ソシテ うんめいノ であい
女王試験の場《 飛空都市》 の真新しい噴水の縁に腰掛け、長い長い銀光を弾く青い髪を緩やかに大地に渦を巻かせて《
水の守護聖リュミエール》 は白い手に愛用のハープを抱いて月を見上げていた。
「あの、どうかなさったのですか?」
優しい声が響く。純金の鈴を転がしたような澄んだ声音。
「いえ、星を見ているだけで」
微笑んで声の主の方へと顔を向けたリュミエールは、凍りついた。
「ANGE?」
もう既に十の年を数え、更にその時を大きく越えた先にいる、今も恋する天使がそこにいた。ふわふわと銀の光に金の煌きを返す髪と豊かな感情を垣間見せ好奇心に輝く翠の瞳もまるで変わらない天使がいる。
「は?あ、あぁ、そう、私は《 アンジェリーク》 と言います」
「次代女王候補の、ですね?貴女がそうなのですね?」
「はい。貴方のお名前も教えてくれませんか?」
「私は《 水の守護聖リュミエール》 どうぞお見知りおきを」
「まぁ!」
翠の瞳を大きく見開かせ、唇を両手の指で押さえて少女は驚愕する。まさか相手が守護聖であるとは、考えもしなかった。
「申し訳ございません、守護聖様と知らず」
「いいえ、正式にお会いするのは明日ですものね」
夜風に身を震わせたのを見とがめ、彼は『自分の隣はどうですか?』と誘いをかける。瞳にえもいわれぬ程の優しい光を浮かべて、手を差し伸べる。『いらっしゃい』と。
「では」
『ちょこん』と少し離れた場所に座るアンジェリークにリュミエールは小さく笑うと、自分から近づいた。そうして、着ていた深い蒼のローブを少女の肩にかけてやる。
「有り難うございます」
消え入りそうな程小さな声で礼を言う少女の横顔は、別れざるをえなかったあの天使の面影を色濃く残している。何より、彼には分かる。その優しいサクリアが側にいるだけで与えてくれる微睡むような安らぎ、幾度となく味わった、心安らぐ雰囲気を。
「で、どうしてこんな夜中に?」
「えっと、眠れなくて。同じ星の筈なのに、違って見えて、見飽きなくて、ここが一番開けているようだったから」
それだけではないような気がした。それは直感、だが多分郷愁の念なのだろうと青年守護聖は理解した。
「そうですね。他には《 森の湖》 という場所をご存じですか?あそこから見る星も格別ですよ。何時か、見に行きませんか?」
「はい」
嬉しそうに頷く少女に、彼は恋をした。新たな恋をしたのだ、天使に対する恋の延長線上ではあるが、絶対に違う恋を・・・・・
飛空都市に移り住んで幾ら立ち、誰もがここでの生活に慣れ始めた頃には、同じように守護聖達と女王候補達もそれぞれ仲が良くなってきていた。同じ女の子同士の二人の女王候補は勿論のこと、特に水の守護聖と金の髪の女王候補の仲が・・・・・
優しい風の舞う中で、夕焼け色に染められた水の守護聖の髪が『ゆらりゆらり』と揺らめいている。儚げで繊細な美貌も茜色に染め、彼は四阿の椅子に身を沈めて眠っていた。膝の上にスケッチブックと絵の道具があることから、どうやら公園の風景を描きに来てうたた寝してしまったのだろうが、珍しいことである。
「あの、もし、リュミエール様?」
金色の髪を紅炎によって染めて朱金という世にも稀なる美しい色をまとった少女が彼を起こそうと声をかけるが効果なし。真正面に立つ少女は困ったように首を傾げ、『そっ』と肩に手を置いた。
「起きて下さい、リュミエール様」
聴覚と触覚に刺激を受けて、伏せられたまぶたがゆっくりと開く。
「起きられました?風邪をひいてしまいますよ」
小さく笑って肩に置いた手を離すアンジェリークは思わず呆けた。
夢見るような この上なく 麗しく儚い笑みの美しさ
魅せられ呆けるアンジェリークの途中で止まった手が、男性としては華奢な、だが少女よりもしっかりとした手に掴まれる。そのままかの人の腕が少女を引き寄せた。
最初は呆けていて、次は驚いて声のなかった少女は、自分の白い手を青年の後ろに回した。まるで幼子をあやすように、優しく、『そぉっ』と・・・・・
頭一つ分以上違う背は、彼が座っていることでほぼ逆転していた。彼の端正な顔は柔らかな少女の腕の中、また眠りの国へと行ってしまったように女性特有のふくらみに身体を預けてみじろぎ一つない。
夕焼け茜色が消えて、深い深い蒼の夜が更けるまで、二人はずっとそうしていた。
「?」
柔らかな甘い香りに彼は内心首を傾げる。香茶だとかを好むうちに何時の間にか香りに対する知識がたまってきていたが、この香りが何なのか分からない。ひどく甘くて蠱惑的な、魅了の力にあふれた香気なのだが?
「起きられました?リュミエール様」
耳に心地良い声に彼は頭を上げる。
覗き込むように翠の瞳が見つめている、笑みをにじませた緑柱石の瞳が。
「っ!」
自分が少女の細い身体を引き寄せ、その胸に顔を当てていたこと、甘い香りが少女自身から醸し出されるソレだとやっと気がついた青年は身体を引きはがす。内心の動揺は尋常ではない。心神喪失の人間が犯罪を犯しても罪にはならないが、それでも彼は正気に戻れば、あまりの恥ずかしさに平常心など空の彼方に飛んで行け状態である。
「すみません、何時から・・・・・」
真っ赤になって慌てるリュミエールに、アンジェリークは優しい笑みを浮かべる。
「内緒です」
「アンジェリーク」
『くすくす』 軽やかな笑い声
「でも、来て良かった。リュミエール様の寝顔だなんて、見ることなんてそうそう出来ませんよね?」
「アンジェリークゥ」
他愛ない会話だったが、それでも彼は楽しかった。こんな会話が一番好きだった。
そして、それ以上を望むことはないと思う心の反対側で・・・・・
独占欲は片恋を自覚した時から始まっているもの
恋しい心が望むのだ 『じぶんダケ、みテ』と
最初は単なる好意を望みながら 恋する心は以上を望む
自身呆れる程に 恋は貪欲 止めることが出来ない
もっとも 止める術は最初からなく 止める気も ないのが 恋
夢見るように愛していると想いながら
貪欲な恋は 真実を見せつける 幼稚な恋だと嘲笑って
森の湖は別名《 恋人達の湖》 という。静かな水辺は恋を語らうには最適らしい。
そして、彼はそこで見たくもないのに一瞬として視線をそらすことが出来ないでいた。
ふわふわの金色の髪も可愛らしい華奢な少女が深紅の髪と青い瞳の青年に少々強引に抱き寄せられた、その場面を。
『触るな!』
叫びは声にならない。心からの叫びは、思いは強すぎて、声にならない程強い。
嫉妬を自覚した瞬間だった。
誰かを愛することは 自分と向き合うこと
愛する存在の行動一つ 些細な仕草一つに
心躍らされ 心騒がせ 嫉妬に狂う
己というモノを直視せざるを得なくなる
身に宿るサクリアの関係だろう、生来の争い事を好まない心には磨きがかかり、ずっとこのままの心で、嫉妬など無縁のままに少女を見ていくのだと思っていたのに。馬鹿らしい。本当に、知った瞬間に幼稚な自分に怒りを覚える程に。
嫉妬と無縁であろう筈がないではないか?恋した相手が自分以外に笑いかけるのを、見ていられる筈がない。まして、こんな!
血がにじみかねない程噛み締めて、意を決して歩む。呼びかける。
「アンジェリーク・・・・・オスカー」
「リュミエール様!」
「・・・・・リュミエール・・・・・」
思わず腕の力を緩めたオスカーの腕からアンジェリークが弾けるようにリュミエールの側に駆けていく。どうやら、《
炎の守護聖オスカー》 の悪い癖に捕まっていただけのよう。
内心そのことに安堵の吐息を漏らしながら、後ろに隠すようにアンジェリークを庇って睨みつける。同時期に守護聖となった、自分とはまるで違う男を。
「何をしているんです」
「そりゃこっちの台詞だ。せっかくイイトコだったのに」
「ジュリアス様に、言い付けますよ」
「止せ!」
「もう少し、考えて行動しなさいね」
『チクショウ』云々と呟く同期に言った言葉に今度は内心自嘲した。『さっきの自分、一瞬にして嫉妬に狂った自分なら、良心痛むことなく殺しかねなかったくせに』、と。
飛空都市に渡ってから夜毎に爪弾かれる美しい音色 奏でるのは卓越した才能を誇る水の守護聖 今宵は何故か特に哀しく感じる音色であるのには、訳がある。
『あのですね』
大切な秘めたことを話す為耳元に息がかかる程近くに顔を寄せて、彼女は残酷な告白をした。彼の想いを知らないが為に。
『ずぅっと前から探している人がいるんです。私の、初恋の人』
無邪気な天使は、
『身の丈程も長い月に銀色に輝く髪の人なんです。ロザリアにも内緒、ですよ?』
残酷・・・・・
そして奏でる音色は彼の心を写して望みを失ったが故の哀しみに染め上げられた、心を締め付けるような、そんな音色に仕上がっていく・・・・・
愛しい想いは枷となり この身を苛む
安らぎの闇ではなく 黒の淵に堕ちたように しかしそれすらも甘美との想い
欲するままに貴女を手に入れられたら
手に入れる為に幾らの血を流そうと どれだけの人を傷つけても 貴女を傷つけても
アイシテル アイシテル
何も思われないくらいなら いっそ憎んで欲しい
貴女が私を見てくれるなら 恋情だろうと憎悪だろうとかまわないから
ドウカ ワタシノホウヲミテクダサイ
恋しく愛しい少女の想いを受ける存在がいること、たぎるような嫉妬の炎は彼の心を疲弊させ、それは身体にも影響を与えた。育成を頼みに聖殿にやって来たアンジェリークはその時にリュミエールが倒れたとの報を知らされ慌てて執務室の隣、リュミエールらしい優しい水底のような色の私室を訪れ、そのまま看病を申し出たのである。
唯眠ることでのみ心の平安を保つ人の枕元の椅子に腰掛け飽くことなく側に居続け、何時の間にやらうっすらと暮れ始めた空に視線を向けた少女は微かな声に視線を転じた。
「大丈夫ですか?」
「・・・・・ク」
枕元に手をついて首を傾げた少女の身体が押し付けられた。
「アンジェリーク・・・・・私の天使さん・・・・・」
囁く声は酔う程に甘い。滑らかなシーツに少女の金色の髪が散り、その上に青銀の髪が広がっている。
「リュミエール、様?・・・・・もしかして、寝てます?」
震える声の答えは、規則的に呼吸する音。『そぉっ』と起こさないようにベッドと青年から離れる。
外の夕方の太陽に負けない程真っ赤に染まったアンジェリークを知ることなく、リュミエールはまた呟いた。
「愛しています、アンジェリーク」
久方ぶりに彼リュミエールは特別寮のアンジェリークの部屋のドアを叩いた。数日間伏せっていた間に少女が見舞いに来てくれていたのを他の守護聖より聞き及んでいたのと、ここしばらく避けられているような気がしており、本当だとしたら何故であるのか知ろうと彼は訪れたのだ。
「どうぞ」
差し出される可憐な印象のティーカップ。唐突、差し出す少女のその翠の瞳を覗き込んで一対のエメラルドに自分を映して欲しいと、あの別離の夜のように抱きたいと、あらぬ夢見る自分に気がついた。何時か抱いた甘い香りを思い出し、常ならぬ心ざわめき騒ぐ心を落ち着けようと、優美な薄い薔薇色のティーカップに手を伸ばして、問いかけた。
「お邪魔でしたか?」
何時もこちらが怯むほどに真っ直ぐな瞳のアンジェリークが、視線をそらせて自分を見ていない。表情もあまり良いモノとは言い難い。自分は来るべきではなかったか?
「いいえ、そんな」
「でも、・・・・・楽しそうではありませんね」
「・・・・・」
来てくれたこと自体は嬉しい。とても自分を可愛がってくれる水の守護聖のことは好きだ。だけど、あの日のあの言葉をどうしていいのか分からない。気恥ずかしくて顔を合わせるのを避けていたのも事実だ。
「今日は帰ります。また今度」
立ち上がって優雅に会釈する彼を送ろうと同じように立ち上がった少女は、思わず問いかけた。
「リュミエール様は、覚えてらっしゃいますか?あの時の、リュミエール様がお倒れになった日のこと」
「え?」
俯いて呟くように問いかける少女に、彼は首を傾げる。
「!」
まさか、あれは夢。叶わぬ願いが夢の形をとってうたかたの成就をみただけの筈。少女を抱き締めて告白する、それは夢でなければ決して叶えられない己の望み。彼女と自分が《女王候補》と《守護聖》である限り、断ち切ることの出来ない堂々巡りのメビウスの輪のように届かない自分の想いをぶつけることだけは、してはいけない。それは彼女の重荷になりかねない、優しすぎる少女はその心故に苦しんでしまうから。
アンジェリークの頬に手をやると、すぐ少女は逃げ出した。真っ赤に染まった頬が、あれが夢幻でなかったことを教える。彼女が自分の想いを知っていることを教える。
『禁忌を、犯した』
言ってはならない想い 世界の為ならば断ち切るべき恋
『でも、知られたのならかまわない』
まるで他人事のように呟く自分。心の何処かで何よりも切望していたのかもしれない。
『それならそれでいい。かまわない。想いを塞き止めていたモノがなくなっただけ』
逃げ出して壁に背を張りつけている少女の逃げ道を塞ぐ、両腕を壁について。
永劫の一瞬
ただ触れ合うだけのKISS だが、優しさ司る者である彼とは思えない強引な口づけ
『がくがく』と少女の身体が震える。怖くて、怖くて、両手で抗う。必死になって抗うと、青年は唇を離した。
『ズルズル』と少女の身体が落ちる。身体中の力が抜けて、指一本動かせない。
彼は跪く。少女の俯いた顔を強引に自分の方に向けて、『銀の声音』と称えられる澄んだ声を掠れさせて囁いた。
「愛しています、アンジェリーク」
今一度口づけ彼は部屋を出る。
後に残るのは部屋の主である少女だけ。初めて見た、知った、優しい人の違う側面に驚いて、唯震えている少女・・・・・
まるで幽鬼のように彼は頼りない足取りで森の湖にやって来ると、誰もいない水辺で湖水に映る自分に囁いた。力なく座り込んで、湖の中に長い髪の幾らかがたゆとうのにもかまわず、
「何ということをしてしまったのでしょう」
悔恨 懺悔 血色の呟き
「守護聖というこの身で、女王候補にこのような想いを抱くことすら罪であるというのに、何ということを、私はしてしまったのでしょう。あのような、罪深い・・・・・」
自嘲の笑いが込み上げる。『綺麗ごとだけを並べたてるな』と、心の何処かで断罪者の声がする。
合わせた唇は触れるだけだというのに、何と甘かったことか。その甘さに感情は理性の楔を逃れて高らかに勝利の咆哮をあげ、彼女の拒絶なくばそれ以上の罪に彼女を引きづり込むところだった。
「罪にまみれるのは、私だけで十分。罰を受けるのも、私だけでいい」
『嘘つき』と断罪者の声。否定する言葉はない。何故ならそれは真実。
あの優しい娘は、罪にまみれた者、罰を受ける者にも手を差し伸べる。救いを与えようと、一生懸命その白い手を伸ばす。たとえ伸ばされずとも、恋故に罪にまみれ罰を受ける自分を忘れることをしない、出来ない、そんな少女だ。
『ワタクシノコトヲ ワスレナイデ』
「私は、この世で最も罪深い者。それでも、だから、貴女だけを愛している」
断罪者は何も言わない。これだけは、本当だから・・・・・
望み 願い 夢
貴女の名のない望みも願いも夢もない
貴女の存在なくして 生きている価値もない
目覚める度に囁く言葉がある。天使と別れてからは『私の天使さん』 飛空都市にて再会してからは『アンジェリーク』と。呟いた瞬間に愛しさは増していく。止めようもなく止めるつもりもない想いは暴走寸前だった、会えないが為に。
『愛しています、アンジェリーク』
この世で最も罪深い愛の告白をしてから、アンジェリークとは一度も会ってはいない。少女は彼を避け、彼はそれ故の会えないという苦痛を甘んじて受けている。
世界を守護する者としては踏み込んではいけない恋に狂う道を選んだ彼は、それでも己の感情に最後の抵抗を試みていた。会わなければ、これ以上少女を傷つけることはない。時折垣間見る少女を抱き締めたいとの恋情も、彼の理性の枷に阻まれ実行されることはない。だから、彼と彼女はあの日以来会ってはいない。その噂が彼の耳に届いてからは特に彼は気をつけて務めて外出すらもしなくなった。
『アンジェリークは女王候補を降りたがっている』
何事にも真剣に取り組む少女も人の子なれば郷愁も当然かとの意見が添えられてはいたが、彼はこの時程己を責めたことはなかった。
自分勝手に想いを打ち明け、強引に口づけて、それが少女の心に傷をつけて、少女の郷愁の念を呼び起こしてしまった。
だから、アンジェリークに会えない。
だけど、アンジェリークに会いたい。
胸を焦がす想いに幾つの眠れぬ夜を過ごしたことか。いっそ少女を攫って他の誰の手も届かない場所に幽閉しようかとまで、彼は思い詰めていた。
もう既にこの恋から逃れる術はなく、その為にこの身に受けた全ての名誉も地に堕ち汚濁にまみれようとかまわなかった。
想いに狂う心を持て余し、彼は竪琴を爪弾いた。彼女にしか奏でないと誓ったその曲を弾く時だけは平静を取り戻せる。
『シャン』 滴が水面を揺らす音がした。
『呼ばれている』と、思った。
もどかしく部屋着である服を外出してもかまわない服装に着替える。夜風を防ぐ外套をまとう暇すら惜しんで彼は部屋を飛び出す。
『呼んでいる』
誰が?
『呼んでいる』
確信
『今行くから』
そこにいたのは金色の天使 翠の瞳を湖水に造る一瞬の冠に向けている。白い手が夜を映して闇とビロードに広がる沢山の星々を内包した湖の冷たいだろう水に差し込まれて、『パッ』と散らす。
戯れる天使の姿は清らかで、彼は自分が汚れているような思いに捕らわれる。そうでなくともがんじがらめに縛られて暴走寸前の恋情を押さえ付けていた理性は疲れ果て、堕落の一途を辿るのみ。
そうなる筈の心を救う一言が、天使の唇から漏れた。
「リュミエール様」
『とくん』
切な気な吐息が湖水を滑る。
『とくんとくん』
衣擦れの音一つさせず、彼は天使を抱き締めた。
「行かないで。私をもう、おいて行かないで。一人にしないで下さい。貴女がここにいればそれだけでいいから。行かないで」
後ろから抱きすくめられた天使は、耳元で囁かれる言葉に泣き出しそうな顔をした。
「リュミエール様」
細い声に、彼は腕の力を緩めた。
「リュミエール様」
彼の方に身体を向けて、天使は笑った。何の陰りもない華やいだ笑顔だ。
「私は銀色のあの人に会う為に生まれてきた」
何を言おうというのだろう?白い腕が青年の首に回される。
「貴方に会って恋する為にやって来た、そう思ってもいいですか?」
「え、あの?」
「気づいてらっしゃらないんですね。初めてお会いした時にはびっくりしました。月を弾いて、髪の色が銀色」
身の丈程もある青銀の髪は月の銀光によって青味が抜けて銀そのもののよう。
「夢の中で、私のことを『私の天使さん』と呼んでいたのは貴方だとは、思ってはいけませんか?」
翠の瞳が湖水色の瞳と向き合って不安に揺れている。
「『私の天使さん』」
囁いて彼も彼女を抱き締める。幸福感に酔ってしまいそう。
「この頃私の処に来てくれなかったのはどうしてです?嫌われたのかとずっと苦しんでいたのですよ?」
何処かからかうように彼は言った。少女の想いが自分の上にあると分かっていれば、あんなに悩んだりしなかった。苦しんだ時間も、今は甘美で愛しいけれど。
「ずっと答えを言わなくてはいけないと思っていました。だけど改まってしまうと恥ずかしくて、ごめんなさい」
項垂れる少女の柔らかな頬に唇を当てる。
「簡単に許してなど、あげせん」
『くすくす』 笑って彼は少女の翠の瞳を覗き込む。夢でなくこれ程側に天使がいる。
しばらく考え込んだ少女は、圧倒的なまでに無垢な笑顔を浮かべた。思わずその笑顔に怯む恋する人に自分から初めて口づける。
「駄目ですか?」
驚いて目を丸くした人に笑いかける。勝利者の微笑み。
「私の負けですね」
惚れた弱み、勝てる訳がない。もっとも、勝てなくとも幸せだからかまわないのだが。
「飛空都市で初めてお会いした時から好きでした。私は同じ人に二度恋をしたんです」
晴れやかに笑う少女に、彼は答える。
「私もですよ。貴方の見た夢は、現実に私の前であったことと同じです。私は天使に二度恋をしましたよ。・・・・・貴女に恋をしましたよ」
恋をして、嫉妬に苦しんで、そうして手に入れた彼の天使は、幸せそうに彼に笑う。鮮やかに艶やかに、恋する瞳に愛する人を映して。
どちらからともなく近づいた唇が触れる。触れるだけであったけれど、込められた互いの想いが、これ以上もなく甘く熱いKISSだった・・・・・
「リュミエール様」
午後のお茶をしていたリュミエールは後ろから最愛の少女に抱き締められ、笑って細い少女の腕に軽く体重を乗せる。
「アンジェリーク」
心底愛し気に、自分の為に全ての資格を捨てた天使みたいな、あくまで『みたいな』可愛らしい少女の名を呼ぶ。
「お前さん達、人目をはばかれよ」
呆れ顔のオスカーに勝ち誇った笑顔でリュミエールは応えた。
「羨ましいですか?」
「テメェ、イイセイカクしてやがったんだな」
今度は顔を引きつらせるオスカーにすましてリュミエールは返した。
「知らなかったんですか?」
「リュミエール様?」
「お嬢ちゃん、リュミエールみたいな二重人格止めて俺と付き合わないか?」
性懲りもなく誘いをかけるオスカーに、リュミエールの眉が吊り上る。が、朗らかに紡がれた台詞が、
「私、リュミエール様以外の方とは決してお付き合いしません」
で、あった為『ざまぁみなさい』と思うだけに止めた。
「お嬢ちゃん、そんなにリュミエールが良いのか?」
「はい」
即答するアンジェリークに、何時もはあてる側のオスカーもあてられ苦笑し、そこまで想われるリュミエールは流石に頬を赤らめた。
中空に満月
「私だけの天使さん」
銀色に染まった髪を流してリュミエールは彼だけの天使の為に曲を奏でる。自然の調べのような曲は彼の心を写して優しい。
「はい」
笑んで応えるアンジェリークの背には翼はない。それでも、天使の微笑みは彼女に残されている。
天使は再びやって来た 運命の導べに従って
天使は再びやって来た 運命の恋を成就する為に
「私だけの天使さん」
END
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