救急処置法



 4時間目は家庭科の調理実習。
 調理したものがお昼ご飯のお供になるという、一種の博打でもある。何故かって、そりゃあ、上手に出来れば・・・最悪、食べられるものが出来ればいいが、失敗して食べられない代物が出来てしまった場合、食べ盛りの男子達は午後から飢えとの戦いという一種の地獄を味わう羽目になるのだ。
「みじん切り?それって、どう切るんだっけ?」
「うわぁっ、油がはねたぁっ!」
「やってられっかよ、こんなの」
「ちょっと、包丁をそんな風に扱わないでよ、危ないでしょう!?」
 不器用な者達の悲鳴混じりの声やら不貞腐れたような男子達の声やらで調理室はなかなかに騒がしい。
ー、材料、切ったよー」
「じゃ、フライパンに油を引いて温めていて。私もすぐに終わるから」
 家でしょっちゅう食事の手伝いをしているの手際はなかなかいい。自分の手を動かしながら同じ班の友人達に指示を出す辺りからもそれが伺える。
「本当にってば、手際がいいねー」
「単なる慣れだけど」
 みじん切りした玉葱を炒める慣れた手つきに親友のが感心したようにしみじみと呟き、はあっさりとなんでもないことのように答える。
「でも、は料理、得意でしょう?」
「家で手伝っているだけだもん。あ、そのボウル、取ってくれる?」
「はい」
 へとボウルを差し出した瞬間、調理室に悲鳴が響いた。
「きゃああっ!!」
 反射的に振り向いたが目にしたのは赤い血。そして、クラスメートの一人が腕を押さえ、蹲っている姿だった。

 と雑談しながら作業をしていた時に突然響いた悲鳴。あの声は香弥子ちゃん?
 反射的に振りかえれば左腕を押さえてしゃがみ込んでいる香弥子ちゃんと床に転がっている1本の包丁、そしてポタポタと流れ出る赤い血。
「香弥子ちゃん!?切ったの!?」
「いったぁい・・・」
 慌てて駆け寄った私に香弥子ちゃんは泣きそうな顔で見上げ、少し離れた場所では2人の男子が蒼褪めた顔で怪我をした香弥子ちゃんを見ている。
 ・・・・・何がどうなったのか、だいたい分かった。ふつふつと怒りが沸いてくるけど、今は香弥子ちゃんの怪我の方が大事。
「ちょっと、見せて」
 血だらけになっている手を外させて傷口を確認する。思いっきり、すっぱりと切れている傷口に周囲が引いたのが分かった。これは、縫わなきゃ駄目だわ。でも、保健室へ行く前に止血ぐらいはしておいた方がいいわね。
「香弥子ちゃん、痛いけど、我慢してね」
「う、うん」
 傷口を流水で洗い流し、綺麗にする。水を止めれば再びじわり、と流れる血を止めるように私はポケットからハンカチを取り出して傷口を押さえた。真っ青なハンカチは私の一番のお気に入りだったけど・・・仕方がない。香弥子ちゃんの出血を止める方が大事だし。
 ハンカチの上から傷を押さえつつ、私は頭に巻いていた三角巾を手に取るとそれを包帯代わりにしてしっかりと圧迫した。
『いい、?止血する時は傷口を綺麗にして、清潔な布を当てて圧迫するの』
『心臓に近い場所を紐とかで縛るんじゃないの?』
『静脈は確かにそれで止まるけど、動脈は押さえきれないから逆に出血がひどくなるわよ。ほら、採血の時のことを思い出してごらんなさい。縛って血を止められるのなら血を採る時、縛ったままにしないでしょう?』
『そういえば・・・』
『だから、よっぽどの傷でない限り、圧迫止血方が一番確実』
 知っておくと役に立つかもよー?と笑っていた看護婦のお姉ちゃんに今は感謝。まさか本当に、ノウハウを受けた救急処置法が役に立つとは思ってもみなかったわ。
「止血はこれでいいけど、先生に言って病院へ行った方がいいよ。っていうか、行かなきゃ駄目。この傷、縫わなきゃだめだもの」
、それ、本当?」
「本当。でも、その前に・・・」
 心配そうに香弥子ちゃんを覗き込んでいたに頷きながら、私はある一点を睨み付けた。

「すっごぉい。郭君って、器用なんだねぇ」
「・・・・・そう?」
 同じ班の女子に話しかけられながら、俺は包丁を動かす。ああ、ウザい。仮にも刃物を持っているんだから、やたらと話しかけないで欲しい。そんな事も分からないのか、こいつらは。
 イライラとしながらも黙々と調理実習をしていた俺達の目の前で、別の班の女子が腕を怪我した。
「きゃああっ!!」
 女子の悲鳴と共に調理室は騒然とした空気に包まれる。腕を切ったという突発事故であれば、それは当然の雰囲気だろう。だが、その後の出来事の方がよほど、俺の・・・クラス全員の度肝を抜いた。
 −−−どちらかといえば大人しめの、のんびりおっとりしているクラスメート。彼女が取った行動に、俺も驚かずにはいられなかった。
 悲鳴に反応したかと思うと流血やぱっくりと開いた怪我などに怯むことなく、テキパキと応急処置を施す手際の良さはほとんど看護婦並み。意外としか言いようがない。
「止血はこれでいいけど、先生に言って病院へ行った方がいいよ。っていうか、行かなきゃ駄目。この傷、縫わなきゃだめだもの」
 断言するに、俺は内心首を傾げた。傷を見て言い切る事ができるほど、はこういうことに慣れているのだろうか?
 そう思ったが、すぐに否定する。いくらなんでも、中学生の身で慣れてしまうほど頻繁に非常事態に遭遇するわけがない。
 首を傾げている俺の目の前で「その前に・・・」と呟いたの表情が変わった。今まで見た事もない、険しい顔。
「河野君に梅田君!香弥子ちゃんに言うことはないの!?」
 ・・・驚くなんてものじゃない。こんなに怒りを露わにしたは初めて見る。それは他の連中も同じなのだろう。シン、と静まりかえった中での怒った声が響く。
「自分達が何をしたのか、ちゃんと分かっている?香弥子ちゃんに怪我をさせたのよ?下手をすれば、もっと大変な事になっていたっていう自覚、ある!?」
 普段怒らない者が怒るとそれはかなりの衝撃で、下手をするといつも怒る先生達よりも余程、迫力があった。
 ただ驚くだけの俺達の視線を受けながら、は怪我をさせた2人の男子をその迫力で睨んでいる。
 人は見かけによらないものだと、俺はしみじみと思わずにはいられなかった。

 香弥子ちゃんの怪我は、2人の男子が包丁を乱暴に扱ったせいだった。よりによって、調理台の上に包丁を放り投げたのだ、この2人は!
 乱暴に放り投げられた包丁は台の上を滑り、ちょうど材料を切っていた香弥子ちゃんの腕に突き刺さったというか、すっぱりと切ったというわけで。
「調理を甘く見るんじゃないわよ。自分達が扱っている道具がどれだけ危険か、理解しなさいよ。人を傷つける・・・場合によっては命も奪えるものを手にしているってこと、ちゃんと理解しなさいよね!!」
 私が初めて包丁を手にした時から母さんに言われ続けている言葉。
『いい加減な気持ちで手にすると、必ず怪我をするから。一度手にしたのなら、安全に置くまでその道具に対して責任を持ちなさい』
 ええ、母さん。本当にその通りです。
「えっと、その・・・」
「俺達、何にも考えていなくて・・・」
「けど、軽率だった」
「本当に、ごめん!」
「・・・うん、分かった。もう、こんなこと、しないでね」
 潔く頭を下げる2人に、香弥子ちゃんが答えるのを聞いた私も肩をふっと下ろした。香弥子ちゃんが許したのなら、私もこれ以上何も言う事はないし。
 香弥子ちゃんを保健室へと送り出した後、ふと、周囲を見まわすとクラスの人達が呆然とした感じで私を見ている。
 ・・・し、視線が痛い・・・。うう、頭に血が上ってしまっていたけどさっきの私の行動って結構、すごかったわよね。うわ、恥ずかしい。
、ちょっと、ここを片付けた方がいいんじゃないかな?」
 私が困りだしたのを察したのだろう、がほうきや雑巾を取り出して聞いてきた。
「あ、うん、そうね」
 感謝の視線を送るとはにこっと笑って。私も笑い返して。2人で床に散らばった野菜やら血液やらを片付け出したのだった。

 が床を片付け出したのを機に、調理室もいつもの空気が戻ってきていた。それでも、の意外な一面はしばらくクラスの話題に上るだろう。かく言う俺もが気になって時たま視線を向けてしまうし。
 ・・・こうして改めて見ると、はかなり可愛い。女の子女の子した可愛さではなく、小動物じみた・・・そう、愛玩動物のような可愛らしさだ。普段からのんびりおっとりした空気を持っているだけど、この可愛さはなんというか・・・頭を撫でて構いたくなるようなものがある。
 ・・・・・俺、もしかして結構ヤバかったりするんだろうか。ちらちらと女の子を盗み見て、観察までしているなんて・・・。けど、やっぱりを見ると可愛いというか、和んでしまう俺がいる。
 昼食を兼ねた試食の間中、ずっとそんなことを考えていた為か、試食も昼食もちっとも味を感じる事が出来なかった。

「ん〜〜〜、と、届かない〜〜〜」
 試食も昼食も終了した昼休み、は使った調理器具を片付ける為、調理室にいた。
 ボウルを戸棚に仕舞おうとしているが、小柄なでは背が届かずに数センチの差でジタバタとしている。ここは無理をせずに椅子を使おうと考えたその時、両手に掛かっていたボウルの重みがふっとなくなった。驚いて視線を上げるとよりも一回りは大きな両手がなんなくボウルを戸棚へと仕舞っている。振りかえれば寡黙なクラスメートが無表情で立っていた。
「あ、有難う、郭君」
「どういたしまして。そこに仕舞うの、大変そうだったし」
 20センチ近くもある身長差は目の前の人物を見上げるの首にかなりの負担をかける。それでも自分のすぐ側に立つ英士を見上げ、はふわりと微笑んだ。
「うん、そうなの。椅子を持ってこようかなーって思っていたところだったから本当に助かっちゃった。郭君って背が高いんだねぇ」
 にこにこ、にこにこ。
 無邪気に笑うはその外見と相俟って本当に可愛く、無意識に頭を撫でてしまいそうになる。この無邪気さはある意味、英士にとっては貴重なものであった。
 本人が望んでいないにも関わらず、英士の周囲にはファンと称した女子生徒が群がっている。それがうっとおしく、表情を変えずに冷静にあしらっていた結果が『クールビューティー』などという、有りがたくもない呼び名と『それがまた素敵なのー♪』という更にヒートアップした女子達の告白合戦だった。
 だが、はそんな騒ぎとは一線を置き、極自然に英士をただのクラスメートとして扱う。
 だからこそ、英士も変に構える必要のないとの会話を続けたいと思った。
「調理実習の時のさん、すごかったね。あの状況で的確に応急処置をするなんてなかなか出来ないと思うよ」
「ああ、あれ?実はここだけの話、私も自分があれだけ動けるとは思わなかったの。一応、ノウハウを教えてもらってはいたけど」
 肩を竦めて照れるの言葉に英士は首を傾げ、少女が応急処置を施した時にも感じた疑問を口にする。
「教えてもらったって・・・一体?」
「あ、私のお姉ちゃんが看護婦でね。いろいろな応急手当の仕方を教えてもらっていたの」
 の説明を聞き、英士もなるほどと頷いた。身内に詳しい者がいればあの手際の良さも頷ける。
「お姉ちゃんに『いつか、役に立つかもよー?』って言われていたけれど、ホントに役に立つとは思わなかったなぁ」
「知らないでいるよりもいいと思うけど、俺は」
「うん、そうだね。でも、さすがに蘇生術を試す機会はないと思うな」
「蘇生術・・・?」
 聞きなれない専門用語に英士が眉を寄せ、は簡単な単語を上げた。
「いわゆる、人工呼吸とか心臓マッサージとかの仕方。あれも正しい方法でしないと、やっている意味がないんだって」
「人工呼吸」
 『人工呼吸』という単語に反応し、呟いた英士の視線がの唇に集中する。
「郭君?」
 いきなり黙り込んだ英士には首を傾げ、綺麗だと騒がれる顔の前でひらひらと手を振ってみた。
「郭君?どうしたの?」
 チェリーピンクに輝く唇に視線を止めたまま、英士はボソリ、と聞く。
「人工呼吸の講義も受けたんだ?」
「うん、お姉ちゃんの病院で一般講座があった時に習ったけど」
 人形に機械が繋がっていて、心臓マッサージや人工呼吸が正しく行なわれているかどうか、すぐに分かるようになっていたんだよー、と英士の様子を疑問に思いながらもはにっこりと笑った。その笑顔につられたかのように英士も微かに口の端を上げる。しかし、その瞳は獲物を前にした野生の猛獣のような強い光が浮かんでいた。
「正しい人工呼吸の仕方ってどうするの?」
「まずね、気道を確保する事」
 目の前のクラスメートが浮かべる危険な瞳の色に気づかないは自分が誘導されているとは思わず、素直に救急蘇生法を教えていく。
「息が止まっている人って、舌が気道を塞いでいるんだって。だから、顎を上に向けるように・・・仰け反るような姿勢にする必要があるの」
「ふぅん。・・・こんな風に?」
「え?」
 極自然に伸ばされた手に顎を取られ、上を向かされ。気がつけばもう片方の腕に腰をしっかりと絡め取られている。
「か、郭君!?」
 ここでようやく、呑気者のも英士の危険な雰囲気に気づいたのだが、時はすでに遅く。
「な、なに、や・・・んんっ」
 容赦なく唇を奪われていた。逃れようとしてもしっかりと抱き込まれている体は身動きも出来ない。とにかく驚いて、唯一自由になる両手で自分をすっぽりと抱き込んでいる胸を懸命に押しやろうとしてもそれはびくともせずに、触れている唇がますます熱く激しくなるだけだった。
「か・・・郭、君っ!」
 やっとの思いでしゃべる自由を取り戻したは潤む瞳に非難の色を浮かべ、未だに自分を抱き込んでいる英士を見上げた。
「なん、で・・・どう・・・して・・・?」
「人工呼吸を実践しただけだよ」
 さらり、と言ってのける英士の言葉には目を見張る。自分にとっては大切なことでも、彼にとってはそうではないと言われたようで、自分の心を蔑ろにされた気がしたの瞳からポロリ、と涙が零れる。
「そ、んな・・・ひど、い・・・」
「・・・と、言うのは建前。本当はさんにキスしたかったから」
「・・・・・え?」
 涙を溜めた瞳に浮かぶ、傷ついた色が不思議そうな色に変わる。見上げる大きな瞳が瞬く度に零れる雫を英士はそっと唇で拭い取った。
さん、俺を普通に・・・ただのクラスメートとして扱ってくれるよね。それ、結構嬉しいものなんだ。それだけでも、俺にとってさんは特別な位置にあるんだけど」
 次第に、驚きの表情を浮かべるの頬をそっと撫でながら英士は裏のない心からの微笑みを浮かべる。
「人工呼吸の話をした時、さんにはそんなことをさせたくないって思った。この唇に触れるのは俺だけにしたいって思った」
「郭君」
「俺、さん・・・が好きだよ。今、好きになったばっかりで、信憑性なんてないだろうけど、でも、本気だから」
 だから、もクラスメートとしてではなく、俺自身を見て?
 続けて言われた言葉に目を丸くしながらも、言葉自体に含まれる本気を感じ取ったはこくり、と頷いた。
「すぐに、俺に本気にさせるから」
 更に続けられた言葉に不穏なものも感じ取ったけれど。

 この後、英士は自分の素早い行動が正しかった事を実感する。
 試食の時に男子の間でが話題になり、彼女がかなり可愛いことを誰もが認めていたのだ。いずれ、誰かが行動を起こす事は間違いなく、そんなことになるまえにと試食と昼食を終えた英士はさっさとの元へと行った訳で。
 英士と共に教室に入ったは男女問わず、たちまちのうちに人に囲まれてしまい、四方八方からの質問攻めに目を白黒させている。
 質問だけではない。どさくさに紛れての頭を撫でたり、腕を取って触っていたりする男子に英士の顔が引き攣った。
 気づけばに触っていた連中を払いのけ、その小柄な体を腕の中に抱き込んでいる英士の姿があった。
「郭君!?」
 焦った声が腕の中から聞こえたが、きっぱりと無視した英士は周囲を威嚇するように見まわし、高らかに宣言する。
は、俺のだから。気安く触らないで欲しいな」
 そして、腕の中で真っ赤になっているの耳元にもそっと囁いた。
も、俺以外の男に触らせるんじゃないよ」
 もし、そうしたら、キス以上のお仕置きがあるからね。
 そんなことを囁く英士に、ただ真っ赤になって頷くしかないであった。


(END)