「私の天使さん」
青銀の髪とアクアマリンブルーの瞳の優し気な彼は言った。月の銀ととりどりの星の光を弾いて輝く水の清らかな流れそのままな髪は身の丈程も、光が途切れた時アクアマリンブルーが深い湖の色が翠であるように時折色が変わる。細い指が奏でる曲は森の奏でる自然のそれによく似ていて、まるで彼の呼ぶ天使を包み込むよう。
天使は金色の髪と翠の瞳、見えない翼を持っている。光そのもののような金色の髪は風もなくたなびき、若草に宿る朝露のような瑞々しい瞳の奥に優しい色がある。心のままにその小さな身体を包む暁色のサクリアが揺らめく様は美しい。
彼が天使を見つけたのは随分と前、月と星の美しい夜だった・・・・・
夜の庭園の美しさに彼《 水の守護聖リュミエール》 はヴェランダからしなやかなその身を土の上へと降ろした。手に持ったハープの糸が銀色に輝きを放つ。
『そっ』と彼は吐息をついた。誰も人がいないから、彼は呟く。
「戻りたい」
何故の言葉だろう?意味知るのは呟いた彼だけ。
渡る風が強く彼の男性としては華奢な身体を包み込む。何処かへの誘いのごとく、しかし空と大地の間でのみ生きることを許されたその身を風が連れることは出来ない。
一際強い風に乱れる青銀の髪を彼は押さえる。身の丈程も長い彼の髪は風の誘いを受けたがって逆らうように宙を舞う。
そして目を疑った。
てんし ガ そこニ いタ
まぁるい頬も可愛らしい天使がそこにいた。闇に浮かぶように金色の髪が『ふわふわ』と揺れている。顔は丁度見えない。天使もこちらに気づいていないようだ。
「貴女は誰です?」
唇が勝手に天使を誰何した。いまだ大地を行く風に髪をなぶられながら。
「ANGE・・・・・」
「ANGE?・・・・・天使?」
意外とあっさりと答えが返り、金色の髪の天使が青年の方へと顔を向けた。その刹那のこと、視線が絡まり合う。
類い稀なる緑柱石の瞳と湖水色の瞳が真っ向から相手を見据える。
何かが、その瞳を見た瞬間に目覚めた。
理性の警告を感情がねじ伏せ、彼は思わず呟いた。
「私は水の守護聖リュミエールと申します。小さな天使さん」
「何が悲しいの?」
「え?」
「とても悲しそう・・・・・どうしたの?」
『ふんわり』天使は自身よりずっと背の高い彼の前に浮き上がるとその繊細な美貌を覗き込んだ。伸ばされた、寄るべき器なき天使の指は触れることはないが、優しい心が流れ込んでくる。そして同時に、痛みを感じる。無垢な視線が凶器程に鋭いことを知らない無邪気で無知な天の御使いの眼差しは、何のためらいもなくて・・・・・
「私の存在理由とは何でしょう?時の流れに身を浸すことは許されず、ただ次なる者が現れるその日まで、誰もが言うのです。『そこに在れ』と・・・・・」
今まで誰にも、敬愛する哀しい闇をまとう守護聖にも一度として彼は言ったことがない言葉を、無垢な瞳に促されて呟くように紡いだ。
「わかんない・・・・・」
眉をしかめて天使は難しい顔をする。小さな天使には言い方が堅すぎた。
「・・・・・普通の人であったのに、突然今までの生活から離されて、死ぬことが出来ないのですよ」
「死にたいの?どうして?」
「普通でありたかった。普通の人間として、生きて死にたかったのです」
「あのね、あのね、私にはよくわかんないけどね、せっかくだもん、良い方向に考えようよ。『死ねない』んじゃなくて、『長く生きられる』っていう風に」
考え方の変換をしたら、と天使は言いたいらしい。
「ね?駄目?」
悲しそうな泣き出しそうな顔でそういう天使に、彼は微笑んだ。まるで我がことのように必死な天使が可愛かった。
「そうですね。過去は顧みるだけ、二度と戻らない。だけど、未来は変えられる。貴女と出会えたのだって、私が守護聖なればこそ」
「元気が出たの?」
「えぇ。有り難う」
『きゃろん』とした雰囲気で、天使は汚れなき笑顔を見せた。鮮やかに華やかに、心を染め変える程に印象的な笑顔にリュミエールは一瞬呆けたように見惚れた。
「また、会えますか?」
白々と明けていく暁色の空に溶けていく天使に、リュミエールは声をかけた。また会いたかった、どうしても。
「多分きっと」
だから、答えが嬉しかった。
満月夜のこと、優しい歌声が聞こえた。優しすぎて涙が出る程に澄んだ声を、その声の主を、彼は待ち続けていた。言葉でのみの約束の叶う日を彼は待ち続けていた。
「今晩和、天使さん」
月の銀を弾く金の髪の天の御使いは無邪気に笑った。素直な好意が見え隠れする瞳は至高の翠の宝石のよう。
「綺麗な歌声ですね。とても綺麗で優しくて、泣けてくる程に」
「泣かないでっ」
間髪入れずに言う天使に彼は笑いかける。
「泣いてなんかいません。泣けてきそうになっただけで。ほら、泣いてなどいないでしょう?」
顔を見合わせ、優しいフリージアの野で二人は笑う。晴れやかな笑い声は夜の大気に溶け消えた。
そして、満月の夜毎の逢瀬は始まった
幾度も心躍らせ彼は月を見上げて指折り数える。月の満ちたるその夜だけの天使との逢瀬は彼に生きる活力を与えてくれるこれ以上なく大切な時間で、彼は指折り数える。今宵も月の満ちるその遅さを嘆きながら。
「私の、天使さん」
だけど 彼は何も知らない
『貴女は何処から来ているのですか?』
今まで一度とて天使に天使自身のことを問うたことはない。
『興味がないか?』と問われれば、『否』との答えは出ることはないが、怖いのだ。天使が答えた瞬間、自分が問うた刹那に天使が消えてしまうのではないかと。
今自分が奏でるメロディに目を細めて喜ぶ小さな子供、無垢なる天使を、自分は大切に想っている。仕草一つ一つが可愛らしく、まるで妹を見るように穏やかに見つめ続けられることを自分は願っている。
「天使さん?」
「ん?」
『にこにこ』 笑顔満面 まさしく天使の微笑み
「この曲を気に入ってくれたのですか?足がリズムをとっていますよ?」
『くすくす』 笑顔でリュミエールがそう指摘すると、天使はまた更に『にっこり』と笑った。
「うん、この曲大好き」
「そうですか、それは良かった。では、この曲は貴女の為だけに奏でましょう。決して貴女以外には奏でません」
「本当?」
「えぇ、本当ですよ。私の可愛い天使さん」
彼は、リュミエールは、この時永遠を願った。この小さな天使の与えてくれる安らぎの中で微睡んでいたかった。許される筈もないことだったけれど・・・・・
《 刹那》 と《 永遠》 の垣根はあるようでない
時の流れは厳格に一時の淀みもなく過ぎていく
ただ それを感じる心が《 刹那》 と《 永遠》 を分けるのだ
冷酷にして無残に 時は心を傷つけて流れていく
彼は叫びたかった、消えようとする薄情な天使の名を。だけど、リュミエールは呼ぶべき、叫ぶべき名を知らない。
「置いていくのですか?私は、もう貴女と会うことは叶わないのですか!?」
天使は悲しい顔をする。
今はもう、遠く遥かな出会いの日から幾つの季節が巡っただろう?守護聖という役目と共に得た長寿故に共に在れた日々は、そのまま永遠に続くのだと思っていたのに、やはり別れは訪れた。それも、突然に。
「行かなくちゃ、いけないの」
その言葉だけを呟く天使。翠の瞳から真珠のような丸い滴が落ちて大気に溶けていく。
「生まれるの、この世の中に。生まれるの、私」
この言葉に、彼は理解した。天使に寄るべき器がないのは、いまだ生まれ出でていない魂であったからなのだ、と。
「もう、会えないのですね」
湖水色の瞳からも涙が零れる。それは彼の足元で砕け散る。
『もう見ることは叶わなくなってしまう』
その想像が、彼の心の中で天使の存在を変化させる。否、気がついていなかったこと、そのことに気がついたのだ。
どちらからともなく、手が伸ばされた。だが、触れ合うことは出来ない。
『さらり』 長い青銀の髪が風に流れて視界を覆う。
そして、風が吹き過ぎた時、そこにいたのは一人の少女だった。
そこに立っていたのは、金色の髪を優しく揺らめかせ、翠の瞳に彼だけを映す、天使ではなく、一人の少女だった。天使のような少女の姿に、彼の心の中でほんの少しだけずれていた歯車が、やっとこの瞬間にかみ合った。彼の間違いが、正された。
「行かなくちゃいけない。でも、きっと忘れない。私は貴方が大好き」
触れることが出来ないことは分かっていた、それでも彼は少女を求めた。出会ったその時から恋していた少女を腕の中に納めたかった。
『奇跡は起こすものだ』とは、誰が言ったのだろう?
暖かで柔らかな少女の華奢な身体を抱き締めて、彼は幸福な吐息を漏らす。悲嘆にくれる心を優しく包んでくれるような少女の芳香に目を細める。
何故気がつかなかったのだろうか?ずっとこの少女に恋していたのに。あの時差し伸べられた白い手、流れ込んできた優しい心、姿でなくその心に惹かれていたのに、どうして気がつかなかったのか?あまりに幼い姿が恋を別の感情と違えてしまったのか?
「私も、貴女が好きですよ」
二人の『好き』は違うかもしれない。それでも、何も告げられず別れたくなかった。
「また、会えますか?」
「多分きっと」
初めて会って別れた時の言葉そのまま、知ってか知らずか二人は問うて答えた。
暁の光が夜の闇を切り裂いて、天使は旅立つ。彼女の父と母となるべき人達の元へと。腕の中に
誰かを抱いた形で立ち尽くしていたリュミエールは、そっと空を見上げた。
「待っています。貴女に出会える日を。また、貴女に恋する日を。愛しています」
握り締められた手のひらを開けば、彼の愛する天使の涙が金色の太陽を反射していた。
暁色の空の下、ある若い夫婦の間に娘が生まれた。小さな可愛い紅葉のような手に涙型の水晶を大切に握り締めて。
この後、たくさんの愛情を受けて健やかに育った少女は、十年以上の時を経て運命に導かれ聖なる大地に足を踏み入れることになる・・・・・
天使のごとく育つようにと両親が名付けたその少女の名は 《ANGELIQUE》
To be continued

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