正しい色情霊の撃退法
それは、青年の一言がきっかけだった。 「あれ?谷山さん、首の後ろ、どうしました?」 「へ?首?」 書類や本の目録を作っていた少女の後ろをたまたま通りがかった青年の言葉に、少女は机の上から顔を上げ、きょとん、と眼鏡の似合う理知的な青年の顔を見上げた。 「今、ちらっと見えたんですけど赤くなっているようでしたよ?」 「え?どこどこ?」 「えーっと、ここです、け・・・ど・・・」 不自然に声が途切れた青年に気づかない少女は教えられた首の後ろを両手で撫でながら首を傾げる。 「うーん・・・別に痛くもないからぶつけたわけでもなさそうだし・・・腫れている感じもかゆみもないからかぶれたってこともなさそうだしなぁ。ね、安原さん、赤くなっているだけ?」 無邪気な鳶色の瞳に見上げられ、青年はぎこちなく眼鏡を押し上げながら頷いた。 「え、ええ・・・赤くなっているだけ、と言えばそう、言えます、が・・・」 「むー。見えないからどうなっているか分かんないよぉ」 むぅ、と口を尖らせる少女の姿はとても可愛らしいものだったが、とてもその態度を堪能する気になれない青年である。何故なら・・・。 「谷山さん、変な事を聞きますけど最近、身近で妙な事とか、変わった事とかありませんでしたか?」 「本当に変な事を聞きますねぇ」 くすくすと無邪気に笑う少女だったが、聞かれた事には素直に答える。 「別に何もありませんよ?夜もぐっすり眠っていますから夢なんて見ないし、金縛りにあっているような感じもありませんし」 バイトがバイトである。多少の事態なら少女自身で切り抜けられる程度の機転や技術は保護者を名乗る方々から伝授されているので、少女の言葉も事実なのだろう。 「そう、ですか」 「安原さん、どうしたんですか?眉間に皺が出来ていますけど」 不思議そうに顔を覗き込んでくる少女に、青年は深くため息をつかざるを得なかった。 (谷山さんの場合、命の危険がないと例の本能的なカンは鈍るというか、発揮されませんからねぇ。これは、原さんに見ていただくのが確実でしょう) 青年が見た、少女の首の赤い痣は・・・どう見ても、キス・マークであった。が、少女自身に恋人と呼べる人物はいないし(少女に恋人と呼んでもらいたい男共なら掃いて捨てる程いるが)少女に執着している美貌の所長様の目を盗んでまで彼女に不埒な真似をするような不届き者・・・いや、命知らずもいないはずだ。消去法でいけば残る可能性はごく僅か。 なんにせよ、無敵の所長様の逆鱗に触れたことは確実で・・・少女にちょっかいをかけた存在の身の上に何が起ころうとも、それは自業自得としか言いようがなかった。 「いえ、なんでもありません。それより、そろそろ一息入れませんか?」 「あ、そうですね。じゃ、お茶を入れてきます」 まったく疑う様子もなく、にっこりと笑顔を浮かべながら給湯室へと向かう少女の姿に再度、深いため息をつく青年の姿がそこにあった。 だが、この日、とうとう待ち人は来なかったのである。 翌日。青年は半泣き状態の少女に出迎えられた。 「安原さぁ〜ん」 「谷山さん?どうしたんですか?」 「どうしたも、こうしたも・・・」 今にも泣き出しそうな少女の様子に、青年はピンとくる。おそらく、自分につけられているあの跡に気づいたのだろう。 「もしかして・・・」 青年がそのことを確認しようとしたその時、事務所の扉が賑やかな音をたて、お馴染みの人物達が入ってきた。 「はぁい、お邪魔するわよ」 「麻衣、元気だったか?」 賑やかに挨拶する彼らの姿に、少女の顔がぱっと明るくなる。 「綾子っ!お願い、ちょっと、こっちに来てっ!!」 タイミングよく現れた保護者達の片割れ、ゴージャスな美女の腕に少女が縋り付いたかと思うとあっという間に資料室へ篭ってしまった。 後に残るのはあっけにとられた男性2人。 「・・・なぁ、少年。麻衣は一体、どうしたんだ?」 「えーと・・・ちょっと、僕の口からは言えませんね。憶測でしかないですし。谷山さんが出てきたら聞くといいですよ」 「どういうことだ?」 溺愛している少女の異変を察したのだろう、男は何があったのか青年から聞き出そうとするが、がんとして口を割らない。推測が当たっていたとしても、男性の口から言うべき事柄ではなかった。 「ちょっと、何なの、これはっ!!」 「私が聞きたいよぉっ!!」 突然資料室から事務所内まで響いた少女と美女の声に、父親と自負する男が慌てて資料室まですっ飛んで行く。 「おい、何があった!?」 ガコンッ、ドゴッ、スコンッ!! 「男は入ってくるな!!」 資料室の扉を開けた途端、男は美女の罵倒と共に様々な物品の洗礼を顔面で受けるはめになった。美女の影ではごそごそと服を着ている少女の姿がある。少女がセミヌードになっているところで資料室の扉を思いっきり開け、中へ飛びこもうとしたのだ。たとえ少女の叫び声が響いたのだとしても、これは完全に男の立場が悪い。 「・・・だから、出てきた時に聞けと言ったじゃないですか」 しみじみとした青年の言葉は、床に伸びた男の上に空しく降ったのだった。 「・・・・・色情霊だぁ!?」 「間違いありませんわね」 待ちに待った売れっ子霊能者、和服姿の美少女は驚愕の声を上げる男に一片の迷いもなく言いきる。 「なんだって、そんなものが麻衣に憑くわけ?」 「詳しいことは分かりませんけれど・・・」 ちらり、と美少女は自分にしがみついている少女へ気遣うような視線を向けた。それに気づいた少女が無理をしていると明らかに分かる笑顔を浮かべる。 「私は大丈夫だから、分かったこと、話して?」 話を聞いていた途中から少女はガタガタと震えだし、気分が悪いと言って美少女にしがみついたのだったが、それも無理はない。何せ、昨夜一晩のうちに体中にキスマークがついていたのだ。朝、それを見付けた時の驚愕は言うまでもなく、その原因が色情霊であればそれは気分が悪くなるのも当たり前であろう。いわば、見も知らぬ人が(この場合は霊だが)自分の体を勝手に触ったという事であり、痴漢にあったようなものだ。いや、キスマークがついている分、痴漢よりも質が悪い。 「麻衣・・・でも、大丈夫ですの?」 「大丈夫・・・とは、言い切れないけど・・・でも、少しでも情報があった方が対処もしやすいでしょ?」 「・・・確かに、そうですわね」 ふぅ、とため息をついた美少女は自分にしがみついて震えている少女の背を宥めるように撫でながら、自分が知り得た情報を端的に伝えた。 「簡単に言いますと・・・麻衣は一目惚れをされたんですわ」 「・・・・・えぇと、誰にでしょうか?」 「麻衣に憑いている方に」 事務所内を乾いた風が吹き過ぎた・・・・・。 「麻衣・・・何だってやっかいなのばっかりに好かれるわけ?」 某成仏できない方だとか、某その弟だとか。 口には出さない美女の言葉に男も青年も美少女も思わず内心で頷いてしまう。 「そんなこと、言われたって・・・私のせいじゃないよぉ」 少女の抗議も一理ある。誰が好き好んで色情霊に一目惚れされたいものか。 「まぁ、それはともかくとしてだな。ジョンに頼むか?」 ほのぼのとした人のいいエクソシスト神父なら一発でこの霊も落とすだろう。男の提案は極々当然だったが、それに同意する前に再び事務所の扉が開いた。 入ってきたのは漆黒の衣を纏ったやたらと美形な青年。言わずと知れたここの所長様である。その手にあるのは分厚く膨らんだ紙袋。滅多に外へ出歩かない彼がわざわざ外へ出掛け、人を殴り殺せるのではなかろうかと思われる程厚く膨らんだ紙袋を持っているのを見ればそれは自然と1つの結論へと結び付く。注文した専門書が届き、それを受け取りに行ったのだ−−−と。 事務所に入った途端、視界に入ってきた人物達に絶世を誇る美貌が嫌そうに歪められた。 「ここを喫茶店代わりにするなと何度も言っているはずですが」 毎度お馴染みイレギュラーズに向かって言う台詞も固定化している為か、最近では彼らも堪えなくなっており、ケラケラと笑い飛ばすまでに至っている。慣れとは恐ろしい。(・・・ちょっと、違うか) だが、今回は少しばかり、事情が違った。事は彼が執着している少女の事件であり、かの所長様がそれを知れば激怒することは火をみるより明らかだ。 彼らの互いを伺うような視線の遣り取りと青い顔をした少女が震えながら美少女に抱き付いている姿、そして事務所内に漂う奇妙な雰囲気に何かがあったのだと察した黒衣の青年の口調が僅かに変化する。 「何があった?」 「ええ、まぁ・・・」 珍しく口篭もる『越後屋』青年の姿に眉を顰めた所長だったがもう一度事務所内を見渡すと、だいたいの予想をつけることが出来た。 「麻衣、何があった?」 「ど、どうして?」 「普段、お前が人にしがみつくことはないだろう。そういうことをする時は必ず、何かがあった時だ」 冷静に状況を見て取れば容易い事だ、と白皙の美貌を動かすことなく所長は言いきる。その、少しも表情を変えない美貌を見上げていた鳶色の瞳が急に潤み出したかと思うと少女は顔を伏せ、ますます美少女にしがみついた。 「麻衣?」 「ったく、少しは思いやりってものを持ちなさいよね」 「何が言いたいのですか、松崎さん?」 普段なら腰が引いているぐらいの冷たい声と視線を美貌の所長様から受けた美女だったが、何かと可愛がっている妹分の心労を考えれば凍り付くようなそれらをあっさりと撥ね退けることが出来る。 「麻衣を見て分からないの?この子は今、とても状況説明を出来るような精神状態じゃないのよ?追い詰めるような真似をするんじゃないわよ」 普段なら娘を溺愛激愛盲愛という男が言いそうなものだが、男に負けず劣らず少女を可愛がっている美女が腰に片手を当て、言いきるその迫力は相当なものだった。意外な程の美女の怒りに全員があっけにとられる。 「色情霊に憑かれたって事だけでも気持ち悪いっていうのに、そいつに全身、キスマークつけられてみなさいよ。まともな返事が出来なくたって当たり前じゃない」 「・・・・・松崎さん、今、何と言いましたか?」 冷え冷えとした冷気が漂い、氷点下をはるかに下回る声が部屋に響いた瞬間、美女は自分の失言を悟ったがすでに遅かった。 「麻衣に色情霊が憑いている・・・そして、そいつにキスマークをつけられた、と?」 「え、えぇ・・・そ、そうよ」 「ほぅ・・・それはそれは」 ゆっくりと、絶世の美貌をかたどるパーツの1つである薄い唇の両側が吊り上がっていく。 恐ろしいほどに完璧な、凄絶な笑み。 遠目で見る分には一幅の絵画を見るような、鑑賞するに値する笑みであるが、纏う空気が怖すぎる。 背後にプラズマ現象を起こしているか、周囲に氷点下の世界を作り出しているかと思われるほどに漆黒の瞳が怒り狂っているのだ。 「何故、麻衣に憑いた?」 誰にともなく問うた言葉だったが、こんな空気を纏っている所長様を無視しきる程、ここにいる人物達は命知らずでもなければ鉄の心臓を所持してもいない。 「なんでも、通りすがりの谷山さんに一目惚れしたらしいのですが・・・」 「そして、ストーカーした上にこれ、というわけか」 「・・・の、ようだな」 「随分と、身の程知らずな奴だな」 『越後屋』青年と自称・父親の説明と相槌を聞いた所長様の視線がますます剣呑になっていく。その様子を目の前で見ていた彼ら全員は凍り付いた。 ・・・怖い。非常に、怖い。怖すぎるなんてものじゃない。 何せ、『あの』ナルだ。 神様相手に喧嘩を吹っかけ、あまつさえ勝利してしまう人間なんである。 そんな人物相手に生きている人間はおろか、そこらの色情霊なんぞが敵うわけがなかった。 ギロリ、と漆黒の視線が少女に憑いている色情霊(が、いるだろう場所)を睨み付け。 「失せろ」 ・・・たった、一言。それだけで少女の精神に多大な負担をかけていた存在は消え去った。それを確認した美少女が自分にしがみついている少女に脅威が消え去ったことを伝える。 「麻衣。もう大丈夫ですわよ。憑いていた方はいなくなりましたから」 「本当?」 「ええ、綺麗さっぱり。ナルが追い払いましたもの」 少女と所長様を除く全員の脳裏に『霊能者いらず』との言葉が浮かんだが、賢明にもそれを口にする者はいなかった。・・・少女に関してのみ発揮されるものなのだと理解していたからである。 「そうなんだ。・・・有難う、ナル」 美少女の言葉を自分を安心させる為の嘘ではなく、真実だと感じ取った少女の顔が青いままでありながらも柔らかな笑顔を取り戻した。 「いや。・・・麻衣」 「はい」 「ちょっと、こっちに来い」 「は?え、あ、あの、ナル!?」 戸惑う少女の腕を掴んだ漆黒の青年が多少・・・いや、かなり強引に所長室へと引っ張って行く。 「何なのよ、一体!?」 「印を付け直す」 「付け直すって・・・ええっ!?ちょっと、待てぃっ!!」 騒ぐ少女をあっさりと無視し、どこまでも無敵な所長様は所長室へと姿を消した。 ・・・・・パタン。 所長室の扉が閉まる音が奇妙に事務所内に響き渡る。 「・・・『付け直す』?」 ポツン、と零れた疑問は誰の声だったか。その声に刺激され、ようやく思考回路を復活させた彼らは言葉の意味を考え込み・・・ほぼ同時に疑問を氷解させた。 「も、もしかして、ナルっ!?」 「待て、麻衣に手を出すのは許さんっ!!」 「ちょっ、落ち付きなさいってば、ぼーず」 「ここは殿中・・・じゃなくって、事務所内です〜」 喧々囂々・・・溺愛している娘を取り戻すべく、所長室へと殴りこもうとする男を他の者が必死で押さえ込む。 しつこいようだが相手は神様を敵に回しても勝ってしまう人間なのだ。生身である男が敵うはずもないが、『娘大事』の男にとっては身の危険などゴミ箱に捨ててしまえるもので。 だが、この時点で所長室へ踏み込むのは身の危険どころか命の危険を伴なうものだ。たとえ、傍若無人な天上天下唯我独尊のナルシスト所長であっても殺人者にするわけにはいかない。 同じ意見に辿り付いた事を、お互いが見交わした視線の中に見付けた彼らは尚いっそう、男を押さえる腕に力を込めた。 「・・・何をなさっているのですか?」 平坦な口調の中に呆れたような響きが混じった声が耳に届き、全員の視線が声の主へと向かった。 「一体、何があったのですか」 長く伸ばした前髪で片目を覆った長身の男が何時の間にか事務所に入ってきている。道士である彼にとって、気配を消す事などは極々当たり前のことなのだろう。 「ああ、リンさん、お帰りなさい。えーと、実はですね・・・」 メンバーの中では一番状況説明に適している青年が今までの騒ぎをかいつまんで説明すると、片目の男は所長室へと視線を向け、納得したように頷いた。 「・・・なるほど、そんなことがあったのですか」 呟きながら男は『麻衣〜〜〜、麻衣〜〜〜』と騒いでいる坊主の首根っこを掴み、ズルズルと事務所の外へと引きずり出す。 「お、おい、こら、リン!何しやがる、離せっ!!」 離しやがれっと騒ぐ坊主をきっぱりと無視した片目の男は、その痩身には似合わない意外な力の強さを発揮しつつ、唖然として自分を見ているギャラリーに微かな笑みを浮かべてみせた。 「遅くなってはいけないと思って、幾つか買わずにいたものがあるんです。この分だと仕事にはならないようですし、事務所を閉めておきましょう」 片目の男が言う『事務所を閉める』と言うのは事務所の扉に『CLOSED』のプレートを掛けるだけのことで、実際に閉めてしまうわけではない。だが、そうすることによって、わざわざやってきた客に所長の不機嫌が降りかかる事は防げる。 そんな思考を読んだ『越後屋』青年がにっこりと了解の笑みを浮かべ、未だに騒ぐ坊主の片腕を取った。 「分かりました。では、僕も少し、備品を買いに出ることにします」 「そーねー。麻衣がいないんじゃ、美味しいお茶も飲めないし、私も帰る事にするわ」 ゴージャスな美女も艶やかな笑みを浮かべ、極自然に『越後屋』青年が掴んでいる坊主の反対側の腕を取る。 「あたくしもお暇させてもらいますわ」 サラリ、と肩で切り揃えた黒髪を揺らしながら立ちあがった美少女の手には何時の間にか事務所のプレートが抱えられていた。 パタン。 事務所の扉が閉まり、室内に静寂が支配する。 そして。 とうとう、所長室に引き摺り込まれた少女がどうなったのか、知る者は誰もいなかったのだった。 END |