そして、始まり

「お兄ちゃん・・・お兄ちゃんってば!」
 微かに聞こえる妹の声に落ち着いた雰囲気の娘がくすり、と笑みを漏らした。
?どうしました?」
「いえ。今日はの寝起きが悪い日だな、と。ルイセも苦労しているようですし」
 隣からの静かな問いかけに娘が答えると、視線を少し上に上げた母親も微かな笑みを浮かべた。
「・・・ティピが起こしたようですね」
 弟の身に何が起こったのか丸分かりな音に娘の笑みが苦笑に変わる。
「随分と元気なお目付けを創りましたね、母様」
「あれぐらいでないと、お目付け役はこなせないでしょう」
「それは、確かに」
 母娘で苦笑を交し合っている間に階段を下りる元気な足音と気配をほとんど感じさせない物静かな足音が居間の外に響き、元気な足音に見合った元気な声が二人の耳に聞こえてきた。
「ほら、お兄ちゃん。こっちだよ」
 そう言いながら居間に入ってきたのは柔らかな桃色の髪をした小柄な少女とサラリとした漆黒の髪の青年だった。
「おはよう。私がいない間、変わったことはありませんでしたか?」
 青い髪の女性に尋ねられた少女は少し首を傾げ、先に母親といた娘と自分の後から部屋に入ってきた青年を交互に見ながら質問に答える。
「うん、別に何もなかったよね、お兄ちゃん、お姉ちゃん」
「ええ、そうね」
 少女にお姉ちゃん、と呼ばれた青銀の髪の娘が微笑みながら妹の言葉に頷くと王宮付きの宮廷魔術師であるが故に家を空けがちである母の表情が少し緩んだ。
「それを聞いて安心しました」
 暖かな微笑みは子供達への確かな愛情の現われで、対する子供達も自分の母親へ笑顔を向ける。
 その後、宮廷魔道師である母親が末の娘の魔道実習の事や息子を占った内容の事などを説明し、できるだけ外界との接触を避けていた息子をいよいよ、外の世界へ旅立たせることを話した。
 幾許かのお金を渡し、必要なものを買い揃えるように青年を送り出した後、母親は思案顔で椅子に座った。その前に上の娘が紅茶を置く。
「母様、もう始めた事です。今更、これでいいのかと思うことはやめましょう。大丈夫、たとえ血が繋がっていなくとも、あの子は立派な母様の息子ですから」
「そうですね。今更始めたことを心配しても詮無きこと。貴女の言うとおり、を信じなくてはなりませんね」
 そうして母娘でお茶を飲み、しばらくのんびりとしていると送り出された青年が賑やかなお目付けと一緒に帰ってきた。
「あら、帰って来たわね。どれ、どんなものを揃えたのか、見せてごらんなさい」
のチェックが入るのか・・・。頼むから、あまり厳しい批評は勘弁してくれよ」
「はいはい。んーと・・・ん、いい買い物をしたわね。これだけ出来れば十分」
「そうですか。では、が行く場所ですが・・・どこか、行きたい所はありますか?」
 母親に尋ねられた青年はしばらく考えた後、ぽつりと夢に出た場所へ行きたいと答えた。
「夢?」
「そういえば、貴方は時々不思議な夢を見ていましたね。行った事もない場所や知らないはずの出来事を・・・。今朝もその夢を見ていたのですか?」
 母親の質問に上の娘もそういえば、と首を傾げる。
の寝起きが悪い日って、いつもその手の夢を見ていたわね」
 母娘の疑問を含んだ視線に青年は頷き、夢の内容を手短に話した。
「その場所ならおそらく、王都から西に当たる岬のことでしょう。距離としてもちょうどいいですし、行ってみてはどうですか?」
「そうね。モンスターもたいしたものはいないはず。行ってらっしゃいな」
「あれ?は一緒に行かないの?」
 不思議そうに問いかけてくる小さな魔道生物に娘はふわりと微笑む。
の力試しの外出よ?私がついていっては何もならないわ」
・・・何気にプレッシャーをかけるな・・・」
 肩を落とす弟にくすくすと笑みを零した姉はふわりと弟の身体を抱き締め、その秀麗な額に唇を落とした。
「行ってらっしゃい。そして、その目で世界を見てきなさい」
 暖かな姉の温もりにしばし目を閉じ、その温もりを確かめた後、弟は蒼と金の色違いの瞳を開けて姉を・・・そして自分を見守る母と妹を見つめる。
「・・・・・行ってきます」

 この後、娘は自分も一緒に行けばよかったかと後悔することになる。

「た、大変、大変〜〜〜〜〜っ!!!ア、アイツがぁっ!!」

 妖精の姿をしたお目付け役が慌てふためいて家に飛び込んでくるのは弟を送り出してから一日半を過ぎた夕方のことだった。

 娘の弟を中心に、世界の運命が動き出そうとしていた。

END