男の人を見ると足が竦む。 男の人が近付いてくると体が震える。 男の人と話そうとすると声が出なくなる。 −−−私、に名付けられる病気は『男性恐怖症』 |
「?また図書室へ行くの?」 問いかけてくるの声には親友へ振り向くとふわり、と微笑んで軽く頷く。 「うん。これを返して、社会科の資料に必要な本を借りるから、先に帰っていてもいいよ?」 「社会科って、グループ研究のやつ?だったら、私も探しに行くよ。私もしなきゃならないしね」 「じゃ、一緒に行こうか」 ふわん、と微笑んだの隣に並んで歩きながら、は親友の手にある本を覗き込んだ。 「これもグループ研究の資料?」 「うん、そう」 「随分と熱心ねぇ」 感心したように呟くに、は少し肩を竦めてみせる。 「だって、少しでも早く纏めておけば、余計な口を利かなくてすむもの」 「あ・・・なるほど」 言葉にしない意味を汲み取ったは納得したように頷くが、それでも少し心配そうにの顔を覗き込んだ。 「でも、。いつまでも、このままじゃ、いけないよ?」 「・・・ん、それは分かっている。でなきゃ、共学の学校に来ないもの」 「それも、そうか」 納得したように頷く親友に微笑み、ちょうど目の前になった図書室の扉へとは手を伸ばす。が、扉に手をかけるまえに図書室の扉が開き、更にはと扉を挟んで反対側の位置に立っていた人物がと正面衝突を起こした。 「きゃあっ!?」 ぶつかった勢いで吹っ飛ばされ、廊下に尻餅をついたとは対照的に相手は僅かによろめくだけである。 「、大丈夫?」 「うん、有難う、」 差し出された親友の手に掴まりながら立ちあがったはぶつかった相手に謝ろうとして・・・瞬時に固まってしまった。 茶色の大きな瞳に茶色のふわふわとした髪が非常に可愛く、綺麗に整った顔は美少女に見えるが瞳に浮かぶ強い意思で彼が少年であることを教えている。 飛葉中のアイドル・椎名翼であったが、相手が『男』というだけでにとっては恐怖の対象にしかならなかった。 「ああ、悪かったね。急に飛び出した僕も悪いかもしれないけど、ぼーっと突っ立っているそっちも悪いから、痛み分けってことにしてよ」 「あ・・・は、はい・・・」 まだ握ったままのの手の暖かさがかろうじて、の意識を平常に保っている。それでも、内心の恐慌は声となって現れ、の返事はと言えば囁きに近いほどの小ささに加えて明らかに震えていたりした。ただぶつかっただけだというのに、そこまでの異変を見せる相手に翼が興味を誘発されないわけはなく、不思議そうな顔での側に寄ろうとする。 「何?一体、どうしたっていうのさ」 「・・・、っ」 近寄ってきた翼にどうにか平常心を保っていたもそれ以上は耐えられず、側にいて手を握っていたに縋り付く。 必死になって親友に縋り付くの肩を抱き、は落ち着かせるように何度かその背中を叩いてやった。 「落ち付きなさい、。大丈夫だから。・・・すみません、驚かせて。この子、ちょっと男の人が苦手なんですよ。ですから、できればあまり近付かないでやってくれます?」 「あ・・・そういうことか」 「はい。・・・?落ち付いた?」 「・・・・・・・・・・う、ん」 「なら、何をするべきか、分かっているわよね?」 「うん。・・・・・あ、あの、済み、ま・・・せ、ん、でし・・・た」 まだ強ばった表情での腕にしがみついたままであるが、それでも必死に自分と向き合おうとする姿勢が伝わってくる。恐慌を起こすほど『男』が苦手なのに、それを克服しようとするの芯の強さが翼は気に入った。だからといって、優しい言葉をかけるような彼ではないのだが。 「ふぅん、って言ったっけ?今のままでいられないってことは当然、分かっているよね?自覚があるのなら、早いとこ友達無しでも話せるようになりなよ」 「は・・・は、い・・・」 「じゃあな」 ひらひらっと手を振った翼の姿が廊下の角を曲がり、見えなくなった途端、の体から力が抜け、深いため息が零れた。 「ふぅ・・・恐かった・・・」 「お疲れ。でも、さっきの椎名先輩じゃないけど、私がいつも側にいるとは限らないんだから。頑張って早く克服しなさいね」 「うん、分かっている。いつも、に迷惑をかけちゃっているものね」 「迷惑だなんて思っていないわ。私はただ、心配なだけ」 「知っている。有難う・・・あれ?」 ふわり、と微笑んだの視線が床のある1点で止まり、おもむろにそこから1冊の生徒手帳を拾い上げる。ペラリ、と表紙をめくってみればそこには『椎名翼』の名前がしっかりと書かれていた。 「さっき、ぶつかった時ね、きっと」 「・・・・・うん」 「どうするの?」 「う・・・と、届ける・・・」 一瞬、迷うように瞳が揺れたが、それでもしっかりとした意志を見せたには優しく頭を撫でてやった。 「ん、よく言ったわね。私もついて行こうか?」 「・・・いいの?」 「一人だと、パニくって収拾つかなくなる可能性があるからね」 「う・・・」 否定できない可能性には詰まり、けれども、諦めたようにため息をつく。 「本を借りた後、よろしくね、」 「もちろん」 頼もしい親友の返答が甘えていると分かっていてもやはり、嬉しいであった。 図書室での用事をすませたとは、しっかりと帰り支度をしてからサッカー部が使用しているグラウンドへと足を運ぶ。ちょうど休憩時間だったらしく、部員達は各々地面に座り込んでドリンクを飲んでいたりタオルで汗を拭いていたりする。 「あ・・・あ、の・・・椎・・・名、先輩・・・」 男だけの集団の中へ足を踏み入れるのは、にとって恐怖以外のなにものでもないのだが、隣にいるを支えにありったけの勇気を掻き集めて恐る恐る、飛葉中のアイドルに声をかけた。 「ん?あれ、お前、さっきの」 「は・・・は、い、あ・・・あの、その、先、輩・・・さ、さっき・・・これ・・・を、お、落と、して・・・」 「届けに来てくれた訳だ」 「は、はい・・・」 「何や、翼、どないしたんや?」 ファンクラブとは明らかに違う翼の態度に興味を持ったのだろう、直樹がひょいっとの目の前に顔を出す。 いきなり目の前に出現した男の顔には目を見開き、そして次の瞬間、悲鳴と共にの首筋にしがみついていた。 「い、いやあああぁぁぁっっっ!!!」 「な、何や、何や!?」 驚いたのはいきなり悲鳴を上げられた直樹である。おろおろと周囲を見回し、ガタガタと異常なほど脅えて震えているを宥めようと手を伸ばした。 「ちょ、ちょっと、そないに脅えんでもええやんか。俺、なんもしとらへんで」 「馬鹿サル、手ぇ、出すんじゃないっ!」 げいんっ!という、見事なほど良い音が直樹の頭から響く。翼が直樹に拳骨を落としたのだ。 「ってー、何すんねん、翼っ!」 「お前が馬鹿なことをしようとするからだよ」 「せやから、俺はなんもしとらへんって」 「・・・・・おい、何の騒ぎだよ、コレ」 わいわいと騒がしいグラウンドに鞄を肩に担いだ柾輝が不審そうな顔で入ってきた。日直当番だった為、遅れて部活に顔を出したのだが普段とは違う雰囲気に少しばかり驚いている。何より柾輝にとって不思議なのは、この場所に女の子がいることだ。唯の騒がしいファンクラブの女なら翼のマシンガントークの餌食になって体よく追い払われるはずなのだから。 「いや、知らないとはいえ、サルがちょっとヘマをやらかしたんだよ」 「一体、何を・・・って、!?何だってあんたがこんなところにいるんだ?」 聞き覚えのある声に恐る恐る顔を上げて見ると、少しキツい目付きが特徴のクラスメートが心配そうに眉を顰め、の顔を覗きこんでいる。パニックになっていたの瞳が少し正常に戻り、確かめるように相手の名前を呟いた。 「く・・・黒、川・・・君・・・?」 「男が駄目なあんたが何で、よりにもよって男しかいないここにいるんだ?」 柾輝の台詞に「え?」と声を漏らしたのは直樹だった。 「男が駄目って・・・」 「ああ、こいつ、っていうんだけど・・・いわゆる『男性恐怖症』ってヤツがあるんだ」 「ま、まじで・・・?」 あきらかにうろたえる直樹にはにしがみついたまま、済まなさそうにコクン、と頷く。 「心の・・・準備とか、していたら・・・その、ある程度・・・大、丈夫・・・なん、です・・・け、ど・・・さ、さっき、のは・・・いきなり・・・だった、か、ら・・・そ、その・・・お、驚か、せて・・・すみま、せん・・・」 ペコン、と頭を下げるの頭を柾輝が軽くポンポンと叩いた。 「気にするな。お互いに事情を知らなかっただけなんだろ?それより、どうしてがここにいるんだ?」 「あ・・・その、ね。図書室の入り口で椎名先輩とぶつかったんだけど・・・その時に、椎名先輩が生徒手帳を落としたの」 「それを届けに来たってわけか」 「うん。えっと・・・黒川君は?どうして、遅れてきたの?」 「日直の雑用を片付けていたんだよ」 「そうなんだ」 「・・・・・おい、男性恐怖症の奴がどうして柾輝と普通に話せているんだよ」 今まで、脅えた表情しか見せなかったが、柾輝とはにこやかに会話することに不満を感じたのか、翼が二人の間に口を挟んできた。 「あ・・・そ、その・・・」 近付いてきた翼にはまた顔を強ばらせ、柾輝の服の裾を掴むとその影に隠れるような行動を起こす。のその態度に僅かながら、翼はむっとした表情を浮かべた。 「椎名先輩、気持ちは分からなくもないですが、それ以上に近寄らないで下さい。がまた、パニくりますから」 額に手を当て、ため息をつくに翼の視線が向かう。翼の言葉に出さない質問に気づいたは肩を竦め、へと視線を向けた。 「私はといって、この子の友人ですけど。そう、ですね・・・、男性恐怖症のことも含めてここの人達に説明するよ。いいね?」 自身に説明させると緊張のあまり、つっかえつっかえの言葉となって時間がかかると判断したである。も親友の言葉の奥にある意味を読み取り、こくん、と頷いた。 「の男性恐怖症の原因の一つは小学校時代の執拗ないじめですね」 「いじめ?」 「よくあることでしょう?好きな子をいじめて振り向かせたいってやつ」 ああ、なるほど、とギャラリーに徹している畑兄弟&直樹が頷く。確かに、はそうしたい衝動にかられる容姿をしていた。 全体的に小柄なのだが、それに加えて雰囲気がちまちまっとしているのだ。ついつい、指で突ついて構いたくなるようなものがあるのだが、まだ構い方や力加減のコントロールが出来ない幼い頃ではいじめになってしまうだろう。 「だいたい、3年ぐらいの頃からかなぁ、エスカレートしてきたのは。ただそれだけだったら、中学に上がるまでに修正は効いたんですけどね」 「何かがあったってことか」 確かめるような翼の言葉に、腕を組んだがこっくりと頷いた。 「5年の時、ロリコン大学生に誘拐未遂を起こされて、6年の時に変態中年に強姦未遂を起こされました」 「・・・・・・・・・・」 「まぁ、男性恐怖症になってもおかしくはないですよね、こんなことを経験しちゃ。男性不信にまで発展しなかったのが不幸中の幸いというか・・・」 のかなりヘヴィな体験に、思わず自分達の性別を謝りたくなったりする男性陣である。 「・・・で、かなりなトラウマを抱えているにもかかわらず、柾輝にだけは平気なのは?」 「黒川君は、恐くないから」 誰から出てもおかしくはない、当然の質問に答えたのは相変わらず柾輝の影に隠れているだった。 「はぁ?」 「柾輝が?」 「こないに目付きの悪い奴が恐くないんやて!?」 「変わっているな、お前」 「まぁ、クラスの七不思議の一つに数えられていますけどね」 「・・・・・うるさい」 驚愕の声を上げるチームメイトに不機嫌そうな声と視線を向ける柾輝はもともとキツい目付きもあって、初対面の人間が見れば回れ右をするだろう迫力がある。だが、そんな柾輝を見てもは恐がることなく、しっかりと彼の服の裾を握り、側に立っていた。 「えーっと、ちゃん、でいいんやな?なんで、翼は恐くて柾輝は恐くないんや?普通は逆やと思うんやけどな」 直樹の疑問はを除く全員の疑問だったらしく、うんうんと頷いている。 「が椎名先輩を恐がる理由は説明できますよ」 「へぇ?」 言えるものなら言ってみろ、とでも言うように翼は器用に片眉を上げ、を見据えた。 「椎名先輩、好きな女の子はいじめるタイプじゃないですか?そんな男の子の雰囲気そっくりですもん。だからですよ、が脅えるのは」 「柾輝に脅えないっていうのはそういうタイプじゃないってことか?」 「どっちかっていうと、釣った魚に餌をやりすぎるタイプみたいですけど」 「・・・・・かもしれないな」 「本人を目の前にして堂々と診断するなよ」 すでに諦めた感のある柾輝を気にすることなく、興味津々、といった感じで翼は未だに柾輝の側にいるの顔を覗き込む。 「なぁ、どうして柾輝は恐くないわけ?」 「翼!」 「いいだろ、聞いたって。大体、お前だって聞きたいんじゃないのか?」 「いや、俺は・・・」 「あ、俺も聞きたい!」 「そうだな」 「不思議なのはやっぱり不思議やしなぁ」 何かを言いかけた柾輝を遮るように次々と五助・六助・直樹が翼に同調し、を同時にじっと見つめた。 「あ、あの・・・その・・・」 戸惑いながら順番に彼らを見たは、最後に側に立っている柾輝の顔を見上げると柾輝もを見下ろし、困った顔をしているに苦笑を浮かべてみせる。ついでにポンポン、と軽く頭を叩かれたの体からふいに、緊張が解けた。 「あの、黒川君とは1年の時も同じクラスだったんです」 少しずつ、小さな声で話しはじめたの声に、その場にいた者達は黙って耳を傾ける。静かなグラウンドに響く自分の声を気にしながら、は話し続けた。柾輝が恐くなくなった時のことを。 「へぇ、お前、この年になってもリボンなんてつけてんのかよ?」 「あ・・・か、かえ・・・し、て・・・」 「何?聞こえねーなー」 は困っていた。髪につけていたお気に入りのリボンを数人の男子達に奪われたのだ。お気に入りで、大切なリボンなのでどうしても取り戻したいのだが、すでに男性恐怖症になっていたは小さな抗議をあげるのが精一杯で。 「どうした?返して欲しいのなら、こっちまで来てみろよ」 ヒラヒラと振られるリボンを見つめ、けれどもは恐怖故に自分の席から動けなかった。こんな時、すぐにすっ飛んできて助けてくれる親友はまだ登校していない。親友に頼らず、自分で何とかしなくてはと思うものの、体は思うように動かず、は進退極まってしまった。 そんな時だった。困りきっていたに助けの手が伸ばされたのは。 男子生徒の手にあったリボンが彼の背後から伸びた手によってひょいっと取り上げられる。 「え?」 一瞬、動作が止まったその隙に男子生徒の脇を擦り抜け、の目の前に取り返したリボンを置いたのは『飛葉中始まって以来の不良集団』と称されているグループの一人である柾輝であった。 「あんたのだろ、これ」 尋ねてくる柾輝には驚きで瞳を見開きながらもコクン、と小さく頷く。 「おばあちゃんの・・・形見、なの、この・・・リボン。とて、も・・・大切な・・・もの、だったから・・・」 「そっか」 「おいっ、黒川っ。よけーな事、すんじゃねーよ」 の台詞を聞いて気まずそうではあったものの、それでも男子生徒はリボンを奪われた事に対する抗議の声をあげる。その声の主を柾輝がギロッと迫力のある三白眼で睨みつけると、気圧されたように口を噤んだ。 「女をいじめるようなみっともない事、すんじゃねーよ。端から見ていても見苦しいったらありゃしねぇ」 もともとキツい目付きの柾輝が圧力を込めて睨むとそれはかなりの迫力だ。たちまちに絡んでいた男子生徒達が退散していく。 「ホラ。今度は取られるんじゃねーぞ」 真っ直ぐに自分を見る柾輝の瞳には視線を捕われた。 キツい目付き。けれども、その瞳はとても強くて、真っ直ぐで・・・そして綺麗だった。 直感で感じる。彼は、意味の無い行動は起こさないと。何かをするにしても、それには彼なりの理由があり、それに従って行動する人なのだと。 「うん。・・・・・有難う、黒川君」 だから、相手が『男』でも微笑む事ができた。ふわりとした、花が咲き綻ぶような微笑みを、相手に脅える事もなく自然に浮かべる事ができた。 それから、彼だけがの唯一の『恐くない男の人』 「ふぅん、なるほどねぇ。随分と信頼されてるんだな、柾輝は」 ちらっと柾輝の顔を眺めた翼の瞳が僅かに見開かれる。 「・・・・・何、赤くなってんだよ、柾輝」 「あ、いや、その」 珍しくうろたえ、口元に手をやって視線を逸らせているという、なかなか見られない柾輝の姿に翼の顔がニヤリ、と玩具を見付けたかのような面白がる笑顔を浮かべた。 柾輝と相変わらずその側に立っているの姿を代わる代わる見つめた後、翼は一つの提案をに示す。 「と、だったよな。もうすぐ暗くなるし、送ってやるよ。だから、最後まで俺達のサッカーを見ていかないか?」 「翼!?」 「は送る相手が柾輝なら、大丈夫なんだろう?」 確認をとる翼には柾輝を伺いながらコクン、と頷いた。 「なら、決まり。そこで見てなよ」 「ちょ、おい、翼!」 さっさと決めてしまう翼に柾輝が抗議の声をあげるが、翼は知らぬ顔。それどころか反対できない理由を立て板に水とばかりにつらつらとあげていく。 「だって、今から家に帰すとなると、こいつらが家に辿り着く頃にはすっかり暗くなっているぜ。最近、変質者が出るっていう話も聞いているっていうのに、そんな中を帰すのか?しかも、男性恐怖症っていう、立派な病気持ちの奴で、おそらく、一人で歩かせれば確実に襲われそうな人間を」 話ながら柾輝を見た翼の顔がふいに、ニヤリとした笑みを浮かべた。その笑みで柾輝も悟る。 (こいつ、見透かしてやがる・・・っ!) 「〜〜〜〜〜っ、わかったよっ!」 「あの、黒川君、迷惑なら私、帰るけど・・・」 ぐるぐると唸る柾輝の顔を、は遠慮がちに覗き込む。そんなの頭を、気にするなというように柾輝はポンポン、と軽く叩いた。 「ああ、そうじゃねぇ。ただ・・・」 「ただ?」 「翼の思惑に乗るのが気に入らねぇだけだ」 「?」 キョトン、とするに苦笑し、柾輝は親指で隅にあるベンチを指し示す。 「気にするな。翼の言う通り、あんたが今から帰るのは危なさすぎる。俺が送ってやるから、そこで見てな」 不思議そうに柾輝を見上げていただったが、それでも素直にと言われたベンチへと向かった。 「君も、苦労するわね」 すれ違い様に呟かれたの台詞に、思わず柾輝は振り返る。ちょうど、こちらを見ていたと視線が合った。 「まぁ、頑張りなさいな」 (・・・・・こいつもかよ・・・・・) 黒い尻尾が見えるような笑顔を浮かべるに、彼女にまで見透かされていた事に気づいた柾輝はがっくりと脱力するしかなかったのだった。 空が薄闇に染まる頃、と柾輝は連れだって家路へと歩いていた。お互いの家がわりと近所であることに気づいたのはが柾輝を恐がらなくなった直ぐ後の事である。その事に気づいてから、クラスの行事ごとなどで帰りが遅くなる時などは柾輝がを送る習慣がついていた。 「・・・っ」 隣を歩くが目を伏せ、すれ違う男性陣と視線を合わせないようにしてはいるものの、その体が緊張で強ばっていることが側で歩く柾輝にはよく分かる。しばらく考え込んでいた柾輝は人の波が途切れた時にふいっとの目の前に自分の腕を差し出した。 「黒川君?」 「掴まれよ。見ていて危なっかしくてしようがない」 戸惑ったように柾輝の顔と差し出された腕を見比べていただったが、柾輝がを気遣ったことに気づき、ふわりと微笑む。 「有難う、黒川君」 そっと差し出された腕に手を置いたは柾輝の顔を見上げ、再びふわりと微笑んだ。 柾輝に初めて見せたのと同じ、柔らかくて花が咲き綻ぶような微笑みだった。 「・・・なぁ、。聞いてもいいか?」 自分の腕に掴まり、ようやく安心したかのようなを伺いながら、何かを訊ねようとしている柾輝には首を傾げながら相手を見上げる。 「うん、何?」 「あんたさ、なんでそこまで俺を信用できるんだ?」 「え、さっき言ったと思うけど。黒川君は意味の無い行動は起こさないし、筋の通らないことは嫌いでしょう?」 「まぁ、確かにそうだけど」 の話を聞いていると人畜無害な人物に思われているようで、それはそれでちょっと、キツい。 「を恐がらせるつもりはないけど、俺も男だぜ?襲わないっていう保証はどこにもない」 「ん〜、でも、黒川君だから」 「なんだよ、その理屈」 呆れたような柾輝には人差し指を頬に当て、可愛らしく首を傾げながら懸命に言葉を探す。 「えっと、だから・・・。私をいじめていた男の子達って、たいした理由はなかったでしょう?」 「・・・いや、一応理由はあるというか・・・」 気になる女の子の気を引きたくて意地悪をしていたのだが。 「そんなの、理由になんてならない。いじめられた相手を好きになれるわけ、ないでしょう?そりゃ、照れもあるから好きな相手に優しくしろだなんて男の子達には難しいかもしれないけれど」 柾輝の腕を握っているの手がギュッと握り締められる。 「でもね、あの男の子達は理由らしい理由はないの。私でなくてもいいの。ちょっと気になるからやっちまえっていうような、軽い気持ちよ」 が結構、鋭い観察眼を持っている事は薄々気づいていた。直感に優れていることも。それから導き出された結論はクラスメイト達には厳しいかもしれないが、その通りだと納得できるものがあった。 「で、俺はそいつらとは違うってか?」 コクリ、と頷くに苦笑が浮かぶ。 「俺がにキスをしたいって言っても、そう言えるのか?」 「うん」 即答である。 間髪入れないその即答振りに、思わず絶句した柾輝へふわりとした笑顔をは向けた。 「黒川君はいい加減な気持ちでそんな事は言わないもの。それとも、違うの?」 首を傾げ、顔を覗き込んで問いかけてくるに、柾輝は貸しているのとは逆の手で顔を覆い、ため息をつく。 「・・・は、まいったな。完璧に、俺の負けだ」 負けたと言いつつも、どこか吹っ切れたような感じがする柾輝にの瞳が戸惑ったように瞬いた。 「え、と、黒川君?」 戸惑いながら名前を呼ぶの頭を軽く叩く。そして柾輝は殊更、何でもないようにサラリとその言葉を口にした。 「俺さ、の事が好きだ」 何時の間にか立ち止まり、自分を見上げているの瞳を、柾輝はしっかりと捕える。 「一般的な『好き』じゃねぇ事は、あんたでも分かるだろ。俺はな、を抱き締めたいとか、キスをしたいとか、そんな風に思うように・・・あんたが好きだ」 最初は、ただ放っておけなかっただけだった。獣に脅える小動物のような雰囲気に目が離せなくて。けれども、ふとした時に見せる芯の強さに驚かされて。友人達と話している時に浮かべる、花が咲き綻ぶような笑顔に目を奪われた。 野生の動物が警戒心を解いていくように、少しずつ自分に心を開いていくのが何故か嬉しくて、他の男達には見せない笑顔を自分だけに向けているという事に優越感を持った。 そうして、気づいた。何時の間にか自分に巣食っていた感情に。 「が好きだ」 薄闇だった空はすでに暗く、月と星が輝いてはいるものの、地上を照らすには不充分である。けれども、そんな暗さにも関わらず、には柾輝の強い瞳がはっきりと見て取れた。 強い、柾輝の視線を受けとめていたがふいに、微笑んだ。 あの、花が咲き綻ぶような、ふわりとした微笑みを。 「私もね、黒川君が好き」 微笑んだまま、が告げた言葉に柾輝の瞳が見開かれる。 「・・・念の為に聞くけど、その『好き』ってのは・・・」 「ちゃんと、黒川君の事が好きよ。黒川君が私に何をしても、受け入れられる。そういう『好き』」 迷いもなく言い切ったの体に、柾輝の腕が回される。 「・・・じゃあ、俺がこういう事をしても・・・大丈夫なのか?」 「うん」 腕に力を篭め、小さな体を抱きしめる。 「こうしても?」 「うん」 頷く頬に手を添え、顔を近づけた。 「・・・・・こういう事をしても、か?」 離れていく温もりを追っていたの視線が真っ直ぐな瞳と合う。 「黒川君となら・・・私、嬉しい」 本当に嬉しそうなの笑みを見た柾輝の頬が、今更のように赤くなった。 「・・・まじかよ。俺の片思いだと思っていたのに・・・」 「どうして?黒川君がサッカーをしているところを見れば、誰だって好きになるのに」 さっきまで見ていた、柾輝がサッカーをしている姿を思い出す。 真っ直ぐな瞳が強く、真剣にボールを追って。コートを駆ける姿は野生の獣のような力強さに満ちていて、目が離せなかった。 強くて真っ直ぐで真剣な瞳はとても綺麗で、その瞳に捕われれば逃げ出す事などできない。 「私は、黒川君の瞳に捕われたの。とても強くて、とても綺麗なその瞳に」 「あんたなぁ・・・恥ずかしげもなくよく言えるよな、そんなこと」 ますます赤くなりながら、けれども柾輝はを抱き締めたまま、腕を解こうとはしなかった。 「けど、まぁ、俺も人の事は言えないか。何と言っても、の笑顔に捕われたんだからな」 「く、黒川君・・・」 柾輝の呟きに今度はが頬を染める。 「なぁ、って呼んでもいいか?」 「え?あ、うん」 「それでさ、柾輝って呼んでくれねぇ?」 「うん。え、と・・・柾輝、君?」 「ああ。それで、さ」 柾輝の強い視線が真っ直ぐにの瞳を覗き込んだ。 「・・・キス、しても、いいか?」 ぼぼっと更に真っ赤になったの頬に手を添え、柾輝はもう一度訊ねる。 「なぁ・・・いいか?」 真っ赤な顔のまま、視線を合わせていたはコクリ、と頷くと受け入れる事を示すように瞳を閉じた。 「私も・・・して、欲しい、から」 柾輝の顔を赤くさせる言葉を呟いて。 脅えさせないように、そっと触れる。柔らかく、想いを篭めて。何度も繰り返し、口付ける。 「優しい、ね。柾輝君のキス」 大好き。 その言葉もキスで塞がれる。けれども、想いは触れ合う唇から伝わり、お互いの心に積もっていく。 「は・・・俺が守るから」 だから、ずっと側にいろよ。 抱き締められ、耳の側で囁かれる言葉に、花が咲き綻ぶような微笑みで応える。 「私の唯一は柾輝君だから」 彼だけが恐くなかった。 ずっと、彼だけだった。 そして、これからも彼だけ。 彼だけが、何をされても恐くない、唯一の人。 (END) |