幼い頃から一人だった。
 けれども孤独ではなかった。

 幼い頃から周りに人はいなかった。
 けれども人ではないモノが傍にいた。

 幼い頃から見えざるモノが見えていた。
 けれども『彼等』とは友人だった。

 『彼等』は私と共にいた。

 それが私から人を遠ざける原因だとしても、私は『彼等』と別れようとは思わなかった。

 どうして別れられよう。
 『彼等』は私が生まれたときからの友人であり、助言者であり、守護者なのだから。

 私が私でいる為に。
 『彼等』が『彼等』でいる為に。
 私達はお互いが必要なのだ。

 だから私は人ではなく『彼等』と共にいる。

 私達はそうしてお互いの為に存在している。

異能の少女

「・・・・・呼んでいる」
 ふと、顔をあげ、少女はポツリと呟いた。
「誰なの?」
 腰よりも長い漆黒の髪がサラリと流れ、音もなく立ち上がった少女は流れるような動きで部屋の外へ、そして家の外へと出て行く。
「聞こえているわ。貴方は誰?」


 時は夕方。別の呼び名は逢魔が時。
 人と妖とが行き交う時間。
 異界への扉が開く刻。


 しっかりとした足取りで道路を歩きながら、しかし少女の耳は人には聞こえない音を拾い、瞳は見えない主を求めて彷徨う。


 道は路。道は途。道は未知。
 道は繋がる。歩く路に、まだ続く途に、そして見知らぬ未知に。


 少女は呼ばれた。
 常に周りにいた友人と生まれたときから持っていた異能故に。
 人と妖とが行き交う逢魔が時に、未知へと続く道を歩いて。



 そして、少女の姿は景色に溶け消えた。





 少女は自分がいつの間にか異空間に紛れ込んでいることに気づいていたが、その歩みを止めることはなく、呼び声に招かれるまま足を進めていた。
「私を呼んでいたのは・・・貴女?」
 白薔薇に囲まれた、哀しげな表情を浮かべた女性。・・・いや、女性の姿をかたどった人外のモノ。
「貴女達は・・・その女(ひと)の想いを受け取った白薔薇の精霊ね」
 サワリ・・・と白薔薇がざわめく。
「何が願い?私に何を望む?」
 再び白薔薇がざわめき、中心に立つ女性の瞳が揺れた。
 精霊達の声にならない声を聞き取った少女の瞳が閉じられ、そして開かれる。
「・・・・・いいわ。叶えられるか分からないけれど・・・出来るだけのことをしてみるわ」
 了承の声が零れたと同時に白薔薇の蔦が少女に向かって伸びていった。
 伸びていった蔦は少女の足に絡まり、次いで腰に胸に腕にと次第に面積を広げていく。
 蔦に体を拘束されたような形になっても少女は慌てる素振りを見せず、真っ直ぐに自分を見つめている女性を見つめ返していた。
 少女を見つめていた女性もしばらくは動かなかったが、少女に絡まる蔦の面積が顔以外全てを覆うほどになった時点でようやく動いた。
 滑るような動きで少女の目の前に立ち、細い腕で少女の体を抱きしめる。
 ふわり、と薔薇の甘い香りが少女を包み込み、香りに誘われるように少女は眠気を覚えた。
 その眠気に逆らうことなく少女は瞳を閉じ、体の力を抜いていく。

『どうか、哀しいあの人の心を助けてください。我等がマスター・・・我等の王』

 完全に意識を閉じる前に、白薔薇の精霊達の声が脳裏に響き・・・そして、少女は眠りに落ちた。





「カヅキ様!」
「どこですか、カヅキ様!?」
「珂月!!」
 ゆらゆらと揺れる意識の中、何かが少女の心に引っかかった。たゆたう意識のまま、心の赴くままに少女は姿を消した幼い子供の姿を探して、大騒ぎになっている屋敷の庭に降り立つ。

(ここ、は・・・?)

 まだ夢現の意識のまま、少女はぼんやりと辺りを見回した。その少女の視界に樹の根元に座り込んでいる小さな影が映る。

(小さな・・・男の子?)

 虚ろな瞳が見つめる視線の先にはキラリと銀色に光る何か。

(・・・・・ダメッ!!)

 『それ』が何が理解した瞬間、少女の両手は銀色の光を掴んでいた。
「・・・誰?」
 光を求めたいのに求められず、絶望に染まっている瞳が少女を映し出す。
「むこうがすけて見える。・・・ぼくをむかえにきたの?」
 幼子が呟く『迎え』の意味が、死出への旅の供だと理解した少女は緩く頭を振った。そして、幼子が呟いたもう一つの単語に自分の姿を改めて見下ろす。
 輪郭だけが浮き上がり、透き通って見える自分の姿。刃を掴んだ両手から血が流れているものの、自分が意識体でここに存在しているのだと理解した少女は改めて幼子に向き直り、流れる赤い血に構わず、もう一度銀の刃を掴むと緩く首を振った。
「どうして・・・」
 戸惑いに揺れる瞳に哀しく、けれども優しく微笑んだ少女は近づく気配に振り向き、立ち上がった。近づく気配は幼子の身を心から心配し、必死で探している人の心を伝えている。
「カヅキ様!!」
 まだ10代であろう金髪の少年がほんの2、3回しか会ったことのない幼子を必死で探し、繁みの中を覗き込んでいた。
 その少年の前に少女は姿を現す。
「カヅキ様!・・・え?」
 彼の視界に映った不可思議なモノに、少年の動きが止まった。
 腰の下まで流れる艶やかな髪。星を浮かべたような瞳。涼やかな美貌。はっきりとした存在感があるのに、透けている身体。
 少年を見定めたのか、細い腕が上がり血が流れる指が、ある一点を指し示す。
 流れる血にぎょっとしながらも指につられてその方向を見ると、今しも己の命を絶とうとしている幼子の姿が少年の瞳に映った。
 瞬間的に繁みの中を突っ切り、幼子の手から命を奪う手段を取り上げる。
「何をしているんだ!!バカなマネはやめろ!!」
 あまりにも必死で、敬語を使おうという思考も彼にはなかった。
「・・・・・・・・・・どうして止めるの?ぼくがいなくなれば、みんなが泣かなくてすむのに・・・・・」
 あまりにも哀しい幼子の言葉に、少年の瞳から涙が零れる。たまらず、少年は幼子を抱き締めた。
 必死に幼子を想う言葉を綴り、生を諦めていた命を呼び戻す。
 そんな少年の心が伝わったのだろう、人形のように表情のなかった幼子の顔が少しずつ動いていく。
「・・・・・ほんとうは、こわかった・・・・・」
 ポツリ、と零れた幼子の言葉と涙。
 改めて幼子を抱き締め、少年は優しく囁いた。
「大丈夫・・・こうしているから・・・もう怖くないよ」
 そんな二人の姿をじっと見つめていた少女はほっと吐息を吐き、自分を照らし出す月を見上げた。
 そろそろ、この場所を離れるべきだと感覚が伝えている。
「・・・君は、一体・・・」
 耳に届いた言葉に少女は自分を見つめている二対の瞳へ振り返った。
「ぼくを止めたのは・・・このことを知っていたから?」
 幼子の問いかけに少女は優しい微笑で答える。
「礼を言います。教えてくれて・・・カヅキ様を助けてくれて、ありがとう」
 少年の言葉に少女は柔らかく瞳を細め、緩く首を振る。
 幼子を抱き上げ、立ち上がった少年に微笑んだ少女は天を見上げ、両手を差し出した。
「あ・・・」
 少女の姿が闇に溶けるように、すうっと消えていく。
 ほんの瞬きの間に、不可思議な存在感を放つ少女の姿は二人の前から消えていった。
「・・・ねぇ・・・あの人に、またあえるかな・・・?」
「そうですね。・・・また、会いたいですね・・・」
「・・・・・うん・・・・・」





 再び意識がまどろみ、ぼんやりとした感覚の中、少女はどこかへ移動するのを感じていた。
 自分の意思で移動するわけではなく、誰かの意思(この場合は少女に願いを掛けた精霊達の意思)で空間も時間も次元さえも超えて移動させられている。
 しかし、少女の心に不安はなかった。
 精霊達が少女を傷つけることはありえず、そしてその逆も同じであるが故に。
 まるでぬるま湯に浸かっているかのような空間の中、少女の意識はまた深く沈んでいった。





「断る!」
 ある公爵家の一室で漆黒の髪と瞳の冷たい美貌の青年が苛立たしげに茶会の誘いを断っていた。
「しかし、珂月・・・」
 青年の片腕たる金髪の青年の忠告も彼の意思を翻すことはなく、物憂げな表情で庭を眺める。
「ご婦人方は物の記憶を読むという、東洋の小僧が珍しいだけさ。・・・こんなに噂が広がるなら、ヤードに協力なんてするんじゃなかった」
 彼がどんなに自分の能力を厭わしく思っているのか、それをよく知っている屋敷の者達も何も言うことはできず、庭を眺める青年の背中を見つめるしかできなかった。
 ふと、青年の憂いを帯びた瞳が庭で薔薇を摘み取っている二人の子供を認めた。それを確かめようと、庭へ出ようとした彼を片腕たる青年が引き止める。
「エド?」
「・・・見逃してやってはいただけませんか?」
 不思議そうに見上げてくる主人にエドと呼ばれた青年は子供達の立場を説明する。そんな主従二人の姿に気づいた子供達が薔薇を抱え、慌てて庭から走り出した。
「あの子供たちもお茶に呼んであげればよかったかな」
「それはだめです」
 遠くなる子供達の姿を静かに見送っていた己の主人にお茶の時間を告げた時に、ふと呟いた言葉を捕らえた青年は静かだが断固とした口調で否定する。
 その理由を穏やかに話しながら、漆黒の青年を部屋へと促そうとした時。
「・・・!?」
 白薔薇が咲き誇る中心に突如、白い光が放たれた。目を刺すような強い光ではなく、暖かく柔らかな・・・包み込むような優しい光。
 最初、両手で包み込めるほどの大きさだったものが、二人が見つめる中であっという間に人一人を包み込むような大きさになる。
 そして、その白い光の中から一人の少女が現れた。
 風に煽られたように、艶やかな長い髪がはためき、気を失っているのか四肢はぐったりと力を失っている。しばらく空中に浮かんでいた少女はゆっくりと白薔薇の繁みの中へ横たわった。
 あまりにも不可思議な出来事に唖然としていた主従だったが、我に返ると急いで光の中から現れた少女の側へ駆けつける。
 漆黒の青年が少女の側に膝を付き、上半身を抱き上げると、サラリと髪が流れ、少女の涼やかな美貌が彼らの前に晒された。少女の顔を確認した主従がほぼ同時に目を見張る。
「この、少女は・・・」
「まさか・・・」
 記憶が薄れるほど遠くはないが、思い出に浸るぐらいには昔である過去にたった一度だけ出会った少女。彼らが固い絆で結ばれるきっかけとなった出来事に関わった、不可思議で印象深い少女の顔に彼女はそっくりだった。
 いや、そっくりなどとは言えない。そっくりどころか、そのままと言ってもいいだろう。
 ふと、視線を落とすと両手から血が流れている。
「エド、ドーヴァー夫人にベッドの用意をしてもらってくれるか?あと、傷薬も頼む」
「はい」
 主人の指示に頷き、金髪の青年が身を翻す。屋敷の中へ入っていく背中を見送った漆黒の青年は、取り敢えず少女の両手から流れる血を拭き取ろうと、ハンカチで傷口を押さえた。
 ポタリ、と流れる血は白薔薇の上に散り、同様に青年の指にも散った。
 自分の指に移った少女の血を、青年は何の気なしに舐めとる。気のせいか、その血は微かに甘いような気がした。
「・・・君は、本当にあの時の人なのだろうか・・・」
 青年がポツリと呟いた言葉は揺れる白薔薇だけが聞いていた。





 深い眠りから目覚めるように、自然に少女は覚醒した。
 自分が居心地のいいベッドに寝かされていると気づき、ゆっくりと上半身を起こす。
「ここ、は・・・」
 ぐるりと周囲を見回せば落ち着いた趣味のいいものだが、一目で高価なものだと分かる調度品が部屋に当たり前のように置かれている。
「・・・ああ、気が付かれましたか」
 カチャリ、と扉が開き、落ち着いた年配の女性が起き上がっている少女を見てほっとしたように微笑んだ。
 女性が声を掛けた時に少女の瞳が僅かに見開かれたが、それを気取らせることなく誰もがするであろう疑問を口にする。
「あの、ここは・・・?それに、どうして私はここにいるのでしょう?」
「少しお待ちください。この屋敷の主人を呼んで参りますので」
 穏やかに告げる女性に戸惑いを見せながらも少女はおとなしく頷く。
 自分が精霊達の手によって運ばれたのなら、この場所はまず間違いなく精霊達が気に掛けている誰かがいるはずだ。ならば、慌てることなく冷静に、自分の立場を確認するべき。あと、気になることといえば、先程の女性が使った言語。

(あれは英語・・・それも、綺麗なクィーンズ・イングリッシュ)

 言葉遣いや身なりから判断すれば、あの女性はメイド頭か古参のメイドとみるべきだ。彼女の対応と綺麗な発音から考えれば、この屋敷の人物はかなりの身分の者に違いないだろう。
 そんな風に判断した少女は、体のどこにも異常がないのを確かめると静かにベッドから出て、目についた窓から外を眺めてみた。
「・・・凄い、庭。まるで、どこかの貴族のような・・・」
 窓に置いた手を見れば、丁寧に包帯を巻かれている。
 そういえばと思い出す。ここで目覚める前に、意識体で体験した出来事で両手に傷を負ったのだと。そして、どことなくあの時の庭とこの庭が似ているようにも思える。
「・・・ならば、あの時の幼子が精霊達の・・・?」
 両手を見つめながら考えに耽っていると、背後で扉が開く音と人が入ってくる気配がした。
「気が付いたと知らせを受けたのだが・・・気分は?」
 振り返ると漆黒の髪と瞳の冷たい美貌の青年が金髪碧眼の青年を後ろに従え、扉の前に立っていた。
「大丈夫です。・・・傷の手当てをしてくれたのですね。ありがとうございます」
「・・・いや」
「その格好では風邪を引きます。これを羽織ってください」
 扉の前から動かない青年を不思議そうに見ていた少女は、金髪の青年が差し出したショールを見てようやく、今自分が寝巻き姿でいることに気が付いた。漆黒の青年はそんな姿の自分に遠慮して、その場所から動かなかったようである。
「・・・申し訳ありません、無作法な格好をしていたことに頭が回りませんでした」
 謝罪をして、差し出したくれたショールを羽織ると金髪の青年がそつなく少女をソファへと誘導する。それを見た漆黒の青年も少女と向かい合う形でソファに腰を下ろした。
「いろいろ、聞きたいことがあるのだけど・・・」
「はい、分かっています。・・・私はといいます」
「僕は珂月。一条珂月。彼はエドワード。屋敷を取り仕切っている」
 こうして丁寧な対応をしてくれてはいるが、唐突に現れた自分が不審人物に変わりはないことを彼女はよく理解していた。どこから説明をするべきかと、眉間に皺を寄せて考え込む。
「・・・君は、日本人?」
 綺麗な英語を話しているものの、少女の外見と名前から漆黒の青年は少女の国籍を推測して尋ねれば、彼女は頷いて返事をする。
「ええ、そうです」
 頷いた少女−−−は少し首を傾げ、漆黒の青年−−−珂月にほとんど確信を持って尋ねた。
「わざわざ私の国を確認したということは、ここは日本ではないということですね」
「ええ。ここはイギリスのロンドンです」
「そう、ですか」
 金髪の青年−−−エドワードの答えには再び考え込んだ。
「君は・・・はあの庭・・・白薔薇の上から、白い光に包まれて現れた」
 珂月がの名前を呼んだ瞬間、自分の身に起こった変化に気づき、彼女の表情が僅かに強張る。だが、それよりも先には気になった単語を聞き返した。
「白薔薇の、上?」
「ええ。私もその場にいましたが、突然白い光が現れたかと思うと、その光が消えて貴女が気を失った状態で地面に降り立ちました」
「は、派手な現れ方をしたのですね、私」
 まさか、精霊達がそんな風に出現させたとは思ってもおらず、の額に冷や汗が浮かぶ。しかし、そんな現れ方を目撃されたのならば、多少常識外れな話をしたとしても信じてもらえるだろう。
「けれども、それなら少しは話がしやすいですね・・・。まず、話さなければならないのは私に備わっている、人にはない能力」
 そのとき、珂月の表情がピクリと動いたが、目の前の少女の言葉を遮ることなく静かに話を聞いていた。
「私が持っている能力とは・・・精霊使い」
「精霊使い?」
「日本には万物に神が宿っているという考え方があり、それが八百万の神様と言われます。それと同じく、万物には精霊が宿っているという考えもあるのです。そして、私は生まれたときからその精霊達と言葉を交わし、友として関係を築き、時に力を貸してもらう。そんな能力の持ち主です」
「だから・・・精霊使い、か」
「はい」
 頷いたはしばらく迷った後、名前を呼ばれたときから自分の中にあった疑問を目の前に座っている青年にそっと尋ねた。
「あの、大変聞きにくいことなのですが・・・」
「何か?」
「その、何かの拍子に私の血が口に入ったとか、ありませんでした・・・?」
「・・・血?ああ、そういえば」
 気を失っている少女の両手の傷に気づき、ハンカチで傷口を押さえた時に指に移った血を何気なく舐めとったことがあった。
の血を舐めたよ、確かに」
「・・・・・やっぱり、そうですか・・・・・」
「何かまずいことでもあるのですか?」
 珂月の肯定の返事を聞き、やや引き攣った顔になったにエドワードが眉を顰めた表情で、心配そうに訊ねてくる。
「まずいというか・・・その。私の血を舐めた彼が、私のマスターになってしまったということで」
「は・・・?」
「どういうことですか?」
 彼等としては珍しいであろう、目を丸くした表情になったのを見ながら、は苦笑を浮かべた。
「言霊、という言葉を聞いたことはありませんか?言葉には力が宿っているという考え方なのですが。魔術とかそういった類の力がある人間は言葉と同時に名前も大事にする傾向があります。名前は一番簡単な呪となりますので。あと、血液にも魔力が宿ると言われています」
「血と、名前・・・?」
「・・・先程、私の血を舐めたとおっしゃいました。そして、私の名前を呼ばれました。それは、私にとっての契約になるのです」
「君が・・・が、僕と契約した、と?」
「そのとおりです」
 静かに頷くに、珂月が秀麗な美貌を僅かに歪め、ポツリと呟く。
「・・・・・僕にそのつもりは一切なかったけれど・・・・・」
「それも、分かっています。偶然が重なってしまっただけだということは」
 そう、それはすべて偶然だったのだ。
 まず、血を舐めることから偶然だ。がどこかに傷を負わなければならないのであり、そして普通はそれをわざわざ舐めようとする人間はいない。は偽名ではなく本名を名乗ったが、それも普通の人間が口にしても効力はないのだ。何らかの力を持っている人間でない限り、契約としての効力は発揮されない。その理屈でいけば、珂月は人にはない力を持っているということだが、本人が何も言わないためにも敢えて訊ねることはしなかった。
 しかし、珂月はの血を舐め取り、血に含まれている魔力を自分の中に取り込んで自分のモノとしたあとに彼女の名前を呼んで契約が施行されたのだ。珂月の中にある力によって。
「普通、それだけで契約されるものでしょうか?」
 まだ納得できないと呟くエドワードにの視線が僅かに揺れた。
「・・・確かに、私の血を舐めて名前を呼ぶだけでは契約までに到りません。私の血の中にある力を自分のものとして変換できて、初めて契約の力が発揮されます」
「それは・・・僕にの力を制御できる力があると、そういうことか?」
 どこか、憂いを浮かべた漆黒の瞳がを見つめる。傷を負ったような瞳の光にの瞳も哀しげに揺れた。
「私を縛り付ける制約を成していますから・・・」
は、それでいいのか?」
 問いかける視線に初めて、はふわりとした暖かな微笑を浮かべた。
「私がマスターと認めなければ、あらゆる手段を使って契約をなかったものにします」
 それは、つまり。
「僕をマスターと認めると?」
「ご迷惑でなければ、私は貴方様をマスターとお呼びしたいのですが」
 しばらくを見つめていた珂月だったが、その視線を外すと後ろに控えていたエドワードへと振り返る。
「エド。部屋の用意を」
「珂月?」
を放っておくわけにはいかないだろう」
「そうですね。では、ドーヴァー夫人に頼んできます」
 暖かな笑顔で頷き、エドワードはにも軽く会釈をすると部屋を出て行った。
。君は自分の力を僕に話してくれた。だから、僕も僕の力をに話しておく」
「はい」
 静かに頷くを見つめ、珂月は自分の両手に視線を落とす。
「僕は・・・この手に触れた物や人の記憶を読み取ることができる力を生まれながらにして持っている。場合によっては記憶が勝手に僕に入り込むこともある。強い・・・とても強い想いは僕の意思を無視して記憶を読み取らせる」
「物や人の記憶を読み取る力・・・サイコメトリと呼ばれるものですね」
 驚きも興味も嫌悪感さえ微塵も見せず、は珂月の持つ力を理解し、冷静に呟いた。
「・・・それでは、私は不用意にマスターに触らないほうがいいですね?」
 あまりにも普通に接してくるに珂月の瞳が見開かれる。思わず、質問された事柄に答えず、逆にへと尋ね返していた。
はどうも思わないのか?僕の能力について・・・」
「どうと言われましても・・・私がすでに異能の持ち主ですのに、私如きがマスターをどうこう言うはずがありませんでしょう?」
 言われれば確かにそうだ。だが、なぜかからは異能故の孤独が感じられない。
「確かに、私は生まれたときからのこの異能故に、周りに人はいませんでした。けれども、決して孤独ではありませんでした。マスターが私に孤独の影を見ることがないのはその為です」
「周りに人はいない・・・けれども、孤独ではなかった・・・?」
「私の周囲には常に、人為らざる彼等がいましたから」
 の説明で納得する。精霊使いである彼女の周りには常に、何かしらの精霊達がいたのだろう。だが、彼等が側にいたが為に、人が遠ざかったとも言える。が身に纏う雰囲気がどこか、人離れしているのもこの為なのだろうか。
「あの、それでマスター」
「ああ、すまない。何故かは分からないが、に触れても何も流れ込まなかった。逆にが僕に触れても大丈夫だと思う。・・・ところで、何故は僕を名前で呼ばず、マスターと呼ぶんだ?」
 先程から気になっていたのだ。は初めて顔を合わせた時から、名前を呼ぼうとしない。
「私とマスターの契約の話でも言いましたが、名前は一番短くて一番簡単な呪なのです。名前が本質を表し、力のある者が名前を口にすればその者を支配さえ出来る。ですので、私は私の主をマスターとお呼びしているのです」
「なるほど」
 珂月が軽く頷いたところで部屋の扉が開き、部屋の用意をしていたエドワードが戻ってきた。
「部屋の用意が出来ました。、案内します」
「ありがとうございます」
 エドワードの促しには立ち上がり、珂月も掛けていたソファから立ち上がった。
。君が帰れる時までここにいるといい」
「はい、ありがとうございます」
 珂月の暖かな言葉に、もふわりと暖かな微笑を浮かべたのだった。





 が珂月達の前に現れてから数日。
 彼女はすぐに屋敷の者達と打ち解け、与えられた仕事をこなしていた。
。珂月にお客様が来られるので、お茶の用意を頼みます」
「はい、ミスター。客間に運べばよろしいのですか?」
「ええ、お願いします」
 にこり、と笑ったエドワードに軽く頭を下げ、はここ数日で格段に上達した紅茶を入れると簡単なお茶菓子と共に客間へと運ぶ。
「失礼します。お茶をお持ちしました」
「ああ、入って」
 入室の許可を貰い、紅茶とお茶菓子を載せたワゴンを押しながら客間に入ると、屋敷の主人の前に上品な貴婦人が穏やかに微笑んで座っていた。
 貴婦人に軽く目礼し、優雅な手つきでお茶を並べていると、貴婦人から不思議そうな問いかけがに掛けられた。
「ありがとう。貴女は女性ね?」
「はい」
「・・・カヅキ、あなたの考えをどうこう言うつもりはありませんけれど・・・何故、こんなに綺麗なお嬢さんを男装させていますの?」
 貴婦人が指摘した通り、はこの時代の女性が身につけるような裾の長い服ではなく、珂月やエドワードと同じスーツとタイ姿で、腰まである黒髪は緩く一つに括っているだけだった。
「・・・発言してもよろしいでしょうか、マダム」
。ベドフォード伯爵夫人だ」
「あら、わたくしとしたことが名乗りもせずに・・・重ね重ねの無作法、申し訳ありませんね。改めてはじめまして。ベドフォードですわ」
「私のような者に丁寧なお言葉、ありがとうございます。私はとお呼び下さい。マスターと同じ国の者ですが訳あって国を出まして、縁のあるマスターを頼ってきた次第です」
 ピシッと背筋を伸ばした姿は細身の体でありながら、どこか存在感を漂わせており、体つきは明らかに女性のものであるのに、その存在感と纏うストイックな雰囲気が少女を中性的にさせていた。
、というのね?とても綺麗な名前ね」
「ありがとうございます」
 ふわり、と微笑むと柔らかな雰囲気が生まれ、中性的な彼女を少女らしくさせる。
「それで、どうして男装を?」
 穏やかに尋ねる夫人は本当に心からの疑問だと態度にも表情にも表れていて、上流階級にありがちな退屈しのぎの興味本位ではないとよく分かった。彼女は間違いなく、本当の貴婦人だろう。
 は視線で自分で答えてもいいのかと主人に尋ね、その意味を汲み取った珂月は軽く頷く。
 珂月の許可を貰ったは改めて夫人へと向き直り、今の自分の姿について説明した。
「私の国はご存知の通り、このような裾の長い服を身に着けることは致しません。また、私自身も些か無作法者ですので、着慣れぬ服を身に着けますとあちらこちらに迷惑を掛けることになってしまいます。ですので、非常識だと承知していますが、このような男装をマスターに許してもらった次第です」
「そうなの。綺麗なお嬢さんなのに、もったいないけれど・・・本人の意思ならば、仕方ありませんわね」
 納得したというように穏やかに頷く貴婦人には僅かな微笑を浮かべる。
 色眼鏡で人を見ることもなく、ありのままに受け入れる懐の広い貴婦人に好感を持った。
「それで、ベドフォード伯爵夫人。僕に何か用事でもあったのですか?」
「ええ、実は無作法を承知でお伺いしたのは、見ていただきたい品があったからなの」
 珂月の促しに貴婦人は一つのアクセサリーを取り出してきた。
 主人にプレゼントされたのはいいが、出所がはっきりしないうえに女王陛下に献上されるはずだった財宝が消えるという事件を聞いたが故に、心配になったのだと話す貴婦人に、彼女が何を頼みたいのか察した珂月が軽くため息をつく。
「ベドフォード伯爵夫人・・・」
「決して興味本位でお願いしてるのじゃないんです」
 真剣に見つめてくる貴婦人に、珂月も殊更真剣な視線で貴婦人を見つめる。
「・・・僕の力を本当に信じていらっしゃるんですか?」
 真剣に訊ねる珂月に対し、今までの真剣さとは裏腹に貴婦人はにっこりと微笑んだ。
「ええ、信じておりますとも。カヅキは紳士です。嘘はおつきにならないわ」
 確信を持って言い切る貴婦人に珂月は複雑な顔でソファにもたれ、その後ろで控えていたエドワードがくすり、と笑みを零した。紅茶を載せていたワゴンの側に立ち、主人と貴婦人の会話を聞いていたも穏やかな微笑を浮かべる。
 更にもう一度、珂月は念を押したが、貴婦人は迷いもなく穏やかに頷いた。
 再度ため息を零しながらも、珂月はもう何も言うことはなくテーブルに出されたアクセサリーへと手を伸ばした。
 そんな姿の主人を見ながら、けれどもはこの場にいる者では自分しか聞こえない声を聞いていた。

『我が主・・・流れる血の香りが・・・』
『主様・・・幼き者から・・・』
『流れる血・・・流れる命・・・纏わり付く不穏が・・・』
『お気をつけて・・・何かが起こっている・・・』

(何か・・・何が起ころうとしている・・・?)

 見えざるモノの警告とも言える声を耳にしながら、しかしは自分の主人から意識を離すことはなかった。
 すらりとした長い指がアクセサリーに触れ、数秒静止したかと思うと、ふいに瞳を見開く。その漆黒の瞳に驚愕の色が浮かんでいるのをは確かに見た。
 その直後、玄関ホールからドーヴァー夫人の切迫した声が響く。
「ヤードのレイク警部がお見えです!あの・・・怪我だらけの子供とご一緒に・・・」

(怪我!?子供!?)

 ほんの先程、耳にした見えざる彼等の言葉を思い出し、は反射的に走り出した。
!」
 すぐ背後にエドワードが続くのを感じながら、二階の客間から玄関ホールを見下ろせる場所に辿り着くと階段を使っている時間も惜しいとばかりに手摺りを乗り越えて飛び降りる。
「き、君は・・・?」
 いきなり男装の美少女が暴挙とも言える行動で目の前に現れた為か、子供を抱えている亜麻色の髪をした青年が目を丸くして少女を見つめた。
「少し前から、ここにお世話になっている者です。それよりも、その子を・・・」
「あ、ああ。ジミー、しっかりしろ!!リルはどうした?何があったんだ!?」
 少女の促しにようやく気を落ち着けたのか、青年は子供を床に下ろし、意識をはっきりさせようと強く呼びかける。
 子供の手首を取り、脈を調べたの眉が険しくなった。

(・・・脈が弱い上に、不規則・・・呼吸状態も悪い・・・)

 追いついたエドワードも子供の状態を見て、眉を顰める。その背後から珂月も追いつき、青年の名前を呼んだ。
「レイク!!」
「門の前に倒れていたんだ。俺にも何がなんだか・・・」
 問いかけも含んだ呼びかけにレイクと呼ばれた青年も困惑した表情で答えるしかない。
「ひどい怪我です。よってたかって殴られたようですね」
 エドワードの検分に、の眉がますます険しくなる。

(子供にたいして大人の男が数人で殴るなんて・・・下手をすると、肋骨が折れて肺に刺さっている可能性も・・・そうすると、一刻も争う事態・・・)

「ドーヴァー夫人、すぐに医者を!彼の為にベッドを用意して」
 指示を出す珂月の腕に、弱弱しいが意思がはっきりとした手がすがりついた。
「・・・リル・・・を、妹を助けて・・・」
 必死になって珂月の腕を掴む少年が掴む手と同じ、必死な瞳で珂月を見つめている。
「あいつら・・・リルをさらっていった・・・金を持ってくれば、返してやってもいいって・・・」
 話しているうちに呼吸状態がみるみる悪くなり、ゼイゼイとした呼吸音が少年の喉から零れ出る。

(まずい・・・気胸を起こしている・・・このまま呼吸困難とショック状態が続くと危ない・・・)

 少年の状態が一刻を争うものだと見抜いたは視線を下ろし、自分の手を見つめた。

(『彼等』に助けを求めれば、助けられる・・・けれども、屋敷の人達はともかく、この子を連れてきたこの人がいては・・・)

 の瞳に迷いが浮かび、見つめていた手が握り締められる。
 が精霊使いの力を使い、少年の傷を癒すのを見れば、普通の人間は敬遠する。敬遠だけならいいだろう。自分だけに降りかかる出来事なのだから。だが、そんな人間が珂月の側にいるという噂が広がれば、ただでさえ興味本位な視線に晒されている主人の立場を更に悪くすることになるかもしれない。それは、できれば避けたい事態だった。
 が迷っている間にも珂月と少年の会話は続いていた。
 少年が掴んだ手から何かを読み取ったのか、珂月の呼吸が僅かに乱れている。
「あんた、他の貴族とは違う・・・俺達が花盗むの、黙って見逃してくれた・・・」
 次第に弱くなる声が玄関ホールに木霊する。
「ここの人たち、優しかったから・・・。金持ちの・・・家なんて、ここしか・・・知らないし・・・」
 少年の声が次第に弱くなり、珂月の腕に縋っていた手の力も失われて地へ落ちていく。
 その様子に気づき、迷っていたははっとして顔を上げた。明らかに死相が浮かんでいる少年に瞳を見開くと、『友人達』を呼ぼうと口の中で小さく呟く。
 しかし、最後の力を振り絞った少年の体はが呼んだ『彼等』が現れる前に力を失い、縋っていた手も完全に地面へと落ちた。
 エドワードが脈を調べ、沈痛な面持ちで珂月に首を振って少年が息絶えたことを伝えた。
 そこにドーヴァー夫人が駆け込み、準備が出来たことを告げる。
「もう・・・必要ない・・・」
 表情を隠すように俯き、呟く珂月の姿と青白い顔で瞳を閉じた少年の姿を見たも瞳を伏せて手を握り締めた。

『・・・・・主様・・・・・』

 背後に気配を感じるが、は緩く首を振って小さく呟く。
「・・・ごめんなさい。わざわざ呼び出したけれど・・・間に合わなかった・・・」

『・・・そう、ですか・・・』

 の内心を悟ったのか、人の目には見えぬ存在はそのまま黙り込んだ。
 ホールが沈黙に包まれたまま、屋敷の使用人が毛布で少年の体を包み込み、別室へと運んでいく。
 その姿を見送った珂月は隣に立つ亜麻色の髪の青年へ振り向いた。
「レイク、あなたの用件を。僕に視てほしい物があるんでしょう?」
 珂月の言葉にレイクが本来の目的を思い出し、慌てて持ってきた物を取り出すのを見たの瞳が大きく見開かれる。
 彼は興味本位ではなく、真摯に珂月の力を信じ、そして助言を求めていた。その姿は先程の貴婦人と同じで、それはつまり、この青年が信用できる人物だということだ。

(・・・いえ、それはただの言い訳に過ぎない・・・)

 本当に助けたいと思ったら、どんな状況だろうと救うべきだったのだ。それをしなかった自分・・・保身に走ってしまった自分をは嫌悪した。
 唇を噛み締めていたの視線の先で、力を使った珂月が何かを見たのか、瞳を見開いてふらりと体をふらつかせた。
「珂月!」
「マスター!」
 エドワードが珂月の肩を支え、も慌てて側に寄る。軽く息を弾ませながら、珂月はポツリと呟いた。ベドフォード夫人が持ってきた物と同じだと。
 その言葉に素早く反応したレイクを珂月は応接室へと促し、彼が屋敷に現れる直前まで自分が『視て』いた品物を指し示した。
 その品物を見た途端、レイクは驚きの声を上げる。
「それは・・・!!それも女王陛下の目録にあった!!」
「どうやら大がかりな密輸と人身売買の組織が動いているようですよ」
 付け加えた珂月の言葉にレイクの瞳が見開かれ、慌しく問いかける。
「ホワイトチャペルで消えた子供たちは財宝と一緒にいるのか!?」
「信じる信じないは、あなたの勝手ですが」
 素っ気ない物言いだったが、肯定したも当然の台詞にレイクは意気込んで両手を握り締めた。珂月にテムズに停泊している船の一つだろうとの情報を得ると、警官隊を召集すると言いながら屋敷を飛び出す。
 その背中を見送った珂月も動き出した。
「出かける用意を」
「珂月!」
 咎めるのと引き止めるのが半々に交じり合った声でエドワードが珂月を呼ぶ。しかし、珂月は意思を変えようとはせず、逆に何かを含んだような顔でエドワードに振り向いた。
「僕を守ってくれるんだろう?」
 おそらくは、切り札なのだろう、その言葉にエドワードは何も言わず、ただため息を零す。
 それを見た珂月は次に貴婦人へと振り向いた。
 ただ、穏やかに微笑んだ彼女は自分の目的は達したと珂月に礼を言うと、静かに辞去していった。
 そして、珂月とエドワードが改めて動こうとしたその時、が静かに二人の前に進み出る。
?」
「・・・マスター。私も一緒に行かせてください」
 思いがけないの申し出に青年二人の瞳が見開かれた。
「駄・・・」
「行かせてください」
 思わず止めようとした珂月の言葉を遮り、は強い調子で言葉を紡ぐ。
「危険だということは、分かっているはずだ。そして、私達が何故、を止めようとしているのか、君が分からないはずはない」
 エドワードの言葉には頷きながらも、決心を翻すことはなかった。
「マスターも、ミスターも、私の事を思って止めてくださっているのは分かっています」
「なら・・・」
「お忘れですか、マスター。私は精霊使いという異能の持ち主であることを。自分の身を守るのはもちろん、マスターを守ることもできます。それがなくとも、ある程度の体術を持ち合わせています」
 星を浮かべたような瞳には激しいほどの怒りの炎が浮かんでいる。普段はただ、穏やかな光を湛えている、その瞳に。
「先程のジミーという少年。私の『力』を使えば、助けることができました。けれども、私は異能を使うのを躊躇い・・・彼を見殺しにしました」
「・・・もしかして、レイクがいたからか?」
 珂月の推測に静かに頷きながら、は自分の両手に視線を落とす。
「けれども、彼がいたからといって、助けられなかった理由にはなりません。それと同様に、少年の妹を助けても、贖罪にはなりません。けれども、せめて、あの少年が最後まで気にかけていた妹を助けたいのです」
 珂月との視線が交差し、しばしお互いに見つめ合う。
 無言での瞳を見つめていた珂月は軽いため息を吐くと扉へと足を進めた。
「・・・分かった。も準備をしてくるといい」
「ありがとうございます、マスター」
 ふわりとが浮かべた微笑は、これから荒事を行おうとする者としては不似合いな、柔らかなものだった。





 港の暗がりに3人の人影が並ぶ。
 そのうちの一つ、長身の影が静かに呟いた。
「珂月が言うのは、たぶんこの辺りだと思うのですが・・・」
 長身の影−−−エドワードの言葉に珂月は辺りを見回し、一つの街灯に目をつけるとそれに手を触れる。その二人の背後で男装姿のままのが僅かに上を見上げ、何かを小さく呟いていた。
「・・・マスター。風の精霊が教えてくれました。数時間前、あの船に金色の髪をした小さな女の子が運び込まれたそうです」
「そうか。僕も情報を読み取った。間違いなく、あの船だ」
 お互いの情報にズレはないことを確認した珂月は身を翻し、ある一つの船へと近づいていく。何も言わず、とエドワードもその後ろに付き従った。
「・・・・、・・・」
 ふと、が小さく何かを呟くと、サラリと風が彼女の髪を揺らす。それに微かに唇を緩め、主人の後について船に近づいた。
「ん?」
「何だ?あんたら」
 夜も更けた時間にこんな場所では見られない上流階級の雰囲気を漂わせる3人組。違和感がありまくりで、出航の準備をしていた者が不審そうに彼等に近づくのはある意味、当たり前だった。
「ここは坊ちゃんの来る所じゃねーぞ?それともお嬢ちゃんかい?」
「・・・汚い顔を近づけるな」
 母親似の秀麗な美貌を揶揄する男に冷たく凝った無表情のまま、珂月は言い放つ。カッとなった男が珂月を殴ろうと手を上げかけたが、次の瞬間には後ろへと吹っ飛んでいた。
 いつの間にか音もなく、庇うように珂月の前に立ったエドワードが白木作りの刀を手に主同様、冷たい無表情で周りを睥睨している。
「何しやがる!」
「やっちまえ!!」
 一斉に襲い掛かってくる男達を相手に神業のような速さで刀を鞘付きのまま振るい、次々と倒すエドワードの後ろでが呆れたようにため息を吐いた。
「日本人よりも剣技が上手なイギリス人って・・・これでは、私が手伝うこともないのかしら?」
 そう呟きながらも喧騒からスルリと身を躱し、『力』を使って少女の居場所を特定している自分の主の姿を確認したは虚空へ視線を流し、ポツリと呟く。
「お願い、風の貴公子」

(・・・ならば、我に血と名を)

「態々、人の子に囚われることはないでしょう?」

(我が望むのだ。我自身がそなたを我が主にと望むのだ)

「・・・・・」

(我に血を。名を。血を血を血を

「待ちなさい、コラ。聞く者が聞いたら変態扱いされるわよ、貴方」
 シャレにならないモノに比重を置いた、人為らざるモノの要求に頭痛を覚えながらもため息一つで乗り越えたは小指を口元へ持っていき、歯で皮膚を噛み切った。みるみるうちに紅い雫が小指の上に膨れ上がり、その小指をさっと空中へ振る。小粒の紅い宝玉の様な雫が辺りに散らばり、すぐに消えるとの目の前に上品な雰囲気を纏った青年が立っていた。
「名を与えましょう、風の貴公子。『シルヴィ・ソード』」
 『銀色の剣』と名づけられた精霊の青年は片手を胸に当て、恭しく頭を下げる。

『今より我は我が主に忠誠を誓おう』

 肩よりも長い純銀の髪を右耳の下で軽く結わえ、青年貴族とも見紛う優雅な仕草。主と定めたを見つめる銀の瞳は強い光で彩られていた。の血を取り込み、現身の姿を取った風の精霊に改めて依頼をする。
「早速だけど、お願いしたいの。私のマスターが今、船の中へ入って行ったわ。マスターに危害を加えられないように、守ってくれない?」

『我が主の願い、確かに』

 小さく頷くと同時に銀色の青年は姿を消した。の人為らざるモノを見ることが出来る瞳には、精霊の姿に戻った青年が珂月の後を追い、船の中へ入って行ったのを見届けることができた。
 精霊を見送っていたは影に隠れていたため、船員達に気づかれなかったようだが、その内の一人がに気づく。
「お前も仲間か!?」
 叫びと同時に飛び掛ってくるのを、重さを感じさせない動きでふわりと避け・・・。
「ぐえっ」
 強烈な回し蹴りを男の腹部に決めた。
 動きに合わせてサラリと艶やかな漆黒の髪が揺れ、涼やかな美貌に浮かぶ凄みのある笑みが周囲の男達に振り撒かれる。
「さぁ、貴方達が犯した罪をその体に刻んであげましょう・・・覚悟なさい」
 漆黒の髪に漆黒の瞳、そして身に纏った漆黒の衣装で立つその姿に、感情がまったく伺えないその声に、相対した男達の背に一筋の汗が流れた。
 強烈なプレッシャーを相手に与えていたがふいに動く。まるで舞うような、流れる動きで思わず見惚れてしまいそうな綺麗な動きだったが、が動いた後には幾人もの男達が甲板に転がっていた。
「・・・ある程度の体術ではなく、かなりの腕だな、
「そうですか?」
 甲板にいた男達を昏倒させたエドワードが軽く腕を振っているに近づき、声をかける。声にも表情にも僅かではあったが、感嘆の色が含まれていた。だが、は軽く首を傾げるだけで、視線を珂月が入り込んだ船の入り口へと向ける。
「とりあえず、マスターを追いましょう。精霊に身を守るよう、お願いしましたが、何かがあってもいけませんし」
「ああ、そうだな」
 の提案にエドワードは頷き、自然に気配を殺して船の内部へと侵入する。
 そして。
「・・・どこの坊ちゃんか知らんが見られた以上、このまま帰すわけにはいかない」
 珂月が銃を突きつけられている場面に直面した。
 咄嗟に飛び出しそうになるのを必死に理性を奮い起こさせ、我慢する。
 今、飛び出して行っても、珂月に銃口が向けられている以上、彼への危険が増えるだけだ。冷静に事態を見極めなければ、珂月が傷つくことになる。
 そう、自分に言い聞かせ、エドワードと共に部屋の中を窺った。
 銃を突きつけていた男は珂月の秀麗な美貌に驚き、手を伸ばして顎を捕らえるとまじまじと顔を見つめている。
 すっと半目になった珂月がぽつりと呟いた。
「・・・・・ヒース海軍大佐が黒幕か・・・・・」
 図星だったのだろう、大きく驚いた男が身を仰け反らせるのを冷たい微笑で見やりながら、珂月は事件のからくりを解いてみせる。
「ばっ・・・馬鹿な・・・・・」
 バレるはずがないと言外に叫ぶ男に向かい、冷たい微笑を浮かべたまま珂月は事も無げに言った。
「あなたの記憶を読んだんだよ」
「悪魔め!!」
 浮かべていた微笑があまりにも冷たく、自分の理解しがたい能力を目にしたからだろう、半分混乱している男は咄嗟に手にした銃を珂月に向けて撃った。だが、確かに撃ち出された弾丸は急に珂月の体を包み込んだ風によって床へと落ちる。そして、男の銃を握っていた右手がエドワードの刀によって切り落とされた。そのまま、珂月の前に移動したエドワードを男は睨み付ける。
「ふふふふふふふ・・・・・」
 ふいに、ぞっとするような低い笑い声が辺りに響いた。その笑い声の方向から冷気が漂う。
「よくもまぁ・・・マスターを悪魔呼ばわりしたものね」
 涼やかな美貌には確かに笑顔が浮かんでいるのだが、笑っていない瞳と身に纏う冷気が男に恐怖を与えた。声にならない悲鳴をあげ、冷気の根源から距離を置こうとあとずさる。
「いらっしゃい・・・『メイデン・ブランシュ・ブランカ』」

『・・・主様のお召しにより、参上いたしました』

 の声に応じて空気が揺れると、そこには純白の柔らかそうな髪と朝露を乗せた草木のような新緑の瞳の優雅な女性が純白のイブニングドレスのようなドレスを身に纏って立っていた。
 『白の中の白い乙女』と名づけられた白薔薇の精霊が白いドレスの裾を持って優雅に頭を下げる。

『私に何か?』

「ええ、お願い。あそこで腕を落とされて蹲っている男の精気を生命活動できるギリギリまで吸い尽くしてやって」

『主様にしては随分と過激なお願いですね』

「マスターを悪魔呼ばわりしたわ。理由なんて、それだけで十分」

『・・・御意に』

 の激怒を理解した精霊が頷くと同時に、するすると蔦が男に向かって伸びていく。
「ひっ・・・」
 更に顔を青くした男があとずさるが、それよりも早く蔦が男に巻きついた。

『観念したらいかがですか?貴方には最早、逃れる術はありません』

 冷酷なほどあっさりと逃亡が不可能であることを示し、ゆるりと優雅な美女は口の端を上げる。

『主様の逆鱗に触れたのです。お覚悟を』

 次々と蔦が巻きつき、男は身動きが取れなくなる。
「お、お前は一体・・・」
「何とでも呼べばいい。そう・・・貴方の感覚なら私は『魔女』かしら」
 くすり、と零す笑みはどこまでも冷たく、巻きつく蔦により相乗効果で恐怖を煽った。
「マスターを『悪魔』と呼び、侮辱した罪、そして幼き子供達を恐怖に陥れた罪は貴方のその体で償ってもらうわ」
「な・・・ぐうぅっ!?」
 が言い終わるか終わらないかのうちに、みるみる男の顔がこけていく。皮膚がかさついていき、船員らしいがっしりした体格がやせ細っていく。
 だが、それでも男の口からは往生際の悪い言葉が飛び出していた。
「俺達には・・・大佐がついている!!お前らただじゃすまないぞ!!」
 しかし、その台詞も冷静な珂月の言葉が否定する。
「無事ですまないのは、あなたたちのほうだと思うけど?」
 事実、の逆鱗に触れた男は生命活動ギリギリまで精気を吸い取られている。そして、外から慌てた声が響いた。
「ヤードがこの船、取り巻いちまってますぜ!!」
 愕然とした男にはうっすらとした笑みを向けて言い放つ。
「これで、たとえ海軍大佐とはいえ、逃れることはできませんね」
 凍える笑みを向けられた男はもはや、何も言うことはできなかったのだった。




 数日後。
 一条家の屋敷の客間でレイクが今回の事件の結果をやや憤慨気味に話していた。
 結局、事件の黒幕だった海軍大佐は強制退役及びサーの称号の剥奪のみで、裁判も行われず罪にも問われないのだと憤慨するレイクに対し、珂月は相手が貴族であること、しかもナイトの称号を持っている大佐であるが故に、女王陛下の名誉の為に事件をもみ消すしかなかったのだと冷静に分析する。
 だが、それでも真っ直ぐな気質であるレイクは怒りを収める様子はなかった。
 そんなレイクへちらりと視線を向けた珂月は、から手渡された紅茶を口にしながらポツリと呟く。
「確かに、彼は表立って罪には問われませんでしたが・・・天罰を受けたらしいと社交界で密かに囁かれているようですよ」
「・・・・・天罰?」
 先程までの憤慨をどこかに置き忘れたように、ぱちくりと目を瞬かせるレイクに珂月は耳にした噂を淡々と口にした。
「曰く、彼の秘蔵としていた美術品などがいつの間にかイミテーションにすりかえられていたとか、投資に失敗して家財を没収されたとか、何があったのか大怪我をしていたとか」
 表情を変えることなく聞き及んだ噂を披露した珂月はそのまま視線をへと向ける。主の視線に気づいているだろうに、は澄ました表情で紅茶のお代わりを入れていた。と共に紅茶を入れていたエドワードがやはり、珂月の視線に気づき、その意味をも察してくすりと笑みを零す。主従二人とも、大佐の身の上に起こった『天罰』が全部本当にあったこと、そしてそれを成しえたのが誰であるのか分かっているのだ。
「それが全部大佐の身に起きたのなら、本当に天罰だよなぁ」
 だが、その真実を知らないレイクは腕を組み、うんうんと頷いていたのだったが客間の扉から見えた小さな影に思わず目を見張る。
 驚いて声を掛ければ、やはりその影は短い命を散らした少年の妹で。
 少女は満面の笑顔で珂月の屋敷で働くようになったこと、新しい名前をつけてもらったことをレイクに話す。
 ドーヴァー夫人に促され、目の前を去って行った少女を見送ったレイクが意味ありげに珂月を見やれば珂月は影を落とした表情で呟いた。
「・・・あの子の兄にも頼まれましたからね」
 珂月の呟きにレイクははっとした表情を浮かべる。
「・・・・・ジミーのこと・・・リル・・・シャーロットには?」
「ありのまま伝えました。嘘は・・・・・苦手なので・・・」
 珂月の脳裏に冷たくなった兄と対面した少女の姿が思い起こされる。そして、その後に起こったことも。
 泣き出しそうな顔で精一杯の笑顔を浮かべた少女の前に、が跪いたのだ。更に、少女に深々と頭をさげたことにも、純粋に驚いた。
 そう、あの時。





「申し訳ありません、リトル・レディ。私は、貴女の兄を見殺しにしました」
「え・・・?」
!?」
 突然の言葉に少女は戸惑い、珂月とエドワードは驚きの声を上げた。
 だが、は真っ直ぐに、真摯な瞳を少女へと向ける。
「私は人が持つことのない、『力』を持っています。その『力』を使えば、貴女の兄は助かるはずでした。けれども、私は『力』を使うことを躊躇い、結果、貴女の兄を死なせてしまいました」
 そして、は再び頭を下げた。深い悔恨が感じられる謝罪と共に。
「あの・・・頭を上げてください。たぶん、お兄ちゃん、後悔していないと思うんです。だから・・・私も後悔しないように、お兄ちゃんの分まで生きるんです」
 そして、少女はに向かって満面の笑みを向けた。にとって、それは許しの言葉と同義。
「・・・リトル・レディ。貴女さえよければ、貴女のお兄さんの体を綺麗にすることができますが」
「綺麗に?」
 意味がよく分からなかったのだろう、少女の瞳がもの問いたげに揺れる。
「唇が切れていたり、殴られた跡がはっきり残っているでしょう?その痕跡を綺麗に治すのです」
「そんなこと・・・」
「私には、できます」
 驚く少女にははっきりと言い切った。その断言に少女は目の前で跪いた女性が自分の持つ『力』を使うつもりなのだと察する。そして、それを自分に見せてもいいのだと思っていることも理解した。
 理解した少女は首を振った。肯定の意味で。
 少女の肯定を受け取ったがふわりと微笑む。
「ありがとうございます。・・・・・『メイデン・ブランシュ・ブランカ』、ここにいらっしゃい」

『主様・・・何用でしょうか』

 純白の女性がふわりと出現し、優雅に頭を下げる。その女性に向かい、が哀しそうに微笑む。
「ええ、お願い。彼の傷跡を綺麗になくして欲しいの」

『主様の望みのままに・・・』

 するすると純白の女性から蔦が伸び、少年を柔らかく包み込む。ほんの十数秒、少年を包み込んだ蔦は再び音もなく純白の女性へと戻っていった。
「ありがとう」

『主様の望むことならば、わたくしの力の限り、叶えます』

 やわらかな笑みを浮かべた純白の女性は出現したときと同じように、音もなく姿を消す。
 それら、一連の出来事を少女は目を見開いて見つめていた。
「・・・これが、私の『力』です」
 どこか、哀しそうに笑うに少女は心からの笑顔を浮かべた。
「ありがとう、お兄ちゃんを綺麗にしてくれて」
 曇りのない、周りをも笑顔にさせてしまう、純粋な笑顔だった。





 その時のことを思い出し、影を浮かべた表情をする珂月。そして、も瞳を伏せ、沈痛な表情を浮かべる。
 彼ら二人にとって、自分が持つ『力』は時に持て余すもので。少女を助け出せたとしても、少年を助けることができなかったのは、たとえ少女が許したとしても、それでも後悔の念を覚える出来事だったのだ。
 その二人の雰囲気を察したエドワードも沈痛な面持ちになるが、ふとレイクが来訪してからかなりの時間が経っていることに気づく。
「レイク。油をうってていいんですか?」
 エドワードの忠告にはっとしたレイクが慌しくヤードへと帰っていった。
 扉が閉まる音を背後で聞きながら、珂月は白薔薇の庭園で満面の笑みを浮かべ、仕事をこなしている少女を窓硝子越しに見つめる。
「あの笑顔をもう一度、見たかっただけなんだ・・・」
「珂月・・・」
「僕は余計なことをしたのかもしれない。ホワイトチャペルの子供たちには、売られたほうが今の生活よりも楽に暮らせたのかもしれない・・・」
 瞳に影を落とし、呟く珂月に二方向から否定の言葉が返った。
「いいえ」
「それはありえません、マスター」
 ワゴンの側に立ったまま、窓の外へ視線を向けていたが珂月へと視線を移し、哀しげな笑みを浮かべる。
「人を『買う』という行動はいずれ、『捨てる』という行動に繋がります。たとえ、その時は楽な暮らしでも、飽きた玩具を捨てるように放り投げられれば・・・子供達の身の上に降りかかるのは言葉では言い表せないほどの困難です」
「リル・・・シャーロットは笑っているでしょう?珂月がちゃんと彼女を人として見ているからですよ」
 珂月の背後に立ち、エドワードは微かな笑みを浮かべる。
「ホワイトチャペルの子供たちも物のように売られるより、自分の意思で生きることを望むでしょう。それに・・・彼女や私のようにこれから先、ラッキーな出会いが待っているかもしれない・・・・・」
「エドは・・・・・ラッキーだったの?お祖父様に拾われて・・・」
 幼子のような、無垢で純粋な疑問を浮かべた瞳がエドワードを見つめると、エドワードの瞳が殊更優しく微笑んだ。
「僕のような可愛くないガキの子守を押し付けられて、一生を縛られてしはっているのに・・・・・」
「私は縛られてなどいません。自分の意思で珂月を守ることを選んだんです」
「私もです、マスター」
 星を浮かべたような瞳にふわりとした優しい笑みを浮かべ、はエドワードの後を続ける。
「私もマスターに拾われ、私自身の意思でマスターをマスターとして仕えることを決めました。全ては誰に強制されたわけでもなく、私の意志です」
 交互にエドワードとを見ていた珂月の瞳がふっと伏せられ、哀しみの色を浮かべた。
「・・・・・信じないよ。エドは嘘つきだからね」
「マスター・・・」
 『信じない』と言いながら、けれども何かを切望している主の心を感じ取ったはもの問いたげな眼差しで珂月を見つめる。その視線に気づいた珂月もの瞳を見つめ返した。
「・・・私の言葉も、『嘘』だと・・・思われますか?」
 のような者は『言霊』に左右されやすく、故に『言葉』を大切にする。だからこそ、が口にする言葉は心からのもの。
 だが、静かなの問いかけに珂月は何も答えず、ただ、そっとの頬に口付けを落とすと部屋を出て行った。
「マスター。貴方はあまりにも繊細すぎて・・・人の心に触れることを怖がっている。ミスターは決して、マスターを傷つけることはないのに・・・」
 視線を庭の白薔薇へと向け、はそっと呟く。
「・・・・・私に出来ることは、ただ、無償の愛を捧げるだけなのでしょう。マスターの心が傷つかないように・・・・・。大丈夫、貴女達の気がかりがマスターならば、私はずっとマスターを見守るわ。精霊使いたるの名において『誓言』します」
 己の『名前』で『言霊』による『誓言』。それは、神聖な『誓い』。
 はただ一人と定めた自分の主の為、己に誓約を掛ける。
 哀しく孤独で繊細な魂を持つ主をどこまでも見守ろうと・・・・・。



 異能の少女の視線の先で、白薔薇は静かに風に揺れていた。



(END)