」
 真っ赤な顔で唸っている少女を青年はなんだかとても楽しげに見つめている。
「最初に言ったのは夕香里だったよ」
「そ、それはそうなんだけどぉ」
 体全体で『困った』を表している少女は普段のしっかり者とは違ってとても可愛らしかった。
 くすくすと笑いを零した青年は彼女に決心をつけさせる為、上半身を軽く折り曲げると少女の耳元に唇を寄せると悪戯を仕掛けるような声で囁く。
「早く名前を呼ばないと、キスをするよ」
「!?」
 とたんに、ずざざざざざっ!!と数メートルほど飛び離れた少女に、青年は思いっきり笑い転げた。
「ひ、酷い、そんなに笑うことないでしょっ!!」
「だって、夕香里が可愛いからさ」
「っ!?」
 臆面もなくさらっと言ってのける青年に今度は真っ赤になる少女である。
「・・・何だか、すごく、食えない性格になっていない?」
「そりゃあ、いろんな人に揉まれていればね」
 にっこりと笑うその姿の後ろに、少女は見事な金色の髪の超絶美形な吟遊詩人、もしくは伝承者、もしくは目の前の青年の懐刀である男性の幻を見たような気がした。・・・おそらくは、間違っていないだろう。
「で、夕香里?」
 何時の間にやら太い樹に背中をつけていた少女の顔の両脇に両手をつき、逃げ出さないように封じ込めた青年が優しい茶色の瞳を覗き込んできた。
「オレとしては、どっちでもいいけど」
 外見が完全に外人さんである青年ならば、堂々と外でキスをしかけても周囲の者達は理解ある無視をするだろう。逆に少女が青年の要求に応えれば、それはそれで青年にとって満足するものである。どちらに転んでも青年にとって損にはならない事であった。
「・・・確信犯」
 ボソッと非難する少女にも青年は余裕の笑顔を浮かべる。
「夕香里、どうする?」
 見下ろす緑の瞳にとうとう降参した少女は、微妙に視線を逸らせつつ、先程からの青年の要求をそっと呟いた。
「そ、そろそろ、どこかに移動しようよ。・・・その、リダーロイス陛下」
「夕香里、ちゃんと言ってくれなきゃ」
 至近距離で笑う緑の瞳に押され、もう一度少女は青年の名前を呼ぶ。長い間避難していたこちらの世界の名前ではなく、青年が生まれた世界の名前を。
「リダーロイス・・・リダー」
「やっと、言ってくれたね」
 嬉しそうに笑った青年はふと、少女の右手を取ると、その細い指に嵌められている赤く輝く輝石を撫でた。
「これを渡した時のことを覚えている?」
「うん」
 もちろん、覚えている。特別な友人という立場から恋人へとポジションが変わった日だ、忘れるはずがない。
「あの日、オレが言った事は本気だから」
「和・・・リダー?」
 うっかり『和南城君』と言いそうになった少女は慌てて言い直しながらもキョトン、と首を傾げた。
「夕香里、ミズベに住んで欲しい」
「・・・・・・・・・・いいの?」
 青年の言葉は1年前の晩秋に言われたものと同じ。けれども、少女はその言われた言葉の深い意味に気づいていた。
「あたし、ミズベとはまったく違う、異世界の人間よ?そっちの習慣も慣習も礼儀作法だって、まったく知らない人間なのよ?」
「でも、オレは夕香里がいい」
 きっぱり言いきる青年はどんな困難にぶつかっても切り抜けていこうとする強い意志を緑の瞳に浮かべる。
「オレは夕香里が好きだよ。もう、どんなところが好きかだなんて言えないぐらいにね。ずっと、オレの側にいて欲しいのは夕香里だけなんだ」
 真剣に、そして真摯に言い募る青年。仕事に忙殺されていても、こうして時間を作ってはこちらの世界に来るのはひとえに少女に会いたいが為。
「ミズベに・・・オレの側に、いてくれるかな?」
「・・・・・・・・・・うん」
 コクン、と小さく頷いた少女の返事に、青年の顔がこれ以上はないほど輝いた。
「ずっと、一緒にいよう」
 赤く染まった頬で、今度はしっかりと頷く少女だった。

 少女の両親に挨拶をするのは数年後のことである。


END