僕がずっと側にいてあげるから
穏やかな日だまりに天使が降臨する様を描き終えた青年が、ひどく重い息を一つ吐き出し、ゆっくりと笑みを浮かべる。
それが、彼が過去に心を残すが故に長い間どうしても描くことの出来なかった、空想の天使であり実物の少女を描いた肖像画であったから。
「・・・・・・・」
紅い唇だけが天使の名を呼び
切ない瞳が向けられる先で少女が微笑んでいた。
寿命により移住せざるを得なかった空間に、新しい宇宙が生まれた。かつてその場所にあった宇宙に生まれ、その新しく芽生えた宇宙の意志達に選ばれた少女の手によって。
新しい宇宙を育てる女王候補生は二人。それぞれ、太陽のような金髪と琥珀色の肌菫の瞳の少女《女王候補レイチェル》と、優しい栗色の髪と柔らかな緑青の瞳の少女《女王候補アンジェリーク》と呼ばれている。
その二人の女王候補生達の住まう女王候補生寮に一人の青年が足を踏み入れた。
『ココンッ』
「アンジェリーク」
「はぁい」
扉の向こうから響く柔らかな純金の鈴音のような声が微かに聞こえて青年の瞳が優しく和む。ただしそれも一瞬だけで、その眼差しはすぐに孤高の光を宿し直したが。
瑠璃の髪群青の瞳の青年は《感性の教官セイラン》と呼ばれている。
彼は女王候補生達の女王の資質を磨く三人の教官の一人で、その美貌から想像も出来ないような教官一の毒舌家である。
「おはようございます、セイラン様」
手入れの行き届いていることを示すように滑りのいいドアはたいした音も立てずに開かれ、可憐に微笑む少女が青年の前に立つ。
「オハヨウ、アンジェリーク」
そっと長身の青年が屈むと、少女の額に当たり前のようにキスを贈る。
くすぐったそうに、そしてそれ以上に嬉しそうに、キスを受け取った少女は屈んだままの青年の頬にキスを返した。至極当たり前の挨拶として。
「今日も天気がいい。君さえよければ一緒に出掛けよう」
週に二度日の曜日と水の曜日毎に何時も決まった時間に誘いをかける青年は、何時ものように少女が断らないと信じきった態度で手を差し伸べる。
「はい、よろこんで」
そして本来の年齢よりもあどけない顔立ちの少女は、彼の思った通りに言葉と動作とで申し出を受けた。
キラキラと太陽の光を反射する《森の湖》は別名《恋人達の湖》
別名から分かる通りに、神秘的で静かな湖の辺は恋を語らうには最適で、休日ともなればそこの木陰は寄り添う恋人達の甘い姿が見受けられるのだが、それもあくまで休日であればである。平日である今日森の湖を訪れたのは、感性の教官である青年と女王候補生である少女だけのようだ。
「昨日王立研究院に行ったよ」
感情の読み取りにくい声が、湖に流れ込む滝の飛沫に手を伸ばす少女に向けられる。
「女王はレイチェルだね」
現在彼女達女王候補生の作った宇宙は、後一つで最低限の均衡を得て、自らの女王を決する。そして、その別宇宙を構成する星のほとんどがもう一人の女王候補生の物だ。
冷然と事実を突きつける言葉に、少女が振り返ると穏やかな声で応えた。
「はい」
その声の穏やかさに、青年がからかうように言葉を紡ぐ。答えの分かりきった問いではあったけれど。
「『悔しい』とか思って、妨害したりしないの?」
青年の言葉に、少女は瞳を不思議そうに瞬かせる。
「どうしてですか?レイチェルはあんなに頑張っていたんですもの。女王にはレイチェルの方が相応しいです。私も私なりに頑張りましたから、悔しくなんてないです」
「そう」
強がりだとか、そんな不自然さはない。あくまで本気で彼女は自分を負かせて女王となるレイチェルを祝福するだろう。快活なライバルは、彼女にとってとても大切な親友でもあるのだから。
「で、君はこの女王試験が終了したら家に帰るのかい?」
再び答えの分かっていることを彼は問う。それをきっかけに、自分と彼女のこれから先の人生に可成の影響を与えることを言う為に。
しかし、
「この間王立研究院の帰りにレイチェルに補佐官になってくれないかって、言われたんです。だから、私も別宇宙に行くことになると思います」
「・・・・・」
愕然と自分を見る人に、少女は小さく首を傾げる。
「セイラン様?」
自分へと伸ばされる指が頬に触れる前に、彼はその細い指を掴んだ。
「君はそれでいいの?家族が待っているんじゃなかったのかい?」
自分もまた『共に霧の惑星に来て欲しい』と、彼女と彼女の家族を分けることを言うつもりだったのに、そんな言葉が零れる。
「家族は分かってくれると思います」
もう決めてしまっているのだと分かってしまうその表情に、彼は意識が黒く塗り潰されるような苦しい鼓動に顔を伏せる。
「ご気分が悪いんですか?」
「少し、ね。悪いけど、僕は帰るよ」
少し長めの瑠璃色の髪で自分の顔を彼女に見えないように意識すると、少女が服の裾を掴んで言う。
「私、学芸館までお送りします」
「大丈夫だよ、一人でも」
緩く首を振り拒絶する。
「このまま帰るから、送ってあげられないけど」
「いいえ、私も一人で大丈夫です。・・・・・お気をつけて、お大事に」
「あぁ」
短く答え、彼は足早にその場を去った。
・・・・・一緒にいることが、初めて苦痛だった。
アトリエの中央に置かれた絵を前にした青年の瞳から、一筋涙が頬を伝う。
「女王にならずとも、君は僕の元にいてはくれないんだね」
別宇宙に渡ることが出来るのは、極限られた者だけ。彼にその資格はない。たとえ女王試験に協力した教官とはいえ、宇宙の安定の為には必要以上の人間を渡らせる為にはいかないのだから。
「アンジェリーク」
愛しい、愛おしい、最愛の少女
二度とこれ以上に愛せはしないと、そう思った相手の背には翼があって・・・
「アンジェリークッ!!」
ただ受け止める者のいない叫びが広いアトリエに響いた
慟哭とも呼べる叫びが木霊した
宇宙を光が満たす。
その中で、一頭の聖なる獣が青い翼を広げた。
《女王レイチェル》の誕生である。
「大丈夫ですか?」
「何が?」
「顔色が悪いですよ?」
気遣う声に不機嫌に応えるセイランの対応にもすっかり慣れてしまっていた青年より六つも年下の《品位の教官ティムカ》が言うと、プイッと感性の教官は顔を背けた。
「そろそろ女王陛下のお出ましだ」
低く《精神の教官ヴィクトール》が二人に注意を促すと、女王の姿を覆う深紅のビロードのヴェールが上げられる。
女王の登場に心地良い緊張感の満たされた女王謁見の間に凛とした言葉が響く。
「今日ただ今をもって女王試験の終了とします」
信頼し合う女王補佐官を従えた女王は別宇宙の女王となる少女の名を呼ぶと、心から祝福する。
「何があっても、その元気さを失わないでね」
幾つか年上の余裕と、同じかそれ以上に苦労するだろう新しい宇宙の新しい一番最初の女王への労りの込められた言葉に、誇らかに少女は笑った。
「もっちろんですっ!」
謁見の間であることも忘れてガッツポーズをする少女に、好意的な笑いがその場を満たす。女王試験中と変わらないまま、彼女は彼女らしい女王になるだろう、と。
女王であるという建前から素直に笑うわけにはいかない女王は、素直に楽しそうな微笑みを浮かべているもう一人の女王候補生に視線を向ける。
「アンジェリーク」
しとやかなその声に、少女は慌てて女王に視線を戻す。
「は、はい」
緊張した様子で彼女が応える声に、青年の肩が一瞬震える。
「女王試験、ご苦労様でした。・・・・・これは貴女の自由意志だけれど、レイチェルの補佐官として、貴女も育てた宇宙の為にその力を使ってくれないかしら?」
その言葉にレイチェルの瞳が輝く。
「陛下もそう思いますよね?せっかくあんなに頑張って磨いた力をそのまま捨てちゃうだなんて勿体ないですもんねっ!?」
力を込めまくって言うレイチェルの姿に、教官二人が苦笑する。らしいと言えばらしいが、相手は女王だということを忘れているらしい教え子の姿に苦笑するしかなかった。
「・・・・・どうした?」
隣に立つ外見こそ細いがそれを裏切る性格の同僚が一瞬倒れそうになったのを見咎めた男が問う。
「大丈夫ですか?」
それとなく青年を見上げながら少年も気遣わしく問う。
「・・・・・」
だが、雪白の肌を青ざめさせた青年は答えない。深紅の薔薇より美しい唇を噛み締め、彼は一点を睨みつける。
「レイチェルもこう言っているけど、決めるのは貴女よ」
穏やかにあくまでアンジェリーク自身の選択に任せるが、自分もまた女王試験を通じて友情を暖めた親友を補佐官に迎えている身である人は言葉を続けた。その助けがどれだけ得難いものか知っている分だけ、女王は言葉を添えた。
「どうかしら?」
と。
「・・・・・」
内気で優しい少女は、キュッと唇を引き締めて顔を上げた。
「私」
「セイラン!?」
「どうしたんですか!?」
突然何時もの歩調で歩き出した青年に、同僚二人が慌てて声をかけるが、
「・・・・・」
冷たい一瞥すらも向けず、足音を吸収する絨毯を踏んで青年は二人の女王候補生の元へと歩を進める。
「セイラン様?」
辺りのざわめきも何もかも無視して、自分達、否、自分の方へと向かって来る人の名前を少女は呟く。
「どうなさったんですか?」
今まで綺麗だと思っても怖いだなんて思ったことのなかった人の冷たい顔に、彼女は脅えて問いかけるが、その返答はなかった。
「・・・・・」
周りの唖然とした沈黙にも動じない青年は、そのまま踵を返したのだが、謁見の間の巨大な扉の前で初めて歩みを止めると、
『ドガッ』
音高くきっちりと閉められた扉を蹴り開けた・・・・・
『ぱたん』
蹴られた時の勢いとは反比例したように静かに閉まった扉の音に、最初に正気を取り戻した少女が叫ぶ。
「人攫いぃぃぃぃぃっ!!」
広いが音を反響するように作られたその場に、その言葉は木霊した。
「誘拐犯んんんんんっ!!」
「セイラン様ぁ、下ろして下さぁい」
まるで荷物か何かのように青年の肩にかつぎ上げられた少女が手足をバタバタさせて、半分泣きながら懇願するが、青年は徹底無視して進む。
と、堅い表情のまま進んでいた青年の足が広い場所に出て、ピタリと止まった。
「・・・・・ついたよ」
「・・・・・ここって、森の湖?」
辺りを見回して位置を確かめる少女を、青年は胸中深く抱き締める。
「セ、セイラン様!?」
突然女王謁見の間を連れ出され、いきなり抱き締められた少女が困惑しきった声で青年の名を呼ぶ。
「あの、セイラン様、痛いですから、離して」
「嫌だ」
「セイラン様・・・・・怖い」
脅えきった声が心臓のある位置から響くのを感じ、彼は白い指で細い少女の面を上向かせる。
「君が好きだ」
たった一言だけ呟いて、彼は初めて少女の唇に唇を寄せる。
挨拶として額へとならば何度も口づけを贈っていた。だがそれは、あくまで挨拶としてであって、唇だけはしなかった。どれ程望んでも。
少女の唇を塞ぐ一瞬前に声が零れる。
「あ」
「・・・・・」
目を伏せたままの少女の頬を指がたどり、そのくすぐったさに彼女はまぶたを上げた。
「君が好きだよ、アンジェリーク」
震えを宥めるようにサラサラとした髪を何度も彼は優しく撫でる。
「・・・・・です」
「アンジェリーク?」
「駄目、です。駄目なんです」
「僕のことが嫌い?」
耳元で囁かれた言葉に、彼女はいそいで首を横に振る。
「違うんです。そうじゃなくて」
ポロポロと少女の瞳から涙が零れて落ちていく。
「私もセイラン様が好きだから、駄目なんです」
ヒックと少女の肩が震える。
「きっと、セイラン様は、私のこと、嫌いになられます。私、ここにいる間は、頑張ってこれたけど、もう、駄目なんです。絶対にセイラン様の嫌いな、ただの女の子に戻ってしまう」
ここで少女は首を横に何度も振った。
「うぅん。もう戻ってる。もう、戻って、セイラン様に嫌われる」
思考回路が乱れる程に混乱している少女の肩を彼が強く抱き締めてやると、白い服に顔を埋め、彼女は絞り出すような声で言った。
「セイラン様に嫌われるのだけは嫌っ」
言葉になるものは全て言ったというように、ただもう泣くだけの少女を抱く青年は尽きることのない涙珠を流すブルーグリーンの瞳の泉に口づける。
「ただの女の子の君だって、僕は好きだよ」
ビクリと肩を震わせ、アンジェリークがセイランの顔を見上げる。
「寂しいのなら、僕がずっと側にいる」
冷たい氷で周りを固めていた自分を、いとも容易く日だまりで暖めてくれた天使には泣いて欲しくなかった。
「僕がずっと側にいてあげるから」
笑っていて欲しかった。
とんっ、と少女の額が青年の胸に当たる。
「ずっと聞かせてくれますか?」
『怖かったら寂しかったら、この鼓動を』
「側にいてくれるのならね」
栗色の髪に指を差し込み、少女の顔を上げさせた青年が言った。
「・・・・・はい」
「「「!?」」」
二人を探して森の湖にやって来た青年の二人の同僚と少女の親友は、目の前の同僚と親友の姿を、唖然呆然の体で見るしかなかった。
「あぁ!レイチェル!!」
「止めろって!!」
押し殺した声でティムカとヴィクトールがレイチェルを押さえる。
「離して、止めるのっ!!」
『アンジェリークは私と一緒に別宇宙に行くんだから』などと言いながら暴れまくる金髪の少女を、無理やり引きずって多少違うが同じ黒髪の部類に入る男と少年とがその場を後にする。
「・・・・・完璧二人の世界に行っているな」
「えぇ」
それなりに近い位置で騒いでいる自分達に気がつかない恋人達に一瞬視線を流した二人の台詞である。
内気な少女は泣きそうな顔で見上げる人に誓った。
「ずっとずっと側にいます」
その言葉に青年も、自分の元に舞い降りた天使を抱き締める腕に力を込めて誓う。
「僕も側にいるよ」
「絶対ですよ。約束ですからね」
「勿論」
約束を交わした恋した人の鼓動に包まれて
日だまりの天使の心が恋するリズムで鼓動し始めた
END

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