幸せということ


 あるビルの一室、「会長室」とプレートの掛かっている部屋で一人の青年が書類の山と格闘していた。かれこれ、三時間は書類に目を通し続けているのだろう。その努力のお陰か、決済済みの書類は、後数枚のみまでに減っていた。
「・・・・・したら、これで終わりやな」
「はい、ご苦労様でした、先生」
 決済済みの書類を抱えた『神輝会』東京本部副部長<神田 一>の言葉に、黙々と書類に目を通していた『神輝会』主宰者<神楽坂 輝>は長時間に渡る同じ姿勢の為に凝った肩をほぐしながらチラリ、と時計を眺めた。
 時計は午後六時過ぎを示している。
「後はもう、何もないな?」
 週末の休みをもぎ取る為に、ここまで頑張ったのだ。まだあるという答えが返ってくれば・・・・・神田は血の雨を見ることになるだろう。
「はい、これで終わりです」
 そのことが分かっていたのかどうか推測することは出来ないが、神田の答えを聞いた青年は胸ポケットから携帯を取り出し、短縮番号を押す。待つほどもなく、携帯から聞き慣れた声が流れて来た。
「俺や。今、仕事が終わったからこれから帰るわ。せやな、七時頃になるから」
 つい先程まで、真剣に書類を睨んでいたとはとても思えない、幸せそうな顔と声である。
「ん?なんでもええで。お前の飯はどれも美味いからな」
 ・・・・・どうでもいいが、ここはれっきとした仕事場であり、当然ながら神田以外の人間も在室している。そんな場所で惚気られても周囲の人間は困るのだが・・・・・。
「ああ、悪かったって。せやな、前に作ってくれたあれがいい。あれをまた、作ってくれるか」
 特定の名詞を出さずとも相手は青年の注文する品が分かったらしい。その証拠に、会話をしている青年の顔がますます、甘くなっている。
「そっか、楽しみにしとるさかい。じゃあな」
 携帯を切ると、上司の会話を聞くともなしに聞いてしまった為に、激しく脱力している部下達に今度はきっぱり、会長の顔で青年は言いきった。
「じゃあ、俺は帰るけどな、余計な呼び出しはするなよ」
 つまり、邪魔はするなと言う事だ。
 脱力しきっている部下達など気にせず、帰途についた上司を見送った部下は東京本部副部長であり、会長の第一の部下でもあり、また、会長の私生活に一番近い存在である神田におそるおそる、質問した。
「あの、副部長。先生はいつも・・・・・」
 部下の質問内容に気付いた神田は苦笑いするような、疲れたような、何とも複雑な表情を浮かべる。
「御結婚されてから毎日、ああして『帰るコール』をされていますよ」
「毎日、ですか?」
「それはもう、毎日、毎日、毎日、毎日・・・・・」
 そこまで強調しなくてもいいのではないかと思う程、彼は強調した。
 尊敬する上司が長い間、手を出すに出せなかった事を知っているし、やっと手に入れる事が出来た少女にベタ惚れなのも、知っている。更に、新婚とくれば知らず知らずのうちに、幸せのオーラを振りまいても致し方ないと思う。実際、自分だって半年前に結婚したばかりの新婚だ。
 (まったくの余談だが、神田の結婚式をダシにしてプロポーズし、どさくさに承諾させたらしい)
 だが、しかし。無意識の惚気は周囲にとっては害にしかならない。幸せなのはいいが、限度というものがある。
「・・・・・あれだけの甘い雰囲気を振り撒かれると、私達周囲の人間は根こそぎ気力を奪われるんですけどねぇ」
 先生はまったく、分かっていませんね、と呟く彼は、しかし、たとえそれに気付いたとしても、上司がその態度を変える筈もないことも、分かっていた。

「うん、分かった。じゃあね」
 チン、と軽い音を立て、受話器を置いた少女、旧姓<米倉 麦子>、現在は<神楽坂 麦子>である彼女は、軽くヘアバンドで押さえた漆黒の髪を揺らしながら台所へ向かう。
 初めて出会ってから6年、なんのかんのと色々な事件に関わりつつ(少女の感覚では)友達付き合いをしていた青年と結婚して3ヶ月、少女は目一杯専業主婦をしていた。
「あれ?電話?」
 切ったばかりの電話が鳴り出したのを聞きとがめ、少女は首を傾げる。青年からの電話は先程受けたばかりなので、青年からとは考えにくい。
 とにもかくにも少女は電話を取り上げた。
「はい、米・・・・・神楽坂です」
 まだ、この名字を名乗ることに慣れていない少女は頬を薄紅に染めながらも急いで名字を言い換える。
『あ、大家さんの奥さんですか?』
「え、あ、はい」
 誰が見ているという訳ではないが、『奥さん』という響きに少女はますます赤くなった。・・・・・青年が見ていたら、絶対、襲い掛かるような初々しさである。
『すみません、305号の猪野木なんですけど、助けてくれませんか』
「どうしたんですか?」
 『助けてほしい』という訴えに少女は即座に反応した。
 もともと困っている人間を見ると(人間だけではないが)放っておけない性分である。こうして助けを求められると尚更、少女は手助けをせずにはいられない。青年が呆れて「無限大のお人好し」と言う所以でもある。
『さっきから押し売りが来ていて・・・・・どうしても帰ってくれないんです。何か買うまで動かないって』
「分かりました。今から行きますから」
 状況を察知した少女は力強く請け合い、受話器を置くと手早くエプロンを外し、助けを求めた三階の住人の部屋へと向かったのだった。

「・・・・・何も難しいことを言っているわけじゃないんだぜ、奥さん。この中のどれかを買ってくれるだけでいいって言っているじゃないか」
 お世辞にも品がいいとは思えないダミ声が廊下に響き、困り果てている女性の声がそれに答える。
「でも、要るものなんて何もなくて・・・・・」
「何もないなんてことはないだろう?えぇ?」
「人が要らないって言っているんだから、座り込んでないでさっさと帰りなさいよ」
 突然背後から掛けられた声に押し売りの男は驚いたようだが、まだ少女であると思ったのか、馬鹿にしたような目付きで相手を見た。
「何だ、お前は?子供が出る幕じゃないんだ、あっちへ行きな」
 知らないからこそ言える言葉だろう。たしかに、この少女の外見は可愛い感じだが、その外見を遥かに裏切った強気な性格なのである。
 もう一つおまけに、小学生の頃から生死を賭けた修羅場を経験している少女であり、たかが押し売りの恫喝で怯むようなものは一切、ない。
「嫌がっているのを無理に売ろうとするのを黙って見ているような私じゃないのよ。そんなに売りたきゃ、フリーマーケットにでも行って、売ってきなっ!!」
 そう啖呵を切った少女は指を唇に当て、音高く指笛を吹いた。
『お、お呼び、ですか〜〜?』
 あっという間にそこらの浮遊霊を集めた少女はあまりの光景に腰を抜かしかけている男を指差し、バッサリと言い放った。
「こいつ、そこの廊下から外に放り出して」
 ・・・・・ここは三階なのだが・・・・・。
『い、いいんですかぁ?死んじゃいますよ〜〜?』
「んじゃ、死なない程度に放り出して」
『はい〜〜』
 結局、少女には逆らえない浮遊霊達はえっちらおっちらと押し売り男を抱え、三階の廊下からダイブした。
「ひえぇぇぇ〜〜〜っ!!」
 怪我こそなかったものの、もう、ここに押し売りに来る気は失せただろう、男の最後の悲鳴だった。
「有り難うございます、奥さん」
「いいえ。でも、これから気をつけてくださいね?レンズで確認をして」
「はい」
 にっこりと笑って去る少女の後ろ姿を眺め、助けを求めた女性はホウッとため息をつく。
「大家さんの奥さん・・・・・本当に格好いいわ・・・・・」
 マンションの奥様達のアイドルと化している大家の青年も、その青年と結婚した少女もまったく知らないことだが、少女の気風の良さと見事な啖呵の切り方に少女は奥様達のヒーローとなっていたのだった。

 七時を少し過ぎた頃、青年は自分の家へと帰って来ていた。
「ただいま」
「あ、テルちゃん、お帰りなさい」
 パタパタ、と小走りに玄関まで出迎えてきた少女の姿を見て、青年は『じ〜ん』と幸せに浸る。
 結婚して三ヶ月、家に帰ると『ただいま』を言い、それに反応して『お帰りなさい』が返ってくる、これを幸せと言わずになんとする?
 それに、出迎えてくれるのは何よりも愛しい、少女なのである。その少女がエプロンをつけて出迎える・・・・・新婚ならではの幸せだろう。
「お疲れ様。お風呂、出来ているよ?入る?」
「せやな。けど、その前に・・・・・」
 青年の手から鞄を受け取り、小首を傾げて訊ねる少女の腰を引き寄せ、青年は漆黒の艶やかな髪に軽く口付ける。
「っ、テルちゃん!」
 真っ赤になって睨む少女に軽く笑い、今度は額に口付ける青年である。
「ちょ、テ、テルちゃんってば、ここ、玄関・・・・・」
「こんなん、挨拶や。麦子こそ、お返しの挨拶くらいしてくれてもええやろ」
「・・・・・恥ずかしいから、やだ」
 瞼に頬に、飽きることなく口付けを降らせる青年に、真っ赤な顔のまま、少女は頬を膨らませた。
「もう、いい加減離してよ。せっかくの料理が冷めちゃう」
「俺としてはおまえを食いたいんやけどなぁ」
「!!!」
 とたんに、じたばたと腕の中で暴れ出した奥さんの分かりやすい行動に青年は苦笑いし、無言の要求通りに腕の中から離してやる。
「と、とにかく、お風呂、入ってね」
「分かった。・・・・・何なら、一緒に入るか?」
 スッテーンッ!!
 青年の言葉に、何もない廊下で見事にコケた少女であった。

 夕食を食べて後片付けを済ませ、少女が入浴から出て来た時、青年は居間の毛足の長いカーペットに横になり、何かの雑誌を読んでいるところだった。
「ああ、麦子、出てきたんか」
 少女の気配を感じ取り、顔を上げた青年は『こっち、こっち』とでも言うように少女を手招きする。
「なぁに?」
「ちっと、ここ、座れや」
「?うん」
 素直に青年の側に寄った少女は言われるまま、そこにペタンと座り込んだ。その少女の膝の上に青年はゴロン、と頭を乗せる。
「しばらく、こうしてくれな」
「うん」
 にっこり笑った少女の手が自然に青年の薄茶の髪に触れ、優しく梳いていく。青年は瞳を閉じ、その優しい感触を存分に受けていた。
 うっとりするような優しさと暖かさ。
 青年が求めていたものを意識することなく与える少女。
 もう、この少女なしの生活など考えられない。
「麦子」
 青年の手が伸び、漆黒の髪に絡まる。
 引き寄せられるままに少女は青年の上に屈み込み、優しい沈黙が落ちる。
「おまえのはいつも、甘いな。ケーキばっか食っているからやろ」
「そんなこと、ないもん」
 ぷいっと背けている顔は真っ赤で、青年はそのまま押し倒したくなる。
「明日、明後日、休みやからな。覚悟、しとけよ」
「え?ちょ、ちょっと!!」
「聞かん」
 ひょいっと抱き上げられ、寝室へと真っ直ぐに向かう青年に今更ながら少女は抗議の声を上げた。
「明日、起きれなくなるのは、嫌だってば」
「起きれなくなったらなったで、朝飯は俺が作ってやる」
 艶やかに、艶然とした笑顔を見せられた少女は黙るしかなかった。こんな顔をしている青年に逆らっても無駄だと経験上、知っているからだ。
「・・・・・お願いだから、手加減してね?」
「一応、努力はするけどな」
 そんな言葉と共に、極甘な新婚夫婦は寝室へと消えたのだった。

 翌日、やっぱり起き上がれなかった少女の代りに、どこか嬉しそうに朝食を作っている青年の姿があったのは当然であろう。



   END