今日は、珍しく食事に誘われた。
こんなことはめったにない、たいていは、何回かの約束の反古の後、彼を 一日独占する権利を得る。そうやって会えた一日も、それは憎らしいあの機械のせいで遮られる。
彼女の恋人は、多忙だった。
「珍しいこともあるんですのね」
彼に会うのは半月ぶりだった。これだけ放っておかれて、それでも 耐えてしまうのは、不満を言いながらも呼びだされれば嬉々として出向いてしまうのは。
「まぁ、そう言うなって」
彼女の尖らせた、何も塗らない唇を人差し指でちょんと押して、シオンは 微笑んだ。
「今日は、お姫さまの言うがままですよ」
戯けた口調でそう言って、やって来た白い制服のボーイに何ごとかを 囁きかけた。
「…本当ですかしら」
ディアーナは顎を反らして見せる。そんな態度も気にならないというように、彼は彼女のまとう華やかな色の服に目をやって、また笑った。
「それ、着てくれてるんだな」
「え…?」
それは、クリスマスにシオンが贈ったものだった。もっとも、その時は プレゼントの包みを渡すやいなや、開ける間もなくあの音が鳴り、ディアーナは抱えきれないほどの大きな、薔薇色の紙でラッピングされた箱を抱えたまま憤慨して唇をとがらせたのだった。
「あの時は、悪かったな」
「…シオンはいつもじゃありませんか」
「そりゃ、違いないな」
シオンに反省の色はない。悪かった、と言う言葉にすら誠意はないように、 ディアーナには聞こえる。
「似合うぜ、それ」
にやりと笑ってシオンが言った。ディアーナは自分のまとった服に視線を やった。
それは、淡いピンクに細かい花が散らしてあった。細かい縫い取りが たくさんの襞を作っていて、それら全てに刺繍がほどこしてある。袖と裾には手で編んだレースが隙なく縫い込まれ、座れば幾重にも重なったスカートが
椅子の存在を忘れさせるほどだ。
「気に入ってくれたみたいだな」
「…ええですわ…」
悔しいけれど、それは本当のことだった。一人で家に帰って、それを 開けたときそのあまりの可愛らしさに歓声を上げたほどだったのだ。
「良かった」
目の前に、皿が運ばれてきた。緑のスープ。それは、丹念に濾されて 滑らかな表からは暖かそうな湯気が立ち上る。
「お前は、そういうのが似合うもんな」
ディアーナ自身もこういう服が好きだった。短いスカートよりも長い スカート、青よりもピンク、金の鎖よりも花のコサージュ。シオンは、悔しいくらいに自分の趣味を知っている。
「食えよ、冷えるぞ」
自分はさっさと丸いスプーンを取り上げて、彼の方をじっと見つめる ディアーナを促した。
「…どうした?」
それでもスプーンを取り上げないディアーナに、シオンは不審な声をかける。
「…だって、シオンの顔、見るの久しぶりなんですもの」
ディアーナは言った。
「だから、ちゃんと見ておかないと、って思いまして」
シオンはスプーンを置き、にっこり笑った。
「かわいいやつ」
手を伸ばしてディアーナの頭をくしゃっとなでる。ディアーナはその手の 暖かさに、やっと微笑んだ。
「お前、笑ったほうが可愛いんだからな、いつもそうしとけよ」
「シオンがもっと構って下さったら、いつも笑っていられますわ」
「まぁ、そう言うなって」
シオンが傍らに置いたジャケットのポケットに、元凶のそれを見つけて ディアーナは眉をしかめた。シオンには分からないように、そっと。
「おいしいですわ、これ」
ディアーナは声を上げた。
「そうだろう?」
シオンは、まるで自分が作ったかのように誇らしげな顔をした。
「俺のお気に入り」
「よく来るんですの?」
「仕事でね」
ディアーナは探るように質問を重ねた。
「ふぅん…」
「疑ってるのか?」
シオンのからかうような表情に、ディアーナはぱっと頬を染めた。
「そんなことありませんわ」
そして慌ててスープを口に注ぎ込み、その拍子にむせて咳込んだ。
「ほら、気をつけろよ」
ナフキンを差し出され、それで口を覆って咽喉を押さえながらディアーナは 小さくため息をついた。
目の前で涼しい顔をしているこの男、その、見慣れているはずの ディアーナでさえ見とれてしまう端麗さ。長く伸ばした髪さえも、彼の容姿を際立たせていた。
シオンは二十六歳だった。かたやディアーナは十五歳。この年齢差が ディアーナには悔しいのだった。子供だと思われるのが、何よりも嫌なのだ。ディアーナが何か子供っぽいことをやってのけても、シオンは笑って
見ているだけだった。それが、ディアーナにはかえって悔しい。自分を子供扱いされているようで、悲しい。
次の皿が運ばれてきた時、ディアーナの皿はまだ空いてはいなかった。 ディアーナはそれに手を伸ばしかけたボーイに思わず口を開く。
「まだ、終わっていませんわ」
失礼いたしました、と言われて、それにまたシオンが笑っている。
「お嬢ちゃん、急がなくていいからゆっくり食べな」
ディアーナは少し頬を膨らませて、皿を押しやる。
「もう、いいですわ」
「食べないのか?」
「ええ」
シオンがもったいない、と言うような顔をしてそれをみた。
「いいんです」
全部、シオンが悪い。
シオンが自分を子供扱いするから、自分をあまり構ってくれないから、 だから、たまの誘いにもこうやって素直になれないのだ。そして、一番腹立たしいのは。
それでも、彼のことだけが好きなのだった。彼以外の男はディアーナに とって何でもなくて、長い間会えなくても、電話越しに聞くシオンの声だけがディアーナの心の支えだった。ずっと放っておかれても、たまに会える
この時間が何よりも嬉しい。
そして、そう思ってしまう自分が悔しい。
「シオン」
ディアーナはそっと囁いてみた。
「ん?」
切り分けた一切れを口に含んだばかりのシオンがくぐもった声を出した。
「シオンは、わたくしのこと、好きですの?」
シオンは笑った。呆れたような笑いだった。
「もちろん」
「じゃ、もっと態度で示してくださいですわ」
細く整った眉を持ち上げて、シオンは言う。
「どうやって?」
「……」
ディアーナは黙り込んだ。
この二人がつきあいはじめて、もうすぐ一年になる。最初に会った時は ディアーナはまだ中学生だった。しかし、今ではもう高校生だし、こうやって夜、家を抜け出すことも覚えた。今は、彼女の保護者代わりの兄は学校の方が忙しくてあまり家に帰ってこれない時期なのだ。それをちゃんと見越して、
兄にばれないようにこうやって会う時間を作ることだって出来るようになった。
シオンとは、キス以上のことをしたことがない。
ディアーナの、セックスに対する知識は曖昧なものだった。彼女の通う 学校は性的なことについては特に厳しい、いわゆるお嬢さん学校だったし、そんな中、友達の中でも経験済みの子は皆無に等しかった。思春期の女の子の常で、興味本位に話しあうことはあっても、具体的に何をどうするのか、
知っている者はいなかった。何か、秘められた秘密の中の出来事である、と言うことだけは知っている。でも、それ以上は。
ただ、愛し合う男女の交わす行為だということだけは分かっていた。そして、シオンが未だ自分の体に触れようとすらしないのは、自分を子供扱いしているから、それ故に、自分の思ったように構ってくれないのでは、と言う不安が
どこかにあった。
大人だったら、シオンに抱いてもらえるほどの大人なのだったら、もっと 一緒にいてもらえるのだろうか。
「愛してるよ、ディアーナ」
シオンはさらりと言った。それに、ディアーナはかっと頬を染め、手にした スプーンを取り落としかけた。
「分かってもらえていないとは、悲しいな」
「そんな、分かっていますわ…」
自分が求めたのに、そうあっさり愛の言葉を囁かれると心臓に悪い。
「ディアーナは?」
シオンはかならず聞いてくる。それに対するディアーナの、はっきりとした言葉を引きだすまではディアーナが震えてしまうほどの甘い言葉を 囁き続けるのだ。
「わたくしも、ですわ…」
「わたくしも、なに?」
からかうような表情がまた浮かんだ。
「わたくしも、愛していますわ……」
笑いをこぼして、シオンはディアーナのテーブルの上に置いた手に自分の それを重ねた。
小さくピアノの音が聞こえる。ムードのあるレストランだった。照明は 決して明るくない。ぼんやりとしたその明かりの中、それは恋人同士にのみふさわしい、甘い空気が流れる。
「ディアーナ……」
シオンはわずかに真剣な色をその声に宿した。ここが公共の場でなければ、きっと口付けを捧げられていたであろう甘い声。
「シオン……」
その空気を破ったのはシオンだった。
「悪い、ちょっと待っててな」
傍らのジャケットを取り上げ、シオンは立ち上がった。速足で扉を抜ける。ディアーナはそれを驚いて見送り、店の壁の向こうでシオンが取りだしたものを目にしてがっかりと肩を落とした。
それは、諸悪の元凶、ディアーナが機嫌を悪くする、最たる理由。
シオンはすぐ戻ってきた。しかし、案の定、もう席には着かなかった。
「悪い、ディアーナ。ちょっと用事が出来たんだ。今日はもう行かないと」
「…そうですの」
顎を反らせてディアーナは言った。
「悪いな、この埋め合わせはまたするから」
シオンは片手を目の前で立て、謝罪のポーズを取った。
「せめて、送っていくよ」
「結構ですわ」
ディアーナはつんとした声で言った。
「わたくしは、お食事を頂いてから帰りますわ。シオンの分まで」
「…そうか?」
シオンはその返事にためらったようだったが、腕にはめた時計を見て それ以上は誘いはしなかった。
「じゃ、気をつけて帰れよ。明日、電話する」
そして、行ってしまった。残されたディアーナは、その後ろ姿をいささか 呆然と見送った。
「…勝手ですわ…!」
その八つ当たりは、残りの食事に向けられた。はしたないほどに食器を がちゃがちゃ言わせながら、ディアーナは一人ごちた。
「なんで、わたくしがああ言ったからって、無理やりにでも引っ張っていけば いいじゃありませんのっ!」
ふと視線を上げる、そこには、空になった席。シオンの残り香さえするのに、当の本人はとっくにいない。そして、この次彼に会えるのはいつなのか。 それは、ディアーナには全く分からないことだった。
「…シオンの、馬鹿」
学校の教師が聞けばひっくり返るような台詞を吐いて、ディアーナは席を 立った。担当のボーイに断りを告げて、店を出る、そして、辺りを見回す。
シオンの姿があるわけもない。きっと、格好はいいが乗りごこちがいいとは言えないあの車に乗って、もう立ち去ってしまったあとに違いないのだ。
「……馬鹿…」
駅に向かって歩きだす。時間はそう遅くはない。ディアーナの帰宅時間を 考慮して、シオンは夕食にはまだ早い時間をそれに当てたのだ。それだからこそ、まだやり残した仕事がついて回ることは、ディアーナだって分かっているつもりだった。
中途半端に断ち切られた逢瀬は、切なさをつのらせる。
「それは、わたくしが子供だからなのかしら…?」
大人の女性なら、こうもぞんざいに扱われることもないのかもしれない。 所詮、シオンはディアーナを子供となめてかかっているのかもしれない。
「…それでも」
ディアーナは足下に落ちている缶を蹴った。それは、道路に落ちてからんと 音を立てた。
それでも、こうも愛しく思うのは、彼に対する絶対的な思慕ゆえ。それは、どう抗っても逃れられないものであることは、とっくの昔に分かっていたことなのに。
ディアーナは足を止めた。ショウウインドゥの中にある、それを眺めた。 そして、それを見つめていることがにわかに恥ずかしくなって、慌ててきびすを返して走り去った。
その次会った時は、一週間後だったから、そう間が空いたというわけでは なかった。しかし、今日のデートは短かった。場所も、以前のようなレストラン、と言うわけではなく、待ち合わせによく使う喫茶店で、
一時間したら行かなくてはいけない、と今回はシオンははっきり言った。
「前は、悪かったな」
開口一番、シオンはそう言った。
「…ええ」
一週間も経てば、あの時の怒りももう収まっている。ディアーナは殊勝に 言葉を返した。
「残念だったですわ」
「ごめんな」
運ばれてきた琥珀色の紅茶のカップを持ち上げながらシオンは言った。
「今日は、プレゼント」
差し出したものをみて、ディアーナはわずかに顔を歪めた。
「…携帯?」
それは、まさに諸悪の根源。シオンと自分を引き離すとき、きっと 出てくるのはこれだった。二人を引き裂くのは、携帯電話の呼び出し音。それは、ディアーナにとって別れの合図にほかならなかった。
「そ、お前さんに持っておいてもらおうと思って」
それを目にしたことはあっても、実際に触ったことはなかった。恐る恐ると言ったように指を伸ばすディアーナの前で、シオンは自分のそれを取り出した。片手で小さなボタンを器用にいくつか押すと、目の前のそれが勢いよく鳴りだした。
「これがあったら、家にかけなくても、お前さんを捕まえられるだろう?」
シオンは、ディアーナの兄の学校の先輩だった。計算からすると、兄が 入学した年には、シオンはもう最上級生だったはずだ。その縁で、ディアーナとシオンは知りあった。両親はとうになく、現在大学生である兄が、ディアーナの保護者代わりだ。
その兄は、ディアーナへの過保護ゆえ、彼女にかかって来るシオンからの 電話に辛辣な態度を取ることも多々あった。
「お兄様に、分からないように、ですの?」
シオンはにやりと笑った。
「夜は、こうやってバイブ機能にしておけば、音もしないし」
シオンはそれを持ち上げて、ディアーナに説明して見せる。ディアーナは 神妙にそれを頭の中にたたき込んだ。
「番号は、何番ですの?」
「教えない」
シオンは意味深な表情で微笑んだ。
「これにかけるのは俺だけだから、お前は知らなくていい」
「まぁ」
手を伸ばしてそれを受け取るディアーナに、シオンは三つのボタンを 指さして見せた。
「それの使い方だけ知ってりゃ、後はいらない」
電話を取る時と切る時、そして電源のボタンだけを教えて、シオンは電話を ディアーナに渡した。
「兄貴に見つかるなよ、うるさいから」
「はいですわ」
ディアーナは力強くうなづいて、そして笑った。
「ああ、もう、そろそろ」
シオンは残りの紅茶を飲み干して、立ち上がった。ディアーナの目の前の フルーツパフェの減り具合を見て、そして言った。
「駅くらいまでは送らせてくれるか?」
「ええ、もちろんですわ」
ディアーナは以前、つむじを曲げてそれすらシオンに許さなかったことを 思いだして微笑んだ。
「よろしくですわ」
シオンはそっとディアーナの手を取って、そしてその手に先ほどの 携帯電話を握らせた。
「これを、俺だと思うように」
ディアーナは笑った。
あてどのない期待がどれほどの苦しみか、ディアーナは身をもって 知ることとなる。鳴らない電話はただの置物、しかし、それ以上に期待と不安に胸をかき乱す、悪魔のような機械でもあった。
ディアーナは待った。夜は、シオンに教えられた通り、音が鳴らないように、そして、一日、その電源を入れたまま。
何日たっただろうか、それはほんの一週間ほどだったかもしれない。一週間、会わないことなど稀ではなかった。それが、ここまで辛い思いをさせること
などなかったのに。
シオンへ電話をかけたことはなかった。仕事の邪魔になってはいけない、と、その思いからだった。付き合い始めたころ、一度だけかけて、いかにも 急いだように仕事中だと告げられてから、その指が彼の携帯電話の番号を押したことはない。そんな遠慮が、ディアーナを執着心のない女だと
思わせているのだろうか。
シオンに、どのような意味であれ、がっかりされるのは嫌だった。 子供扱いされている分、そう言う点では気丈をよそっておきたかった。そして、ディアーナは、その残酷な仕打ちに耐えた。
世の女性は、こういう時はどうするのだろう。自分よりずっと年上の恋人を持った時、その恋人に、構われないときは。
それは、やはり自分が子供だからなのだろうか。だから、こうやって、 放っておかれるのだろうか。まるで、檻の向こうに餌を置かれて、それを渇望する獣のように。
真夜中の暗闇で、鳴らない電話を抱えながら、ディアーナの心中を 駆け巡るのはそんなことばかりだった。深い闇はあらぬ想像さえ起こさせる。起き上がって、それをかき消す勇気もない。まんじりとしないまま、ただただ自分を追いつめる想像ばかりを繰り返す。
こんな時、唯一の家族である兄ですらここにはいない。ディアーナに 対しては過保護なまでの彼だったが、学校が忙しい時は帰ってはこない。今年になって、研究発表のため研究室で泊まる機会が増えた。そして
この不安な夜、ディアーナはただ一人なのだった。
電話が震えるのを、待ち続けた。
それが低いうなりをあげて震え始めたとき、ディアーナは心臓が飛び出る ほどに驚いた。息をいくつかついて、その動揺を静め、そして教えてもらった受信のためのボタンを押す。震える指がそれを邪魔した。
「…もしもし?」
声も震えた。そして、その向こうから聞こえる声に耳を澄ます。
「…え?」
聞こえてきたのは女性の声。ディアーナは耳を疑う。
間違い電話だとわかったのは、いくつか言葉を交わしてからだった。 ディアーナはがっかりしたが、それはあちらも同じだったらしい。恋人にかけた電話が知らぬ少女の声で裏切られたのだから。そして、ディアーナは
落胆したまま電波を切った。
よもや、あれは。
あらぬ想像に、ディアーナは首を振った。間違いではなかったのかも しれない、シオンしか知らないこの電話の番号、もしかすると、彼以外の誰かも知っているのかもしれない。きれいな声の女性、何かを間違えたのは、彼女でなくてシオンの方。そして、だだ一人の人からかかって来るためだけのこの電話が最初に受け取ったのは、その女性からだった。
ま新しい携帯電話が、嫌なものに見えた。そして、ディアーナは泣いた。 夜の闇はその涙をさらに悲しいものにする。考えを追いつめる、嫌な想像をさせる。
「シオン、シオン……」
つぶやく声が胸を締めつける。それでも、こんなに好きだなんて。
「……シオン…」
泣きながら訪れる眠りは、深い霧に包まれたように不快なもの。その霧の 中で、ディアーナは喘いだ。あらぬ想像に、追いつめる考えに、嘖まれながら朝を迎えた。
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