これもまた日常

 午前6時。
 枕元で目覚まし時計が盛大に鳴り出し、布団の中から伸びた手がパシンッ、と鳴り続ける音を止める。しばらくその体勢で止まっていたが、二度寝することなく上半身を起こした。
 布団から起き上がった者は16、7の少女。寝起きだからか、漆黒の髪はボサボサに寝乱れている。
「ふわぁ〜あ」
 大きく伸びをしながら欠伸を漏らすが、暖かい布団の誘惑を撥ね退け、少女はベッドから出ると窓に掛かっているカーテンをさっと開いた。ついでに窓も開けると上天気の日光と爽やかな風が部屋の中に入ってくる。
「んー、気持ちいい」
 もう一度大きく伸びをした後、朝食とお弁当を作るため、少女は台所へと向かったのだった。




 やや、早い時間に登校した少女は自分のクラスの自分の席に座ると、鞄の中から分厚い本を取り出す。あまり本が好きではない人間が見れば、即座に回れ右しそうなほど、その分厚い本の文字は細かく、ぎっしりと詰まっている。
「おはよう、ちゃん」
「あ、おはよう、遊戯君」
 歳の割にはやや幼い感じのする声に名前を呼ばれ、顔を上げた少女はふわり、と微笑んだ。少女の微笑みを受けた少年もにっこりと曇りのない笑顔を浮かべながら、少女の斜め前にある自分の席に荷物を置く。
「それ、何の本?」
 屈託のない笑顔を浮かべ、少女に質問してくるのは武藤遊戯。高校生としては少々小柄な体格だが、その体格に似合った笑顔の持ち主である。また、とある世界では少々名の知れている存在なのだが、その事に関して本人は鼻に掛ける様子などまったくなく、極自然体でいた。
 彼に関してはもう一つ、極秘事項があるのだが、とりあえずここでは置いておく。
「ん〜、古今東西に散らばっている幻獣の資料・・・かな?」
 パタン、と分厚いハードカバーの本に栞を挟んで閉じながら答える少女は。少年のクラスメートであるが、ある事件から急速に親しくなった人物である。
 漆黒の髪はきっちりと首の後ろで結われ、細い銀のフレームの眼鏡を掛けている姿は生真面目で堅い感じを受ける。だが、少年やその友人達がゲームをしているところを楽しそうに見学しているのをみれば、それほど堅い性格ではないのだろう。事実、少年の友人達の中には堅苦しいのが苦手な人物もいるのだが、少女を敬遠することなく普通に会話を交わすことからもそれは伺える。
 それでも、少女の印象はクラスメート達には地味で目立たない人物として映っていた。
 が本を閉じながら受けた質問に答えると、遊戯は思慮深げに首を傾げる。
「それって・・・」
 遊戯が何を言いたいのか理解したが微笑んだまま、ゆっくりと頷く。
「そう。次の準備」
「・・・もしかして、昨夜、あまり寝ていない?」
 顔を見た時から感じていた違和感に少しばかり眉を顰めて尋ねれば、は微かに瞳を見開いた。
「相変わらず鋭いのね、遊戯君」
「何となく、目が赤い気がしたから。あまり、無理をしちゃ駄目だよ、ちゃん」
「分かってはいるんだけど・・・資料を読んでいたらつい、夢中になっちゃって」
 軽く肩を竦め、決まり悪げに苦笑を浮かべるの額に遊戯の手が伸ばされる。
「ん〜、熱はないみたいだね」
「そんなにしょっちゅう、体調を崩したりしないわよ」
 額に触れ、熱の具合を確認する遊戯に瞳を閉じ、すんなり彼の手を受け入れているはくすり、と笑みを浮かべた。
『だが、相棒が心配するのも無理はないと思うぜ。何せ、は根を詰め過ぎて倒れた事が何回もあったからな』
 ボワン、と遊戯の斜め上辺りに半透明の遊戯とそっくりだが、ややきつめの印象を与える少年の姿が現れ、椅子に座っているを見下ろすと言葉を発する。
 背後霊のように現れた彼は遊戯の言葉を借りると『もう一人の武藤遊戯』という存在だった。まるで二重人格のようだが、遊戯の友人達はあっさりと『もう一人の遊戯』を受け入れ、彼もまた、確固たる存在であり、友人だと認めている。
 普段は遊戯の体を借りて出てくるのだが、そうでない時は遊戯の心の奥に沈んでいるか、もしくは霊魂のように遊戯の側にいる。魂だけの存在で表に出ている時は当然だが、宿主である遊戯ぐらいしかその存在は確認できない。しかし、何故かは初めから『遊戯』の存在を見る事が出来ていた。
 遊戯から『遊戯』の存在を打ち明けられた時もあっさりと受け入れた事がの柔軟な思考と精神を表していると言っていいだろう。
「それに関しては何も言えないかも」
 『遊戯』の苦言にはペロリと舌を出す。
『・・・
ちゃん・・・」
 あまり反省の色が伺えない態度にそっくりな彼等の口から呆れたため息が零れる。
「でも、遊戯君の手、気持ちいい。もう少し、触っていてくれる?」
「うん、いいよ」
 遊戯の手を取り、その手に頬を摺り寄せたはうっとりとした表情で瞳を閉じた。
「おーっす・・・って、お前ら、何をしているんだ?」
「おはよう、城之内君」
「城之内君、おはよう。ちょっとね、遊戯君に怒られて心配させてしまったところ」
「・・・その内容でどうして、その体勢になるのか俺には分からん」
 遊戯の両手に頬を包まれ、は気持ちよさそうに瞳を閉じている。普通ならば、この歳の男女でこの体勢になれば『バカップル』と見られてもおかしくはないのだが。
「なんで、こう・・・微笑ましい風景に見えるのか、謎だ」
「うーん、たぶん、遊戯とちゃんだからじゃない?」
 苦笑しながら答える杏子の言葉は分からないようでいて、しかし現実を如実に言い当てていたりする。
 小柄な体格と柔和な笑顔、そして柔らかな雰囲気を持っている遊戯はこの歳にありがちな下心、というものが感じられない。そして、対するも外見の地味さ、堅さがあるものの、纏う雰囲気は穏やかなもので。
「この二人が揃うと和むよなぁ」
 しみじみ呟く本田の言葉はこのクラス全員の本心だったりする。その証拠とでも言おうか、HR前の普通のクラスにありがちな落ち着きのないざわめきがこのクラスにはなく、逆に春の陽だまりのようなほんわかとした空気が漂っている。
 この怪奇現象(命名・某社長様)は遊戯とが親しくなり、会話を交わしだした頃から起こり出していた。
「あの二人の周囲だけ、春の陽だまりだもんねぇ」
 日に当たっているだけで眠気を催すような、ほわほわとした暖かさ。ぼんやりと座っているだけで幸せを感じるような、春の陽だまり独特の空気が二人の周囲に漂っているのだ。その空気の余波がクラス中に蔓延するわけで。
「ほら、あれだよな。縁側でじーさまやばーさまがお茶を啜りながら座っている雰囲気」
「・・・その表現はどうかと思うけど・・・」
 ピッ、と人差し指を立てる城之内に苦笑する獏良。
「しかし、否定はできないよな」
 腕組みしながらも本田の顔にも獏良と同種類の苦笑が浮かんでいる。
「本当に平和よねー」
 杏子の締める言葉が全てを物語っていた。
 これが彼等の毎朝の日常である。





ちゃん、一緒にお昼食べようよ」
 いつもの、ほんわかとした笑顔で誘ってくる遊戯には首を傾げる。一緒に食べるのはいいが、いつも一緒に居る皆とも一緒に食べたい。
「杏子ちゃん達は?」
「もちろん、一緒よ」
「よかった」
 皆と一緒に食べないのかという意味を含めた問いは遊戯の背後から顔を覗かせた杏子が片目を閉じながら答える。更にその背後に城之内に本田、獏良の姿を認めたの顔に嬉しそうな笑顔が浮かんだ。
「さっさと行かねーと、場所を取られるぜ」
 城之内の促しには笑顔で頷き、自分の弁当箱を取る。
「今日はいいお天気だし、きっと屋上は気持ちいいよ」
 自然に伸ばされた手にも極自然に手を伸ばし、遊戯と手を繋いだ。顔を見合わせ、二人は嬉しそうに笑う。
「風も気持ちよさそうだったものね」
「うん。ね、ちゃん、お弁当のおかず、また交換してよ」
「いいよ。遊戯君のお母さんのお料理、美味しいし」
ちゃんのも美味しいよ」
 普通に聞けばまるで恋人同士のような会話である。仲良く手を繋いで歩いているところといい、モロに『バカップル』な行動なのだが、この二人に関しては例外だった。
「本当に何故、この二人だとほのぼの空気になるんだ?」
「微笑ましいといえば、微笑ましいが・・・本当に高校生かというツッコミを俺は入れたい」
「ある意味、人間マイナスイオン発生機よね」
「確かに癒されるよね、この二人を見ていると」
 人間マイナスイオン発生機の威力は物凄く、二人の後ろを歩く仲間達どころか通りすがりの生徒達まで顔を綻ばせ、通り過ぎる二人を見送った後、穏やかな雰囲気でそれぞれの自分達の目的の場所へと向かう。
 ただ、通るだけで周囲を和ませる事の出来る当の本人達はまったく自覚がないのだが。
 そして、これが毎回の昼時の日常だった。





 目的地である屋上で昼食を取った後、は大きな欠伸を漏らした。
ちゃん、眠いの?」
『そういえば、昨夜はあまり寝ていないと言っていたな』
 隣に座っていた遊戯とその背後に浮かんでいた『遊戯』の問い掛ける視線には素直に頷く。
「朝も話したけど、次の準備の資料を読んでいたら寝るのが遅くなっちゃって」
「そういえば、ちゃんの本を読んだけど、面白かったわ」
 ポン、と手を打つ杏子に獏良が首を傾げた。
ちゃんの本って、確かこの間から新シリーズになったよね」
「・・・獏良、お前、読んでいるのか?」
「だって、友達が出しているんだよ?」
「だからって・・・が書いているのは少女小説だぞ」
 呆れたように城之内が呟くが、今度は遊戯が首を傾げる。
「でも、ボク達のカードをモデルにしているし。ボク達でも・・・ううん、ボク達だからこそ、ちゃんの本は面白いと思うけどな」
「ってことは、遊戯も読んでいるってことか」
 確認するような本田にこっくりと頷く遊戯。
「あ、あたし、今、持っているよ。試しに少し読んでみたら?」
 ごそごそと取り出した文庫本の存在に欠伸を漏らしていたが目を丸くする。
「杏子ちゃん、学校にまで持ってきたの?」
「だって、面白いもの。あ、城之内、あんたのレッド・アイズ・ドラゴンが出演しているわよ。それも、かなり格好良く」
「何!?どこだよ、それは」
「最初から読まないと、そこだけ読んでも面白さが半減するよ」
 ズルをしてそのシーンだけを読もうとする城之内に苦笑しながら、尤もな事を獏良は忠告する。
「俺が活字が苦手なのを知っているだろっ」
「そこで自分が馬鹿だと自分から暴露しないのよ」
「なんだとっ!」
 何やら騒がしくなってきた友人達を横に、何度も欠伸を漏らすを見た遊戯と『遊戯』がお互いの顔を見合わせた。アイコンタクトでお互いの意思疎通を図った彼等はトントン、との肩をそっと叩いた。
「なぁに?」
「眠いのなら、今の内に寝ていたら?」
『授業中や帰宅途中で倒れるような事になりたくないだろう?』
「うーん、それはそうなんだけど」
『あの時みたいにオレ達も都合よく助ける事は出来ないしな』
「その節は本当にお世話になりました」
『そうだな』
 冗談で深々と頭を下げるに忠告した『遊戯』がくくっ、と笑みを零す。彼女が冗談で言っていることを理解しているのだ。
「でも、不謹慎かもしれないけど、その事件のお陰でちゃんと友達になれたし」
「そうね。私も皆と友達になれて、嬉しいわ」
 彼等が親しくなった切っ掛けとなった『事件』は、またの機会に話すとして。
『取り敢えず、相棒の言う通り、少し眠ったらどうだ?』
「うーん、でも、ここ、寝転ぶと堅いし、痛いもの」
「あ、じゃあ、ここに頭を乗せたら?少しはマシだと思うけど」
 屋上のコンクリートに直接寝転ぶのは確かに痛い。それを思い、躊躇するに遊戯は自分の膝を指差した。つまり、遊戯は膝枕を提供しているわけで。
「でも遊戯君、重くない?」
「大丈夫だよ。でも、一つ、お願いしてもいいかな」
「なぁに?」
「髪の毛、触ってもいい?ずっと触ってみたかったんだ」
「ああ、それぐらいなら別にいいわよ」

 にこにこ、にっこり。
 ほえほえ、ふわわん。

 二人が微笑み合うと周囲に春の陽だまりが生まれる。
 人間マイナスイオン発生機、発動。
「素でこの会話をしているあいつらが、実は最強なんじゃねぇ?」
「この空気の中じゃ、からかう気も突っかかる気も喧嘩する気もなくなるもんねぇ」
「これで、付き合っていないと言われて信じられる辺りがただ者じゃないよな」
「会話は思いっきりカップル仕様なのに、本当に不思議よねぇ」
 ぼそぼそと仲間達が頭を付き合わせ、囁き合っているのを横目に、は掛けていた眼鏡を外し、手を首の後ろに回すと纏めていた髪をサラリと解く。
 2、3度手櫛で梳くとの漆黒の髪はサラサラと風に靡いた。
 普段、髪を纏め、細い銀のフレームを掛けているは穏やかな雰囲気を持っているものの、どこか堅くて地味な印象を人に与える。だが、髪を解いて眼鏡(実は伊達)を外すとその印象はガラリと変わる。
 そこにいるのは涼やかな切れ長の瞳と穏やかな雰囲気の人目を惹きつける少女。
「それじゃ、失礼します」
 とはいえ、外見が変わっても中身が変わるわけでもなく、律儀に断りを入れたが遊戯の膝に頭を乗せると、遊戯の手がそっとの髪へと伸びた。
「うん。ちゃんの髪、触らせてね」
 こちらも律儀に断りを入れる遊戯に、早くも半分、意識が飛びかかっているがぼんやりと頷く。
「ええ、どうぞ」
 遊戯の手はゆっくり、ゆっくりとの漆黒の髪を梳き、時折手に掬ってはパラパラと零す。
 そんな動作を遊戯はニコニコと嬉しそうな笑顔を浮かべながらしていた。
「やっぱりちゃんの髪、触り心地がいいや」
『相棒、後でオレと変われよ』
「もうひとりのボクもちゃんの髪、触りたいんだ」
『ああ。相棒だけっていうのも、不公平だろ』
「うーん、この場合、ボクじゃなくてちゃんに許可を求めるべきだと思うんだけどなぁ」
「いいわよ、別に。『遊戯』君に変わっても」
 すでに眠っていると思っていた少女の声に遊戯は膝の上の顔を覗き込んだ。
「ごめん、起こしちゃった?」
「ううん。ポヤポヤしていただけ。私は気にしないから、『遊戯』君も触りたいのなら、どうぞ」
 この年頃の少女としては、かなりあっさりとしている。普通ならば、余程でない限り、異性に触られるのは抵抗があるはずなのだが・・・彼等の事を心底、信頼しているが故なのだろう。
「じゃ、後で交代しようか、もうひとりのボク」
『ああ』
 目の前で見るともなしに見る事になった一連の会話を目撃した友人達はお互いの顔を見合わせると、微妙に呆れた吐息を零した。
「どこをどう見ても、『バカップル』の会話や行動なんだが・・・そうは見えないんだよな、本当に」
「この二人って、一体・・・」
「すでに、これはもう童美野高七不思議の一つに数えてもいいんじゃないか?」
「というか・・・もう数えられていると思うよ」
 友人達の呟きを聞く事もなく、は穏やかな眠りを享受している。
 友人の寝顔を見つめ、杏子が呟いた。
「本当に・・・平和ねぇ・・・」



 結局はこれもまた、日常なのである。



(END)